書道家Syuunの忘れ物

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未だに「日銀の量的緩和政策とゼロ金利政策」を待望する無策の経済論

2009-03-31 22:09:53 | 日本の経済議論
未だに日銀の量的緩和政策とゼロ金利政策

を待望する無策の経済論


近年日本にも再び不況風が吹くようになって、日本の政策はこれで良かったのかと「失われた10年」以降の経済対策について分析がなされている。
「『100年に1度』の経済災禍」が起きると、円安バブルが弾けて輸出産業は大打撃を受けた。それで経済人は円安誘導を主張し、円高が悪いという論調も多かった。
しかし、その円高とは無理な円安に揺れた、揺れ戻しであることが判った。
又、金融収縮によって円安にして輸出したところで物は売れないと言う事があきらかになり「円高」是正の論調も下火である。
もっとも、経済評論によって、今まで長く続いた「円安」というのは日本が低金利政策を続け世界に「金」を供給することによる「円安バブル」だったと言う事が明白になったのは随分前のことである。

円は世界中が高金利政策を取っている時に、日本独自の低金利によるために、例えば、あの金融バブルで崩壊状態になったアイスランドでは、円のローンを組むのが常識だったほどだ。

斎藤精一郎氏・(日経BizPlusコラム)第83回「経済政策の『万能神話』を斬る――L型の長期不況に真っ正面から備えよ!」(2009/03/30)
‥‥で、斎藤先生は、
「日本経済は02年2月から07年10月まで戦後最長の景気回復を実現したが、それは95年9月以降の日銀の長いゼロ%台金利政策の効果でも、02年以降の不良債権処理スキームの効果でもない。この回復の最大の要因は、本コラムで過去何度も指摘する、03~07年の『牛(=米国)に引かれた世界同時好況』による目覚ましい外需拡大だった。」
と結論づけている。
だから、金融バブルが弾けると「外需依存型」日本経済は「『本物の内発的な回復力』に乏しいことが露呈されてしまった。」
日本のバブル崩壊による日本の経済対策というのは、逐次投入による財政政策であって、欧米諸国は、「日本の轍を踏まず」と日本の失敗を鏡としているのだが、「大々的に未知な政策が繰り出されていけば、経済を本来向かうべき方向から逸脱させるリスクも大きい。」と警告している。
そして、いわゆる「学校秀才」が習った経済理論から逸脱した政策をした場合、その効果に関して彼らは予想も付かない。
その例として、「長期のゼロ金利政策や量的緩和策は、過剰な円安を惹起(じゃっき)させ、日本の企業を過度な輸出依存症に陥らせるリスクを伴う。現に非伝統的な金融政策が日本経済を過度の輸出依存体質にし、その結果、今次危機で日本経済は過剰な衝撃を受けているではないか。」と述べている。

日本のバブル崩壊のための経済対策として行われた‥‥
ゼロ金利政策、量的緩和策、財政出動による公共事業などは、無意味だった。
無意味な経済実験と言う事である。
それで、日本政府のエコノミストは無意味だった「ゼロ金利政策、量的緩和策、財政出動による公共事業」をどうするのかと言う点で事実上の思考停止をしている。
産経新聞2009.3.28 「【主張】21年度予算成立 「デフレ」脱却をゴールに」では、
「金融がグローバル化した今日、円資金の国際的影響力は想像を絶するほど大きい。円資金は2,001年から米住宅金融の呼び水となった半面、その供給を絞った2,006年から米住宅市況が崩壊し始めたことはデータの上で証明されている。」
‥‥と低金利政策による円安と資金供給が米国の金融バブルの遠因になっていることを明かしながら、以下のような矛盾した論調を繰り返している。

「米国の金融危機対策と連動させ、日銀が量的緩和政策とゼロ金利政策に転換すれば、米金融市場の回復を早めよう。」

「日銀の量的緩和政策とゼロ金利政策」は、過度の円安バブルとその円安に便乗した「日本の企業を過度な輸出依存症」に陥らせたのは間違いなく、これが「内需主導」への転換を遅らせている原因でもある。
先の社説によると、
「デフレ病だと自己診断すれば、初めて有効な処方箋(せん)が書ける。個人消費を中心とした需要の回復である。中途半端で小出し、ごく一部の層だけが受益する対策では意味がない。たとえば国民1人当たり100万円の還付金、あるいは大型減税といった大胆で満遍ない消費刺激策を一気呵成(かせい)に実行してはどうだろうか。」

と書くのだが、そんなことなら金利を上げて「金」をばらまけとなぜ言わないのか。
今や金利は、金の貸し借りとは関係ないところにきている。
多分、こういうのはケインズ理論に合わないのだろうが、既に「日銀の量的緩和政策とゼロ金利政策」は、ケインズ理論の埒(らち)外にあると言う事を肝に銘ずる必要があるのではないか。

初めてのGレンズSAL70300G・SONY・70-300mmF4.5-5.6G SSM

2009-03-27 23:34:18 | 日記
初めてのGレンズSAL70300G

SONY・70-300mmF4.5-5.6G SSM


昨年の正月に、コンパクトデジカメ(リコーR7)を買いしばらく使ってきた。
それで荷物が減ったとばかりゴールデンウィークにTDA、TDSに行って写真を撮ってきたらピンボケばかりだった。
L版程度なら目立つことはないが、試しにA4に焼いてみたら後ピン。
画面一杯に人物が描写されていても、どこにピンが来ているのか解らない。
元々、暗いところに弱い上にノイズが大きく、又スキー場にでも行ったら液晶が完全に見えない代物だった。
昨年春に発売されたFinePix F100Fdなどは、ほとんど全ての面でR7を上回っているから技術の進歩とは驚く。(もっとも、F100Fdは、R7の後継機R8の時代の製品だが)
以前に使っていたコンデジというのは、コニカのKonica Revio KD-510Z(平成15年)の500万画素。
出てくる画像は、ガチガチの補正された鮮やかなものの、最近の流行ではない。
今までは、デジ一眼レフを中心として最終機種としてPENTAX K10Dを使っていたのだが、カメラ自体の反応が良くない。
そんなこんなでα7D、αSweetDの後継機が安くなるのを狙っていたところ、昨年5月にSONYα700+VGC70AMのセットが格安で売っていた。
だからこの時点では、VGC70AMという希望小売価格: 36,750円(税抜35,000円)と言うものがタダで付いてきた様なものだった。
つい最近では、限定とはいうもののこれにSAL16105(DT 16-105mm F3.5-5.6)希望小売価格: 73,500円(税込)が付いて値段は大して変わらなかった。
そういう風に安くなると言うのは仕方がない。
もう既に生産を中止したと噂に聞いた製品だ。

‥‥それでカメラボディは新しくなったものの、レンスがない。



24-105mmF3.5-4.5(D)


ミノルタ時代にα7のレンスキットとして発売になった24-105mmF3.5-4.5(D)。
α7Dの時にレンズセットとして発売されたタムロンOEM・17-35mmF2.8-5.6(D)、KonicaminoltaAFズーム28-70mmF2.8(D)その他タムロン、トキナー、シグマなどDレンズ非対応のものばかり。
何とか誤魔化して、24-105mmF3.5-4.5(D)を使いづけていた。



近距離はよいとしても一旦望遠となると、平成14年に買ったTAMRON AF28-300XR LD Aspherical [IF] MACRO (Model A06M)。


こういう銀塩時代のものは、デジテルカメラとなるとどうも相性が悪い。

平成13年に買った金のリングの付いたTAMRON SP AF24-135 50周年記念モデルもDレンズでないので実際は使い物にならない始末。


同じく使い物にならないのが、トキナー・AT-X 242AF (コニカミノルタ用)、トキナー・AT-X 235AF PRO (コニカミノルタ用)。




今あまり使っていないPentaxの方はAPS対応のmc PENTAX-DA55-300F4-5.8EDというものがあるのだが、SONYではレンスは一本もなし。



それで、今回奮発して買ってしまいました「G」レンズ。
理由は、楽天のポイント、期間限定ポイント溜まったのと、マップカメラで安く(限定30本)で売ったからである。
しかし、限定30本といいながら一旦売り切れとなった後復活して、1か月も売るのは本当に限定と思う始末。
事実ペコちゃん(フジヤカメラ)でマップより1,000円安く売っている。
多分メーカーの在庫処分でいくらでも出で来るのかも知れない。



兎にも角にも、初めてのSONYレンズ、Gレンズを買った。



それもネット上で評判の良いSAL70300G・SONY・70-300mmF4.5-5.6G SSM。(2008年 3月28日発売)
まあ騙されたと思ってとはいうものの「G」レンズだから悪くないはずと半信半疑。
SSMとは、超音波モーターのことで、ミノルタ系がボディ内モーターを使っているのにこのSSMだけはレンズモーターというわけ。



フィルター径は、62φでTAMRON AF28-300XRのものを流用。
それで、試し撮りをしてみると、噂通りの驚愕画像。





この中央部分を等倍にして見ると。


こんなもの。

メーカー名 : SONY
機種 : DSLR-A700
ソフトウェア : DSLR-A700 v04
露出時間 : 1/320秒
レンズF値 : F13.0
露出制御モード : プログラムAE
ISO感度 : 200
対象物の明るさ : EV9.4
露光補正量 : EV-0.3
開放F値 : F4.5
自動露出測光モード : 分割測光
レンズの焦点距離 : 70.00(mm)
レンズの焦点距離(35mm) : 105(mm)
シーン撮影タイプ : 標準
コントラスト : 標準
彩度 : 標準
シャープネス : 標準

SSMは、それほど強力というわけでもなく遅めだが、静かだから許せるというもの。
フルサイズである上に、新開発のレンズというものは驚き。
多分、SONYの思惑なのか、廉価版。
廉価版とはいうものの、定価で希望小売価格: 110,250円。
プラスチックの塊にしては、良い値段をするがレンズとしては秀逸である。

群馬一番の伝統校も様変わりした・小学校の卒業式

2009-03-26 11:54:47 | 風景写真館
2009年3月24日は、住んでいる地域一斉の小学校卒業式だった。
紹介する小学校は、群馬県で一番早くできた伝統校である。
その名は、桃井小学校。

近年は、小学校への入学には「入学服」と言って、ブレザータイプの上下お揃いだったりする。
それも入学式しか着ないから全くもったいないものだ。
かといって、昔も白衿の付いた紺の服を着たような気がする。
そして、最近は「卒業服」というのがスーパーなどで売られていて、「なんちゃって」制服なのだ。
スーパーの卒業服は大方10000円前後で、あまり素材も良いものではなかったりする。
実際のところ、中学生になると制服があって体操着までそろえて、一揃いで90000円近くもする。
その伝統のある「ダサイ制服」に比べればかなり今風である。

卒業式は10時からなのだが、保護者は9時半から受け付け45分まで控え室で待つ。



この部屋というのは、コンピューター室なのだが富士通の直ぐにでも毀れそうな機種が並ぶ。
その上、キーボードはノート型パソコン配列のミニときているから面白いものだ。



さすが年度末の平日とあって、父親は数えるほどしかいない。



この写真は、卒業式が終わった後のもの。
良く「君が代」を歌わないとか、起立しないとかという報道があるが、別に違和感もなく最初に全員起立で「君が代」斉唱。
次に、校歌斉唱。



卒業式の後半に歌を歌ったのだが、何やら知らない様なもので「仰げば尊し‥‥」は歌わなかった。
但し、小学校では歌わないかもしれない。

それにしても、来賓祝辞に卒業生の鈴木貫太郎元総理の言葉ばかり(2回?)出で来る。
他の有名人もいるはずだから、何か無いのかと思ったりもする。
毎年使い回しの祝辞なのだろうね、新しい人が出で来ないのは。



卒業生42名。
その内転出3名、二つの中高一貫校へ各1名の2名。
どうと言うことはない、後の37名が同じ中学(1)へ進学する。
卒業生など、昔から見れば一クラス分だ。
それで、昭和32年に分離した「中央小学校」と近々統合されることになっている。
‥‥「中央小学校」は廃校。

小生頃は220人程度もいて三分の一は他の中学(3)へ、そして4%ぐらいが附属中学へ進学した。
本当に一生お別れになってしまった同級生も多い。
それに比べれば、大した感慨もないだろう。



卒業式が終わって、6年生は一旦教室に戻って12時過ぎにランドセルを背負って、校門を出る儀式がある。
それで本当の卒業というものだ。
それまで保護者は待っている。
そして、校門を出た6年生は、校門へ引き返すことなく裏門から校庭に入る。



自分たちの昔の卒業式はどうだったのだろうか。
本当はほとんど記憶がない。
その頃は、体育館など無かったから、大きな講堂と言うようなところに多分、クラスの代表が集まって貰ってきたと言うものだろう。何と言っても人数が多い。
そして、卒業証書は担任の先生から貰った。
だから、解散はクラスごとだ。
終わったところは、急に「ざわざわ」と賑わいが起き、そして静かになる。
うちのクラスはなぜか一番最後だった。
それは、先生が中々現れなくて卒業証書が貰えなかったのだ。



記憶に残っているのは、先生が校門まで送ってきて、一旦校門を出ろという。
古いタイプの先生だから、そして、戻るなと「厳命」する。
そしてほんの一瞬の別れを惜しんだのは、校門の外だった。
写真も撮るような時代ではないから、目に残るのは校門のところに立った同級生達。
そして、次々と姿を消す友達達。
そして最後に数人を残すのみとなって、自分も校門を後にした。
何と言っても、以後厳しい中学生活が待っていた。感慨に耽っているときではなかった時代だった。



それに比べれば、最近は感慨がない。裏門から入ってきて、全員の集合写真。
写真館のお姉さんがニコンのD200でバチバチ‥‥



女の子など、もう先生と身長も変わらないし、「なんちゃって制服」だからランドセルが妙に違和感がある。



但し、男の子は不思議とまだ幼い顔をした子供が多い。

お母さん方も先生と写真を撮ると言うのだが、何やら卑猥に感じるのは妙な気がする。
そして、4月以降も制服が違うだけで同じクラスになるかも知れないというものだ。



2009年3月25日の中学区域の防犯会議では、もう一つの中心部の小学校から30名前後(中高一貫校へ数名転出)と南部の新興団地の小学校から87名程度が同じ中学へ進学するという。
だから、中学1年生は凡そ155名の生徒数になる。



聞くところによると、その中学で過半を占める事になる小学校からの進学者に問題が多いという。
今日の会議でも、昨年一年間で「万引き」1件、その他小さな事件があったという。
その上、夏休みなど学校が休みになると、児童が一人で残されるような家庭が多いという。
昔は、そう言う児童を「鍵っ子」などと言って、決して珍しくなかったのだが、最近ではそう言う子が「悪さ」を覚えるらしい。

実際、中学の勉強という競争は既に始まっている。
春休みの春期講習というのは、学習塾にとって新中学生の囲い込みの時期。
だから、春期講習は「問題集」だけ又は、一切無料など言う学習塾は珍しくない。
半額程度の料金を取る学習塾は、小学校からの「特進クラス」中心のレベルが高いもの。
新たな新中学生はあまり必要としないと言うようなところだ。
そんなところは、よくよく見ればほとんど宣伝もしないし、入学パンフも遅い。

しかし、実際は子供と塾の相性というのがあって、ダメだった子供は一切の塾を辞めて通信教育にしたという事も聞く。
自分の昔を考えてみれば、塾に行っても先生は「解らなかったら質問しろ」。
それで、質問したら、「教科書をよく読め」だから話にならなかった。
もっとも、中学ではろくな塾がなかったから一般的な塾には行っていなかったが。

占いで見る・元モー娘。藤本美貴と「品川庄司」庄司智春の結婚

2009-03-25 08:07:52 | 日記
占いで見る・元モー娘。藤本美貴と「品川庄司」庄司智春の結婚

元モー娘。藤本美貴と「品川庄司」庄司智春が婚約(産経新聞他2009/03/24)と報道されている。
藤原紀香の離婚報道から又再燃してしまった「占い」なのだが、「品川庄司」の品川祐は知っているが、庄司智春(33)の方は知らなかった。
しかし、調べてみたら顔は「クイズ!ヘキサゴンII」でおなじみの顔だった。
一方、藤本美貴(24)というのは知ってはいたが、最近落ち目の「元モー娘。」というのは誰だったか覚えていない。はっきり言えば美人だかもしれないが、あまり特徴がない。
こういう手の歌手というのは、いずれ消えて行く芸能人に多いのような気がする。
ある意味芸能人の限界を感じている年頃だろう。
但し、藤本美貴と言う人物は占いで見ると「人気運」と言うものを備えていて、芸能人としてやって行ける才能があるようだ。
但し、男女間の関係となると微妙にネットリ感のある人物ではある。
こういう人物というのは、悪い意味ではなく何かと結婚となるトラブルを起こす可能性がある。
二人の関係であの「一目惚れ運」があるか見てみると、そう言うことはなさそうだ。実は、藤本美貴から見れば庄司智春というのは、見た目で見れば本来タイプではない。
その藤本美貴のタイプではない二人が結婚まで決断するというのは、二人の関係において
引き合う「最良の星」を持っているからである。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
藤本は「私藤本美貴は、庄司智春さんと婚約致しました。お互いを理解して支えあい、成長させてもらえる人と出会えて、凄く幸せです!皆様、これからも2人を温かく見守って頂けると幸いです」コメントした。(産経新聞)
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
それが、藤本美貴のコメントの現れている。
一方、‥‥‥‥‥
庄司も「この度、私、庄司智春は歌手、藤本美貴さんと婚約する事になりました。彼女の優しさと真っすぐな性格に惹かれ、約二年のお付き合いをして結婚する事を決めました。これからは二人で幸せになれるように手を取り合って協力して頑張って行きます」と幸せいっぱいのコメントを発表した。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
何か微妙に違う感じがしてならない。
年齢差があるのが原因?、確かに実際の年齢差というのは9歳あるのだが、芸能人の24歳は、一般人の34歳程度には精神年齢が高くなるからあまり原因がないかも知れない。

さて、結論を急ごう。
今年の結婚への決断というのは、庄司智春の年運もまだ今年の内は強く、藤本美貴の年回りも良いと来ているからと言うものだろう。
実際単なる占いではそうだ。
しかしもこの二人の関係というのは、本来「最良の星」を持つ二人の関係で良いはずなのだが、本来出会わない筈なのだ。
出会わないというのは、同じ時間空間を共有しない。住む世界が違う。
即ち、一般に言うすれ違い夫婦というものなのだ。
互いに仕事を持てば家に帰ってくる時間が違い、もし藤本美貴が専業主婦をすれば庄司智春が家に寄りつかない関係だ。
それでも、「年齢差」「外国人」など特殊な関係にあるときは、何とか乗り越えられないとはないかも知れない。
ところが、上述したように「年齢差」の影響は出ない。
その上悪いことに、前世で夫婦でない。
別に、前世で夫婦でなくとも今世で夫婦という者はありうる。
たとえばあのWBCのMBP松坂氏の様にである。
いわゆる特殊運というものだ。
今回の、藤本美貴氏と庄司智春氏の結婚に関しては、そんな互いに引かれ逢う最良の星を持っているために、「一目惚れ運」などがないのが藤原紀香と陣内との関係より強い。

しかし、同じように3年以内に破綻と言う可能性もかなり強い。
それは、庄司智春氏の運勢が変わり、庄司智春氏自身氏が決めることでもある。
二人の関係を決めるのは大強運の持ち主、庄司智春であると言うことだ。

運勢で見る藤原紀香・陣内智則氏の離婚の総括

2009-03-23 22:29:11 | 日記
運勢で見る藤原紀香・陣内智則氏の離婚の総括

「藤原紀香さん・陣内智則さん、離婚届出す」(読売新聞)と報道されて実際は20日に離婚が成立したらしい。
占いという運勢論で見ると陣内智則氏がいわゆる0学占い出言う「中殺界」という運気の下がったときに偶然結婚と言う事になったのだが実はあまり関係がない。
なぜなら、元々二人は前世では夫婦ではないからだ。
一応、同じ時間を共有する仲間だから結婚ということも出来たのだが、運気多少落ちた陣内に対して、藤原氏主導で自らの強い運気だけで結婚を進めた失敗がある。
藤原氏だけが運が良くても、陣内氏が潰れるのである。

しかもはっきり言って、藤原紀香の「一目惚れ」結婚というのは結婚に関しては「忌み嫌う」行動なのである。
なぜならこの「藤原紀香の一目惚れ」というのは「悪魔の誘い」という勘違いであるからだ。
万が一星が隣り合っていたなら、そうとも言い切れないところがあるのだが、藤原と陣内の持つ星との関係は単なる「友人」でしかない。

年を取って分別が出来る頃になって、誰だって見とれているだけの美女から突然言い寄られたら一旦身を引くと言うのが普通だろう。逆の立場なら女性は余程のことがない限り寄って行かない。
 但し、それが遊びなら別の話だが‥‥

はっきり言えば、関係が出来ても「遊び」にしかならない関係なのに結婚してしまったということだ。
生まれたときから一途にやるべき道を進んできた多少強運を持っている藤原と幸運を頼りにして独特な世界を築いてきた人気取りの人物とでは所詮違いすぎる。
その上藤原の28日生まれという特殊運を制するには、陣内では運気が弱すぎだ。
もし結婚を成功させるのなら、藤原氏に陣内のサポートに廻れと言った。
それは100%不可能だろう。
不可能であれば結婚は無理だったと言う事だ。

それでも、究極の策として「子供の運」に頼るという便法を用いる「運づくり」の方法があったのだが、それも成功しなかった。
子供は神からの授かり物というものなら、神は「藤原、陣内」を夫婦として認めなかったということだ。
理由は、藤原の人物眼に関する幼さによる目の狂い、「悪魔の誘い」に乗ったからとしか言いようがないか?
そして、それを示すように「易断」による関係の否定が続くのであった。

ほくほく線で行く富山

2009-03-22 22:41:38 | 風景写真館
この彼岸の時期に、富山に用事があって約6年振りに特急「はくたか」に乗った。
「はくたか」は北越急行の「683系はくたか」「スノーラビット(エクスプレス)」 (SRE)で 6年前に乗った車両とは雲泥の差だった。
前回乗った車両がどんなものだったか覚えていないが、何やらスピード感があって又トンネル内に入ると衝撃音が奔ったものだった。
それが、683系ではまるで新幹線の様にスムーズかつスピード感がない。



ウィキペディアで調べてみたら485系という昔の東海道線を走っていた車両のようだった。2005年に681・683系に運用車両が統一とあって、やはり新型だった。
「681・683系は在来線最速の160km/h運転が可能であり、681系は長大トンネルでの高速運転に対応して気密性や戸閉め装置の強化が図られている編成の限定運用となっている。また683系は「はくたか」使用車以外は160km/h対応は準備工事にとどめてある。」(ウィキペディア)



越後湯沢はスキー場の筈なのだが、もう彼岸なので雪がないのかという感じだった。
実際、雪を見たのはほとんどこの辺くらいから山間程度。昔、直江津などは豪雪地帯と言われたものだったが、今回見るところ雪の影形もなかった。



直江津では、快速列車というのが入線していたのだが、関東ではあまり見た事がない車両。
昔の特急だったのかなと思わせた。



関東では、新特急という快速並みに遅い特急など随分安っぽい車両だった。
今回の連休の合間の土曜日。
ほくほく線「はくたか4号」は、結構空いていた。
昔の何やら緊張感漂う列車の旅と言うより新型車両になったために、余裕、リラックスしたものだった。
それにしてもこの「はくたか」というのはのんびりしている。
湯沢から車両に乗るときに別に機械にキップを通すわけでもなく、又車内検札に来るわけでもない。
高崎線の新特急「あかぎ」だと停車駅ごとに何回も検札に来る。但し、ほとんど自由席なのだが。
そして、車内販売もありきたりのもの。
駅での停車時間は直江津で2分停車他1分停車で下りるわけに行かないところだ。
以前は、昼飯はどうしたものだろうかと考えている内に富山に着いてしまった。
富山駅は何やら改修工事をやっているようで、駅ビルの二階へ行けばそのまま行けるのは帰りの時に分かったが、工事現場の様なところを通って改札を出た。
それにしても、関東の様に機械での改札がないから何やら妙な感じだった。
富山駅は、改札付近はあまり変わらない気がしたが、6年前では土産物が1階だった。



それにしても、富山には路面電車があったのだっけと今頃気づいた。



昔、都電が走っていた頃の電車の音は大きかったが、今では静かなものだ。
都電が走っていた頃、東京の親戚の家に泊まりに行き、始発の路面電車が走り出すと目が覚めたものだった。


EU仕様の車両もあるようで‥‥それにしても連休の合間で車が少なかった。
そして、帰りは2009年3月22日の13時50分富山発のはくたか15号。
JR西日本の681系0番台「ホワイトウイング」 (WW)



彼岸の連休帰りに当たって、大混雑だった。

乗った車両は5号車。
土日の5号車は、指定席なのだがそれが分からなかった乗客が結構乗り込んできた。
だから、指定席車両の通路には指定席券を持たない乗客。
そして、空いている席には乗客が乗ってくるまで勝手に座る状態だった。
それにしても酷かったのは、6号車が喫煙席の自由席。
通路、デッキに人が鈴なりだったから6号車の煙が5号車に流れ込む始末。
これでは、禁煙席の意味がないと言うものだ。
そして、丁度小生の隣の席が空席だった。
空席なのは途中の駅から乗ってくる乗客がいるからなのだが、大きな旅行バックを持った爺様が勝手に座った。
座っている本人も停車駅ごとに座席を外してという何やら居心地の悪いものだったが、隣の小生も気になって居心地が悪い。
その席も1時間ほどしての直江津から女子大学生風の女の子が、小さな鞄一つで乗り込んで来た。
座るや否や、イヤホンをしてニンテンドーDSをし始めた。
ケーム内容は何だったのか、良く分からない。
その内「ポン、ポン」という打撃音の変わったかと思ったら、卓球になっていた。



直江津から北越急行ほくほく線に入るのだが、線路の音が違った。
要するに新幹線の音。
詳細を見たら、その様な高規格になっているとのこと。
これで160km/hが出せるわけだ。
とにもかくも、夕方4時近くに越後湯沢着。
終点で大勢降りるから大混雑。案内では16時04分の新幹線かあったのだが、乗れるはずもなく16時08分の「MAXたにがわ418号」。
それにしても、「駅すばあと」だと04分は出で来ない。
始発だから、何とか1階席の自由席で帰路に。
ちょっと席を立ってデッキに出で見たら、先ほど隣の席に座っていた女子学生らしき若い女性が佇んでいた。
今風の「決まった身なり」で、一瞬分からなかった。
今から又東京へ戻るのか‥‥‥
別に小生は女ではなかったが、あんな頃があった。
若かった遠い昔。
今こうした毎日を過ごしているなど当時は想像も出来なかった。
いずれ、夢破れて郷里に戻るようなことがなければと祈るのみである。

50年遅れた経済学で景気浮揚を試みる日本の惨状

2009-03-21 00:11:50 | 日本の経済議論
50年遅れた経済学で景気浮揚を試みる日本の惨状



米連邦準備制度理事会(FRB)は18日、金融政策を決める連邦公開市場委員会(FOMC)で、今後半年間に中長期の国債を最大3000億ドル(約29兆円)を買い取るとともに、現在0-0・25%に設定しているフェデラルファンド(FF)金利の誘導目標を据え置き、事実上の「ゼロ金利政策」を維持することを決めた。(産経新聞Web)

米国は、なぜか「ゼロ金利政策」を続ける様なのだが、どう見てもこの政策の効果がない。
なぜなら、「ゼロ金利政策」の実行に関して米国の経済学者は経験も又、学校で習ったこともないはずだからだ。
それで日本と言う「米国経済学の実験場」での「ゼロ金利政策」を手本として、日本流なら何とかなると思っているのかも知れない。
ところが、日本のバブルは「不動産」という実体のある金融資産を元にしたものなのに、米国は「債権」という実は紙に印刷されたものでもなく単に、パソコンに数字が並ぶようなものだ。
要するに実態がない。だから「ゼロ」と言うこともあり得る。
一方、実態がある不動産は、例え価格が極めて安くなっても原野商法でもない限り「ゼロ」にはならないし、山林は兎も角もしかるべき土地なら利用も出来る。

それでも日本は、高値の不動産を差し押さえ競売で叩き売って、損失を処理した。
その不良債権の処理というのは、地方の零細不動産屋にまで及び、バブル時代に大儲けしたような不動産屋はとっくの昔に丸裸にされて破綻し、破産した。
競売、任意売買、整理で結果として、安い不動産がで廻ったためにそれに連れて土地が下がり、下がる土地は誰も買わないから益々下落。
資産デフレに陥ったままと言うのが今の現状だ。
だから日本は不良債権を精算するにあたり、「ゼロ金利政策」で国民に払われるべき利子が銀行救済として金融機関に流れた。
その額は、10年間で凡そ600兆円から1000兆円と言う額だ。
今でも「低金利政策」が続くのだから今は1000兆円を優に超えているはずだ。
これだけの資金を国債ではなく国民の金で償却に廻したと言うことは、米国でFRBが「米国債29兆円購入」と言っても焼け石に水。
完全に処理するためには、日本のように1000兆円以上必要だ。しかし、これを米国債で賄う事は出来ない。
結局、米国ではAIGやGM、シティくらい潰して世界中に負債を背負って貰わなければ立ち直れない。
米国というのは、日本経済の実験をつぶさに見ているはずなのだが、見ているのは「債権」だけで米国経済の指標にない「不動産」、「預金金利」と言う視点を全く無視している。
日本の様な失敗を恐れて、支援を続けているAIGやGM、シティだか、遠からず限界に来る。
米国も「試験秀才」の経済学者が思考停止してしまったためにこんなことになってしまったが、日本の惨状は更に酷い。

その酷い認識というものは、日本と言うのは「貿易輸出国」であると言う認識だ。そこに抜けているのは日本は米国に次ぐ第二の消費国という視点である。
米国がダメなら日本へといつこの間には、H&Mが、そして同じく衣装品通信販売会社が日本進出をした。
車だって、ドイツのVWが「欧州車、本気の日本攻め VWが新『シロッコ』発売(産経)」
「欧州の自動車各社が日本市場に相次いで新型車を投入し、冷え込みが続く需要を積極的に掘り起こす戦略を本格化する。」
「メルセデス・ベンツやBMW、アウディが相次いで新型車を発表。5月にはプジョーの新型車「308CC」が投入される。」
「ウディは、今後、都市圏の店舗を増やしていく計画だ。世界的な自動車の販売不振を背景に、販売網のリストラを進めるメーカーもあるなか、アウディの日本法人は『多くの顧客層を取り込むチャンスを広げていく戦略をとる』と明快だ。」

諸外国から見れば、有望なのは日本しかないのは間違いない。
何と言っても、日本人は金の支払いがよいから信用があるというものだ。
しかし、日本政府は日本経済の内需拡大を模索していない。
未だに「景気循環論」でも考えている愚かな経済学者はいないだろうが、バブル経済崩壊の時は、当時の経済企画庁では「景気循環論」で固まっていた。
長官は故高原須美子氏だったと思うが、退官後の講演会では唖然とする「耳学問」の不見識さで驚いたものだった。
なぜなら、不動産が低迷して不景気になっているのに「総量規制」には賛成という立場であり、「不動産は価値が無くなればよい」という意見だった。
これは当時の建設経済研究所常務理事・長谷川某氏と同じ考え方なのだが、今なら「冗談」のような話だ。

日本経済を巡っては、この様に日本の経済学者、シンクタンク共に日本経済の根幹について認識していなかった。
今の現状を見れば、未だに「米国の模範解答」を待っているという状態だと想像が付く。
なぜなら、「ゼロ金利政策」で景気浮揚出来なかったのに、未だに「ゼロ金利政策」を続けようとしていることだ。そして、米国も古い経済観念をもって「ゼロ金利政策」に突入している。
経済というものは「ゼロ金利政策」や「量的緩和によるマネーサプライの増減」と言うのでは全く意味がない、と言うことに気がついていない。

日本に金融資産が1500兆円あると言うのなら、好景気にするには単に利上げしてやればよいことだ。
3%で45兆円。その内9兆円が税金としての取り分だ。
世の中に、35兆円の金がばらまかれ税として9兆円の税収があれば、消費税をゼロ、相続税をゼロとしてやって行ける。
当然、円高で安い商品が日本中に溢れ、消費税ゼロだから安くなる商品に殺到する心理の日本人なら、景気は回復する。
そして、景気が回復すれば、企業も多少高い利子でも充分支払えるというものだ。

但し、金利を上げて好景気にするには早期にする必要がある。
なぜなら、景気低迷が長引くと消費経済という国民の意識が戻らない。
国民無視の政治を繰り返している、今の官僚資本主義国日本には無理な相談なのかも知れない。

占いによる藤原紀香、陣内智則の離婚報道に思う

2009-03-19 23:56:27 | 日記
占いによる藤原紀香、陣内智則の離婚報道に思う

藤原紀香、陣内智則の離婚‥‥
結婚の時の過去エントリーを探してみた。
「〈占〉藤原紀香と陣内智則の結婚はなんでー??」2006.11.15
「〈占〉藤原紀香と陣内智則の12月結納・入籍報道」2006.12.4
「〈占〉女優、藤原紀香と陣内智則の「年内(入籍)はない」2006.12.6
「〈占〉女優、藤原紀香と陣内智則の12月10日結納」2006.12.11
「〈占〉藤原紀香の結納返し「パネライ」の時計」2006.12.12
「〈占〉藤原紀香と陣内智則の2月25日の結婚」2006.12.13
「〈占〉モテ男・陣内智則(の女性遍歴・田丸麻紀・及川奈央・森下千里)」2006.12.14
「〈占〉藤原紀香と陣内智則のフロリダ婚前旅行を切る」2007.1.5
「〈占〉藤原紀香と陣内智則のフロリダ婚前旅行 その2」2007.1.7
「徳光和夫司会の披露宴は8割離婚・和田アキ子言明」2007.6.6
「〈占いも〉ハッピーハッピーの名前の下品さ」2007.6.12

ここで延々と藤原紀香、陣内智則はいつ離婚するのかと言う暗示をかけていたのだが、和田アキ子氏がいう「徳光和夫司会の披露宴は8割離婚」というのは図らずも当たってしまった。
ブログエントリーでも書いたが、和田アキ子氏というのは神がかり的で、恐ろしいほどの「直感力」の持ち主。やはり間違いはなかった。
又、「〈占いも〉ハッピーハッピーの名前の下品さ」2007.6.12の項目で
「実は、藤原紀香だってそうだ。陣内との間に子供が生まれて、初めて『神様』が夫婦と認めたと言うことだ。これは、前世で夫婦でない場合の特徴だ。」と分析している。
藤原紀香が仕事を辞め、陣内氏のサポートに廻ればという趣もあるが、陣内智則氏よりも藤原紀香氏の方が芸能界では格上。
最近やらない派手婚で藤原紀香は、ランクアップして仕事が増えたということがあった。
実際は無理な話なのだが、なんと「東国原英夫宮崎県知事(そのまんま東)」の実例もある。
「〈占〉藤原紀香と陣内智則の2月25日の結婚」2006.12.13
のエントリーでは、「兎に角、なるべく早く二世を作り『運勢』の転換を図るのが先決だろう。」と助言をしておいたが、藤原紀香氏には助言をする「占い師」が付いているようで無視されている。

元々の結論は
「〈占〉藤原紀香と陣内智則の結婚はなんでー??」
のエントリーで「『蒙乱の卦』‥‥大凶。やめておいた方がいいね。」で結論づけているのだが、種々の条件で易断をすればするほど悪い卦が出るというのはやはり結婚は無理だった。
結婚を続けると言うなら、先に言った通り藤原紀香は一旦仕事を辞め、サポートに廻り子供を作ってと言うのか正しかった‥と言うよりそれしか道はなかった。
しかし、実際は全く逆なことをやったために陣内智則氏は大化けせず、単なる人騒がせな結婚に終わったと言うものだろう。

順調に結婚生活をおくる人の関係というのは、どこかに良い卦が出るものだ。

凶悪殺人事件の厳罰主義は民主主義の成長過程か

2009-03-18 23:59:17 | 読み解けば‥‥
凶悪殺人事件の厳罰主義は民主主義の成長過程か

近年凶悪な殺人事件が多発している。
そして、その裁判の結果というものはほとんどの場合「過去の最高裁判例の永山基準」、1人殺せば無期懲役、2人殺せば死刑と言うものだった。
しかし、その基準に従わない極悪な殺人事件で、2人殺したのに高裁まで無期懲役で最高裁で差し戻しされた例の母子殺人事件や、今回の「闇サイト事件殺人事件」などがある。近年の特に凶悪な殺人事件に関しては、世論では厳罰主義が主流になって来ている。
「闇サイト事件殺人事件」など死刑判決というのは、妥当であろうし裁判員制度になれば益々厳罰主義になってくると言うのは模擬裁判からでも明らかだ。
日本の刑法や少年法など欧米の刑法に比べて厳しくないと言われてきた。
以前に報道された英国での話。
詳細は忘れたが11歳の少年二人が幼児を連れ出して鉄道の線路にくくりつけて殺すという殺人事件があった。
日本では未成年と言うことで今でも、刑に服すことはなく名前すら変えて成人して社会復帰するが、英国では厳罰に処したという。
日本での、凶悪犯罪に対する厳罰主義というのは、従来からでは考えられない凶悪な犯罪が起きていると言う現実がある。
何の遺恨もなく、無関係な人を殺傷する人物が出るというのはどう考えても日本の国の劣化を思わざる終えない。
少なくとも昔の教育を受けた人物というのは、「行ってはいけないことの節度」というものはわきまえていた。
ならばその昔には「危険な人物」がいなかったのかと言えば、今と同じように存在していた。
子供時代でも、精神力の強い子供、腕力の強い子供は武器としての「刃物」などは持たなかった。
ところが、気が弱く、腕力の強くない子供は必ず「刃物」を持って突然振り回すと言うことをした。そんな子供が問題にならなかったのは、その子供を監視する子供がいて必ず押さえたからだ。
同様に、町内の「危険人物」は町内で監視され危険を未然に防いだ。
しかし、今の日本にはこんな「防波堤」はなくなった。
子供が減り、兄弟姉妹が切磋琢磨して人生勉強する機会はなくなった。よくよく見てみれば、凶悪事件の犯罪者はいわゆる戦後第二世代だ。
親自体が戦後教育として、「君が代」や国旗に反対したり、そして日本の歴史を暗黒の歴史と見て、日本と言う国を「守る」と言う愛国心を持たなくなった世代。
戦前の日本人は「悪人だ」。
日本人は悪かったと自分たちの祖先を誹謗する学者、識者、国会議員は後を絶たない。
だから、日本の国会を見てみれば、「田母神問題」で日本人としての「劣化」が極に来ていると言うことを思い知らされた。

今でも国民が支持する総理には、小泉元総理が挙がる。国民は、今でも官僚統制の打破と規制緩和というものを望んでいる。
そして、ルールを破ったものには厳罰を科すというのは自然な流れだろう。

一方で、小泉改革で権限を削減された官僚達は、その戦後第二世代が中央官庁の課長補佐などになって、今やより酷く日本に新たな規制をかけ続けている。
それは、日本人は「悪人だ」という日本人性悪説としか思えないことだ。
要するに、今の国民は「信用出来ない」。信用出来るのは「役人だけ」??
オヤこれでは、今のお役人さんがもっとも嫌いな「帝国軍人」と同じだ。
日本人というのは、神道を見れば分かるように「性善説」に立つ国民性がある。
欧米の「旧約聖書」から発する宗教観から見れば欧米人というのは「性悪説」だ。

フランスでは大革命(フランス革命)の時、ブルボン王朝やその王朝に係わる王族の墓を暴いて破壊した。だからルイ14世など肖像画でしか分からない。
同じように中国では、歴史上でも先の王朝の墓を暴いて破壊するなど言うのは珍しくなかった。
日本では、死ねば「神様」となって墓に線香や花を添えることがあっても、暴いて破壊すると言うことは聞いたことがない。

別の見方をすれば農耕民族は「性善説」、狩猟民族というのは「性悪説」であるようだ。
そこで、「旧約聖書」では「性悪説」の人間と神とが「契約」を結んで、「善」とする。
その契約を破ったの人間は、「塩」に変えられると言うのも聖書にあったはず。
だから民主主義国家として発展すれば「契約」の概念から「厳罰主義」になるのかも知れない。
一方で、社会主義化すると、人間は完全な「性悪説」「人間不信」の様なものだから、「悪」を起こさないように「規制」という網をかけて雁字搦めにする。
ここでの厳罰主義は、足を踏み外すような素振りをしただけで厳罰を科する。
よくよく見れば、現在の中国の言論規制と数々の制約、他国に対する挑発など正にその通りだ。
これから見れば日本の規制緩和というのは、民主主義の基本であることだ。
大きな政府は、必ず国民を身動き出来ないような統制を加えてくる。
なぜなら、政府官僚に反逆出来ないようにである。
あの「人権擁護法案」というのは正に国民を監視し、縛る国民への罠というものだ。
即ち、絶対主義的共産主義への道と言うことだ。

公明党景気対策・アナログテレビを2万円国が買い取る案一夜で撤回

2009-03-17 23:26:47 | 日本の経済議論
公明党景気対策・アナログテレビを2万円国が買い取る案一夜で撤回

「第2の定額給付金」と言われた買い取り案は、いわゆる公明党の「結果の平等」主義に葬り去られた。
本当のところ、あの「定額給付金」より初めからこちらの「買い取り策」の方が経費がかからず景気対策になったろう。
やり方だって、カメラ製品(たとえばSONY http://www.sony.jp/dslr/cb/index.html)が良くやる「キャシュバックキャンペーン」のやり方を利用すれば大して経費はかからないはずだ。
家では地デジ液晶TVを買ってしまったというのなら、他の電気製品なら良いとすれば不公平感はなくなる。
そうすると、「地デジ対応テレビを購入済みの人との公平性の問題や、買い取り策の実施まで消費者が買い控えて年度末の商戦を冷え込ませる懸念があると指摘した。(山口那津男政務調査会長)・産経新聞」と指摘するが、期間を遡って適用すればよいこと。
手続き上はどうにでもなる。
再三言う様に、耐久消費財を買わない人達に金を配っても景気対策にならないと言うのは分かりきった事だ。
家でも、VHSビデオが壊れたからDVDレコーダーを買う??
ここで、2万円の「買い取り策」があるのならいっそのこと液晶テレビもと思ったが、一晩で取り下げたから、何とか使えた古いVHSビデオに入れ替えるだけにした。

日本の景気対策というのは、何やら何の役にも立たないことばかりだ。
高速道路の割引きと言っても、ガソリン税を安くすれば済むこと。
日曜日の渋滞の中わざわざ遠くへ行く人もいないだろう。省エネ、地球温暖化など叫んでいるのに車を使わせようというのだから矛盾している。
省エネ、地球温暖対策ならドイツの様に古い車を新しい車に買い換えることを支援しても良い。しかし、そんな話は出で来ない。
車を買い換えるというのは、単に新たな税負担を背負うから国は事実上の税を直接払うということはない。
いずれにせよ、国民一律に金をばらまくと言うほど非効率な事はない。
こんな非効率な発想こそが、元々何も自分では消費しない中央官庁の「官僚」と言う人達が考えることだ。
よって、官僚のメシの種の「税金」の減額、減税による景気対策と言うことは一切出で来ない。
減税せず取り立てた金をばらまくというのは、バラマキには「バラマキ」の方にメリットがあるからだろう。

それにしてもEUなども最近利下げに移った。
利下げすれば景気が上がる?と言う神話は、とうの昔に潰えているのに利下げに走るというのは、「米国のマネ」をするというのが世界の金融担当者の常であることを暴露してしまった。
しかし、彼らはゼロ金利政策下の経済というもの検証していない筈、少なくとも誰も学校で習っていないはずだ。
学校で習っていないことは、お手本となる誰かのマネをする。
経済の先生の「米国のマネ」をするというのは、日本でも同じことだ。

日本がゼロ金利政策を行ったために、長期デフレから抜け出せないだけでなく国民から過大な資産が消えて亡くなったと言うことを誰も検証していないのだろうか。
デフレになったり、景気が悪くなると言うのは単純には流通している金が、又は国民の資産が目減りしたということに尽きる。