書道家Syuunの忘れ物

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HP&the deathly hallows 第4章 ‥‥4

2007-08-25 22:37:01 | 日記
HP&the deathly hallows 第4章 ‥‥4

                    
Seven Potters        4                                            
                               7人のポッタ

「第二の問題は、年齢に達していないこと。それは、あんたに関しては、行動監視があるということを意味する。」

規定により削除しました。2007/09/16

銀行に国民に助けられた意識はあるのか

2007-08-25 21:24:53 | 新聞社説・正論・主張を読み解く
産経新聞社説正論】市村真一 銀行証券業の大革新を要望する
を読む‥‥‥‥‥‥

銀行に国民に助けられた意識はあるのか

「銀行証券業の大革新を要望する」というのは、誰でも思うことだ。
そして「人材不足である。」であるというのも当たりだ。
正直その昔、社長に付いて地方銀行の頭取、役員(頭取は天下り)の挨拶に毎年のように行ったことがある。
そこで気がついたのは、頭取が宮沢元首相よろしく「評論家」のようであったり、時の経済の流れを全く理解していない様なことだった。
一方、大手都市銀行の中堅行員は、「学歴」だけを頼りに何をやっているのかと言うものだった。
まだ金融機関は護送船団時代だったから、民間の意見ではなく監督官庁の当時の大蔵省銀行局の方だけ見ていれば済む時代だった。
それなら、バカ行員、縁故採用(行員の子息は優先して入行出来た)であろうと何でも良かった時代だ。
その後、バブルが弾けてロクナ融資も出来なかったクソ銀行が、逆に不良債権が少なくて優良という逆転現象が生じた。
その上、低金利でロクに営業もせずとも大儲け。これでは人材を育てよと言っても無理な話。
よく見れば、大儲けしたはずなのに、銀行のATMなどの手数料はそのままに据え置いた大銀行もある。国民の負担による低金利が銀行の利益を押し上げたというのは、誰でも分かっているはず。
であるのにそうしないのは、未だに銀行は国民の方を向いていないことを如実に表している。

昔から言われていることは、なぜ日本からノーベル経済学賞の候補すら出ないのかと言うことである。早い話、日本経済を分析する経済学者がいない。
竹中氏などがいたではないかと言うが、竹中氏は米国経済の専門家かもしれないが日本経済の専門家ではない。
小生が見たところでは、経済の原則すらまともに分かっていないのではないかと思わせてしまう。なぜなら、こういう経済学者は何やら意味不明の指数とか、数字を並べ立てて経済を説明する。
しかし、そんな説明をしても全く日本経済を説明できないというのは、日本経済のみならず経済の原則が分かっていない証拠だ。
米国経済と日本経済と大きな違いは、米国では資産を債権などの株で持つと言うことだろう。
だからメリルリンチが山一証券を利用して日本に進出し、最初に言ったことは「全財産を預けてください」だ。もし土地、現金を持っていたら土地を売ったり、株に投資したりして全部債権にせよということだが、誰もそんなことをする人間はいない。
そして、もしそうしていたらその後株価が一時半値になったから全財産の半分を失ったところだ。結局メリルリンチは撤退の憂き目だ。
即ち、米国経済の指標には、預金と土地が入っていない。預金は利子で運用し、土地は値上がりで運用する。
今や土地は、都心だけは値上がりすると言っても地方では下がる一方だし、預金は低金利。国民が貧乏になって、景気が悪くなるはずだ。
即ち、価格は需要と供給。「景気が良くなる」‥‥国民が金持ちになるというのは、資産価値が増えることだ。よく見れば、国はそんなことを一つもやっていない。
その上、たとえ大成功しても子孫に「金」を残せない。理由は、相続は不労所得だという。これは、実は働かざる者食うべからずという共産主義思想だ。たとえ多くの財産を子孫が相続してもその子孫に経営能力がなければすぐに「破綻」というのは、昔からよく言われていることだ。
そう昔から言われている「武士の商法」。それを持って自然淘汰されるのが世界の風潮だ。それを不労所得として課税して、国民から「金」をむしり取り貧乏にする。
そして、その税金は官僚が自らのポケットマネーのように湯水の様に使う。
しかも、国民に内緒でだ。
既に帰国事業が終わってしまったサハリンの朝鮮人の帰国費用、韓国での高級アパート暮らしに内緒で億単位の金が使われているなと序の口だ。
なぜ内緒なのかというと、出す理由がないからだ。

確か、ヘッジファンドなど米国で考え出されたこういう手法は、ノーベル賞経済学者が考えたことだったはず。
それならば、日本にあったファンドを思いついても良さそうだが、日本の金融当局からして「米国経済の走狗」だから何も思いつかないというのは当たり前だ。
正論の市村真一先生は
「日本の銀行証券業が、外銀や外国証券やヘッジファンドと組まずに高利潤を獲得できれば、それを日本の預託者に還元でき、超低金利の不自然を解消し、消費を刺激できる。」
こんなことを言う。
まず思うのは、日本の銀行証券業はたとえ儲かっても「日本の預託者に還元」などしたことがないと言う事実だ。昔から個人客に「ファンド」を買わせ、手数料をとって運用する。そして、儲かった時は少しの利益‥‥利益の一部を、そして損した時は全部の損を押しつけてきたのがこの様な「ファンド」だった。
日本の金融というのは、実は日本国民を食い物にしてきたというのが今までの経緯だ。

会社の経営者になれば誰だって、思い知らされる。
銀行、証券などの金融は、所詮「金貸し」だと言うことである。


表意文字の当て字による名前の変法

2007-08-25 12:46:59 | 新聞社説・正論・主張を読み解く

産経新聞社説に
 【主張】名前と漢字 公共財を棄損する「感字」というものがある。これについて検討してみたい。
名前を漢字で書いて、別の読み方をする。別にこれは良いのではないかと思う。
その昔なら、そういった読み方はカタカナやひらがなで書いて名を付けたものだ。
しかし、そういう「カタカナやひらがな」の文字というのが格調がないと思われつつある。元々当用漢字というのは、日本の占領政策の一環として行われたものである。早い話、中国の様に漢字を部分廃止したり、簡体字にしようとした試みだった。
それが、ここのところのワープロの普及で書くことから解放されて、「難しい文字」という範疇が狭まった。
その上、英文という表音文字に比べて、漢字という表意文字は瞬時にその意味が読み取れ、パソコン上では非常都合がよい。
難しい漢字は、実は中々「格好いい」という認識にもなった。
だから、ひらがなで延々と書かれるより、漢字が多い方が読みやすいということになった訳だ。
さて、この様に以前「表音文字」で書かれていた名前を、漢字で置き換えると言うことは最近特に多い。
だから、女性名だとマリア、マリン、
マリナ、セナ‥‥‥など外国人の名前と同じ読み方を漢字で当て字している場合は、20年以上前からある。
実は、こういう名前は日本古来の「美しい(?)」日本人の名前に反するから嫌いなのである。
そして、外国人の名というのは、本来キリスト教の名前に由来がある。それが、英語読みフランス語読みなどによって変化しているだけだ。洗礼名を見てみればよく分かろう。
当然、同じ旧約聖書を元にしているイスラームも同じだから結構限られた名前だと言うことだ。
その様な、宗教に由来する名前を付けたがると言うのも不思議と言うより、無知に近い。
しかし、最近はその様な当て字の名前よりも、今度は表意文字を用いて「読み方」を変えるという変法を用いてるわけだ。本当のことを言うと、子供にとって迷惑な話なのだが、仕方がないと言うものだろう。
多分、そんな面倒な名前を付けられた子供は、自分の子供には単純な名前を付けるものだ。穿った見方をすれば、そういう「稀星と書いて『きらら』」は大きくなって改名したい時には比較的簡単に改名できることだろう。但し、裁判判決はいる。

「白村江の戦い」の <wbr>「白村江」を最近「ハクソンコウ」と呼ぶ様になっているらしい。
しかし、小生は「ハクスキノエ」と習った。
なぜなら、
日本書紀にはっきりと「ハクスキノエ」とふりがなが振ってある。
それならば、「白村江」は「ハクソンコウ」ではなく、「ハクスキノエ」だろう。
主張氏は、
「同時に、子の命名に当たっては、漢字が公共財という意識を強く持ち、いにしえに典拠を求めるなど、『感字』を戒める節度が求められよう。」
とあるが、名前はその時に生きる世代を反映している。
女性名では、明治時代はハナとかウメとか単純な名だったが、明治後半から大正初期には、素封家の間では皇族や貴族が用いた「○子」を用いた。
それが、昭和期には庶民に浸透して戦後直ぐまで「○子」が常識だった。
今から考えれば「○子」と付けるのも妙なものだとも思うが、「○子」との名前は中々上品で便利だっだのは言うまでもない。
この「○子」との名前をつく子供は、まだ地方(関東では無理だが)に行くと見かけることがある。まだ古き日本の伝統を残している証拠だろう。