書道家Syuunの忘れ物

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Syuun の不思議な少年時代 その34 Episode 3

2012-03-08 07:06:27 | syuun の不思議な少年時代
Syuun の不思議な少年時代 その34 Episode 3

中学に入学したのが1964年という忘れようとも忘れられない年。
映画「ALWAYS三丁目の夕日'64」の舞台になってしまった年として、今では再確認されているのかも知れない。
中学1年の時は、11クラス52人学級だった。
これだけ人数が多いと1年のうちに話もしない級友も数多い。当然名前も覚えていなかったクラスメイトもいて現在でも名前と顔が浮かぶのは十指に満たない。
なぜなのかと言えば、中学に進学してくる小学校は桃井小から約100名。中央小の全部約250名、城南小の過半数約200名と言う具合に桃井出身者のSyuunが見知っている学生が圧倒的に少ない。
しかも街の中心部を網羅する中央小からの進学者が一番成績優秀と来ているから尚更である。
その内の女子学生はと言うと中央小学校からの1人しか記憶にない。
なぜ名前と顔を記憶に留めたのかというと、その女学生MKはその1年生の時に何度かクラスで1番の成績を取ったという噂だったからである。
しかも記憶は高校の時に前橋女子校(2年5組)とのクラス交換の時に同じグループになったという経緯で補強された。
そして、何十年かして名だたる事業家だった彼女の実家の仕事をさせてもらったということぐらい。
それもどういうわけか父がその家をよく知っていて、仕事をもらったという妙な縁でもあった。
その女子学生MKは当時はひょろひょろとして、首が長く細面の背が高い女性だった。
話をしたこともないし、同じ女子学生ともあまり親しげにしていないMKの話し声さえ聞いたことはない。またその背が高いと言っても当時Syuunは身長160㎝程度。
成長が早い女性は、中学の時点で成長が止まっていることが多い。
それで中学に在籍しているうちに身長では楽々追い越すのだが1年の時は彼女の方が背が高かった。
容姿かたちと言っても、中学1年生のレベルでは女性を感じさせるものは無く、将来的には美形の女性になるのではないかという片鱗を見たくらいであった。
そして2年になってクラス編成替えと共に、忽然と消えてしまって以後見かけたことはなかった。
しかし、17歳の女子高生になったMKは、ひょろひょろとしてアンバランスな姿態は姿を消して美形の女子高生になってはいたが、それまで。
結果、単にすれ違ったというくらいの印象であった。

この中学生になる直前の春休み母の実家へ遊びに行って、女性としては将来的に係わり合いを持つ年代というのはこの頃かと気が付いたことがあった。
ただし、その年代とはその時まだ小学校にも上がっていない。

この頃の女性との係わり合い、袖振り合うも多生の縁というものはより少ない人数が集う英語塾というところでしかなかった。

Syuun の不思議な少年時代 その33

2012-02-10 02:10:52 | syuun の不思議な少年時代
Syuun の不思議な少年時代 その33

【昭和39年、1964年春 その3】


中学生生活が始まる。学校には生徒があふれかえって雑然としている。
1年生は1階、2年生は2階、3年生は3階と言うことになっていて、鉄筋校舎とはいうものの1年10組は北側の西隅(3クラス)だった。
1組から8組までは少し離れた木造二階建ての西校舎で日当たりは良かったが、非常にレトロの雰囲気が強かった。
実はその木造校舎が使われたのは、この年が最後である。

ベビーブーマーの世代直下というのは、何やら重苦しい雰囲気に包まれた世代であった。
考えてみれば今でも「ぞっとする」不安な毎日なのである。
それは中学に入った途端に高校進学という文字が片時も頭から離れたことがない。
その重圧を常に感じる毎日というのは今では想像もつかない。
今の親は、中学生の子どもに勉強を教えるということは程度の差こそあれさほど難しくは無い。しかし、当時の親は大正生まれの親である。
父親や母親は戦前の教育を受けた人たちで、小学校低学年なら兎も角中学の勉強を教えられるはずもない時代でもあった。
しかも当時は勉強のための参考書というのは少なく、その上に今のように進学塾が氾濫してもいない。
だから高校教師がアルバイトで塾をやっていることが多かった。

そんなスタートの中学生生活の4月は、平穏無事と言うより嵐の前の静けさというのが正しかった。
東京オリンピックと言うのもまだ視野に入っていない。
そういえば秋には東京オリンビックがあるという程度のものである。

この頃、4人家族の我が家は4人家族として成りたって以来最高に充実した時であった。充実したと言うよりもう一つの未来が開けたということである。
その一つは兄が北海道大学に進学したこと。もう一つは父が病気から立ち直ったことであった。
この二年前には父は、胃の痛みが激しく吐血もしていたのだが胃潰瘍らしいことが分かり手術した。今なら胃潰瘍などは早期に発見されて大した事にはならないことが多い。しかし、その昔は今では毎年の検診で胃カメラを飲むと言うことも普通に行われた分けではない。
実を言えば小生だけが何やら蚊帳の外にいた。

新中学生となった身では前述のように何とかして普通高校に紛れ込めないかと思案していたのが真実である。

新中学生の最初のスタートダッシュ。
今の子ども達も全く同じで、この時期から如何にスタートダッシュを切れるかで中学3年間の大半が決まる。
転換期があるとすれば、二年になるときの組替えのチャンスの1回しかないというのも何となく分かっていた。しかし、何をして良いのかが分からないというのが本当である。

中学を卒業して高校の教科書を買ったとき、多少予習でもするかと思って英語の教科書を見て驚いた。
教科書の最初の一行からして全く刃が立たない。
夏休みにはヘミングウェイのFor Whom the Bell Tolls原書(誰がために鐘は鳴る)が課題だったり、トルストイの「人は何で生きるか」What Men Live Byの英語版だったりする。
小説は何とかなるが、英語の教科書は大学に入ってから読んだ専門書の何倍も難しいというのは今で思えば無意味な教科書だった気がする。

小学生から中学1年になる時は、高校に進学する時ほど急に難しくは無いもののその変化に慣れるのには時間がかかるものである。

今は東大生が使う勉強ノートというようなものが売りに出されたり、「東大合格生のノートはかならず美しい」という本まである。

その昔もサブノートを作ると良いとして、ほとんど書かれているサブノートが売りに出されていた。しかし、そういうノートは中学校のレベルのことしか書かれていないから無駄の一言に尽きた。

そのスタートダッシュの4月というものは、何となく過ぎてしまった。
その昔は、部活は何でも良かったから「卓球部」に入った。
入ったと言っても顧問の英語の先生に入りたいと言っただけで何の案内もなかった。
その後に◯年◯組の教室が練習部屋になっていると言うのを知って、そこに行く事になった。1年生はラケットのフォームと基礎体力練習。ほとんど卓球台に向かう事も無く何か止めてしまった。
テニス部も大量に入るが、1年生は延々と球拾いでほとんど止めるのだそうな。
生徒が多かった時代の面白い現象であった。

そんなわけで早々と卓球部は幽霊部員になりその後止めてしまった。
それで何か咎められるという時代でもなく、内申書が悪くなると言う事も無かった。
そもそも高校受験に内申書は一切関係が無い一発勝負だった。

連休に家庭訪問がある。
小学校の時代には、家庭訪問の時にはわざと家にいないようにしていた。
しかし、中学では家にいる必要があるのだとかで待っていた。


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syuun の不思議な少年時代 その32

2012-01-10 23:15:58 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その32

映画「ALWAYS三丁目の夕日'64」という映画が公開される。
1964年と言うのは、東京オリンピックの年で種々記憶に残る。
その始めは札幌から手紙で「東京オリンピックの入場券を買って!!」いう話しが母のところに届いていた。札幌からと言うのは北大に進学していた兄からで、なぜ札幌で買えないのか不思議な手紙でもあった。
それで3月の末か4月に売り出された東京オリンピックのチケット。
日本が参加する様なバレーボールなどはとても買えるものではなく、買って来たのが「ホッケー」と「ラグビー」だった様な気がする。
バレーボールは買えなかったというと「それならけっこう(要らない)」ということらしかった。
1964年と言うのは、厭な年の幕開けというものだが特に熱い一年だった。

【昭和39年、1964年春 その2】

当時の典型的な学校建築である第一中学校。
今見れば耐震設計なども出来る余地がないほどの老朽建物である。
入学式、事前に購入した今でも学校で使っている上靴。この年の新入生は黄色だった。
ここで入学式があったはずなのだが、入学式の記憶というのがさっぱりない。
それもそのはず、この時の体育館(旧々体育館)は小さくてあまり人数が多いので入学式の代わりに放送で校長先生が挨拶して入学式の変わりをしたのである。
翌年には新体育館が出来てそんなことはなかった。
その上、クラス分けされたクラスの席についてもどう言うものだったのかも全く覚えていない。
多分、勝手に好きなところに座れと言うものだったのかも知れない。

担任は、M先生と言って理科の教師で天然パーマと「弥五郎」という特徴のある名前であった。
この「弥五郎」という名前は「祖父の名前」なのだそうで、その名前を引き継いだと自ら説明していた。
このM先生は学年主任でもあって、伯父と同じ年齢くらいだったらしい。
今でもこの名前でググルと「昭和47年度の教育研究の記録」に出てくる。
後年校長にもなったという噂だが、確認出来ていない。

一年生に入るとまずは部活の選択をするのだが、先生は異口同音に
「部活をしていると進学出来ないぞ!!」という時代なのである。
運動部、文化部‥‥という選択枝では事実上運動部しかなかった。
兄は、「電気部」というところに入っていて部長をしていたこともあった。それもカリスマ電気部長で部員が50人以上だったと言うから凄いものであった。
その電気部というのは何をしていたのかと言えば、ラジオなどを作っていたのであった。今で言えばパソコン部と言うようなところである。
そして、その電気部というのは部員がいないためにこの年に廃部になった。

最初のホームルームだったか、理科の授業だったかの話。
天然パーマのM弥五郎先生は、先生の記憶に残っている「先輩のOBと同じ名字」があると「◯◯という卒業生がいたが、◯◯は親戚か?」と聞くのが通例であった。
そして「◯◯と関係が明らかになると」
「◯◯は凄く勉強が出来たヤツだ」と言うのである。
小生から見れば「それが何だ」と思うのだが、3年生の時に再びM弥五郎先生が理科担当になった時も同じことを聞いた記憶がある。
そしてこのM弥五郎先生の悪い癖は、生徒がうるさくしていると後ろの黒板におもいっきりチョークを投げることであった。
「バシッ」と。
あるとき、黒板のチョークがないので「どうした」とM弥五郎先生が聞く。
すると生徒
「先生がみんな投げてしまったではないですか!!」
それでは、職員室からチョークを取ってこいと週番の生徒を職員室に取りに行かせるのであった。
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syuun の不思議な少年時代 その31

2011-12-25 23:21:38 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その31

【昭和39年、1964年春】

昭和39年と言えば何を思い浮かべるのであろうか?
思い付かなければ1964年と言うことで、東京オリンピックの年である。この東京オリンピックを前にしてうちでもテレビをようやく買った。
テレビが普及したのが今上天皇の御成婚の年、昭和34年前後とも言われる。しかし、昭和34年にテレビを買ったという家はそれほど多くない。
それどころか、まだ電話も普及していなくて電話を入れるのには抽選だとか、債権を買うとかなどの種々の手続きが必要だった。
電話が急速に普及するのは、申し込みさえすれば入れることが出来たその翌年(昭和40年)くらいからである。
そして、その昭和39年という年が、小生(Syuun)のとって絶対に忘れられない年になるとは思いもよらなかった。

その昭和39年の4月。
朝八時前に家を出て、約1キロ先の中学校へ向かった。
その中学校とは、前橋市立第一中学校といって前橋刑務所の直ぐ隣にあった。
その中学へ行く道も中学を通り越して少し行くと行き止まりで、見渡す限り水田か桑畑のどちらかだった。
遠くに見える森が神社でその一画だけに人家があった。
そんな面影は、今ではとても思いもよらないもので、元々郊外に在ったはずの中学は今では市街地の真ん中になっている。
そして、真新しいダブダブの学生服を着て、今でも変わらない正門をくぐったもののどこへ行ったら良いのかうろうろする始末だった。
通学途中の上級生は新一年生か!と声をかけきて、「入学式はもっとあとだせ」と言うことらしかった。
考えてみれば、入学式の時間などを確認してこなかったし聞いた覚えもなかった。

兄がいれば多少なりとも助言を得るところであった。しかし、兄はその年北海道大学(当時の一期校)に合格して札幌に行ってしまった後だった。
母に言われたのは、「兄ちゃんもダブダブの学生服だったわよ!!」
と、ダブダブの学生服を怪訝に思う小生に言われたことぐらいであった。

多少雨が降り出し、9時を過ぎ誰いなくなった正面玄関の屋根のある通路で待ちくたびれていると一人の新入生と思われる男子学生が来た。
それは、同じように身体に合わない学生服を着ていて、お互いに制服を見せ合って何やらホットした気分だった。
さすが9時半になると玄関の通路は、新入生で一杯になってきた。
するとどこからともなく、先生が出て来て
「クラス分けを発表します。体育館の横に貼るので、それを見てクラスに集まるように!!」
‥‥と通路に集まった新入生は一斉に雨の中校庭を走って体育館の前まで行った。
黒山の人だかりを見ていても中々名前が出で来ない。
やっと見つけたと思ったら1年10組だった。
一クラス48人から49人、全11クラス、学年人数約535人。
この人数は、今では市街地の小学校に全校生徒よりも多い。
しかし、全校生徒となると約2,000人にもなるのである。
概算で大まかな人数を上げておくと、2年生13クラス約640人。3年生15クラス約780人。
こんな数値というのは今ではとても考えられない。今の第一中学校の全校生徒でも500人に満たない。

そんなわけで、1年10組約50人の名前は覚えきるうちに2年に進級してしまったというわけである。
ここから普通高校へ進学すると言うのがいかに困難を伴うのかと言うことを説明する。
当時の高校の通学区域というのは、前橋市、伊勢崎市とそれに隣接する郡部であった。
そして女子校を別として前橋市の唯一の公立普通高校とは、最難関校の県立前橋高校しかなかったのである。
その前橋高校には、おおむね伊勢崎とその周辺から約200人、前橋とその周辺から約200人という構成である。
ベビーブーマーの時期に合わせて定員が450人になったために増えたと言ってもSyuunなどが入学したときの定員が約432人。
そして「前橋とその周辺から約230人」という感じであった。
その約230人の構成とはどんなものだったのだろうか。
当時の中学校は、一中から七中までのナンバースクールのほかに7校、郡部に4校、群馬大学学芸学部付属中学校で全19中学校であった。
その内で付属中が概算で65人、一中が63人、三中が40人の4校で7割以上の入学者を占め残りの約60人が15中学からと越境入学者に占められると言うものであった。
だから、上位4校以外では、学年で5人程度入学出来れば良い方で、1人という中学も珍しくないのが現状であった。

そんな状況下で、「兄ちゃんが進学出来たのだから僕だって進学出来るさ!」という甘い気持ちだけしかなかった。
あとから考えてみれば、兄の時代というのはベビーブーマー世代の直前でかなり人数が少なかった時代であったと言うことだった。

syuun の不思議な少年時代 その30 Episode 1

2011-12-24 00:26:16 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その30 Episode 1
               その8

【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代3】

そんなリンゴ狩り。
実は、知らされていなくて行かなかった人が沢山いた。
あとでリンゴ狩りの話しをしたら知らなかったという人達ばかりだった。
K園長は言う
「リンゴ狩りは、寄付金を納めた人達だけの個人的な遠足です。」
こんなことも問題になって、父母から抗議が出て、翌年からは園児全員がリンゴ狩りに行くことになった。
いずれにせよこのあと、母は相当腹立たしかったらしく、11月、12月分の寄付金は払わなかった。
その寄付金。
寄付金というのは規定はなくて暗黙の了解だった。
だから当然その額は、決まっていない。
入園当初に月謝を払った後に、会計担当の先生に「あと寄付金を納めてください」と言われたのだか、その寄付金を母は知らなくて金を持ってこなかった。
寄付金‥‥金額はというと「寄付金だから幾らでも構いません」とその先生は言う。
それでは分からないから「ふつう幾らぐらい払っているのですか?」と聞いたところ‥‥
困ったような顔をしながら「月謝の1ヶ月分の人が多いです」というものの、「(月謝の)半分の人もいます」という。
「寄付金ですので、払える金額で結構ですし、払える時で結構です」とも言っていた。
実際、その後色々な人に聞いて見たところほとんどの人達が「月謝の半分」だったようだ。

秋の深まる11月。
突然今までの単なる童謡からクリスマスソングに変わった。
毎日ジングルベルである。
そして、良く分からない聖書の話し。
そのうちに何やら年長組の混じって「劇のまねごと」に参加する様になった。
参加するといても、年長組が何かやるのを見ているようなその他大勢、台詞一言である。
その劇とは、クリスマスパーティに向けてのキリスト誕生の劇であることはその後分かった。
昼食の前に「天にまします我らが神よ‥‥」「アーメン」などとお祈りをしてから食事をすることさえ何だか分かりはしない時である。
ましてキリストというのは誰というのが当時の感覚であった。

そのクリスマスの観劇のリハーサルは、通常の園の授業を全く無視して延々と毎日続いた。
要するに、先生は観劇の準備に余念がなかった。
そして劇では、その背景や被り物などは既に作られていて、園児はその中に単に入れられるだけのことである。
今でこそ12月24日はクリスマスイブとして誰も知らない事はないのだが、昭和31年の冬ことである。
当然園児としては何も知らない。
そんなときには物知り顔の園児というのが何時もいて、キリストの馬屋での誕生秘話をとうとうと話してくれた。
しかし、それが何なのかは当時は知るよしもなかった。
12月中旬になると突然観劇のリハーサルの見学もその劇中に入ることもなくなり、園舎の教室で幾人かと延々と自習する日々か続く。
そしてリハーサルが済むと何時もの悪ガキが戻ってくると共に閉園時間が近づく。
そしてその24日が近づくと突然クリスマス会の観劇のリハーサルがなくなった。
別の日にする事になったのか、行われなくなったのかははっきりしない。
それで講堂を覗いてみると何やら雑然とした趣になっている。
そして、幼稚園の終業式というのは12月23日であった。

講堂は、既にクリスマス会の飾り付けは終え最終点検を先生がしているところである。
それでクリスマス会はどうなっているのかと先生に聞くと、「聞いてきます」と主任の先生に聞きに行くと午後の1時だったか2時だったかの時間であった。

12月24日の寒い一日。
午後の1時、2時ではおかしいと思って母に言うとそれなら12時頃に行ったらという。
それでも遅すぎると11時20分頃に幼稚園につくと講堂の椅子の半分はガラガラでクリスマス会は終盤にさしかかっている。
そしてなぜか休憩に入って、ざわざわとし始めているではないか。
良く見知っている悪ガキの後ろに行くと、
「おう、こっちへ来いよ」
「ずいぶん遅いじゃねーか、もう終わりだぜ」
という。
その悪ガキは、フサの付いた銀色の三角の帽子を被って、靴の形をした小さな菓子を持っている。
しばらくすると、先生が
「お菓子をもらっていない人はいませんか」という。
悪ガキ
「この子がもらっていません」と言うのだが、先生は嫌な顔をして無視する。
「なんで休憩に入ったの?」と悪ガキに聞くと‥‥
悪ガキ
「あ!、それは付属の卒業生が来るのが11時半なんだよ」
「なぜ?」
「付属(群馬大学学芸学部附属小学校)は今日が終業式なんだ」
そんなふうに話している間に、ゾロゾロと冬なのに半ズボンの制服を着た小学生が集まって一杯になってしまった。
それを見計らって、クリスマス会が再開されて園児の名前が呼ばれる。
園児は、呼ばれると前に出で行って今までもらった小さな「銀の靴の菓子」ではなく、より大きな「靴」か又は何かのものをもらう。
その悪ガキも呼ばれて、一抱えもある特別大きな「菓子の入った銀の靴」をもらってきた。
それから、後ろの小学生もゾロゾロと前に呼ばれて菓子のプレゼントをもらいそのまま帰ってしまう児童もいた。
それで終わる頃にはだんだん閑散として来て12時には終了。
帰り際に悪ガキは
「こちらがあるから、これはやるよ」
「見た目だけだからね‥」と
小さな「靴型の菓子の詰まった網」を寄こした。
うちへ帰ってこの「靴型の菓子」を開けてみると駄菓子屋で買うような「あめ玉2-3個」と「チョコ味のビスケット菓子」という有様。
それは確かに見た目だけのクリスマスプレゼントだった。

家に帰って、母に事情は話すと良く理解したようで
「来年はクリスマス会に参加出来るようにします」と言い切った。

昭和32年の12月。
前年のクリスマス会と同じようにリハーサルが始まり、役どころとしては一言だが前年に見たキリスト誕生秘話の部分ではない。
何を演じていたのかは今でも分かっていない。
しかし、前年のように「園舎の教室で幾人かと延々と自習する」という事はなくなった。
それでも数人自習していたのだが、昨年のことを園児に伝えると翌日から一緒に劇に加わるようになって、自習している園児はいなくなった。
昭和32年12月24日のクリスマス会。
小生が来る時間は10時だった。
それは、観劇に出る時間だと教えられたのだが‥‥

それで当日10時に行くと当然クリスマス会は始まっている。
既に、大きなクリスマスプレゼントの包みがあちこちに配られているのが見て取れた。
自分たちが座る席はガラガラで、まだ後から園児が来る様子だった。

しばらくすると自分の出番が廻ってきて壇上から降りてくると前年より多少大きい「銀の靴の菓子」をもらった。

そして、例の悪ガキに会うとこう言う
「僕は9時半だった」と昨年より多少小さい菓子の袋を上げて見せた。
クリスマス会は、9時から始まっていたらしかった。

何のことはない、寄付によって「クリスマスプレゼント」をもらう時間が異なり、もらう大きさも違うと言うわけだ。
「付属の卒業生は?」と悪ガキに聞くと
「今年から終業式が23日になったんだ」
「よく見ろ、後ろにいるだろ」
と言うような事を話しているうちに終了してしまった。
そして時間はなんと11時だったのである。

syuun の不思議な少年時代 その27 Episode 1 その7 【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代2】

syuun の不思議な少年時代 その26 Episode 1 その6 【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代2】

syuun の不思議な少年時代 その29 Episode 2

2011-07-07 21:16:44 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その29 Episode 2

その2 同窓会に出てこない人たち

syuun の不思議な少年時代 その28 Episode 2

syuun の不思議な少年時代 その27 Episode 1 その7

そのYとは連続して隣の席になったが、実に妙な人物だった。
試験のあるとき、ささっと答案を書き上げてほとんどの時間を残してボーッとしている。見ると、分からない問題は飛ばして空欄であった。小生は、当然全問解答していたからそんなに早くは終わらない。終わってから見直しと確認で時間は余す事はない。
そしてちらりと見れば、直ぐに分かる明らかに違っている解答がある。
密かに「それ書き間違いだそ」と指摘すると、ちらりと答案をみて「いいんだ」とそのままで提出した。
試験の点数ではYはそれほど悪くはなかったが、実力から言えば小生と大差ないと言うのが良く分かった一幕だがその後聞いたことがある。
S「どうして間違い解答を直さないのか」
Y「勉強が嫌いなんだよう!!!」
S「しかし、今そんなことを言っている暇はないのでは???」
Y「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

事実として、大凡偏差値75以上あった前橋高校へ進学するには至難であった。
群馬県中からこの中学へ編入が絶えない時期であった当時、前橋市どころか群馬県の公立中学校でこの中学以上の進学率と「凄い中学生」が集まった場所はなかった。
結果で言うと、前橋高校へ進学した人数が一番多かったのがこの学年で、以後も以前もその記録は破られたことはない。しかも、その卒業生の中に数々の名前を知られた人物が散見するのも注目するところである。
そんな迫力のある人達の中で「勉強が嫌いなんだよう!」で済むものなのか。
そんな風な時代においては、能力があるのに「頑張らない」というのは親に対する親不孝であるし、結果として大きな禍根を残す気がするとは当時思ったものだが、自分の頭の蝿を追うのが関の山だった。
その後Yは小生の視界から消えてしまった。
そして、なぜそうなったのか今親になって良く分かるような気がするし、実の子どもも似たような感じがある。
女房殿は子育ての失敗と言い切ってしまって、あとは自己責任で大失敗すればと開き直ってしまったが、それは時代の違いである。

実際Yは「勉強が嫌いなんだよう!」で、創立4年目くらいの私立校に進学してその後どうなったのかは、その同期生の幼なじみが鬼籍に入ってしまったので良く分からない。
少なくとも、その後のYは親の後を継いで高額所得者・納税者の常連として新聞に載っていた。
そして、あるときは日本に3つしかない業種の大会社の社長として新聞に載っていた。
近年は、何回目かの独禁法違反で摘発されたという話が新聞に載った。

このYは、20歳の頃の同窓会にもその後何回か開催した同窓会にも一回も出で来なかった。
実は、同じように出で来なかった人物は幼稚園から知っていた幼なじみの女性であったが、人生の悪戯というのは、神様が人を試すように常に奇妙なところに人々を置く。

syuun の不思議な少年時代 その28 Episode 2

2011-07-03 21:28:49 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その28 Episode 2
その1 同窓会に出てこない人たち
Episode 1の続きはそのうち書き進めるとして、2に入る。

小学校の同窓会に出で来ない人たちは、「卒業アルバムと共に保存する一区切りのフォトブック」で多少触れている。その続きと言うのが中学校の同窓会に出で来ない人たちである。
中学の卒業が15歳と言うことであるから、いわゆるアイデンティティの確立以降のことで、小学校の場合とはより深刻な要素が漂う様な気がする。
小生などの時代は、ベビーブーマーの直下に位置してその煽りを食って大変だった時代である。今の菅総理などのベビーブーマー以前の人たちには、小生の兄などもいて弟としては常に兄を目標として何とか兄を超えたいと思うものが常であった。
その兄に対して、その組織力とカリスマ性には遠く及ばず、学業に対しても最終的には及ばなかった。兄は年齢において19歳で止まってしまったから、追い越したのは単に年齢だけでしかない。
しかし、勉強は兄の二倍はやったと言う自負はあっても時代の違いと言うのはいかんともし難い。
そんな将来的に不安を持ったまま中学2年になってクラス編成がなされた。
中学1年の時の成績は、クラス順位からして何とか前橋高校にすれすれと言ったところだったが、既にクラス格差というものが顕在した。
隣のクラスのCは、「俺、810点を超しているのに4番なんだぜ。」と愚痴る有様であった。810点というのは当時9科目だったから平均点90点以上と言うことである。
学年全部で550人程度の在籍だったが、平均点90点以上なら間違いなく学年で10番以内である。
そんなところで、小生も2年の最初の中間試験で驚くほどクラス順位が上がった。
それは一年の時、同じクラスのKも同じで、Kとは中学卒業まで順位争いをすることになる。
そんな中学二年の2学期に座席替えがあった。この座席替えである人物と隣り合わせになった。
その後こういう座席替えも中学3年では一つ一つ別の今の形式の新しい机になったから、こういう並んで座ると言うことは無くなった。
その人物のYは、一年の時も同じクラスだったかどうかは良く分からない。しかし、小学校の成績でクラス委員を選んだときに選ばれたことがあるのか、又は担任の教師が何か言っていたのか少々曰わく因縁のある人物だった。
何と言っても顔は役者面だし、何時も身綺麗でなにか高そうなものを持っていた。
その上、何やらピアノも弾けるらしい。
それから見れば小生など、楽器としてはギターやウクレレを持っていたものの正式に習うことはなく、絵を多少習っていたのに拘わらず図工で絵を描いて応募しても参加賞だけ。
流行っていた算盤塾のソロバンは、なぜソロバンが出来る様になるのか不思議に思うだけで全く身につかず。
そんなわけで、小中学では書道の書き初め大会でクラスで金賞を取ったくらいで何か成果を残したという記憶はない。
そういうことから言えば、Yというのは何やら数々の勲章を持っていたらしい。

父の日と聞かれて~ほとんど記憶にない現実

2011-06-12 00:45:58 | syuun の不思議な少年時代
父の日と聞かれて~ほとんど記憶にない現実

2011/06/11久々イオンに行って来た。
本当はデパートと書きたいところだが大手デパートは既に撤退か閉鎖され、俗に言うスーパーも食品スーパーしかなくなったと言うのが地方の空洞化である。
だから、イオンは隣町のイオンモールである。
実はこのイオンモールというのが田んぼや畑の中に忽然と出来たものだから、かえって他市からの方が近いという妙な位置にある。
ここでモールではなくイオンの方は、「父の日商戦」でラッピングコーナーなどが作られていた。

考えてみれば「母の日」というのは、大昔、どういうわけか赤い薔薇の紙で出来た造化の飾りをつけることが習慣だった。その薔薇の造花には「お母さんありがとう」という白い札がついていた。そして、学校からみんな赤い薔薇の花をもらってきて家に飾った。
「お母さんありがとう」と言うことなのだが、単に一輪挿しであった。
そして、お母さんがいない子どもは、白い薔薇の花をつけ、白い薔薇の花を飾ることらしかったが、そんな薔薇の花などは無かった。
そして、あるときから突然赤い薔薇の花がピンクに変わったあと、そんな習慣はなくなってしまった。
そんな頃に「父の日」が出来た様な気がするのだが、昔の家の習慣は盆と正月、彼岸。そして時としてのお月見しか行事はなかった。
そして、子どもの父親となり同じように家での行事は、「盆と正月、彼岸」しかない。それどころか正月もお屠蘇を飲むわけでもなく、おせち料理の重箱があるわけでもなく、お皿にスーパーから少量買って来たおせちの中身が元旦だけ並ぶ。
そしてお餅が入ったお雑煮も朝の一回だけ、盆、彼岸にも近くに花屋がなくなって仏壇に花を飾る事も無く、線香の煙は部屋の籠って空気が悪くなるからと炊かない。
年を経るごとに年中行事は簡略化して、古くからの伝統も何もあったものでは無い。
本来ならば、子どもの教育として自分の家に伝わる慣習ぐらいは教えておくべきものなのだが、精々父親がやっていたと言うことぐらい示すくらいしかない。

実を言うと、自分の父親もいい加減なもので6月中旬のお寺で行う施餓鬼。
終わってしまった後にお寺に行って付加金を払って、卒塔婆をもらいお墓に建てていた。それどころか、正月の元旦にお寺に行って説教を聞き御札をもらってくることさえ当日にはいっていなかった。
これは、自分の代になってから一回だけ子どもを連れて行ったことがある。二回目がないのは、二度と行きたがらなかったからである。
一方、父母に対して「父の日」「母の日」に何をしたのかと言えば、今まで何もしたことはない。

その昔、まだインターネットもEメールさえ影も形もなかった時代。
種々の記念日に「電報を打つ心得」の本を買ったことがある。
そして、それは面白いと友人の結婚1周年を記念して電報を打ってみたら、「なにだこれは?」電話がかがってきた。
昔だから長距離電話の方が高かったかもしれないが、そういう電報というのも今のE-メールなら何の支障はなかったというものだろう。
しかし、今の50歳代の父母でパソコンを自由に使っているという人にはあまりで会わない。
それで遠くにいる母親の誕生日に「フラワーギフト」というものを送ったという知り合いがいた。
これが不思議と結構迷惑がられたというのは、ものが大きかったからなのか無駄遣いは止せと思ったからなのかは良く分からない。


レカン(L`ecrin)とはフランス語で『宝石箱』。
クラシカルな赤い薔薇を使用したフレームアレンジです。


そんなことなら、最近は小さな造花のような生花がある。
うちの女房は友人から、「お世話になりました」と誕生日にこの小さな生花をもらった。
その後、家の中にからその小さな生花消えてしまったのは、例の東日本大震災のおり棚から落ちて粉々になったということだった。



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梅雨突入とジューンブライドと電報

2011-06-01 10:52:20 | syuun の不思議な少年時代
梅雨突入とジューンブライドと電報

もうすぐ今年も6月になる。余りに多くの行事があった5月は何か長かった気がしないでもないが6月ともなれば夏はもうすぐである。
6月というのは梅雨という言葉と切り離せないことが多い。
学生時代6月1日というのは大学の開学祭で、教養部時代は模擬店などにも関わった事があった。しかし、それ以外は雨という印象しか残っていない。
その後空梅雨という時期も何度もあって、6月が5月より良い日が続いたりした事もあった。その空梅雨を狙っておよそ10年前はTDLへ行ったこともあったものの、行った日からしっかり梅雨入りだった。
その梅雨の6月にジューンブライドJunebrideなどと、およそ20年以上も前から言われ出した。そもそもは、梅雨のない欧州の「結婚の解禁」習慣であったらしく日本には関係がない。
この辺のところは、あのバレンタインデーと似たようなものであるし、それを真似たのかも知れない。
いずれにせよ梅雨の時期には結婚式が少ないからであり、当初結婚式場は6月の時期に何かサービスがついたような記憶がある。しかし、今そんなサービスがあるかどうかは知らない。
少なくとも梅雨の時期には結婚式場の日時設定が取りやすいと言うことだけは間違いない。
実は小生も旧暦で言えば6月に結婚式をした。正確には7月4日だったろうか。
今年の梅雨入りは、記録的な早さで5月の下旬から関東地方は梅雨入りなのだが、開けるのは例年は7月中旬。
そうであったから7月4日と言うのは当時では、梅雨の真っ最中であったはずだった。
ところがどういう巡り合わせかその4日が朝から晴天で梅雨明けとなった。
こんなに早く梅雨明けしたという経験は未だにこの時ぐらいなものである。
結婚というのは、全く赤の他人との性格のすりあわせなのだが、多少個性の強い人同士方が何となく上手く行く事がある。
但し、常にこなして行かなければならない難題に直面して、初めて連帯感と役割分担が生じるし、角が取れてくる。
特に女性の方が性格的に「尖っていて」鎧を着ていることがある。
それは、仕事のキャリアを持てば持つほど常にそんなものなので、その鎧を互いに如何に脱がせるのかと言うのが結婚後の半年、1年の間の戦いというものである。
それで互いに意地を張って危険水域まで来るようなことも多多あったものの、種々の状況や刻々と代わる環境の変化はそんな悠長なことは許さなかった。
子どもを持って初めて父親にも母親にもなるし、多少なりとも残していた子どもという部分を払拭する。そして、今思うことは自分の父母の感覚はどうだったのかと言うことである。子どもから見て、父母を批判することは容易(たやす)い。
しかし、その年齢になってどこまで何が出来るのかと思えば「それなりに良くやった」と父母を評価出来る気になっている。
結婚した夫婦の成長というのは、厭がおうにも子どもを育てると言うことに負う。
子どもに対して、どうしてこんなことが分からないのかと昔の子ども時代に感じでいたことが今の子どもには通用しない。
親と子どもの世代ギャップというのは、子どもとの延々と続く反抗に悩ませるものである。
そこで考えると女性は結婚するしない、子どもを持つ持たないで何の変化もない、子どもを持たなくても子どものことは分かると主張する女史がマスコミに登場する。
しかし、子どもを育ててみて真に分かることが多いし、夫婦間は上手く行かなければ別れてしまえば良いが、子どもとの関係は切れることはない。
そして、子どもは親の言う事を聞かないものであるし、親に反抗しないと言うことは無い。
結局、そういう経緯を通して結婚当初は箸の上げ下ろしのまで厳しかった女房殿も種々の問題を許容する女性に変化して行くように感じる。
事実若い頃は才能その他全て誰にも劣ることは何と思われた完璧な女房殿も、子どもを持ってはじめて許容範囲の広い女性となった様な気がする。


多少昔にもう一度感慨をめぐらせると同じ7月で、梅雨の明けない頃に大学時代の友人の結婚式に招待されたことがあった。
今まで友人の結婚式の招待を欠席した2件のうちの一つになってしまった件だが、今でも何か心に残る事がある。
丁度他の予定が入っていたしかたないものではあったものの、複雑な感じがある。
その時は、申し訳なかったのでまずはお祝い金を入れた手紙を書いた後、欠席の通知を出した。
何とも後味の悪いと言うのはこういう欠席通知である。後から何か引き物が届いた気がするのだが何だったのか覚えていない。
多分、あの頃流行った大きな「ほうろうナベ」だったかも知れない。
大きい、重いというのが流行った頃で、その前の結婚式にもそんなものだったことがある。その後そんなナベなどをもらった記憶がなく、その後はコーヒーカップばかりだったような気がする。
そんなものなら多少豪華な電報の方が良かったと今となれは思う。

しかし、昔は大した電報というものは無かったし、電報と言えば合格電報ぐらい。
電話がなかった時代には、電報というのには訃報ばかりで良い事はあり得なかった。
今のように多少何か心が伝わりやすい電報なら、「引き物」なしで簡単に済んだ気がしないでもない。
ネット電報VeryCard




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syuun の不思議な少年時代 その27 Episode 1 その7

2010-04-23 13:18:08 | syuun の不思議な少年時代
syuun の不思議な少年時代 その27 Episode 1
その7

【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代2】

窓口で料金を払い、その横の狭い入り口から園内に入ると、ふじ棚があって先のりんご園は閑散としていた。
昨日の秋晴れとはうって変わっての曇りの一日。
だから見回しても、そのりんご園には、まだ園児父母は2~3組しか到着していなかった。
後ろを振り返ると一緒のバスに乗ってきたような園児もいた。
しかし、ほとんど知らない人達ばかりだった。
少し経つとS幼稚園の先生が、人数確認のために顔を見せ、怪訝(けげん)な顔をしていたが、K園長は都合で来ていなかったようだ。
そんなことを無視して、その先のりんご園の園内を廻っているうちに雨が降ってきた。
だから再び、入り口付近の軒の下に待避する羽目になった。
こんな雨宿りというものはどんなときも嫌である。
そして、S幼稚園の人達とはあまり会わないようにしていたのに、入り口付近に集まっていたのではどうしても目が合う感じがある。
しかし、母はこういう雰囲気には慣れているようで、「もう少し待ちましょう」という。
そうこうしているうちに、幾人かの園児が新しく入ってきたのと同じく、幾人かのS幼稚園の先生の姿も見える頃には昼近くになってしまった。
無駄な時間を過ごしても仕方がなかったから、お昼にしましょうという声が掛かったのにつれて、ふじ棚の下でお弁当を広げる園児家族が出てきた。
Syuunもふじ棚の下で何か昼食にしているうちに雨も上がってきていた。
知らない人達ばかりの中、こんな時というのは何となく子供ながらも場が悪い気がしてならない。
~~とはいうものの、幼稚園のグループとして来たわけではないし、勝手にりんご園に自己負担で来たのだから関係ないと言えば関係ないのである。
昼食後になって、雨が少し上がり他の園児と離れてリンゴ狩りを再開したというものの、リンゴ狩りには少し早かった。
それでリンゴが大きくなっているところを探すか、咲いている草花を探す様な感じになった。
午後のどのくらい時間が経ったのだろうか、ある可愛い女の子の園児とその父母と、なぜか一緒にいろいろと園を廻るようになった。
母、「午前中にはいなかったですね?」
女の子の父親、「少し仕事があって午後から来たものですから‥‥」
その女の子の母親は、何か同意を与えるような顔をしていたが、「雨が降っていましたので、あがったから来てみました。」と言う。
Syuunは、ほとんど顔を見ていなかったから記憶では霞んだままだ。
こういう外の世界に出た時、幼児というのはいかにして自分を守るかという動物本能しか持ち合わせていないのだろう。
子供はいつも母親の顔、正確には「目」しか見ていないのである。
だから、その女の子の顔もその父母の顔も輪郭しか分からないし、認識していない。
そして、その女の子の顔も覚えていないものの、母親に甘えるふうを見せて中々母親が指さす草花を見ることをしない。
りんご園の中、もう既にどちらの親もが楯になって、危害を与えてくる筈もない。
こうなると、子供も安心して遊べるとは言うものの大して興味がないというのがこの頃だったのだろうか。
その間には、雨が強くなってふじ棚の下に待避したり、又園内に出かけていったりの繰り返しをしているうちに夕方になってきた。
‥‥と見るとS幼稚園の先生などは帰ってしまって居(お)らず、半分くらいに減った園児は徐々にみんな帰り支度である。
その園児の中の見知っていた園児に聞けば、「S幼稚園の先生」は午前中で帰ってしまったとか。
雨は、止んでいた。
しかし、今にもまた雨が降りそうなどんよりした雰囲気が強くあった。
それだから今のうちに早く帰ろう、とそそくさと園を後にした。
国道は真ん中だけ舗装してあったが、反対側は桑畑。
街の郊外と言っても実に殺風景なところだった。
今考えてみれば、そんなところはその後50年で拡大市街地の中心になっている。
そして、今は渋川まで車を走らせても昔の風景を残しているところなど皆無である。

バス停は今朝来た国道の南に下がった桑畑の前。
国道とは言え、狭い道だから向かってくる「今で言う」ボンネットバスは多少進路を変えて向かってくる。
それで車の途切れるのを待って道を渡りバス停に行こうと‥‥南の方向を見ると、何やら茶の幌をかぶったジープが国道にはみ出して止まっていた。
朝にはそんな車はなかったはずだ。
後からりんご園を出た先ほどの女の子の(若い)父親(H氏としておく)が
「どちらへ帰えられるのですか」という。
母は、「○○町です」
父親(H氏)「○○町はどこですか?」
母「○○番地、○○の隣の‥‥」と言うと。
父親(H氏)は、「うちは○○番地だから、帰り道なので良かったら送って行きますよ」という。
丁度、雨が降り始めて来た‥それで‥‥
母は、一瞬躊躇したものの「それではお願いします‥」と‥‥
父親(H氏)は、運転席に座り込んでから、助手席の扉を開けて女の子とその母親が後ろの席に乗り、その後から傘をたたんで助手席に母と乗った。
既に、雨は本降りになり始めていて危ないところだった。
ここでも狭くて少し居心地が悪い感じがしたが、綿布が貼ってある扉を閉めてジープは走り始めた。
ジープは走り出したものの、綿布の縫い目から雨が少し落ちてくる。
妙な車だと思ったものだ。
結局このリンゴ狩りは雨の一日になった。そして、家に着く頃には本降りの雨になった。
この雨音の激しさを聞いて、子供ながら車で良かったと思ったものだ。
しかし、幌だから多少雨漏りがするのは当たり前だが、子供には奇異に思えたものである。

車に乗り込んで直ぐ後ろの座席を見ると‥‥
何やら「異物」でも見るような目をした小さな女の子と、にこにこした顔をした、驚くほどの若くそして、輝くような美女の母親(H)の顔があった。
母は、何やら相当若いと思ったのかも知れない様子で、
「お幾つなんですか?」と聞く。
その若い母親は、子供の年齢を聞かれたのかと思って「5歳」とか言う。
それに対して、母は苦笑して言う。
「私は、○○年生まれなんですけど‥‥‥」
その若い美女の母親(H)は、ようやく理解したようで‥
「私は、○○年生まれなんですよ。良く凄く若く見られまして‥ね‥」
「○○さんは、私より少し上が同じくらいかと思っていました‥‥」
母は、「そうすると、25~26歳くらいと言う訳ね‥‥、充分お若いですよ~~。」
母親(H)「ええ、子供がいるなんて見られませんし‥‥二十歳頃の子供ですからね‥‥」

綿布の屋根から少し雨が滴り落ちるくらい雨音が激しくなった頃、真っ暗になった街路の一画で止まった。
家に帰ってきたのである。
母、「今日は、どうもありがとうございました。」
母(H)、「また、幼稚園では宜しくお願いします。今まであまり通園していないのですけれどね!」
家の門の前で、後ろを振り向くと車は、直ぐ先の交差点を左に曲がって消えていった。
Syuun「どこへ行ったの?」
母「そこを曲がった直ぐそこ!」
Syuun「ふ~ん」といっても良く分からないのが実情だった。

しかし、この小さな女の子の幼稚園児は、やはりS幼稚園では見かけたことがなかった。
だから多分あまり通園していなかったのは間違いなかったかもしれない。

それにしても、古い記憶というものは「リンゴ狩り」とノートの真っ白な表紙に書くと、いつの間にか真っ黒に白いページが埋まってゆく。
そんなことは一切忘れていたのに、今では本当に昨日のことのように思い出すというのは不思議なものなのである。
人の記憶というものは、一瞬忘れたとは言うものの決して忘れていないと言うことを改めて思うものだった。

このH氏の家族とは、年長になった翌年春から夏にかけて行き来するようになり結構往来もした。
そして、どういう運命の悪戯か、もう一人の因縁のあるYと共に、このH家族の一人娘のH・Eとは中学2~3年で同じクラスになり、そして同じクラス委員にもなり、受験勉強でも競うことになる。
但し、縁はそこまで‥‥

幼い頃に、その女の子の本質というものを掴んでしまうと、どんなに美女に成長しても不思議と恋愛感情など湧かないものである。
そして、そのH・Eは当然成人してその母親と変わらないほどの美女に成長したが、今は10年に一度同窓会で会うか会わないかの関係にしか過ぎない。

それにして、H・Eの若い頃の母親は、フランス人形のように綺麗で驚くほどの美女だった。但し、それに気がついたのは、6歳になった春の頃である。
だから、そのとき覚えていたのは、一瞬の顔とおぼろげな輪郭だけである。

小学校の卒業式の時のモノクロ写真がある。
それには、その時のPTA役員の写真も入っていた。
その写真に写っている母親たちは、ほとんど和服であるのに、学年副代表のSyuunの母と、このH夫人ともう一人だけがスーツだった。