書道家Syuunの忘れ物

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その2 坂の上の雲・司馬史観を再考する「帝国陸軍の栄光と転落」別宮暖朗・著

2010-12-31 14:45:06 | 映画、書評など

その2 坂の上の雲・司馬史観を再考する「帝国陸軍の栄光と転落」別宮暖朗・著

司馬史観では陸軍悪、海軍善という戦後の歴史観を反映している部分もあり特に大量の戦死傷者をだした旅順攻撃に対する乃木希典批判が多い。
確かに初戦に於いて、種々の稚拙な部分があったとはいえこれは当時の参謀本部自体が官僚主義、秘密主義に陥り状況を掌握しなかったという部分もある。
しかも、旅順要塞というのは典型的な近代要塞で、当時の日本軍は全く知りもしなかったのであるから仕方がないところであろう。
その詳細は、各種の本、論考によるとしてこの様に人的な大損害を悪と見る風潮というのはその1で述べたように「二次大戦以降と言うよりベトナム戦争などの近代戦争の史観によって述べられている」ことである。
事実として、ヒットラーが従軍した第一次大戦のベルギーのイープル(Evil)の塹壕戦(約120万人の戦傷・行方不明者と約50万人の戦死者)をモデルとした小説がある。
小説「鬼将軍」(The General・1936年・セシル・スコット・フォレスター(Cecil Scott Forester)。この小説は、ヒットラーも絶賛したという。

この小説では、主人公カーズンが騎兵隊の中佐という資格でありながら、司令部が全滅して上官不在になったために、一時的に旅団を指揮する。
その後に新陸軍が編成され臨時の少将に抜擢、師団長になる。(騎兵が馬を下りて塹壕に立て籠もり、重機関銃で応戦するという秋山好古と同じ戦い方をする。)
イープル戦はまだまだ続くところで、あまりの多くの戦死傷者が出るため攻撃を逡巡した司令官は更迭され、戦死傷者の増大も全滅も覚悟の将軍が抜擢されて行く。
ここでは新たな新軍団が編成され、軍団長に補され(戦時の)中将に昇進。
この様に、戦死傷者や損害の多さではなく戦争に勝つと言うことのみ評価されるのが一般的風潮であった。そしてその将軍は猛将として尊敬された。
この戦死傷者の多さをものともしないというのは、第二次大戦のパットン将軍まで受け継がれている。映画「パットン大戦車軍団」でその様子が描かれている。 ブルーレイお試しパック『パットン大戦車軍団』(初回生産限定) [Blu-ray]
ちなみに、第一次大戦で日本は日英同盟の関係から英国から陸軍の派兵を要請されたのは、第2次、第3次イープル戦の頃と思われる。
その頃では英国では兵士が枯渇してカナダ、オーストラリアなどの英連邦の将兵を動員して塹壕戦を展開した。
湖沼地帯で戦車は沼地に嵌って動けず、そこへ完全要塞化したドイツ塹壕の前に繰り広げられる全滅の惨劇である。
日本はこの時陸軍を出していれば間違いなく全滅に陥ったろうということは間違いない。

「帝国陸軍の栄光と転落」別宮暖朗の日露戦争では「奉天会戦」の部分に焦点を当てている。
「坂の上の雲」では奉天包囲の最左翼「最弱部隊」である乃木希典第三軍の増援部隊「後備第一旅団」の壊滅のシーンを描いて、ことさら乃木の無能ぶりを描いている。
しかし、この増援部隊の全滅、敗走については別宮暖朗氏は、「総司令部が翼端である第三軍の運動方針や部隊編成について、全く考慮を払わなかった結果でもあった」と述べている。
いずれにせよ、旅順要塞を陥落させた猛将というイメージはロシア軍に浸透していたであろうから、ロシア軍の包囲網は縮まると共に急遽ロシア軍の全面撤退による勝利ということになった。
旅順要塞の陥落がなければ、日露戦争に於いて勝利はあり得なかったであろうとは、同じく別宮暖朗氏が述べるところである。
そして、陸戦においては乃木大将の第三軍によって日露戦争の事実上の勝利をもたらしたのであって、乃木神社と海軍の東郷神社が出来ると言うのもあながち分からぬものではない。
「帝国陸軍の栄光と転落」では、学校秀才でしかない参謀たちの硬直した考え方に対して、「参謀たちの作戦の失敗を補う将軍が一体、幾多帝国陸軍にいたことか。乃木希典(山口)を筆頭に、小川又次(福岡)、黒木為楨(鹿児島)、梅沢道治(宮城県仙台)、秋山好古(愛媛)は決して忘れてはならない将軍であろう。」
と述べている。(出身は筆者註)
秘密主義に徹して失敗した井口省吾満州軍参謀(静岡)、秋山好古に戦後黒溝台の激戦の作戦失敗をなじられた(「坂の上の雲」にあり)松川敏胤満州軍作戦参謀(宮城県仙台)。
昭和の社会主義化した陸軍と別宮暖朗氏が述べる変質は、こういう陸大出の学校秀才から生まれたと以後に書かれている。
ちなみに、井口省吾は陸軍大学校長として「長州関係の教官の追い出しや合格させなかった」など東条英機と共に長州など旧軍閥排除に力を注いだ人物として有名である。

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坂の上の雲・司馬史観を再考する「帝国陸軍の栄光と転落」別宮暖朗・著

2010-12-30 11:47:34 | 映画、書評など

坂の上の雲・司馬史観を再考する「帝国陸軍の栄光と転落」別宮暖朗・著

その1

NHK版「坂の上の雲」が年末に放映されることによって、日清・日露戦争以降の日本の戦争史について種々の本を再度読んでみることにした。
今回の別宮暖朗氏の著書は、日清戦争から昭和期の支那事変あたりまでを網羅している。普通、別宮暖朗氏と言えば、司馬史観「坂の上の雲」の歴史批判で有名で多くの著書がある。そう言う著書を一々読まなくても、この「帝国陸軍の栄光と転落」の日露戦争奉天会戦を読むとある程度氷解するところがある。
司馬史観で一番問題なのは、戦争史観が二次大戦以降と言うよりベトナム戦争などの近代戦争の史観によって述べられていることである。
そして、全8巻もあることから日露戦争のロシア軍の実態が小説の中に突然出てくると言う奇異な部分もある。
ロシアの貴族制度とその社会、そしてそこから派生する軍人貴族。
正確には将校は全て貴族というロシア社会は、日露戦争を記する著書にはほとんど取りあげられていない。
この点フランスの近世貴族社会を研究していた関係上その延長線上でその実態を知ることになったと言うものの、不思議なことに日本ではそう言う貴族制度というものには無理解である。
従い、「坂の上の雲」、「帝国陸軍の栄光と転落」なども当然貴族制度というものは取りあげていない。
日露戦争を語る上で、ロシアの貴族制度というものと(日露戦争などの)辺境に投入される軍隊が、新たな領土になった(ポーランドなどの)新植民地軍であるという点も余り指摘されていない。
「坂の上の雲」では後半、このロシアの植民地軍のことは多少出で来ると言うものの戦役では皆無になっている。
そして、そのロシア貴族というものを誤解しいるためにロシア軍人に日本の軍人と同じような投影をして実に妙なロシア軍人が出来上がる。
その結果として、なぜその様な行動をするのか言い換えれば軍事行動の根拠が曖昧になる。

「坂の上の雲」の司馬史観で糾弾されているのが旅順攻撃を行った第3軍乃木希典大将である。
これは、本の「あとがき」でもかなり言及されているもので、この史観というものが戦後史観というものである。
日露戦争というのは、第一次大戦前において近代戦の典型的なモデルとなっている。
そのために多くの観戦武官が日露戦争を参考にして、後の独ソ戦「タンネンベルクの殲滅戦」に繋ぎ、英国は秋山好古の騎兵隊を真似して騎兵に「機関銃部隊」を付属させた。
その英国の騎兵隊が第一次大戦では、秋山好古が馬を下りて歩兵として戦ったと同じ行動をした。特に黒溝台の激戦では一部塹壕戦になったのと同じ戦い方をした。
「帝国陸軍の栄光と転落」の別宮暖朗氏はボトルアクションの薬莢式ライフル銃が普及したために騎兵が役に立たなくなったと述べている。
確かにそうではあるが、これは重機関銃が射撃の主流となった第一次大戦の話である。
以下 
その2へ

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旅順攻防戦の真実―乃木司令部は無能ではなかった (PHP文庫)
帝国陸軍の栄光と転落 (文春新書)
日露戦争陸戦の研究 (ちくま文庫)

シグマ17-70mm F2.8-4 DC MACRO OS HSM を買ってみた

2010-12-28 19:44:46 | デジカメ関係
シグマ17-70mm F2.8-4 DC MACRO OS HSM を買ってみた

年末α55によるビデオ撮影のために「シグマ17-70mm F2.8-4 DC MACRO OS HSM 」を買った。α55は、1,600万画素のデジタルスチールカメラなのであるものの、AVCHDというフルハイビジョンが撮れる数少ないデジ一眼である。
カメラとしての性能は、普及機ながら秒10枚連射という曲がりなりにもCanon EOS-1に匹敵する性能を持つなど、クラスを超えた性能もある。
それ故に、静止画でもそこそこの性能を発揮すると共に、高画質の動画が撮れるカメラとしてこの秋に購入した。


但し、その動画性能に問題があって、ボディ手ブレ補正を効かせたままだと20℃だと約9分の連続撮影。(動画記録時間に関するお知らせ)
又、夏場の30℃だと6分となっている。
手ブレ補正が「切」の場合は、約29分、約13分になるため、場合によってはどうしても手ブレ補正を切る必要がある。
それで手持ち撮影を踏まえて、手ブレ補正レンズ「シグマ17-70mm F2.8-4 DC MACRO OS HSM」を買ったという顛末。
この範疇には「17-50mm F2.8 EX DC OS HSM 」という上級のものや、「18-50mm F2.8-4.5 DC OS HSM」という安くて定評のあるレンズもある。
17-50mm F2.8 EXは、「OS HSM」(Optical Stabilizer手ぶれ補正・超音波駆動のモーター)なしの旧型レンズを持っているのでパス。

又、50mmというのはやはり使いにくいので70mm(105mm相当)にした。
このレンズ領域としては、SONYの「DT 16-105mm F3.5-5.6 SAL16105」というレンズがあって、全ての領域をカバーしてしまう。
そして、SAL16105と言うのが「Vario-sonnar T*」並という高性能なものなので、動画以外では出る幕がないという現状でもある。
それを敢えて買わなければならないと言うのがやはり種々の問題であるかもしれない。

そんなことは兎も角、シグマ17-70mm F2.8-4 DC MACRO OS HSM使用感を考えてみる。
大きさは、写真で見るとおり図太くOS搭載というのがなまじのものでないことが分かる。
SAL16105もそこそこ大きなレンズなのだが、このSAL16105がかわいく見える。
そして、α55に着装したときの不格好さというより大砲を付けているような印象がある。その描写力というのは、α55の背面液晶だとSAL16105の方が明らかに良いように見えるのだが、PCモニターで拡大すると全然分からない。

そして、ボディ内手ブレ補正を使った場合は、余計判別しにくい。
シグマ17-70mmのOSを使った場合は、やはり微妙な差は出てくるものの誤差範囲のような気がする。
又、前ピン、後ピンの関係では、シグマ17-70mm もSAL16105も同じ傾向を示して50mm程度のところで前ピンになる。
こんな風に比べてみると、やはりSAL16105の抜けの良さというのは特質されることがよく分かる。
OS(Optical Stabilizer)は、デジ一眼レフでは歩きながらの手ブレ補正があまり効かないのと同じようにシグマ版もほとんど効かない。
元々動画撮影を手ブレ補正の範囲に入れているわけもないから当たり前でもある。
だから、そういう特殊な手ブレ補正はα55のボディ内手ブレ補正の方が良く効くような感じがある。
従い、一旦止まって合わせると「ピタッ」と手ブレ補正が効く感じがあるのは動画撮影でも分かるくらいである。
近年のAPSサイズの交換レンズというのは、大方どんなレンズを買っても割合にシャープに写る様になったと感じている。
確かに、上級レンズを使えばそれなりなのだが、デジタルカメラの進歩と共にレンズの特性を補正すると言うこともある。
今回は、シグマ17-70mm F2.8-4 DC MACRO OS HSMと純正で上級のSAL16105を比べてしまった。
結果は、レンズ特性が互いに事実上F4くらいからなので、シグマでもそこそこ絵になる。
又、シグマは前ピン気味という定評があるものの、前ピン、後ピンも絞り込まれるので今はあまり影響が出ない。
だから動画も、写真も撮ると言うときはシグマで、写真だけそして少しの動画も撮ると言うときはSAL16105と言うことになる。
しかし、レンズ一本で済ませようとしたら結構重い荷物になってしまったところがある。


買ったのはデジカメオンラインですよ。

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NHK版「坂の上の雲」第9回広瀬、死す‥ の妙な部分

2010-12-26 23:49:18 | 映画、書評など

NHK版「坂の上の雲」第9回広瀬、死す‥ の妙な部分

NHK版「坂の上の雲」というのは、NHK版日清、日露戦争と名付けてしまった方が良いのではないかと言うほどの改変ぶりである。
特に、「日本では開戦を知った律(菅野美穂)が季子(石原さとみ)を心配して秋山家を訪れる。気丈に振る舞う季子だが、律に用心棒になってほしいと頼む。(あらすじより)」と言う部分は、原作にはないNHKの創作である。
そして、どう考えてもそんな場面は明治という時代としてはあり得るはずもないだろう。
この第9回の冒頭、実際は第8回の最後のシーン。
「1904(明治37)年2月5日、連合艦隊司令長官・東郷平八郎(渡哲也)のもとに封密命令が届けられた。(同)」という部分で、山下(源太郎)軍令部参謀大佐が「封緘命令」を持ってくる。
この時間なのだが原作の第3巻(全8巻)には「東京を夜発ち、佐世保には翌5日の午後6時30分についた。」と書かれている。
そして、この封緘命令の開封日時は「明治37年2月5日午後7時15分」とあるのである。
NHK版では「午後5時」と言うことをわざわざ見せて5時になっているが、どういうワケなのか分からない。
そしてその後の「各隊指揮官、艦長。旗艦に集まれ」は午前1時(6日)である。
そのあと「仁川襲撃」は飛ばされて、駆逐艦群による旅順口奇襲作戦は描かれている。
ここで、巡洋艦パルラーダ(6731t)の当直士官、「任官早々の若い少尉の物語」が駆逐艦攻撃で擱座(かくざ)した戦艦ツェザルレウィッチ配属のポリス・ヴィルキツキー少尉に置き換えられている。
それにしても、本来なら二十歳そこそこの少尉がいい加減年寄りじみて、同じく17歳のアリアズナが30歳前後の熟女(当時でいえば)と言うのも幻滅するものである。
今回は、「旅順口閉塞作戦」だから「旅順口外の海戦」は一切省かれてしまっている。
しかし、そう言う攻防の中で「旅順口閉塞作戦」が展開されるのであるし、後の黄海海戦も起こってくる。
そして、この「旅順口閉塞作戦」のシーンとしては、有馬先任中佐参謀と少佐広瀬武夫の言葉がゴチャゴチャになっているからおかしな部分というのが又出て来てしまう。
有馬中佐は
港口に達することが出来なかった天津丸の後続の閉塞船がやってきたとき
「『右へ、右へ』と有馬は船上から後続船によびかけた。広瀬の報国丸は面舵(おもかじ)をとり‥‥以下略」となっている。
ところが、この「右へ、右へ」の部分でNHK版では広瀬が「右へ、右へ」と言う。
もし言わせるのなら「面舵一杯(英:starboard スターボード・右舷方向に曲げる)」だろう。
船を操艦している訳だから「右へ、右へ」では何だか分からない。
そして、広瀬少佐はカッターボートの右舷最後部にすわっていたのが、「広瀬が消えた、巨砲の砲弾が飛び抜けたとき(原作)」の通り記していたが、後半は原作とは違いソ連崩壊後に情報公開で出て来た事実を映像にしている。
実際、日露戦争の研究書などか公開されると共に、広瀬少佐の遺体とポリス・ヴィルキツキー少尉らしき人物が写っている写真がある。
そして、広瀬少佐はカッターボート上の戦死ではなく閉塞船の甲板での戦死とかかれているも、司馬遼太郎の「坂の上の雲」が書かれた頃はそんな事実は分からなかった。
しかし、この広瀬少佐(中佐)の話というのは、どうも胡散臭い。
軍神になったから妙な事が多いのかも知れないし、「坂の上の雲」でもそれを踏襲している。
特に、アリアズナとの関係が微妙である。
実は、当時の日本海軍では広瀬がハニートラップに掛かったまではないかと疑われて、ロシアから帰国後閑職に置かれたと言うのが真実であると言う説がある。
そして、その汚名をそそぐためにわざと危険な閉塞参戦に参加したらしいのである。もしそれが本当であるとすると、アリアズナとの妙な繋がりは益々妙なものになる。
そして、「坂の上の雲」で描かれている広瀬とは別の人物像というのが浮かび上がる。
但し、昭和の陸軍ではハニートラップに掛かって、ロシア人女性に子供まで作らせた駐在武官(少将)は何のお咎めなしだった。
それにしても、秋山真之が軍艦の甲板上で干し豆を食べてその殻が飛び散るというのは、やはりおかしい。
「坂の上の雲」では、そんなとき秋山真之は昼寝をするのである。


神の国に殉ず 上 阿部牧郎 著を読む その1蘆溝橋まで

2010-12-21 12:32:50 | 映画、書評など

神の国に殉ず 上 阿部牧郎 著を読む その1蘆溝橋まで
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2010.12.23 エントリー>

この小説は副題に「小説 東条英機と米内光政」とある様に東条、米内を中心として支那事変にいたる背景のみならず日露戦争などを通して東条英機と米内光政の伝記的なものである。
しかし、冒頭の「県人会」の項目は板垣征四郎陸軍大臣就任(昭和13年(1938年)6月19日近衛内閣)であり、その後に1年前の蘆溝橋事件(1937年7月7日支那事変)から改めて始まる。
そして、中国が日中戦争の発端として喧伝する蘆溝橋事件などは単なる小競り合いにすぎず、実は上海事変(第2次)が本当の日中戦争(日支事変)であることを改めて政治史を通して紹介している。
大方この辺までを読むと、結果を知っている者としては何やら重苦しくなるのは誰もが感じることではないだろうか。
多分、読む方としてはこの辺で諦めてしまうのだろう。
この小説は、戦争の戦闘史を描いているのではなくあくまでも当時の陸軍、海軍内部での政治史である。
黄文雄氏は、日中戦争について「日中戦争は中国の内戦に対する日本の人道的道義的介入であった。中国のブラックホールに日本は巻き込まれたのである。‥‥‥」と述べている。
その中国のやり方というのが日本軍を徴発し、その軍が乗ってこなければ単独旅行中の軍人(1937年8月9日上海陸戦隊第一中隊長大山勇夫中尉と斉藤要蔵一等兵が虹橋飛行場付近で中国保安隊に殺害される)、それでも効果がなければ無防備な民間人邦人を攻撃して敢えて徴発するというものである。
年月を経たとしても、北清事件が事実上延長戦の形で展開されていると言うのが中国の事情であったと考える。北清事変の時は曲がりなりにも清朝政府が健在だったが、中華民国蒋介石政権も軍閥の一つにすぎず、自治政府などが乱立している。
都市国家、城壁国家という古代に戻ってしまったというのが北清事件以降の中国の状況である。
そして、日本が中国の徴発に乗ってこないので邦人虐殺に着手した最大なものが通州事件(1937年(昭和12年)7月29日・北京東約18キロ)である。
親日派の「冀東防共自治政府」の長官の妻は日本人だったと言うから虚を突かれた。
この後に支那駐屯軍は、北京周辺の中国第29軍を追い払って北京周辺の邦人約4,000人他を守った。
この時期に当たって、関東軍参謀長の東条英機中将は参謀長でありながら東条兵団を組織して、内蒙古へ進撃(職名 戦闘指導所長)。
その後、参謀本部第一作戦部長を追われた石原完爾少将が関東軍参謀副長に就任し、東条参謀長と対立する。
この東条英機の感覚を考えると、二二六事件の青年将校の一般的に言われている考えとよく似ている感じがする。そして、当時の石原完爾の戦略的な考え方とは違い「バスに乗り遅れるな」という競争主義や時代と共に、変わる中国の軍事情勢の無知など現代の政治家に通じる侮りというものがある。
当時の超エリートだった幼年学校・士官学校・陸大という陸軍参謀というのが、非常に狭い視点でしか物が見られなかったことが推察される一面である。
そして、満州事件を起こした石原完爾という人物の非凡さと言うものは中盤に書かれているとおり、「幼年学校・士官学校・陸大」という超エリートを超越していたことを物語る。

国民党軍などの中国軍は、必ず防備が手薄になった拠点に攻撃を仕掛けてくると言うのが常套手段である。常套手段と言うよりこれは当時の日本以外の軍事的な常識というものだ。
だから通州事件は、日本の第二連隊が移動して110名の守備隊しかなくなったところで保安隊によって攻撃された。
同様に上海事変(第二次)というのは、日本租界に海軍陸戦隊司令部に約4,000人の隊員しかいなかったところである。
そこにドイツは軍事顧問団を派遣すると共に、強力なトーチカと膨大な武器輸出と共に上海の日本租界などを攻撃した。
これは「当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃(ウィキペディア)」と言う風に、周到に計画され中国側から仕掛けられたものである。
従って、日本が三八式歩兵銃というライフルしか持てず、銃弾も節約していたのに対して中国軍はドイツのシュマイザーなどの軽機関銃やイギリス製の高性能の武器を使っている。
又、毒ガスを多く用い、銃弾もダムダム弾という今では禁止されている殺傷能力の高い物だったりもする。
持っている拳銃自体もドイツ製で、馬賊がモーゼルを持っているシーンは昔の映画ではよく見られたものである。
こういう実態で人なと見えないところから銃弾が飛んでくるような近代戦なのに、百人斬り裁判で裁判長が日本刀で「百人斬り」を実行したと認めるような白兵戦中心だと思われた記事があったことがある。
しかも、今の仙谷官房長官など中国に「悪いことをした」と言うような引け目と同時に、当時の中国人は「文化の遅れた軍事的に無力な人達」と考えている節があるというのは事実と反する。
そして、本当は彼ら左派人士とみられる人達というのは、相当当時の中国人をバカにしているのだと思えてならない。

ここまでの経緯に対して石原完爾参謀本部第1部長の話が出ている。
1、「蘆溝橋事件が拡大し、日本軍が北京天津地区を制圧したとき、石原は満州との国境線まで兵を引いて蒋介石と和平交渉をするべきだと主張してやまなかった。」
2、「上海の陸戦隊を撤退して、居留民の財産を肩代わりしても、『戦争よりは安くつく』とさけんで陸軍の派兵を拒もうとした。」
石原完爾は成し遂げられなかったが鉄人であると述べられている。
結局それが事実上の参謀本部の主(ぬし)である石原完爾が参謀本部を辞めることになった。
この上海事変の時の米内光政は、「鉄人どころか煩悩のかたまりである」と述べられていると共に、「和平を徹底追及すれば『世論』の袋叩きになり、海軍を追われたかも知れない。」とある。

さて、今の感覚で見てみれば石原完爾が「満州との国境線まで兵を引いて蒋介石と和平交渉」との主張に対して、ある意味実行しても上手くいったかどうかは疑問である。
なぜなら、中国人というのは本書でも数々と指摘されているとおり約束を守らないし、引けば押してくるというものだからである。
その感覚で言えば石原完爾の案の通り満州国境まで引けば、次は満州と言う事になろう。
しかも、歴史上のイフはあくまでも想像の域を出ない。
一方、上海事変に関しては、今なら世界の趨勢として石原完爾の意見と同様な態度を取るであろう。
そして、歴史上のイフを考えてみれば実行していたら日中戦争は起こらなかったかも知れない。しかし、その時の世界というのはアジアで独立国というのは日本と東南アジアのほんの一部であり、インドは英領であるし、インドシナは仏領‥‥。
この時代にあって今のような対応が出来たかどうかは疑問でもある。

そうであるならば、上海事変以降において「南京を落とせば戦争が終わる」という幻想を勝手に抱き、南京攻略戦に突入していった軍部の戦略眼のなさと甘さを考えてみなければならない。
こんなところで冒頭の県人会に戻り、次に米内光政と東条英機の幼少からの伝記が始まる。

ここで冒頭の県人会。
支那事変(日支事変と昔の人は呼んだ)が佳境に入ったとき、日本の軍部の首脳が東北地方
特に岩手県盛岡周辺又は出身者であることである。
これらの人物を書き出してみると

満州事変立役者‥‥
板垣征四郎陸軍大臣・中将(関東軍高級参謀後・大将)盛岡
石原完爾少将(後・中将・参謀本部作戦部長)山形県西田川郡鶴岡

東条英機中将(関東軍参謀長・陸軍省次官‥後首相)父親まで盛岡
米内光政中将・海軍大臣(首相)盛岡
山屋他人海軍(予備役)大将・盛岡
及川古志郎海軍中将(第三艦隊司令官)・盛岡
と言うように、陸海軍の中心的な人達がほとんど東北地方なのである。

奈良・平安時代の征夷大将軍から日露戦争まで、藤原系の将軍に関東武士団(蝦夷)の実行部隊というのが当たり前だった。
ところが、満州事変以降、日支事変など「蝦夷」の将軍に対して「蝦夷」の実行部隊という編成になっている。特に、東条英機などは旧薩長軍閥を徹底的に排除するのを使命としていた。
平安時代後期の奥州(東北地方)を舞台とした前九年の役、後三年の役という取り留めのない奥州戦を見てみれば、どう考えても戦略を持って戦争を戦ったという意味合いはない。そして、そう言う感覚が引き継がれたのが東北地方出身の日支事変前後の日本軍隊というものであろう。
ちなみに、徳川幕府の徳川・松平家は藤原系の殿様、重臣に、関東武士の奉行、上士というのが常識である。
関東武士団というのは、戦闘部隊としても優秀だったが、能史であり官僚としても傑出していた。
教えられたことを学ぶ能力と、教えられたまま実行に移す能力というのは関西の藤原系では及びもつかない。
全国学力試験を見ても関西より東北の方が圧倒的に成績がよいというのは、この証拠ではあるまいか。
だから、彼らは陸軍士官学校などでは優秀な生徒に違いない。
優秀な生徒は往々にして学校秀才であって、「東大までの人」と「東大からの人」と揶揄されるように「謎解き秀才」というのは希有である。
「祖父たちの零戦」の戦闘機隊長、進藤三郎、鈴木實両氏は藤原系であって、海軍兵学校ではビリに近い成績で卒業した。
やはり学校秀才は軍人に要らない、有害であると思うことしきりである。
<2010.12.23 エントリー>

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年末年始に掛けての展覧会に思うことと、USB3.0でのマッハUSB

2010-12-21 08:52:56 | 雑感・どうでも良いこと

年末年始に掛けての展覧会に思うことと、USB3.0でのマッハUSB

(2010・12・25・22:52エントリー記事)

この12月は何やら大忙しだった。
まだ2010年は終わっていないものの、どういうワケか25日が大晦日みたいな様相を呈している。事実、年末までにしなくてはならないことの大部分が片付いてきた。逆にいつもは終わっている年賀状が片付かないという妙な事になった。
そんな年賀状を書く暇がないというのは、このクソ忙しいときに関係する展覧会などがあるということだろう。
常識として、書道なら絶対に年末になど展覧会はしないものなのである。
なぜなら、書道というのは「道」と付くから何となく「行儀見習い」風のところがあって、他人の迷惑にならないというような雰囲気がある。
だから、年が改まった年始早々に書道の展覧会があるというのは、そう言う何か伝統に対する思いやりのような気分である。
‥‥と言うことは、年末ぎりぎりまで展覧会をやるなどと言うのは暇人のやることであり、お行儀に反すると言うことだろう。
そういう革(あらた)まった表彰式、授賞式という出来事というのは、普通は節分が終わってから早々にあることが多い。
やはり昔の太陰暦に関係するのか、1月の展覧会の表彰式というのは似つかわしくない。
だからこの展覧会での表彰式は書展では、なるべく華やかに正装をしてくると言うのか常識となっている。
元々男は華やかではないが‥‥毎日展の会員賞だと男でも会員賞の印の生花を胸に挿すから、それなりになってはいる時もある。
ここで、書だけでなく絵画や写真などの複合展覧会・市民展になると一転して目を剥くことなどが何回もあった。
近年この授賞式はホテルの大広間で行われるからさほど目立たなくなったし、そもそも審査員の側なので受賞者に名前を連ねる事も無くなった。
それだけでなく、壇上というものがないから目立たなくなったようで目にすることはない。
その昔、書の関係で賞を貰う人は、女性では着物が多かったし少なくとも正装の感じがあった。それが、絵画では着物は皆無で、精々余所行(よそゆ)き止まり。
男性では、見苦しくない普段着程度。
そして写真になると、「普段着」すぎて照明係のスタッフかと思われる格好であった。
それも名前を呼ばれて壇上に駆け上がったりと言う始末。
ここまで来ると、表彰式というのも台無しで実に後味か悪いものだった。

いずれにせよ、近年、こういう「表彰式、授賞式」には何回も出席する機会があったものの、自身が何かしかの賞を貰うという段階はすぎてしまった。
かといって、「ご苦労様でしたで賞」という「○○功労賞」というものを貰うには年が若すぎるし、大した功労もないので貰うと言うこともない。
もし万が一手違いで間違って貰えば、種々面倒に巻き込まれたり、後ろ指を指されたりするからこの世界というのは中々難しいのである。
自分の父親は、大正生まれだったから何か叙勲というもの欲しがっていた。
しかし、元々戦前は三井系の軍事産業の幹部社員であったし、戦争から帰ってきた戦後は国家公務員として勤続25年しかなく生前叙勲などはあり得なかった。
亡くなって国から貰ったものは「正7位」というお笑いぐさの受位だった。
これは最下級の方の受位だったから、戦後高等文官試験が無くなった直後の「大臣名の二級官試験合格者」としては甚だご愁傷様なのである。
そう言えば師匠の横堀艸風というのは、元々裁判所の書記官だった。
その上甲種合格だったから戦前の軍人生活が長く金鵄勲章を二つ(功四級・功五級)も持っていた。
そのために戦後になって、(MacArthurの)パージにあったかどうかは聞いていないとはいうものの、書道関係においては大澤雅休の高弟であったのに、後輩弟子の後塵を拝した事は間違いない。
それでも最晩年に群馬書道協会の会長になったし、生前叙勲で勲五等瑞宝章をもらっている。
話は、がらりと変わるというより関係ないことで、USB3.0でHDDのベンチを「マッハUSB」を導入してみて再度計測した。
「マッハUSB」や「ターボUSB」というのは、多少早くなる気分というものだがデーターを取ると面白い感じになる。


左がマッハUSB適応のもの。
USB3.0
実際、HDDのベンチより早いからどんなものなのか良く分からない。
近年のマザーボードを見たら既にUSB3.0が標準装備されていた。
ツクモのUSB3.0の欄を見たら、既にカードリーダーにも対応品が出でいるから今後検討課題でもある。
(2010・12・25・22:52エントリー記事)


NHK版「坂の上の雲」たまにのナレーションだけ司馬遼太郎・原作

2010-12-19 23:30:46 | 映画、書評など

NHK版「坂の上の雲」たまにのナレーションだけ司馬遼太郎・原作

NHK版「坂の上の雲」第8回日露開戦、今回ほど司馬遼太郎原作からかけ離れた回はなかった。
冒頭の秋山好古・騎兵訓練の様子はまだ良いとして、秋山真之の場面になったら女性の自転車練習になった。
このお見合いのような高橋是清が演出する女性の自転車漕ぎのシーン、これから真之の結婚するシーンまで原作から離れてNHK版の明治という時代。
NHKあらすじ
真之(本木雅弘)は八代六郎(片岡鶴太郎)の誘いで、華族女学校の生徒たちによる自転車レースを見学。レースに参加していた季子(石原さとみ)と再会する。7月、真之と季子は結婚する。」なぜこういう本筋とは関係のないシーンばかりを入れたがるのかというと、明治の日本陸軍について描きたくないということに相違ない。
だから、原作では秋山好古がウラジオストックに到着したとき、ロシア側は皇族待遇と思わせる様な儀仗兵まで出して歓待した。
ところが、NHK版では酒飲みシーンばかり。
そして泥酔して力比べとは、秋山好古も随分とノーテンキな人物に描かれている。

そして、憤懣ものと言うか馬鹿馬鹿しかったのは、秋山好古の言葉を一々大庭少佐と思われる人物がロシア語に翻訳していることである。
もしそんな人物が視察に来たとしたら、バカにされて誰も相手にしないだろうことは今の日本の外交を見ても明らかである。
こういう部分というのは、NHKがロシア貴族という貴族制度に無理解なのか意図的に秋山好古などの明治の軍人を「バカ」扱いしているかである。
事実として明らかなのは、貴族公用語のフランス語が堪能な秋山将軍は、ロシア側の感覚、常識で見ると少なくとも伯爵。
場合によっては侯爵という皇室に近い人物として見られたと言うことである。
そうでなければ、強引に日露戦争の舞台となる各地を視察出来るわけがない。
そしてこういうシーンは当然NHK版では無視して、ナレーションでも入れることはない。
それにしても、原作では一切書かれていない秋山真之の家庭生活をこれでもかと入れるのは不愉快でもある。
もうそれから完全に原作とは離れてのオリジナルの嘘ばかりというのは、酷すぎる。
しかも、登場する将軍が女々しいというか噸でもない人物に描かれている。
だから戦争準備で超多忙な山本権兵衛が、海軍省からわざわざ日本海側・京都まで東郷平八郎を訪ねて行くなど憤懣もの。
しかもその東郷中将が、太公望でもあるまいし魚釣りをしている。
小説では、東郷舞鶴鎮守府長官を東京に呼んで司令長官の辞令を交付する。
そして、前任者の常備艦隊司令長官・日高壮之丞が山本権兵衛に怒って短剣を抜いて取っ組み合いというまたまた女々しい醜態を見せる。
こんなわけがないしそんなことは当然小説にはない。
小説では精々「テーブルをつかんで怒り出し」と言う程度のものである。
そして無口のはずの東郷平八郎が結構雄弁というのは実におかしい。

今回はどういうワケだか原作にない秋山好古、真之の家庭生活ばかりである。前回は、正岡子規のことばかりだったから余程司馬遼太郎風なことは描きたくない事がよく分かる。
要するに、「坂の上の雲」ではないわけだ。
従って、秋山真之夫妻は佐世保へ夫婦で連れだって別れを惜しむという妙なラブシーンが展開される。
しかも貨客船ではあるまいし、軍艦がそのまま一般人の目の前で見えてしまうというのは多分当時はどうだったのか疑問なところである。しかも艦名まで明かしてしまう。

次のシーンは「サントペテルブルク」の明石元二郎大佐なのだが、なんと日本公使館へ現れて領収書を渡すと言うのだから仰天である。情報屋が領収書など書くはずもなく、しかも内容が分かったり漏れたら情報屋は命がない。
小説では、明細書をつけて最後に精算したはずだ。
しかもこの明石元二郎大佐は少々異常である。
なぜなら拳銃の銃口を公使に向けて話をするなどあり得ないからだ。
続く御前会議も妙なシーン。
ロシア側にはどういうワケか「戦争を欲していない」と言うことをわざと連発させている。
しかも、ロシア皇帝が日本に対して譲歩せよと言うような「電報」を出したという話は聞いたことがない。
事実は、ロシア外相が討議の決議をツァーリに上奏して裁可を仰ぐと言って、兵力増強の引き延ばしを計っている。

それにしても、明治維新を経たとは言えこの頃の人達は江戸時代に生まれた人達ばかりである。
そんな気骨のある明治人が、レディファーストでマイホームパパの驚くほど女々しいというのは非常に違和感がありすぎる。
どんな風に女々しいのかというと、今の仙谷官房長官のように女々しい「柳腰」さんなのである。
しかも、現代ではあるまいに女性とデートしたりなどとんでもなく逸脱している。
こんな感じだと、NHKは何を意図してわざわざ司馬遼太郎の「坂の上の雲」のドラマを作ったのが良く分からない。
悪意を見てみれば、原作の気骨ある明治人を貶めて小説「坂の上の雲」の意識を喪失させようと企んでいると見ても穿った見方ではないと考えたりもする。


「西尾幹二のブログ論壇」を読む

2010-12-19 12:59:40 | 映画、書評など

「西尾幹二のブログ論壇」を読む

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この著書は、近年の問題点に関する西尾氏の著作とそれに対する論考及び反論、書評なとからなっている。
そこで読み進めて行くと、かねてより保守派と偽装していたであろう有名な論客、東大教授、国連大使など。
かれらが似非保守派という戦後民主主義者、売文業、自己保身の亡者であることが明らかになる。
彼ら日本の論客は、米国の占領政策の延長を望む戦後利得者の人達の意に沿う形で、国民を洗脳しようとする。ところが、その洗脳が効かなくなってきたというのがインターネットネットによる情報共有である。
即ち、論客達が従来の情報や資料を独占してその種を元にオブラートに包んだ言論を国民に流す。そのオブラートに包まれたものの中身は、国民には一切分からず国民はそのまま受け取るしかなかった時代。
そう言う時代というのは国民は判断せず、判断は「マスコミ御用論客」や「国の偉い人達」に任せるということであった。
しかし、戦後の国民は米国の「奴隷の平和」という洗脳教育と共に「過度の民主主義」と言うものを徹底的に教育した。
ここで「過度の民主主義」の功というのは情報公開、国民参加というところで花が咲いたものの、「奴隷の平和」を推進する反日の人達の多くの指導層を作り上げた。
そう言う学校の先生の言う事を良く聞いて成績の良かった学校秀才は「反日」的になり、親や父母の昔話ばかり聞いて育った凡人は愛国者になった。
その「日本人性悪説」という米国が植え付けた反日、反日本という概念が典型的に現れたのが東京大学という学校秀才が集まるところであったというのは当然として不思議ではない。
その論拠にこの数ヶ月の間に日本の政治で「日本人性悪説」、即ち国民不信という言動を散々見せてくれたのが民主党現政権であった。
ここで明らかになるのは、どう考えてもおかしな言動というのは決まって東京大学卒という肩書きをもつ閣僚、議員たちであることである。
それは、それは西尾氏が指摘する大江健三郎氏だけの問題ではない。

西尾幹二のブログ論壇

現在日本を取り巻く情勢は、小泉政権時代の数年前とはすっかり様変わりしている。
その緊迫感は国民にも波及するだけでなく、数々の失政の民主党とその逆ギレした彼ら政府の国民に対する不信感。
民主主義という選挙で選ばれたはずであるのに、その政策失敗を棚に上げて返す刀で主権者国民に対し不信感を募らせる。これは、彼らが自分たちだけの支持者による限定的な民主主義を標榜してると言うことを現す。
「西尾幹二のブログ論壇」というのは、この様な日本を取り巻く不穏な空気が醸成される前夜の日本に巣くう欺瞞を炙り出すものである。

尚、この著書は発売日までに届く予定らしかったが発売日の朝18日手に入った。
そして、この「西尾幹二のブログ論壇」の執筆者の中に不肖Syuunも含まれている。


前橋高校同窓会創立100周年記念 同窓画家・書家作品展

2010-12-18 23:48:10 | 動画で見る書展・風景
群馬県立前橋高校同窓会創立100周年記念 同窓画家・書家作品展

群馬県立前橋高校は、創立133年(群馬県で初)になるものの同窓会の創立は100周年(明治44年)になるという。
この前中・前高同窓会創立100周年記念事業と言うことで、画家、書家の作品展が行われた。
会期  平成22年12月16日から26日まで(AM9時~PM6時まで)
会場  前橋元気プラザ21 1階 にぎわいホール

画家は14名の作家だが、13名は物故作家で70作足らず。
書家は、10名で物故作家は1名。作品は各1点で10作品。

2010/12/18 覗いてみたのだが、宣伝を一切していない割には観覧者が結構いる感じがある。
展覧会の常として、ポスターや案内状があれば高崎その他からでも観客を呼べたと思うのだが残念である。
又、A先生は展覧会の常として「会場当番」というものは如何にという感じであったが、絵画担当の人が誰かを頼むようである。

書道展というのは、手作りという部分が多いので何でも動員される。
そのために、展覧会のプロのようになるのだが、絵画関係ではそういうことはないらしい。
だから、展覧会用のキャプションにも書道展とは違って可なり違和感がある。



今回、搬入の時にクチコミで聞いた開幕式(オープニング)の様子を収録した。
開幕式は、16日の朝9時であった。

スピーチ
前橋高校同窓会長   曽我 孝之 氏
前橋高校校長      吉野   勉 氏
前橋市教育長      佐藤 博之 氏
書道部門担当      西林 乗宣 氏
美術部門担当      川隅 俊郎 氏

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SONYサイバーショット DSC-HX5V互換電池考

2010-12-18 15:57:45 | デジカメ関係
SONYサイバーショット DSC-HX5V互換電池考

DSC-HX5Vを7月に購入して丸々5ヶ月。今回ほど酷使したコンパクトデジカメもほとんどないくらいな感じである。
酷使したと言っても毎日業務で使うわけはないから、今まで旅行などにしかろくに使わなかったカメラに比べてと言うことである。
だからデジ一眼レフで2~3,000枚も撮影する頃には、後継デジ一が2台くらい出でいる計算になる。体よく言えば、数あるデジカメに写真が分散すると言うことである。
それはスチール写真という部分では、ポジは別として既に銀塩のネガ撮りを超えてしまったと言うことでもある。
いずれにせよ、DSC-HX5Vというのは簡単にハイビジョン映像が撮れると言うところが最大の売りであろう。

事実として、久々のビデオ映像を見させてくれた。そして、カメラでビデオを撮るという最大の利点というのはビデオを撮ってると見られないことである。
それに反して小型で小さい電池しか搭載していないコンパクトデジカメの欠点は、電池の問題が大きい。
このDSC-HX5Vでビデオを撮ると決めたときに、SDHCは信頼のあるメーカーの16GBにして、互換電池を2個購入した。

それでも多少多めに映像を撮ると言う場合、上手く電池を充電してやらないと3個でも足りないことがあった。

元々付属していたNP-BG1。これは旧型製品で今は発売されていない代物。
そして、残量検知のチップが入っていないから残量時間が分からず、結局上手く使えない代物となった。だから、使おうとするときには電池マークが点滅して不可と言うことが多い。
高速充電器も買ったし、純正品より高性能という妙な互換電池も使っての動画。

最終的にα55に移行するのだが、この小ささで明るいところではα55とまでは行かなくともかなり迫れるというのは、やはり動画用のサブとしての機能は健在であった。


軍艦島上陸動画 完全版 DSC-HX5Vで撮る動画 3

SONYサイバーショットDSC-HX5VとSDHC・動画編集2

ロワジャパン製NP-FG1 モバイルチャージャーを使ってみる

Cyber-shot DSC-HX5Vで本格的に撮るハイビジョン映像AVCHD

Cyber-shot DSC-HX5Vで夜景を撮る
 
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