書道家Syuunの忘れ物

趣味のパソコンやカメラの実機レビュー、書道展の情報発信、CyberLink MVPなのでYouTube配信をしています。

書道展事務局員の憂鬱 その2

2007-02-28 00:20:32 | ちまたの噂・雑記事

書家というと、色々勉強して一生懸命「書」を研究して‥‥最善の作を展覧会に出品する。‥‥‥と思うだろうがそうではない。
そのように出来る事が理想だが、実は展覧会の合間に書作品を忙しく製作していると言うのが実態だ。
今年も、毎日書道展の陳列の委員の役が回ってきた。こんどは、8月6日まで7回掛け替えをする。
‥‥と言うことは、7月~8月に掛けて7日も六本木や上野に出て行く可能性がある。
現に、昨日県展が終了し今日は自身の残務整理だ。
そんなので疲れて何も出来ない一日。
そして、明日は市民展の搬出。
3月1日は上毛書道三十人展の搬入だ。これが、7日まで。
これは、福沢さんを10枚以上も使った展覧会だ。
家族も会場に呼んで鑑賞させなければ‥‥‥‥‥
一方、25日は、ある書家の個展祝賀会だった。

凡そ400人弱を呼んだ盛大な祝賀会だった。
こういう祝賀会に呼ばれるというのも「名誉」なのだが、「宴会」「レセプション」続きとなるとヘキヘキする。
それに、一回ごとに福沢さんに羽が生えて飛んで行くとなると収入は大丈夫かと心配になる。
来賓は、東京から「毎日関係で数人をよんだ」様で毎日展関係と紹介した。
しかし、県展関係に毎日展の(財団)役員がいるのに、役員でもない審査会員を紹介して財団役員を紹介しないというのは、やはり「社中」の手落ちだろう。
この祝賀会は中々盛大で良かったのだが、色々な面で「主催者」本人ではなく「何も知らない」社中の人に任せた感が多々あった感じがする。
それは、先の来賓紹介だけではなく、席次の件もある。
小生の隣は、某書作家の息子でまあ県下の書壇では有名人。
この書家は教員だから隣の教員と話があって‥‥‥だが、小生とは顔を見たことがある程度だから‥‥
一方左側の女性書家は全く初めて見る顔。
どうもこの地域に連なる書家らしいと「雅号」から推察できるが、県展じゃ見かけないなぁ~~。
県展の審査委員、委嘱作家(無鑑査)は全部キャプションを作っているから分かりそうなものだかねぇ~~
まあ、他の席を見ても同じようなもの。いつもの社中で並んで座る人々があちこちバラバラに座っている。
それにしても、この席はどの様に決めたのか全く疑問だ。
以前の、毎日展会員賞受賞パーティではそんなことはなかった様な気がしたから、異様なのだよね。


〈占〉「ハケンの品格」板谷由夏と「スタイリスト」古田ひろひこの結婚

2007-02-27 16:40:47 | 日記

板谷由夏(いたや・ゆか)といっても‥‥「ハケンの品格」にレギュラー出演中の女優と言われなければ全く分からなかった。
「ハケンの品格」では、お局様役のキャリアウーマンとして登場している。
相手にされる男性社員もいないから、後輩の若い社員に昼飯をおごって、一緒に食事して貰うという寂しい役柄だ。
ところが、実生活では「所属事務所によると、12年前に雑誌の撮影でモデルとスタイリストとして知り合い、友人として付き合ってきたが‥‥」ということらしい。


最近は、女優さんのようだが、元々モデル出身のようだ。
福岡女学院大学短期大学部卒業‥‥というと何やら思い出がある。
高校1年の時に「福岡女学院高等部」の女子学生と文通をしていた。まあ、2-3回しか続かなかった。
何やら感覚が違うみたい‥‥だったのか続かなかった。

さて、相手の「人気スタイリストの古田ひろひこさん(40)」というのはネットでも経歴は分からないので板谷由夏氏だけから推定してみよう。

相性としては、第一印象は板谷由夏が、「あっこの人だ」とピッピッときた関係だ。
大体この様に見るからに気が強そうなタイプというのは、「一目惚れ」運でないと動かないようだ。
それが交際、結婚まで10年も掛かるというのは何やら妙なことを感じざる終えない。
それは、古田との共通点の無さなのではないかと思う。
ただ酒飲みの系統の様だから、一緒に酒が飲めるようになれば、結構誰とでも午が合う、と言う関係だろう。

但し、板谷由夏は元々強運の女優さんであるし、それに今年は確かに結婚するチャンスの年だ。
結婚する日、入籍の日ともに最良の日を選んでいると言うことは、誰か「占いをする人」、暦を読む人に相談したのだろうと推定する。

そして、ますます読み解けば‥‥板谷由夏の実像は、口うるさく完璧主義者だが実はほとんど何も出来ない‥というタイプなんだろうと思う。
しかし、痛いところを突かれると「泣いたりして」男から見ると、甘え上手な女性と見られるのかも。

よくみれば、日本テレビ系「ハケンの品格」の役どころは、正に地でやっているようなものだ。


書道展・常識・非常識/表彰式その2

2007-02-25 21:29:17 | ちまたの噂・雑記事

県の書道展には今まで県知事が出席したことがない。
市長クラスになると以前、高崎市長が出席したことがあったかな?という程度である。
報道関係とにると、群馬テレビの社長が何年かおき。他の新聞社の出席は、10年に1回とかのものだろう。


県書道展・表彰式会場

それが今年は、なぜか報道関係としてNHKの放送部長(地方)が出席した。
多分初めてだろう。
出席となると、授与者で前の来賓席になる。
今年も、授与方式は古典的な方法で1時間30分以上掛かってしまった。
即ち、賞名を読み上げ、授与者の位置に着くのを見て。
受賞者の名前を呼び、全員が前に出てきたところで1名ずつ「名前」を読んで授与。
最初が全文、次が名前、以下同文である。

これが、もう少し簡略化されると、檀があると下で順番を待ち、呼名されると壇上に上がってまとめて授与。
もっと簡略化されると、呼名をすると「はい」と進みでで授与。
‥この場合授与側は名前をも呼ばない。
但し、ここまで来るとありがたみがないねぇ。



書道芸術院表彰式会場・帝国ホテル

そんなこんなで、表彰式も1時間経過して特別賞の下位、報道関係賞となった。
ほんとここまで来るとだんだん疲れてくる。
早く終わりにして、というのも本当だが、上位受賞者は感慨に耽る時間が延びて良いのも確か。
ここで、来賓としては珍しく開式後に到着した「NHKの放送部長」の賞状授与の時、妙なことが起こった。
それは突然前触れもなく、授与の前に2分ばかり話させてくれと言い出し、5分以上も何やらスピーチするハプニングだった。
その中身は、「他の報道関係の人は誰も来ていないのはどういう訳か」という一語のみ残った内容だからたいした事でない。
なあに、NHKだって来たことはなかったのに「何を言っているのか」と思うものである。
本来なら、事前に主催者側に「スピーチ」を連絡するとか。
そうでなければ、表彰式では出来なかったのだから、祝賀会でと言う手もある。
しかし、予期せぬ「スピーチ」は全く「失礼千万」の事だろう。
その上「何やら分からぬことやら、妙な感想だから始末が悪い」
穿った見方をすれば、NHKの部長(元ディレクターと言っていた。)は随分偉いのだなぁと言うことだ。


書道展・常識・非常識/表彰式、祝賀会編

2007-02-24 23:08:10 | ちまたの噂・雑記事

書道展・常識・非常識/表彰式、祝賀会編

今日で、今月3度目の表彰式、祝賀会だった。
こういう表彰式や祝賀会というものは、「日常」ではない。
だから日常と同じような服装で参加してしまうと非常に場違いな感じとなる。
丁度結婚式に普段着で参加するようなものだ。
結婚式に、普段着で参加すれば場違いだけでなく「失礼」「バカにしている」と捉えられても不思議はない。
だからこの点、書道展は昔から「最高賞・グランプリ」、「特別賞・特選」に相当する女性は「和服」というのが通り相場だ。
今日は「先勝」というのに、結婚式の披露宴が午後からあったから、その参列者と区別がつかない感じもあった。
では「晴れ着!!」これが決まりか?と言えばそうでもない。
要するに、服装も個性でありその人なり服装で結構だ。
しかし、周りが華やかな装いをしているときに、一人だけ「普段着の類」では受賞を喜んでいない風にも見えるのである。
だから、ここ何年か山崎種二記念特別賞の女性(先生)は着物か又は、それなりの洋装だった。当然今回の第57回展の受賞者も着物だ。
しかし、委嘱大賞の女性9名のうち着物が7名だった。
こうなると、着物以外の女性がやたらと「みすぼらしく」見えるから不思議なものだ。
特に、1人の受賞者が地味、もう一人が何やら街着に近いものだったからそう思った。
これは、筆者の主観だし、男性は溝鼠ルックだから見るに値しないというところである。
やはり「ハレ」の場所には「ハレ」の着物は必然だろう。
実は、「地味」な方は「着物??」と暗に言われていたのだ。

ここで断っておくと、県書道展で山崎種二記念特別賞や委嘱大賞という審査委員、委嘱作家の賞は「最高賞・グランプリ」ではない。

「最高賞・グランプリ」は、受賞者代表として謝辞を述べる賞を貰った賞である。

だから、県展なら公募の県知事賞が「最高賞・グランプリ」である。
当然、表彰式での「授与」の順番は
知事賞が最初。
最後に委嘱大賞、山崎種二記念特別賞である。
筆者も昔委嘱大賞(準)を戴いた時、一番前に座っていながら最後に授与されると言うのに奇異に思ったものだ。
しかし、公募展とくに県展、市民展など公官庁が絡むときは公募最高賞がグランプリである。
即ち、審査委員、委嘱作家の賞などと言うものは、付け足しの賞なのである。

ならば、毎日書道展や書道芸術院展などはどうかというと、審査会員、会員(審査会員候補)、無鑑査、公募の順である。

なぜそうなのかと言えば、出品作品の大きさで判断することが出来る。
たとえば県展では、公募は一時期畳一畳分(90×180)だった。一方審査委員、委嘱作家は1.1m2以内、即ち公募の半分だ。(今は会場の都合で全体に小さくなっている。)

同様に、市民展では、無鑑査では公募の半分程度、審査委員は又その半分だ。

一方、書道芸術院展では、審査会員、審査会員候補は毎日展公募寸法(60×180、その他)。無鑑査は、半切程度。公募はさらにその約半分だ。

だから、賞の授与の順番は審査会員‥「峰雲賞」、審査会員候補‥「書道芸術院大賞」「同準大賞」「白雪紅梅(旧中村)賞」、無鑑査‥「院賞」「毎日賞」「特選」「秀作賞」、公募‥「準特選」「佳作」「褒状」「入選」となる。

そして、受賞者代表は、「書道芸術院大賞」受賞者1名だ。

要するに、地方の官展は「素人」を相手にするのに対して、中央の書展は「プロ」を相手にするという大きな違いがあると思われるのである。

ところが、どうもこれを混同する先生がいるらしい。
今日の祝賀会の受賞者の言葉の順番が
山崎  →  委嘱大賞  →  知事賞の順番だった。
おまけに、トップの山崎賞の先生が長々と述べるものだから、正直言って「白けてしまった」。
既に、指導者としての「先生」だから「一言」でいいのだ。
苦労話は、「自身の受賞祝賀会」でしてくれと思ったものだ。


書道展事務局員の憂鬱

2007-02-22 23:27:18 | ちまたの噂・雑記事

書道展事務局員の憂鬱

書道展の表彰式と祝賀会が過ぎれば後は、終了と搬出を待つばかりとなって峠が過ぎたといえる。
要するに、どんな書道展にとっても表彰式と祝賀会の準備が大問題なのである。
まず表彰式に係るのは、式次第である。
式次第も以前の順番を踏襲するから、審査部長や受賞者代表その他、特に県書道展の場合、県、市側のお偉いさんの出欠によって授与者の入れ替わりがある位である。
そして、その授与者と賞の順番に従って「呼名名簿」という受賞者名簿が作られる。
一方出席者、授与者によって表彰式の席次が決まり出欠と肩書きを確認して一覧表を作る。
そして、その流れは祝賀会の進行表、席次、席表と移る。
ここから後は、表彰部、祝賀会担当部署へ責任は移るがそれまでの設定は全て「事務局」で行うことになる。
‥‥‥と言うことは、賞状揮毫を依頼した先生から賞状を受領して、点検。
間違いは、書き直しを依頼、と言うことになる。しかし、ほとんど時間の猶予がないから、事務局員で書き直しである。
近年は、ひな形のコピーを渡すために不統一‥‥知事賞で知事名だけとかいろいろがあったが、今はない。
一方、賞の原簿に略字を使われると、略字で賞状に名前が記されることになり、点検でこれは書き直しとなる。
表彰式の式次第も、出席者がいつも通りなら問題はない。しかし、いつも欠席の報道関係者が出席と言うこともある。
これを確認すると、全く式次第が変わってしまうこともある。
即ち、欠席者の部分は(社)県書道協会の理事が代行して授与する。ここに出席の担当授与者が入る。
入れば、「呼名名簿」は連動して変更されるが、授与者の入れ代わり等あわただしくなる。
以前、授与者の賞が下位であったために、上位と入れ替えたことがあった。
しかし、これは知事賞と県議会議長賞と入れ替えるのと同じでやはりしてはならないだろう。
「呼名名簿」‥‥と言うが事実上の受賞者名簿である。これは50部(16ページに亘る)程度作られて、来賓、役員、受付、表彰部、呼名係、表彰案内などが持つ。
「呼名名簿」は、当然「ふりがな」を記載し、賞を授与する順番に書かれている。
ところが、作るとなると容易ならざる作業なのだ。
まあ、「ふりがな」と言う部分の間違いは少ないが、姓名というのは、いろいろあるもので「ふりがな」で合っていても「変換」で違った似たような文字に変換されることが多い。只、県展は公募は、本名、委嘱作家、委員(審査)は雅号が基本だ。
市民展では、事務局が「役人」だから全て本名でだけど。

それにして、先日の市民展の表彰式(授賞式‥市民展)、祝賀会は県展のそれとは大分格式が違う。
なぜなら、市民展の授賞式には、市長、教育長、市議会議長その他、地元テレビ局の社長まで皆出席するからだ。
ところが、県展では県関係は、(財)教育文化事業団の会長は出席するものの、県そのものは教育委員会の課長止まり、市関係は、高崎は教育長、前橋は課長どまり。
従って、他の報道関係も数年に一辺関係者が出席すればよい方だ。
県知事(元自治省出身)というのは、なぜか県書道展に出できた事がない。
もっとも、前橋市も役人上がりが市長だったときは一辺も出でこなかった。

まあそんなこんなで筆者もお疲れ‥‥
事務局で事務をした翌日は、残務の仕事をするのに手一杯。
半日出向いて、13時に帰ってきても直ぐに電話、FAXで対応するから結局一日事務局にいるのと同じ。
来週搬出で県展が終わりやれやれ。
そして、市民展の搬出で2月が終わる。
しかし、3月1日から新たな展覧会が始まるのだ。

ついでに言えば、700名程度の名票・キャプション、委員、委嘱作家の出品名簿。
その他、展覧会の概要(約20ページ)、山崎種二記念特別賞選考資料、呼名名簿、表彰式、祝賀会関係書類一式などの書類一切を筆者が作ったのである。


syuun風「アグネス・ラムの時代」その2

2007-02-21 16:50:03 | 雑感・どうでも良いこと

「昭和という時代のアイドルビジネスの舞台裏」の特徴は、事務所がタレント管理を厳格にし始めた‥‥奔りであると言うことだ。
1970年代を代表するアイドルと言えば、今でも実力を発揮している小柳ルミ子につきるが、当時は、天地真理南沙織らとともに1970年代前半を代表するアイドルだった。
この三人組は当時一世を風靡したかと見えたが、デビュー暫くして南沙織がマネジャーがとのトラブルで、引退を宣言して突然沖縄に逃げ帰る。
その真相とは、当時の週刊誌によれば事務所管理という名目で南沙織はマネジャーの「女」にされた事と言われている。
そして、○痙攣によって二人一緒に救急車で運ばれる常連だったことが暴露された。
芸能界復帰はなったものの一時の人気は醒めてしまった。
同様に、天知真理は「ソープラント嬢」疑惑が週刊誌で報じられ、又何も知らない「アイドル面」をしながらヘビースモーカーであることが暴露された。
後年その時の事を小柳ルミ子が暴露している。
「せりふを覚えていなくて、楽屋に帰った後、中々出で来ない。」それで小柳ルミ子が覗きに行くと、「ふて腐って、タバコを吸っていたとか」当然「台詞の練習なぞしていないのだ。」
即ち、天知真理は「大スター」だと周囲が持ち上げていたわけだ。

1974年になると、こんどは小柳ルミ子がI.Hとのトラブルに見舞われる。
これは、浜松のガマ産婦人科での処置でけりが付いたが、1970年代前半に「新三人娘」と呼ばれた三人がこれでアイドルを卒業した証拠になった。
一方、浅田美代子は順調に「芸能界」の水に完全に染まり、沢田研二とのツーショト写真が週間明星の誌面を飾るようになった。
そして、1975年の頃には浅田美代子ボロボロになって打ちひしがれていたのである。
一節には、浅田美代子と夜を共にしなかった芸能人はいないとも言われたが、実態は不明。
「1975年頃からフォークシンガー吉田拓郎との噂が流れ、1977年7月に21歳の若さで結婚。芸能界を引退し主婦業に専念する。」
‥‥車のドアに挟んだとが浅田美代子が怪我をしたとき、見舞いに来たのが吉田拓郎だったという。
この吉田拓郎との交際は、浅田の家族が一致して反対した。
これもいつもの通り、浅田美代子が押し切る形で決着したのだ。
こう見ると、浅田美代子はバカに見えても決断力はある。
それはさておき‥‥‥
1975年
そして、このアグネス・ラムがやってくる。
即ち、浅田美代子、天知真理のアンチテーゼだ。
色気のない、童顔で若手時だけの浅田美代子に対して、巨乳のアグネス・ラム。
そして、不安定な歌唱力に対して、例の荒井由美・ユーミンだ。
荒井由美は、マスコミには深夜放送で初めて登場し、あっという間に‥‥‥大ヒットだった。
 1975年10月発売のシングル『あの日にかえりたい』‥‥アルバム・ミスリムMISSLIM (ミスリム)1974年10月5日
このことによって、似非アイドルの時代は去り、アイドルである以上歌唱力、演技力すべての実力を要求されることとなった。
そして、アグネス・ラム。
所詮巨乳アイドルは一時的なもの。
結局芸能界の常識にあって敢えなく撃沈。
アグネス・ラムと夜を共にした芸能人も沢山いたかどうかは定かではないが、突然ハワイに帰国。その後、日本での芸能活動は一切不問とし暫く隠し通した。
一方、1976年頃浜松で一つの火事があった。
不審火とは言われなかったが、この火事で浜松の芸能人御用達の産婦人科。
がま産婦人科の病院長・医学博士・蠣崎要が死亡。ガマ一家全滅したかは不明。
これで一つの時代が終わった。
これ以降、例のキャンディーズの時代となる。
尚、1978年(昭和53年)4月4日にキャンディーズは解散なのだけどね。


syuun風「アグネス・ラムの時代」その1a

2007-02-20 23:21:27 | 雑感・どうでも良いこと

「昭和という時代のアイドルビジネスの舞台裏」

アグネス・ラムというのは、第一次石油ショックの直後に日本に現れた20歳のハワイ出身のモデルである。‥‥1975年・昭和50年。
そして、この1975年というのは芸能界でいろいろな出来事が起こった年でもある。
はっきり言えば、反・浅田美代子現象である。

浅田美代子と言えば、今ではれっきとした女優さんだが元々はスーパーアイドルだった。
東京女学館高等部2年在学中の1972年夏、街頭でスカウトされて芸能界入りする。
この芸能界入りは、家族は大反対だったという。
ところが、浅田美代子本人が勝手に退学届けを出して高校を止めてきてしまったから‥‥仕方がないと言うことだったと言われている。

金ボタンのブレザーにミニスカート、そして金具のついたブーツの浅田美代子。
当時のアイドルに比べてどれほど可愛かったか。
同じ頃デビューしたのは、巨乳の「ノーテンキな(当時でも巨乳はバカの象徴だった)」18歳の水沢アキだった。
後年、水沢アキ本人が暴露しているとおり、18歳の「お中元・お歳暮」の「抱かれる女」になっていた。
この単なる「可愛い子」アイドルだった浅田美代子は、ドラマ「時間ですよ」の新人オーディションに何故か合格してあっという間にスーパーアイドルになってしまう。
そして、歌手デビューしたのが「赤い風船」だった。
「1年で50万枚近くを売り上げオリコンの年間セールス10位の大ヒット(この年の新人歌手のシングルでは最大のヒット)となり、1973年の日本レコード大賞で新人賞を受賞する。」
浅田美代子の歌は最低だった。
音程もバラバラ、気持ち悪いの一言だったが只「可愛い」の一語でなんでも許された。但し、歌はひどかったが、バックのアレンジは最高だったね。
ここで飛び出すのがNHKオーディション。
即ち、大人気の浅田美代子をNHKは出演せざるおえない事態になったのだ。

「また当時NHKに歌手として出演するためには局のオーディションに合格する必要があったが、通常1~2回で済むところ、彼女は5回目でようやく合格した。」
とあるが、10回程度ではなかったかと記憶するで合格。
その後10回目で合格ではみっともないと言うことで、事務所が5回と言うことにした。

では何故落ちたのかというと、歌い始めて歌詞を間違えてか歌うのを止めてしまうのだとか。
結局NHKは、途中で止めても最後まで「歌え」と言い渡して合格させたという。
この浅田美代子、東京女学館高等部時代どんな感じの「娘」だったのか?
当時の関係者の伝聞から、いわゆる「クラスに必ず一人いる変人」又は「バカ」という表現につきる。
それは、現在でもその片鱗はよく分かろう。
そして、悠木千帆(樹木希林)が一番心配していたのが、浅田美代子が男を知らない「処女」だったと‥‥何かで言っていた。
浅田美代子以後に、西城秀樹の妹(役)として募集して芸能界入りしたアイドル。
愛知の友人の話では、学生時代「彼氏」がいて充分「男」は知っていたというから浅田美代子の例は珍しかった様なのだ。
確かに、「私の城下町」でデビューした有名歌手は、デビュー前後に山梨で二回アウスをしていたと‥‥山梨出身の友人。
20歳で「コーヒーショップで」で歌手デビューした元FM愛知のDJは、高校時代の松坂では「男性問題で」有名な存在だったとか‥‥松坂出身の友人の話。
だから皆、芸能界にテビューするアイドルというのは「男性に関しては」結構強者揃いだったわけだ。
結局、「時間ですよ」に出演している間は未成年・悠木千帆の監視下にあって、何と言うこともなく過ぎたのである。
そして、降板後が例のとなりのお姉さんが「天知真理」だ。


書道界・レセプション好きのお祭り好き

2007-02-20 20:26:51 | ちまたの噂・雑記事
書道展に付きものなのは、宴会、レセプションである。
これが公募展となると、授賞式、表彰式が付属する。
昔のことを思い浮かべれば、どんな展覧会でも初めての「賞」、特に特別賞という「○○○賞」というのは本当に嬉しい。

表彰式に出てみると分かるのは、当然ながら最高賞から末端の「秀作」「奨励賞」まで厳然としたランクがあることだ。
世の中、差別には敏感なのだが、「芸術」の世界のこういうはっきりしたランク付けは、当事者になって「もっと頑張らねば」とヒシヒシと思わせるものなのである。
最前席は無理でも、少なくともその他大勢ではなく、「賞名」の付いた席。
そして出来ればもっと前の席と望むものだ。
そして、最も最前席なのは、「謝辞」を述べる受賞者代表なのだ。(審査会員の賞は別として)
いつの世も、最前席の誇らしげな顔は忘れることは出来ないのである。
そして、その「誇らしげな顔」が持続する延長線上の事柄が「祝賀会」「レセプション」というものだ。


この祝賀会は、受賞して舞い上がってしまっている「受賞者」は気が付かないが、お付きあい来ている出品者や、高い会費を払ったのだからと思っている参加者には評判が悪いのだ。
なぜなら、この祝賀懇親会の費用で「表彰式」「来賓の会費分(無料)」「各種の看板、経費」を全部賄うからだ。
司会者がプロならその料金、オペラ歌手、伴奏‥‥と経費が増大するにつれ食事の内容が落とされてゆく。
だから地方の展覧会ても、お腹が一杯にならないうちに「お開き」なんて事などは毎度のことだ。



しかし、展覧会や個展がある以上レセプションは無くならない。
女性優雅な着物姿が見られるのも書道展の特徴でもある。
特に今年のように、2月、3月上旬に6-7展覧会が重なると1週間のうちに3-4回の祝賀会がある。
それで誰か新しい人にでも出会うかと言えば、みんな見知った顔で毎回逢うのだから妙なものだ。

朝日社説を斬る・情報無知?の「潜水艦事故報道」 は?

2007-02-17 22:50:01 | 新聞社説・正論・主張を読み解く

朝日新聞社説は、「防衛秘密捜査 知る権利が危うい」と題して、最終的に

「公海上で起きた中国潜水艦の事故がそれほど重大な秘密なのだろうか。」
「米軍からの情報が含まれていたとしても、その記事だけで米軍の探知能力や行動が分かってしまうというものではあるまい。」
「むしろ、中国の潜水艦の動きや事故を知るのは国民にとって重要なことだろう。」

と事実上朝日理論に結びつけている。

朝日新聞はなぜ「インテリジェンス」ということの意味が分かっていないのか不思議だ。
‥‥‥
と思うよりも「どこかの国の手先」と思うと納得が行く。
ここで問題とされているのは、「米国からの情報」でこれは、相手の潜水艦に対する察知能力である。

昔からミスを指摘されれば改善されることは、トヨタの「改善」で明らかだ。
だから察知が特定できれば、この部分の改善を目指すというのは常識だ。

そして、更に問題なのはその潜水艦の改善が、昨年に起きた米国の空母が中国の原子力潜水艦に追尾され、魚雷発射射程内に入られたという重大な事件に繋がっている可能性もなきにしもあらずなのだ。

今や魚雷発射射程内で魚雷を発射されたら、水上艦艇で避けることはほとんど出来ない。‥‥これは、フォークランド戦争でイギリス海軍、原潜コンカラー」(HMS Conqueror)が、アルゼンチン海軍巡洋艦ヘネラル・ベルグラノ(ARA General Belgrano)」 を魚雷攻撃により撃沈したことを見れば分かる。
そして、その結果アルゼンチン海軍は潜水艦を含めてほとんど港を出撃できずに港に封鎖された。
則ち、潜水艦に対する察知能力の可否は、空母の事実上の行動制限になるのだ。
そして、それは台湾海峡‥‥波嵩しとなって、中国が台湾侵攻のとき米国は手をこまねく事態も考えられるからだ。

又情報を知っているということを隠すことが重要だった一例は、第二次大戦でチャーチル首相に見られる。
バトル・オブ・ブリテンの時点において英国はドイツの暗号解読に成功していた。
従い、ドイツの爆撃機が向かうところに有効に戦闘機を配備できた。
ところが、ある都市が爆撃を受けると分かった場面があった。ところがChurchillは情報を守るためにあえて警告はせず多大に犠牲がでた。

以上の例からも分かるとおり、相手に分かると言うことは、重要な情報なのだ。

同じようにノー天気な論説は、毎日社説だろう。
「中国の潜水艦事故に関する読売新聞の報道が米国と日本の安全保障に対して、どれだけの実害を及ぼし、双方の国益を損なったことになるのだろうか。」
この点に関してピント外れであることは以上から明らかだろう。
又、「どれだけの実害を及ぼし、双方の国益を損なったことになるのだろうか」‥‥などの情報も又重要情報だから話すわけには行かないのである。

本当に、左翼メディアとと呼ばれている報道機関ほど防衛に無知なのか、知っていて無知を装っているのか全く疑問だ。

「しかし、外交や安全保障について報道機関が日々取材しているのは、政府の抱える秘密に迫ることだ。」
「自衛隊員は発表したもの以外は報道機関に何も話すな、ということになれば、取材は不可能になる。」
「それでは防衛問題について国民の知る権利に応えることができない。」
‥‥この部分は毎日社説も、日経社説など左翼論調は皆同じだが‥‥
防衛情報に関する限り、「自衛隊員は発表したもの以外は報道機関に何も話すな。」は世界の常識である。

日経も「報道の自由と「知る権利」に与える影響は大きい。」と書くがチャーチルに見るように知らされない「知らない権利」もあるのだ。


ペンタックスK10D・K100Dストロボ編アルゴリズム

2007-02-16 23:35:29 | 日記

ペンタックスK10D・K100Dストロボ編アルゴリズム

筆者など書道に絡む写真となると、まず室内写真以外には考えられない。
展覧会会場、表彰式、授賞式、レセプションなどなど。
その上、人工光、ミックス光、アリクルガラスの反射、床の反射など悪条件は数限りない。
遠い昔、銀塩マニュアル時代‥TTL連動の純正ストロボなど夢であったから、外光式オートストロボを使っていた。
外光式オートストロボと言うのも、実は中々癖があってマニュアル感覚を楽しめたものだ。
ところが、プログラム露出が常識となり(AE)そしてAFになった後は、純正ストロボ又はその機能を使用できる(準純正)ストロボのみの時代になった。PanasonicのPE-36Sも今や流通在庫のみの時代だ。
それで、今や純正ストロボを用いプログラムオートで撮る時代になってしまった。
昔のフォーカルプレーンシャッターの場合、シャッター幕の幕の関係で1/60秒以下でストロボ発光させよと教わった。
事実間違って速いスピードでやってしまうと、半分真っ黒などと言うこともあった。
だから1/60秒というスピードは印象に残っていた。
ところがこのスピードが、純正ストロボに残っていたのには驚いたものである。
普通、1/30秒というのが一般にはしっかり構えて、手ぶれしないスピードと言われている。
今K10Dなど1/4秒でも手振れしないこともあるから「1/30秒」は死語になりつつあるともいえるけれど‥‥
1/60秒‥‥これは、Canon(EOS100QD、EOS7など)、旧ミノルタ(α707si、α7)などに純正ストロボを装着したときの最遅スピートである。
本来のスローシャッターは、被写体はストロボ光で押さえ、周辺の雰囲気をも写し込む‥‥いわゆる「インテリジェント夜景モード」とかいうものである。
こんな事が、実は中々出来ないと言うのが最新のカメラだった。
以前これを解消しようといろいろとやってみた。
たとえば、被写体の露出を固定してストロボ発光‥‥これは見事な露出オーバーになった。
暗い標準ズームを使うと益々悲惨で、ISO400のフィルムを使っているのに、ISO100で撮影しているようになるのは悲惨だった。
只、銀塩フィルム時代はデーターバックを付けているわけではなかったから、中々その原因が掴めなかった。
いまは、イグジフ情報があるから簡単に解析できるのはありがたい。


‥‥と言うことで、PentaxK10D、K100Dのストロボ発光のアルゴリズムについていろいろと解析してみた。
以下に実際のシャッタースピードと露出を割り出してみた。‥‥尚レンズ域はフルサイズ相当。
SMC PENTAX-DA ズーム 16-45mm F4 ED AL
57mm(38mm)‥‥1/60‥‥F4.0
67mm            ‥‥1/60‥‥F4.0
51mm            ‥‥1/50‥‥F4.0
42mm            ‥‥1/45‥‥F4.0
39mm            ‥‥1/45‥‥F4.0
24mm(16mm)‥‥1/30‥‥F4.0
34mm(22mm)‥‥1/30‥‥F4.0

★PENTAX  FA35mmF2AL‥‥52mm
‥‥‥‥‥‥‥1/50‥‥F2.8
‥‥‥‥‥‥‥1/45‥‥F2.4
‥‥‥‥‥‥‥1/80‥‥F3.5‥‥被写体が遠い
‥‥‥‥‥‥‥1/80‥‥F3.2‥‥被写体が遠い
SSはほぼ1/45~50秒が中心。

★PENTAX FA31mmF1.8AL Limited‥‥46mm
‥‥‥‥‥‥‥1/45‥‥F2.4
‥‥‥‥‥‥‥1/50‥‥F2.8‥F2.5
‥‥‥‥‥‥‥1/60‥‥F2.8‥F2.5‥F3.2
‥‥‥‥‥‥‥1/180‥‥F2.8‥‥被写体が遠い
‥‥‥‥‥‥‥1/125‥‥F2.8‥‥被写体が遠い
‥‥‥‥‥‥‥1/160‥‥F2.8‥‥被写体が遠い
SSはほぼ1/45秒が中心。

smc PENTAX-DA 21mmF3.2AL Limited‥‥31mm
‥‥‥‥‥‥‥1/40‥‥F3.5
‥‥‥‥‥‥‥1/30‥‥F3.2
SSはほぼ1/30~40秒が中心。

smc PENTAX-DA 70mmF2.4 Limited
‥‥‥‥‥‥‥1/80‥‥F2.4
‥‥‥‥‥‥‥1/100‥‥F3.2〔K10D,K100D〕
‥‥‥‥‥‥‥1/180‥‥F3.2‥‥被写体が遠い〔K100D〕
SSはほぼ1/100秒が中心。

この傾向から、広角側16~24mm位までは、1/30秒
28mm~35mm程度て゛1/45~50秒が中心。
70mmになると1/100秒程度になってしまう。
16mm側では、*istDが1/20秒まではスローになったが、Kシリーズから1/30。
手振れ補正があって、1/15秒くらいなら良さそうなのだから、スローシャッターが切れても良さそうだがどういう事なのだろう。
以上の実験は、プログラム露出で行ったが、Tvを使ってスローシャッターを切ったとしても、自動的に絞られて効果はなかった。
これで見ると、16-45mm F4 ED ALで撮影した写真はほとんどアンダーになる。
暗いところは、単焦点の明るいレンズに限るという実証だろう。