書道家Syuunの忘れ物

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歴史の真実への欺瞞・宮沢氏の嘘つき

2007-06-30 15:35:07 | 読み解けば‥‥
日本の戦後の「嘘」というのは、主客が逆転して当時の為政者が国民に説明していることだ。
ではなぜ逆転しているかと言えば、それは当然ながら真実を隠そうとしていることにつきる。
その最大なのは、日本国憲法GHQによって作られたのではなく、日本政府によって作られた自主憲法であるという欺瞞だ。
この嘘は、既に破られた。60年安保で退陣した岸首相は、早期憲法改正を意図していたので知られる。
しかし、歴史の嘘を破ろうとして退陣せざるおえなかった。
だから、なんと吉田茂に屈服して助けを請うている。

その他の嘘は、講和条約に絡んだものだった。
6/30産経抄では、宮沢氏がドッジ国務省顧問(後の国務大臣)との経緯を説明して、いかにも吉田首相が講和条約に意欲的だったかを説明しているようだ。しかし、経緯が逆なのは、宮沢氏が日本国憲法を守ることを常とし、憲法条文を常に携帯していたということが明らかではないか。
さて、朝鮮戦争前夜の1950年初頭までには、ジョン・フォスター・ダレス(後の国務長官)がはMacArthur・GHQ司令官に対して、日本を早く独立させる様に進言するも拒否される。
1950年4月に渡米したのは、実は講和条約に対して米国から呼びつけられたのである。
面白いのは、呼びつけられたのは→→自ら行く事になっている。
そして、呼びつけられた重要なテーマは、早期講和だ。ジョセフ・ドッジ国務省顧問に会うなどと言うのは所詮偽装だ。
この講和条約について早期締結拒否の姿勢は、マッカーサーだったが、当時の政治情勢として1948年まで次期大統領候補とも噂されていたマッカーサーには事実上だれも逆らえなかった。
そして、実はMacArthurの意向を受けて、池田訪米団は早期講和条約締結を拒否するのである。
宮沢氏の「講和条約はこれによって結ばれることになる」というのは、実態ではなく予想だ。

現実は、1950/6/25に朝鮮戦争が勃発する。
これで状況は大きく変わる。
それでも、吉田首相が講和条約締結を渋ったのは、講和条約の締結の模様を米国側資料からみれば明らかなことだった。

宮沢氏というのは、あくまでも黒を白、白を黒と言い張った人物だ。
本来、歴史の真実は政治的な思惑でなく、客観的に歴史として残しておくというのが良心的な政治家の姿勢だろう。

syuun の不思議な少年時代 その4

2007-06-30 15:34:04 | 世の中妙な??事ばかり

桃井小学校は、明治5年創立され、平成19年度で創立135周年だ。
現在の場所に元々有ったのではなかったと思うが、昔も今も象徴として「一本松」という樹齢数百年の松が校庭の中心に立っていた。
今は、校庭の隅になってしまったが、小生が入学した時も卒業した時も校庭の真ん中だった。
当時の全敷地は、4000坪(?)以上ぐらいあったのではないかと思う。
もともと前橋市は城下町だ。
交通の便としては、新潟へ抜ける押さえの位置にある。即ち、新潟から上越国境を抜けて関東平野に入った、最初の平野が前橋市だ。
だから重要拠点として、江戸初期は
大老酒井雅楽頭(うたのかみ)の居城として知られた。
しかし、暴れ川として有名だった利根川によって、再三城が流され難渋した。
そこで、姫路城主が代替わりになったところで、改易として姫路城主が前橋・厩橋城の城主となる。
松平氏入封当時も、利根川の氾濫は収まらず、明和五年(1768)、松平氏は幕府の許可を得て武蔵川越に移転し一旦城は廃城となった。
その後、前橋には川越の支藩として陣屋が置かれる程度ではあったが、その後藩士・士族と言う住民の位置関係から、多少の武士の留守居役がいたようである。
幕末近くの文久三(1863)年に前橋城は再興され、明治維新共に、松平氏が入封したが廃藩置県により廃城となった。

そして、その明治維新と共に、殿様に着いてきたのが小生の5代前の先祖だ。

前橋というのは、元々生糸の産地だったから、その産業の関係と松平氏の留守部隊が昔からの住民だ。
そして、この従来からの住民と、新たに明治維新に川越から来た人々が、前橋の旧家をなす。
この人々は、元々の新田義貞に由来する源氏系統という人が多い。
一方前橋の地で、戦後事業に成功した人々と言うのが、新潟の県境の元新潟県人だ。
よく見れば、彼らは皆大男、大女で源氏ではないのが一目瞭然だ。
もっとも、群馬の山間部というのは、普通大男、大女ばかりである。

桃井小学校は、厩橋城の城内にある。元は、老職(家老)の邸宅跡であったというのは、その木々を見れば明らかだった。
小生が観察するところによると、屋敷跡というのが散見され、上士と言われる「侍」階級は、城内にあり大方200坪(残るのは凡そ4家)、老職は1000坪から1500坪(凡そ4家)というのがそうだと思う。‥‥そのうちの2つが小学校の敷地。
場所は、今の県庁の南から東に位置する。
なぜなら、西、北は元々の利根川だからだ。
城外には、150坪くらいの足軽頭屋敷(凡そ2家)がある。

実は、小生の実家はもともと1000坪の家に住んでいた。
しかし、小生が生まれた時は、屋敷の真ん中に道が出来(城下町の宿命)、戦後に科せられた「財産税」の影響で貧乏?していた。
それでも、屋敷は長屋、借家を周囲に配置して、600坪もあった。

幼稚園時代、小学校の低学年時代の小生を救ったのは、実は長屋と借家に囲まれた一角にあった「西わき」と呼ばれた空地の遊び場だった。
友達が出来なかった、少年時代。そこに住む5-6人の子供達と毎日、遊ぶと言うことを日課にしていたのである。
だから、学校での友達など必要なかったのだ。
それは今で言う、「ガキ大将だ」。

そして、ここでの子供生活は、一生のうちで色々な貴重な体験を与えた。
いわゆる子供としての遊びは、全てここで覚えたのである。
実を言えば、小生には7つ離れた兄がいた。
小学校に上がれば、兄は中学生。
けっして一緒にはなることもなく、又遊んだこともない。子供としての遊びを教えられたこともない。
しかし、「知っているか」と聞けば、何でも出来た兄だったのは、不思議な存在だった。
はっきり言って、優等生を絵に描いた様な人物だった。

小学校3年の時は、兄は高校受験に当たるが、一中で「電気部」というクラブの部長になり、部員50-60名を擁した。
一種のカリスマ的人物だった。

以下続く‥‥‥


syuun の不思議な少年時代 その3

2007-06-29 19:16:08 | 世の中妙な??事ばかり

全県一区の特別学級である「養護学級」
これは、当時実験的に設けられたプログラムだった。
だから、全国的にも注目され視察者が絶えなかったのは、良く突然背広の男性が2-3人教室に現れたものでも明らかだった。
確か、新聞に載った。
一年時は、毎月の体重、身長などの測定が行われ、虚弱児がどれだけ成長したかを調査したらしい。
そして、一年生の夏休みの補習は、病気やぜんそくなどの発作で学校へ来られない児童のためのものだった‥‥と言うことは、何やらT先生が言っていたことだ。
だから、最初の予定は二週間の夏期授業だった。
ところが実際始めて見ると、4-5日で夏休みの学習帳は終わり、何もすることはなくなってしまった。
それで、教育委員会と相談してしたのか、10日ぐらいで終了とした。

何か得るところがあったか?小学校の一年生にすることなどあるのか‥‥と言うのが当時の認識だ。
それにしても、父兄(保護者)の負担は大きかった。
なぜなら、毎日の昼食のおかずと、おやつ、プールに入った後の風呂などみんな母親が当番でやった。
担任のT先生とは、林芙美子にメガネを掛けさせたような、典型的な教師像だった。
今から思えば、色々な教師の資格を持っていたと理解出来るが、当時は小生として比較する対象がなかった。
当然のこと、クラス替えもないから3年間T先生だった。

1年生の秋口になると、さすが「おやつ」はなくなったが、健康診断の頻度は多少減って、肝油とカルシュウム錠剤(健康食品)には飽きてきた。
冬は、教室が特に暖かい場所にあるのど、立派な石炭ストープが完備していた。
インフルエンザの学級閉鎖‥‥‥このクラスはほとんど学級閉鎖にはならなかった。元々体の弱い子という設定だから、全員が学校に来るなどと言うことは何日もなかった。
必ず誰かが休んでいる。出席者が10人を割った時、さすが学級閉鎖をしたが、半日だ。
一年の時、あまり学校に来なかった代表はM嬢だった。病状は小児ぜんそく。
毎日のように父親が自転車の後ろに乗せてきて、学校がみえたところで下ろす。しかし、泣いて嫌がって、再び自転車の後ろに乗って帰って行ったと言うのを何回も見た。
彼女の家は、市のかなりの外れだ。いまでもそこまで行くのに車で20分はかかる。
電車(上毛電鉄)を乗り継いできたのか、そのまま自転車で来たのか不明だが大変なことだった。
但し、2年生になると休むことはなくなった。
彼女とは、6月の一中の同窓会で会った。
顔は、小学校から実はあまり変わらないが、15年前、偶然、他の組の同窓会で会ったときは分からなかった。
実は分からなかったと言うのではなくて、びっくりしたのが真実だった。
それは、あまりに美人の女性になっていたからだ。
15年前も、今も全く変わらない彼女は「美女」の名を欲しいままにしている人物だった。
子供の時は、大人びた雰囲気で可愛くなかったけど‥‥

女性と言えば、県庁の役人の娘だった「しずかちゃん」ことMM。
ちびまる子ちゃんの鼻を低くしたような娘だったが、中学卒業後会ったことはない。
会っても分からないと思うが。

彼女は、「できすぎ君」こと、Y君と成績を競っていた。
少なくとも、3年の夏休みまでは。
3年の後半は、成績の優劣がだんだんつかなくなってきた頃だからだ。

成績の優劣は、今小学校ではあまり分からない。
成績表も絶対評価だから大体「よい」とかばかりだ。
しかし、このクラスは以前述べたように、毎回試験をした。

今から思えば、やはり研究材料だったようだ。要するに成績の状況は逐一報告されていたようだったからだ。

2年にでもなると、夏期講習の期間は少なくなった。午後は相変わらず工作などの自由時間。
今で言う、ゆとり教育の創造時間だ。
知識のない子供に創造もないだろう。なんと言っても、TVが普及するのは皇太子(現天皇)と美智子様の御成婚か、東京オリンピックの頃だ。
うちは、当然の経済状況から、1964年‥昭和39年のオリンビックを前にするまでTVが無かった。

その上、ラジオ放送はNHKしか聞こえず、それも夜9時には終わった。
9時から始まる放送と言えば、なんと「戦争の悲惨さ」を訴える何ともみょうちくりんな放送だった。

父は、そんなものなど聞くなと言ったが、いっぺんだけ聞かせて貰って、二度と聞かなかった。

小生は、今で言う「
偽装虚弱体質」だったが、2年の夏期講習の昼食事時、多少ふざけて頭を下げていたら、突然気を失ってしまった。
気がついたのは、もう夕方だった。
昼寝用の布団も用意してあったから、そこに寝かされていた。
聞けば、39度の熱を出して引きつけていたという。
いつもの町医者の先生が往診して、ベニシリンの注射を打ったら夕方には熱が下がりそして目が覚めた。
今だったら、危なくてペニシリンも打てないが、当時は流行だった。
だいいち、ペニシリンのアナフィラキシー・ショックや「ペニシリン・ショック」などあまり知られていない頃の話だ。

本来貧血だったのにぁ~~~と思うが、これで「虚弱体質」であることの証明になった。
その証拠に、その後そんなことは一回もない。

3年になると、健康診断も少なくなり、健康食品(肝油)の料も減った。
要するに、肝油やCaはあまり効果がなかった様な感じだった。
夏休みの夏期講習も益々少なくなりなんと土日を含めた4日で終わった。
運動会は、「ちび」だったから走れなかったし、なんとはなしの3年。
何やら「保健学級」のプログラムも終わる予兆も感じでいた小学3年生だった。

以下 つづく


学歴バカ・サンフランシスコ講和会議の闇は明らかになるか

2007-06-29 09:45:45 | 日記

サンフランシスコ講和会議全権随員の最後の一人が、あの世に旅立ってしまった。
宮沢氏は、サンフランシスコ講和会議の全容を日本側から証言すべきものを持っていたはずだ。
その他の随員として参加した白洲次郎も退官した後、持っていた書類を全て処分したと言うからこの人々の感覚はよく判らない。
普通、総理大臣などをやった人物は、歴史の証拠として必ず日記を書き、将来公開することによって歴史の闇を明らかにしてきた。
実を言えば、宮沢氏には生前それを発表して欲しかった。
しかし、真実を言うと言うことは、欺瞞の歴史を暴くことになり、宮沢氏のような官僚政治家には出来るはずもない。

現在、米国資料から読み取れるサンフランシスコ講和会議というものは、従来吉田茂元総理周辺から聞こえてくる事柄とは大きく違う。
もともと吉田茂という人物は、嘘も方便という外交官出身だ。
だから、やっていることは判りきっていたし、時が来れば元に戻す腹だったことは、後の言動から明らかだ。
ところが、吉田学校の生徒たる宮沢喜一氏らは、官僚だからそんな芸当や裏は判らない。
いきおい「嘘」を継続してきてしまった。
そして、その嘘を見破られる弱点を持ったために、色々とつけいられる事になる。
結果、事なかれ主義の妥協だった。
「事なかれ主義」とは、官僚の常套手段だ。
この事なかれ主義を使えば、国民には被害が及ぶかも知れないが、やっている官僚には傷がつかない。

そして、官僚としてのその役目が終われば、「一切知りません」「記憶にありません」「関与していません」だ。
その官僚政治家の最たるものが、新聞記者に学歴を聞くことだった。
東大出と聞くと、学部とか何期とか、教授の話とか、この手の東大病(自慢は東大出と言うだけ)人物の典型だった。
他の大学名を言えば、「そうざんすか」で終わりだ。

宮沢喜一氏は、官僚政治家としても実はとんでもない人物だ。
竹下元総理が、特攻隊の訓練中に終戦になったの比べ、宮沢喜一氏は裏から手を回した。
だから、召集令状をもらっても3日で除隊だ。
理由は、国政に欠くべからざる人物‥‥‥。

自ら戦争を忌避した人物が、総理大臣になるなど諸外国では考えられない事だ。
現に、米国大統領戦では、ベトナム戦争を忌避するために州兵に志願したために批判された人物がいた。

戦後政治を見ると、この様な政治家として不適な人物を総理大臣として選んだのは不幸だった。
確か選んだのは、小沢一郎幹事長だったが。
総理大臣は、大きな船の船長のようなものだとは、宮沢氏の言。
いくら官僚による自動操縦だと言っても、行き先を決めないで乗り出したら座礁する。
妙なマイナスイメージばかりの人物だった。


くにまるワイド‥‥野村邦丸しらばっくれる歴史認識

2007-06-29 09:43:25 | 世の中妙な??事ばかり

関東の放送局・毎日新聞系の日本放送。
今日(28日木曜日)の「今日のごぜんさま~」のゲストは、名古屋弁の民主党の国会議員河村 
<wbr>たかし氏だった。
話題は、例の「米下院外交委員会が慰安婦問題」だった。
河村氏は、まあ一般論だったが、この 
<wbr>野村邦丸氏は何を思ったか、日本の慰安婦問題、南京大虐殺問題は何も事実を知らないという。
政府は、今、日韓歴史教科書で学者が集まっているから、幾らお金をかけても真相を調査すべきだという。
おやと思ったのは、野村邦丸氏は既にある事実を否定して、日本政府か政治決着として‥‥新たな「判断をすべし」と言っているのではないだろうかと聞いた。
歴史問題を単なる「事なかれ主義で」政治決着しようとした河野談話が、「米下院外交委員会が慰安婦問題」の元になっている筈。
社民党党首の福島瑞穂氏をメインコメンティターに起用しようと言うところだから、文化放送の政治的スタンスは明らかだ。

普通、この様な報道機関というものは、新聞雑誌というものは一応目を通すはず。
そうすれば、週刊新潮の‥‥
「朝日」が黙殺するしかなかった「南京虐殺」否定会見‥‥という見出しは新聞広告でも分かるはずだ。

実は、この会見というのは、「南京虐殺」に関する全ての新聞報道、雑誌、文献、中華民国の報告文書、その他の資料から分析したものだ。
このうちの多くの新聞資料が朝日新聞だったという。
結論は、当然、「南京虐殺」はなし。

要するに、この週刊新潮の記事なども承知の上、民間の調査では、政治決着が出来ないので政府が再度調査せよと言ったことになる。
午後の番組の大竹まこともひどいが、TBSに負けず劣らす、左傾化が益してきた文化放送である。

それにしても、宮沢喜一氏を朝日新聞、毎日新聞が絶賛していたのには驚いた。
朝日新聞は、特に護憲派と強調することを忘れになっかったのは、日本を害した人物の象徴であることを証明している。


syuun の不思議な少年時代 その2

2007-06-28 13:06:50 | 世の中妙な??事ばかり

桃井小学校の1年生。
但し、正式には全県一区の特別学級である「養護学級」の児童になった。
後から聞いたが、元々もう少し早く始める予定が、直ぐ上のヘビーブーマー世代だったからやろうとも出来なかったことだったという。
そして、養護学級は、3年には「保健学級」と名称変更したが、通称・養護に変わりはなかった。
だから、学級名を言うと‥‥何だ、おまえは馬鹿か‥と間違いなく言われた。
しかし、実際の知恵遅れなどの養護施設の養護学級は、又別の西校舎にあった。

この「特別学級」は、独自に試験的試みとして2-3年前から始めたらしい。
それは3年生がいたからだが、2-3年生と大きく違ったのは補助金が出たことだ。

補助金と言っても、栄養剤の補助、特別給食費の補助、夏期学校の補助だったらしい。
ついでに言うと、時々おやつが出た。
だから、一年に入った直後に、全員裸で写真を撮られた。
何の意味があったのかよく分からないが、5年後に写真が返された。

学校というのは、ぬるま湯に浸かっている清心幼稚園時代とは大きく違った。
特に、第四保育所という保育所から来た児童はかなり荒っぽかったからだ。
その第四保育所は今では、桃井小学校の校庭の一部、西校舎の部分に移設されている。
荒っぽかったというのは、何人かでと言っても3人程度で色々と駆け引きをすることだ。

たとえば、授業参観があり、何やらお菓子の入れ物(おやつ用)を作ると言うものがあった。
作るというものは、別に問題ないが、それにどんな柄を描くかと言うのが問題だった。
その第四保育所のれん中は、なんと「月光仮面」の絵を描くという。
ところが、小生の家にはTVが無いからそんなものは知らなかった。
ただ、知らないと言うのも癪だったから、知っているふりをすると、なんと書き方まで指導するではないか。
即ち、黒地に三日月だ。
知らないものは困ったもので、黒く塗り始めていた。
気がついたのは、黒く塗り始めたのを確認して、そいつらが綺麗な「青」で塗り始めたことだ。
やられた‥‥と思いながら全面黒色で塗りきったが、後から見たらやはり乗せられて、三日月まで書いたヤツがいた。
まあ、よくよく人のことを信じて行動しないと、ろくなことがない‥‥‥妙な教訓を得たものだ。
それからは、彼らの「策謀」にはかからなくなった。なぜなら、学校の勉強がばく進していたことだ。

それでも1年のうちは、何事もなくなのだが、2年になった途端、毎日完了試験だった。
いわゆる学校用の市販のテストだ。
ところが、国語ではまだ新仮名遣いと旧仮名遣いとの混同が多少あった。
なんと言っても、教師、父兄は旧仮名遣いで学んだのである。

クラスの人数は、常に変動した。
なぜかというと、遠距離通学の児童が通うの大変と止めたり、代わりに心臓病の児童が入ってきたりだった。
しかし、大半は虚弱児童と小児ぜんそく、その他何やら分からない身体的な病気を持った児童が2-3人と言うところだった。
特に、2年からはこの学級への転学を希望する児童が急増した。
ところが、今から入るには、結構厳しい医師の診断書が必要になった。

入級希望者が急増するのは、一般クラスは50名以上の大クラスに比べ、17名に先生一人その上に優遇措置がとられたからだ。
そして、実は実際教えているのは10人そこそこだった。

小生がこのクラスに入ったのも、元々を正せば清心幼稚園からの「内申」だった。
実は、清心幼稚園には夏休み以降、病欠で届けてあったのだ。
病欠で、長期欠席は充分「虚弱体質」の児童に該当したのであろう。
ついでに言えば、その時は体格もかなり小さい方だったからだ。

この養護学級改め、保健学級は3年で終わりだった。そして、小生の小学校卒業と同時くらいに消滅したようだ。
理由は、食糧事情が改善されて、いわゆる「欠食児童」という子供がいなくなったからだ。
4年に進級する時は、必ず来る。
ぬるま湯の様な学級から、52人の大クラスへ大クラス替えが迫った。
3年の三月、不思議と何やらウマがあった「できすぎ君」そのままのY(八木)君。
最後に成績表を見せ合った。
彼は、「できすぎ君」だから、算数でも国語でも100点以外とらなかった。それでも5が二つという。
当時の相対評価では、少人数のクラスでは、5が一人、4が二人、その他がほとんど3、知恵遅れの児童が1.2を分け合った。
当然彼は、算数と国語が5その他は体育が3以外は4。
小生は、図工と社会か何かが5、その他は4、音楽かなにか3が二つあった。

彼は、隣の市の小学校に戻ったために、それから逢うことはなかった。
中学位の時、偶然声をかけられて、道で出会ったが、「元気??」で終わってしまった。
噂では、早実から早稲田に進学したとのことだった。

実は、このクラスは結構優秀だった。
「できすぎ君」のY君の他、前橋高校に進んだのは小生の他2人だった。
Gは国立大学の理学部数学科に進み数学教師になり、もう一人のAは、群大工学部。
「しずかちゃん」女の子の一人Mは、前橋女子校から群大教育学部を蹴って、東京の私大へ進んだ。

しかし、結果は良しとしながら、小学校悪夢の4年が始まるとは思いもよらなかった。

以下 つづく‥‥‥


静かに消えて欲しかったZARDの坂井泉水

2007-06-28 10:47:35 | 雑感・どうでも良いこと

ZARDのCDは確か4-5枚は持っている。
しかし、何やら最近新曲が少ないと思っていたところだった。
ZARD坂井泉水さん(享年40)は、衝撃的な亡くなり方をした。
その上、何やら隠された色々な事実は、ZARDのイメージ、坂井泉美氏のイメージを大きく損なった。
特に、本人が実像を隠していたからこそ、益々奇妙ものだった。
ファンとしては、妙な真実は隠し通して欲しかった。

突然亡くなったと言えば、テレサ・テンのCDも持っている。
テレサ・テンも突然の死、しかもその死因は謎に包まれたものだ。
 <wbr>【公式には、1995年5月8日タイ北部チェンマイに休暇で滞在中、気管支喘息の発作による呼吸困難で永眠。42歳】
参議院議員に比例代表で立候補している「
有田芳生」氏は『私の家は山の向こう~テレサ・テン十年目の真実』と言うのを書いている。
しかし、未だに本当のところは分かっていないはず。

何でも、突然の死は何やら嫌な感じを与える芸能界の闇の世界だ。


妻・女房論・夫婦とは‥‥その9

2007-06-28 10:46:15 | 世の中妙な??事ばかり

結婚して、一番頭を悩ますのは、子供のことだ。
経済的なことを別として、夫婦間の事を云々するのは、子供を作る前のことだ。
占いでは、子供が出来るというのは‥「神様」が曲がりなりにも夫婦と認めた‥と言う事だ。

そして、子供と言えば一般には教育だろう。何でうちの子は勉強しないのか、勉強が出来ないのか?
そんなところなのではないか!
普通、勉強というのは積み重ねであるから、一つ一つ抜かさずに勉強をしてゆけば、誰でもそこそこ勉強が出来るというのが当たり前のはずだ。
そして、上手く15歳位までに知識を詰め込めば、石頭でも何とか有名大学に進学できると言うのが今の世界だ。
ところが、そんなに簡単に出来るようになれば、進学塾は必要がない。
そして、進学塾に通っても過半は大したことにならない。

それは、救急医療現場でも重要視されるようになった、優先順位のつけかだ。
何を先に行動するか、何を先に勉強するかこれは、一生の使われる人生訓だ。

子供に、そんなことを言って判るかと言えば、中学以上になってからだろうか?
しかし、子供に勉強しろと言っても。駄目なときダメと言う事がある。
それは何故なのか‥‥
簡単に言えば、母親が勉強させないからだ。
子供に勉強させるというのは、実に多くの労力と努力を親に要求させる。
だから、子供に何を言われようとへこたれない精神と忍耐力が必要になる。

親にこんな忍耐力はあるのかと言えば、自身の小中学の勉強態度だ。
自身が、親に強制されて、忍耐力がつけば同じように子供に教えると言うのが常だ。
一方、本を一読すれば全て判るという大秀才は、小生にとって未知の世界だから判らない。
こういう連中は、第一教えてくれと言っても、その式はそのまま理解しろなどど訳の分からないことばかり言う。

さて、嫁さんには‥‥にするには、小中学で勉強が出来た女性と結婚すると割合都合がよいことがある。
理由は、先に述べたことだか、又出来すぎると不都合があったりする。

よく優秀な両親から、出来の悪い子(勉強で)が生まれることがある。
優秀すぎると、その子供本人の能力しか担保出来ないから、不出来と言う事もあるのだ。

昔から、子供の「頭の能力」は母親似という。
そうでないこともあるが、自分が馬鹿だと思えば女房に掛けるしかない。
自分に似て馬鹿なら、遺伝で仕方がないが、あわよくば優秀な女房に似て、その上勉強をさせれば、あのうちの子は‥‥と後ろ指指されることはない。

但し、厳しくやると今の子は、子供に殺されたりするから、程度問題ではある。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

清心幼稚園の続きは「
syuun <wbr>の不思議な少年時代」へ移動しました。


syuun の不思議な少年時代 その1

2007-06-27 09:47:50 | 世の中妙な??事ばかり
「生きている内にしたいこと」
実は、幼稚園から小学校と続く、妙な学校体験を何かで残しておきたかったことだ。
そして、そんな体験は自分の娘を見ていて二度と起こらないだろうと思う。しかし、色々な意味での幼児体験は貴重な教訓となる。

小さい頃の記憶は、大体どこまで覚えていただろうか。
普通覚えていて、3歳くらいなものだ。
小生場合は、目が開かない時からの記憶というか、感じだ事柄を未だに覚えている。
真っ暗な世界から、単に光が差しているぼやけた世界。
だんだん焦点が合ってきて、天井の壁紙の模様がはっきり分かるようになった世界。
体が少しずつ、横に動けるようになって、あっという間にはっていたころ。
一日一日が瞬く間過ぎ、祖母や叔母が「おいでおいで」をして、だれが自分の母親か試された時。
バタバタはっていた時に、突然立てることが分かって歩き始めた時。
何やら鮮烈な印象は未だに残る。

そして何やら忘れられないのは、非常に妙なことだ。

幼稚園を卒園して、桃井小学校と言うところに進学することになった。
桃井(もものい)小学校とは、群馬県で最初に出来た学校だ。だから父も卒業生だった。
しかし、祖母は付属小学校だった。

4月入学式
この記憶は、一切無い。
まず母に連れられて学校に行って、何だか分からず職員室で待っていた記憶だけだ。
それも、卒園式に着た上着が嫌だと言って、当時の小学一年生がこぞってきていた白い襟の着いた上着を買って貰った。
1回しか着ないのだから、もったいないと母言ったが、そこは何やら押し切った。
今考えてみたら、自分の娘の小学校入学式のためのブレザー。これも一回しか着なかった。

記憶をたどると、桃井小学校の入学式には、出ていない。
小生の集合時間は、午後で午前中に桃井小学校の新一年生の入学式は終わっていた。
そして、そのクラス編成が撤収されて職員室に掲示してあったわけだ。
ところが、そのクラス編成に小生の名前が載っていない。
当然先生に聞いてもチンブンカンプンなのだ。

午後の昼食時間も終わり、児童はすでに帰り、閑散としてきた職員室に小生と同じような一年生が来た。
その頃になって、担任となるT先生が職員室に現れて、A君(小生)は南校舎一階の教室に行ってくださいという。
入学した頃は、小学校は相当大きなものだった。
本校舎、東校舎、南校舎とあって、全校児童は約1500~1800人だ。
そして、職員室から東校舎へとつたい、南校舎へ。
南校舎には、南校舎用の入り口がきちんとあって、なんと案内が出ていた。

小生のクラスは、総勢17名。
午後から、クラスに集まって入学式をした。そして多分校長が出てきて挨拶したと思が不明だ。
なにやらあった、誰か挨拶をしたようだ。
T先生は言う。
今日午後からにしたのは、午前中だと沢山の児童が集まって煩いのと、遠くから始めてこられる人もいるので‥‥‥

おや区域外からもいるのか‥‥‥と思ったが、実情は分からなかった。
そして、明日からは午前中からですと言った。

このクラスは、兎に角(とにかく)異例なクラスだった。
まず、午前と昼に栄養剤が出だ。
肝油とカルシュウムだ。
そして、朝登校すると、まず歯磨き。続いて栄養剤を飲む。
これも、初めは良かったが、飽きてくるとトイレに捨てる様なことがで出来た。

次に、給食はいつも特別料理だった。特別料理と言っても、大して変わることはない。
まあ、一般のクラスで1か月に1度出るような毛色の変わったものだった。
そしてパンは必ず食パン。‥‥当時の配給でボロボロのパンだったが、後からみるとコッペパンより余程ましだった。
これも、同じく1か月に1度のもの。

給食の給食当番は、一般クラスの四年生か勤め、授業が終わった後の掃除も上級生がした。
一般クラスが一クラス52-3名のところ、優雅なものだった。

よく教育委員会のお偉い先生らしい人が、毎回のように訪ねてきていたりしていたこともあり、授業も中断することも珍しくなかった。

そして極めつけは、夏休みに夏期授業があったことだ。それも8月。

夏期授業は、夏休みの宿題をやったり、特別な教科書や問題集など珍しいものばかりだった。
だから、2年くらいになると、夏期講習に参加希望者が一般クラスから続出した。
しかし、そこで宿題をやった記憶はない。

授業は、やはり幼稚園を休んでいたのが多少影響した。国語の授業など既に教科書をすらすら読める児童の幾人もいた。
但し、そんなものは夏休みの頃には、追いつき解消した。

さて、陣容を見てみると
電車で1時間はかかる隣町から来たY
来るのに2時間は掛かると言ったT
今では市内になってしまった郡部からきていたM
その他は入れ替わりがあったからよく分からなかったが、大方前橋の市部だった。
詳しくは、定員15名。予備2で17名。
最大で18だったが、受け入れを断ることが多かったようだ。
遠くから来る児童は、一旦通学を止め又、来るようになったりして、最終的に3年まで通して在籍していたのは13名程度だった。

いか つづく‥‥‥‥

国民性を表す映画文化

2007-06-27 09:45:24 | 映画鑑賞関係

映画というものは、国民性を表す文化だ。
AOLが作った偽ドキュメンタリー映画「南京」は、多分日本では出来ない映画だろう。
なぜなら、日本には虐殺文化がないからだ。歴史をひもとけば、織田信長、豊臣秀吉時代しか歴史上確認されていない。
一方、中国は、虐殺の歴史だ。それは、秦の始皇帝よりもずっと以前の商王朝の人間狩り、処刑から始まる。
項羽・劉邦の項羽は、10万人の捕虜を穴埋めにし、ずっと下がって三国志でも虐殺はある。
国民党軍との戦いでは、八路軍の包囲によって、南京で20万人が餓死した。
毛沢東の政策でも何十万単位の人が死んだ。

米国も、実は虐殺の歴史だ。
それも、メイフラワー号東海岸に到着(1620)したときから、虐殺が始まる。
即ち、サンクスギビングディ‥‥1621年秋
清教徒達は、冬が近くなり食べ物がなくなった来たところ、近くのアメリカインディアンの助けを受けた。
ところが、夜になるとそのアメリカインディアンの寝込みを襲って、皆殺しにし食べ物とその土地を奪ったのである。
収穫祭とは、アメリカ・インディアン狩りの事だ。
それ以後、アメリカ・インディアン狩りが南北戦争後も続いたのは西部劇を見れば判る。
アラスカでは、アラスカ原住民の抹殺。
ハワイでは、王族の抹殺。
フィリッピンでは、10万人以上の虐殺。
二次大戦のドイツとの戦いでは、ドイツ軍捕虜を捕虜と認めず、食料を与えないまま、赤十字の支援を阻止してまで、野宿させ5万とも6万とも判らぬドイツ人を虐殺。
そして、日本との戦いでは、日本の捕虜は、民間人、軍属、女、子供、赤ん坊にいたるまで、空港の真ん中に集めて火炎放射器で焼き殺した。(リンドバーグ将軍の日記)

米国中国もよくよく見れば、虐殺はDNAとして持っている民族だ。
そうでなければ、南京大虐殺は20万人という数字は理解できない。
そして、映画でやっている虐殺は、中国人、米国人が犯してきたそのままの姿であることがよく判る。

今でも、オリンピックやマンション建設での立ち退きに暴力をもちいているのが報道されるのは、その現れてあろう。

文化や国民性の違いを理解するのは、中々難しいものだ。