書道家Syuunの忘れ物

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第61回・毎日書道展・会員賞受賞作家による揮毫会 その1

2009-07-31 18:37:48 | インポート
第61回・毎日書道展・会員賞受賞作家による揮毫会

 その1

2009/07/19
第1回目の揮毫会が国立新美術館講堂で13時から行われた。
揮毫者は、
○荒井智敬(漢字)
○佐藤有苑(漢字)
○種家杉晃(漢字)
○福富玲茜(篆刻)
○榎 秀郎(刻字)
○工藤永翠(前衛)

の各先生であった。

この揮毫会というのは、どうも昨年の第60回展から行われるようになった様で、それ以前というものは記憶にない。
兎に角、昨年はオープニングから音と光を合わせたパフォーマンス書道があって大変盛り上がった「揮毫会」であった。
それだけに、昨年の揮毫者は大変だったろうと今から思う。
‥‥というのは、今年の揮毫会というのは、非常に地味な感じがしたからである。
当然、パフォーマンスも何もなく、淡々たる中で徐々に人が集まり始まった感がある。
昨年は、開始の前に来ても黒山の人だかりで中々見るのも難しかった。
それで今年は、1時間前に来たら観客はほとんどおらず、30分前でもがらんとしていた。
それはそれは、拍子抜けであった。
そのために、揮毫者のところへ行って色々見てきたのであるが、大方筆一本(?)持って行けば揮毫が出来る体制になっていたようだ。



だから、各種の紙、何種類もの墨滴、印泥、墨を入れる桶、文鎮その他は予め用意されていた。
しかし、初めての墨や紙で揮毫すると言うのも中々勇気が要る。
小生など、紙も墨も選びに選ぶ方だと墨滴など危なくて使えない。
実際その辺のところをどのようにしたのかは良く分からない。

そして、揮毫会では、「1作品」を書けばよいと言われていたそうだ。
昨年は、何も言われていなかったのか2作品目を要求されて、躊躇していた揮毫者もいた。



最初は、漢字の荒井智敬先生。

最初だから、昨年のような緊張した雰囲気が漂っていたが‥‥



二作目は、筆を2本もっての揮毫。


手元がよく見えないので拡大してみると。


完成作品。


全く鮮やかな手さばきの名人技でした。
そして、雅印の鈐印の仕方など正直言って唸らせるほどの上手さ。
ちゃんと二度押しをしていました。
小生にはどうも上手くできない鈐印。
恐れ入りました。

毎日書道展・国立新美術館・陳列終了

2009-07-29 19:43:49 | インポート

毎日書道展・国立新美術館・陳列終了

2009年7月28日、毎日書道展の国立新美術館での陳列が終了した。
これで陳列部委員の仕事は全部終わり、そして毎日書道展は自分の中で終わってしまった感じがする。
毎日書道展は、新美術館で今年は特別展示「篆刻家 松丸東魚の全貌」を行った。
特別展示は、新美術館になってからだから3回目になるのだが、兎に角凄いと思う。
今回の特別展示も充分「入館料」を取れるような企画。
それが出品者、招待券を持っていれば無料で見られるというのは、展覧会を見るだけでなくても正に感動ものだ。
その上実際は、席上揮毫2回、ギャラリートークあり、鑑賞会ありと盛りだくさん。
そして、毎日展に逢わせて開かれる個々の展覧会などが目白押し、だから7月は展覧会、毎日展漬け。
‥‥とは言っても席上揮毫も一回行けるのがせいぜい。
結構もどかし限りなのである。



陳列最終日の28日朝、地下鉄で国立新美術館に来ようと思ったら結構大変だった。
なんとそれは、地下鉄千代田線・乃木坂駅で人身事故。8時過ぎから霞ヶ関で振り替え運転だった。
実は列車放送が良く聞こえなかったので、国会議事堂前まで行って気が付いた次第。
直ぐに動きそうだったので待ったのだが、「現場検証」という放送があって結局、そこから銀座線に乗り換え「青山一丁目」まで行って大江戸線で六本木まで。
余分な時間と、100円多く掛かってしまった。
今から考えれば、霞ヶ関まで戻って日比谷線で六本木なら早くて、安く行けた。
まあこれも経験である事よ。

そんなわけで、新美術館に着いたのは10時少し前。
陳列作業の分担振り分けに丁度間に合って作業には支障は無かった。
いずれにせよ、陳列作業というものは何回やってもサイズの違う作品や「かな」の細字などが複雑に絡み合って、中々上手く行かないものである。
それにしても、三年前の国立新美術館開館当初の混乱を思うと随分スムーズになった気がする。

昼食というのは、都美ではレストランでの特別料理だったのだが、昨年は全部お弁当だった。
それが今年の新美では14日の陳列替えではB1のレストランで、スープカレーの様なもの。
21日は、同じレストランに入ったものの「弁当」。そして、28日はシチューの様なものだった。



Volvicは飲まずに毎回持ち帰ったが、塩分が強いと封を切りたくなる気がする。
そんなこんなで、大方展示も終わり時間が来て解散となった。



陳列は、これで終わりですから来週は来ないようになど冗談を言って、辻本陳列部長の挨拶。





それにしても、終わって又来年「ネ!」なんて7月の七夕ではあるまいし挨拶をしての別れ。
昨年までは、宴会があったから少しは「打ち上げ気分」もあったのだが「水分」を全く取らずに、エレベーターに我先にと駆け込む始末。
お陰で、夕立が降る前に帰ることが出来た。


家に帰ればいつもの現実が待ち構え、作品制作の期限が迫る。
何やら「祭りの後」の様な虚脱感のそこそこに月末の忙しさに翻弄される毎日である。
Just MyShop(ジャストシステム)
製品写真
それにしても、Justsystemのアウトレットで買った499円のメンブレンキーボード( [処分品]UAC メンブレン109日本語PS2キーボード UACC-6868/PS2)今までのキーボードと位置が違うところがあるので打ち間違いが多い。
499円だからしょうがないが。

燦華展・念(おもい)PART II・下谷洋子・千葉蒼玄・秋吉久美子

2009-07-27 23:33:31 | インポート

燦華展・念(おもい)PART II


下谷洋子・千葉蒼玄・秋吉久美子
燦華展が東京・銀座・鳩居堂画廊4Fで平成21年7月21日(火)から26日(日)まで開催された。
案内はがきには、「屏風による作品表現」とあって、数点の屏風作品が展示されている。


一応作家を紹介しておくと‥‥

下谷洋子先生
(財)毎日書道会評議員・毎日書道展審査会員
(財)書道芸術院評議員・書道芸術院常任総務
(社)全日本書道連盟評議員
かな書道作家協会常任理事
(社)群馬県書道協会副理事長・以下略。

千葉蒼玄先生
毎日書道展前衛書部審査会員
(財)書道芸術院評議員・書道芸術院展事務局長
(社)全日本書道連盟評議員・以下略

秋吉久美子先生
毎日書道展審査会員
回瀾書道会理事審査員
かな書道作家協会常任理事
(社)全日本書道連盟会員・以下略



全作品写真が掲載されているパンフレットがあって、最後に「合作」というのがあった。
ところが、この作品を見逃している気がしてならない。
それで、撮影した写真を全て当たってみたが何故か撮っていない。全くなんとしたことかな・なのである。



展覧会の雰囲気は、小生としては、宝石貴金属店に間違って入り込んでしまった「田舎もの」の感じである。
皆キラキラと光って、まばゆいばかり。
特に、2009/07/21・毎日展の陳列を終わった後に、菜っ葉服の様な姿で入り込むと益々場違いの感じが強い。
精々カメラバックを下げているのが関の山というもの。



偉い先生に名刺をもらっても、「裏」に書歴が書いてあったりして、頭がボーっとしている状態だと結構失礼していた感じがする。‥‥後で思うと。






列車の時間があったので、早々とおいとましたが、竹橋のアートサロン毎日を廻ってこの銀座まで来ると言われた太田先生(宮城県仙台)は果たして間に合ったか。
そんな気持ちを残して、地下鉄銀座線の入り口から地下道に入って、有楽町駅を目指した。

名将の采配「アウステルリッツの戦い」

2009-07-26 22:53:25 | 映画鑑賞関係
名将の采配「アウステルリッツの戦い」

(第5回 アウステルリッツの戦い2009/07/21 NHK総合 24:10~24:39)

第5回は、Napoleonのアウステルリッツ(Austerlitz)の三帝会戦。

NHKの名将の采配「アウステルリッツの戦い」は、例によってジオラマによって説明するのだが、そのジオラマの粗雑さはどう見てもアウステルリッツ東方の戦闘地図を描き出しているとは思えない。
番組では、大筋として兵力約8万の同盟軍に対して、ナポレオン軍7万。
アウステルリッツ村西方にナポレオン軍が南翼を手薄にして展開しているのを確認して、同盟軍が仕掛けた。
後は、大方史実に基づいた筋道なのだが誰もが違和感を覚えたのは、あまりに単純すぎる上に攻め手の同盟軍が「お馬鹿」に見えてしまうことではないだろうか。
前回「名将の采配・第4回 真田昌幸“懐の深さ”が勝利のカギ」でも述べたように対戦する相手の将軍などは決して凡庸ではない。
従って、アウステルリッツ(Austerlitz)の三帝会戦も同盟軍はいわゆる正攻法を行ったに過ぎないと言う事なのである。

そして、ゲストの森永卓郎、松嶋尚美にナポレオンの作戦を答(とう)のだがあまりに前提が粗雑だと答えようがない感じがする。
一節には「お間抜けぶりも堂にいって」ともあるがそうではあるまい。
その様に、実際はNHKの名将の采配「アウステルリッツの戦い」はかえって会戦をわかりにくくする。
1805年11月ナポレオン軍は兵力5万を背後連絡線の防衛に残して、主力約15万をもってオーストリアへ侵攻した。ウィーン占領。
クトゥーゾフ大将(Mikhail I.Kutuzov)(アウステルリッツ(Austerlitz)の三帝会戦の事実上の総指揮)のロシア軍は、決戦を回避して退却。
1805年11月15日ナポレオン軍は、ウィーンに兵力2万を残しロシア軍に対処するためにウィーン北方約112キロのブリュン(Brunn)に結集。
ナポレオン軍兵力約6万5000。
NHKの名将の采配でもナポレオン軍の進撃速度が速いと指摘されていたのだが、実際10月4日から11月19日までの46日間に約800キロを進撃した。‥‥17キロ/日。
このために、実際戦闘に参加できる兵力は約三分の一に減少すると共に、ナポレオン軍は相当に疲れていると言う事が同盟軍(兵力約9万)に知れ渡っていた。


ナポレオン軍はプラッツエン(Pratzen)高地を一旦確保するが、同盟軍が進出してくるとあっけなく放棄して、ナポレオン軍はアウステルリッツ村西方3.2キロの地点に1個師団がが布陣。主力をブリュン東側、南翼を薄くして展開。

プラッツエン(Pratzen)高地を確保した同盟軍は、斥候による報告によって南翼を攻撃することに決定。これは、正攻法である。
要するに、直ぐにプラッツエン(Pratzen)高地を明け渡してしまったナポレオン軍の戦意は少ないと判断し、急に撤退したナポレオン軍の陣形の意図を読み取れなかった。

NHKの名将の采配では一切述べてないのだが、この地方特有の気象現象がある。
それは、朝方靄(モヤ)、霧かが掛かると言うことである。
その朝靄を利用して同盟軍は、夜明けと共にフランス軍南翼にブックスヘウデン軍の主力を投入。
ナポレオン軍は、残存兵力をこのモヤを利用してダヴー元帥(Louis N.Davout)軍を配置。
スルト元帥(Nicolas J.Sout)旗下・第四軍団のルグラン師団軍8,500、ダヴー元帥軍8,000。合計16,500で攻撃を食い止める。
朝9時までに同盟軍の約三分の一の兵力が投入され、更に多くの部隊がフランス軍陣地前を横切り南下。

実際、このフランス軍南翼が崩壊すれば、ブリュンへの背後連絡線が遮断されナポレオン軍は包囲される。
それで無理にでもフランス軍南翼を攻撃して、大量の軍隊を投入した理由が分かる。
ここで、ナポレオンが普通の名将であれば、スルト元帥の中央主力からフランス軍南翼へ兵力が逐次投入されて、フランス軍南翼の防衛にあたることになる。
結果、数に優る同盟軍に押されてフランス軍の壊滅。
正攻法で見れば、同盟軍の完全勝利である。

そこで、ナポレオンは同盟軍の主力がフランス軍南翼に投入されたのを見て、同盟軍の分断作戦を開始する。
ナポレオン軍中央、スルトの第四軍団17,500がプラッツエン高地を目指して、クトゥーゾフ隊16,000に突撃。
クトゥーゾフ隊は、プラッツエン高地を下りて反撃、同様にバグラチオン隊18,000、リヒテンシュタイン公ヨハン4,500の騎兵隊が、街道側よりそれぞれランヌ元帥の第五軍団13,000、ミュラ元帥の騎兵隊5,500を攻撃。

午前十時ごろ、スルトはプラッツエン高地を占領。
高地奪還のために同盟軍は、コンスタンティン・パーヴロヴィッチ大公旗下ロシア近衛兵8,500を投入。
フランス軍は、スルト軍団に続行していたベルナドット(Jean Baptise J.Bernadotte)元帥旗下第一軍団10,000などが遮断。そのまま同盟軍の間隙から真東に攻撃して、バグラチオン隊を包囲攻撃。
ブリュン~オルミュッツ街道に展開していたランヌ軍団は、進んで同盟軍の退路を遮断。

午後1時すぎ連合軍中央と右翼は退却を開始する。
フランス軍南翼を攻撃していた左翼のブックスヘウデン軍は取り残され形となり孤立。
既に残存同盟軍を撃破したフランス軍と、プラッツエン高地からの砲撃によりブックスヘウデン軍は降伏。一部は氷ったテルニッツ湖から脱出しようとし、数多くのロシア兵が、フランス軍の砲撃で氷を割られ数多く溺死。

孫子の兵法に「山の上に陣を置いてはいけない」「陣は山を背にして敷け」と言うのがあったかどうかよく覚えていない。
只、三国志で諸葛孔明が馬謖に軍を任せる時、山の上に陣を置いてはいけないと厳命したのにもかかわらず陣を置いて全滅したということがあった。
何故なら、山の上に陣を敷いても戦う時には山を下りなければならず、不利だと言うのかも知れない。

いずれせよ、アウステルリッツ(Austerlitz)の三帝会戦では、ナポレオン軍がある程度戦意を喪失しているという前提の元になされている上に、実際ナポレオン軍は先制攻撃を控えている。

アウステルリッツの三帝会戦というのは、心理作戦を導入した近代戦だったと言う事だ。NHKの名将の采配では、ここまで読み取れなかった気がする。

東京都美術館と暫しのお別れ・毎日書道展

2009-07-25 12:55:17 | インポート
東京都美術館としばしのお別れ・毎日書道展

2009/07/17・第61回毎日書道展の都美での展示は撤去作業終了で終わった。
来年度から2年間東京都美術館は改装になってお休みだから、毎日書道展は暫し都美陳列とはお別れである。
今年度の毎日書道展は、陳列の効率化と今流行の経費削減から書団のお手伝いの人をほとんど用いずにベテランの委員で陳列作業を行った。
その効果はてきめんで、細かい指示をせずとも作業は劇的に進む。
逆に言うと、今度は作業が進みすぎて陳列の業者の方が間に合わない次第になる。
都美では、業者も長年の経験からそれなり準備をしているのだが、国立新美術館では見ているところによると毎年微妙に改良されて陳列方法が違う気がする。
国立新美術館が出来てからの毎日書道展の陳列というのは、陳列作業のトップを走っている最先端のものだろうと思う。
今後改装されたり、新しくできたりする美術館は国立新美術館と同じ形式の展示方法を踏襲する可能性があるから尚更である。
名票を貼るコマンドタブは、昨年の国立新美術館展示2回目から。
今年も同じコマンドタブを用いたが、地方展では初回の「ひっつき虫」が価格も安く便利で多用している。

いずれにせよ、陳列委員の大活躍で都美陳列が終了した訳だが、毎日書道会事務局から「お疲れさん」と言う事で撤去日に簡単な宴会を催してくれた。


毎日書道会より

都美のレストランは上野精養軒だから、結構美味で色々と堪能したいところなのだが、不思議と食べられないものでみすみす手を付けないものも沢山あった。


陳列部長の辻元大雲先生から乾杯の挨拶。

その上、宴会が遅れて始まったために列車の時間を見越して、早々と退出してしまったのは何やらもったいなかった気がしないでもない。



そう言えば、昨年と今年最後の「アイス」が出てくるまで残っていなかった。





秋葉原・散策 その3 様変わりの秋葉

2009-07-24 18:45:46 | お買い物・新名所など
秋葉原・散策 その3 

様変わりの秋葉


秋葉原は、ダイビル、UDXなどが出来て大きく変わったのは何年か前の感じのだが、あの事件以降規制が厳しくなって秋葉原駅前などには、チラシ配り一人見あたらない。



特に、あの雑踏を象徴する秋葉原デパートか潰れて、建設中だと駅南に出でゆく気もしない。
秋葉ヨドバシなどは、何時も通りなのだがよくよく見るとバスタクシー乗り場横にセブンイレブンがあったりする。




中央通りの方と言えば、建設中だった「ベルサール秋葉原」(住友不動産秋葉原ビル)という建物が出来て又大きく変わってしまった。
「ベルサール秋葉原」というのは、「神田明神通り」と「中央通り」の交差するソフマップの向かい。
なんと「ニッピン」の向かいで「ニッピン」の看板がよく見える。



30年も前に、この「ニッピン」にK2の244というスキーを買いに来たとき、何もなくて寂しい事務所・倉庫街だった。



そして、ここの西裏通りは、以前海賊版ソフト売りの中国人学生が昨年まで、立っていたと思った。そのほか妙な露天商などもあった。
こういう何か危ない人達がいなくなったのは、見通しが良すぎて何やら落ち着かない感じがするからかも知れない。


ラオックスが潰れてその隣は駐車場になり、小さな店が無くなって、秋葉原がどのように広がったのか良く分からない。


例の「あきばお~」にまで引き返してくると、何時も「中国語の歌」が「おかえりなさい」にかき消されている理由が良く分かった。
引いてみたら、二階が「メイド喫茶・アニメーションスタジオ」関連だった。


平日でも2人程度のメイド姿の女性が看板を持ったり、チラシを配っている感じだったが、休日ともなると大部派手な事をし始めているようだ。
そして、何か目立つのはカップルだったり、女性の姿。こう言うのは余り秋葉には似つかわしくない。



もっとも、20日の秋葉原UDXの西通路ではフリーマーケットが開かれていた。
何か思うのは、秋葉原は電気街から普通の繁華街へ変わってきているのかという感じではある。
そして、何か足りないと思うのは、秋葉ヨドバシ並のヤマダ電気の店舗かもしれない。
なぜなら、秋葉ヨドバシというのは、ヤマダ電機ほど飲料が安くないからかも。


みちのくの書人達・東京展

2009-07-23 23:16:32 | インポート

みちのくの書人達・書作展


伊呂波書の会創立20周年記念事業書作展という「みちのくの書人達」という書展が開催されている。
アートサロン毎日・平成21年7月20日~26日



みちのくの書人達は、「伊呂波書の会」東京展と言うのかも知れない。図録に恩地先生が「東京展」と書かれていた。
「二十周年を迎えて」のところに会長である坂本素雪先生の言葉がある。



それは「
伊呂波書の会」の成り立ちに関することで、この書作展が理解できるというものだろう。
その部分の全文を抜き出してみると‥‥
「‥‥前略‥‥諸会派の垣根を乗り越えた研究会にし、既成概念の払拭、幅広い作風と筆法の習得など、勉強会も回を重ねて二十年が経過した。苦しみと喜びは計り知れないが、この世界に身を置いたことに生きがいを感じている。
『書は芸術であるか』‥・伊呂波書の会の研究テーマであり、指針でもある。‥‥後略‥‥」



こういう成り立ちであるために、作品は漢字、かな、大字書、現代詩文書、前衛書など多彩である。
しかも、メンバーは坂本先生を代表として・青森県から16名、岩手県から4名、宮城県から6名、神奈川から1名総勢、27名の出品であった。


小生がお伺いしたのが、初日20日のお昼過ぎ。
写真で見るように大盛況で実際作品に近づけなかった様なこともあった。


尚、出品者は、
(青森)
坂本素雪、矢越郁也、菊池千喜、寺尾蓬雪、宮本紅雪、川村祥香、布施瑞弘、浅利祥紫、古谷天岳、木村素風、工藤永翠、井戸向溪雪、銭谷雪蘭、須藤明美、市川紫泉、田澤館楓
(岩手)
小原華杏、橋本祥汀、及川祥空、熊谷祥仙
(宮城)
菊池杏仙、武山櫻子、岩崎陽光、佐々木一峰、鈴木英晴、山田翠香
(神奈川)
善波美香
以上の出品者で29点。
ちなみに、工藤永翠先生は、今年の第61回毎日書道展・会員賞受賞者。


坂本先生の書作。

龍龍会書展

2009-07-22 23:59:31 | インポート

龍龍会書展

その後日談
龍龍会書展では、非常に力の入った大きな作品で驚いたのだが、その理由を20日に石川昇玉先生から聞いた。
それは、稲村龍谷先生が全員に2×8(60cm*240cm)サイズの印を彫ると言われたからだと言う。

小生などは、最近印が小さくなって4分・12mm程度になっているが、2×8用だとかなり大きい。
逆に言えば、印の大きさに合わせて作品が出来たという案配らしい。
それで何故か「力」の入った展覧会になってしまったとか。
又、駒崎先生の「印」は作品に合わせて稲村先生の印を鈐印したとのこと。
それにしても、朱文、白文を取り混ぜて種々彫りわけ、同一人物の作家の作品に思わせないのはサスガとの評判であった。

以下再掲しておく。
会長・中村雲龍先生、副会長・稲村龍谷先生。
この二人の先生の雅号から「龍龍会」と名付けたのだそうな。
正確には、「出品目録」として記載してある。転載してみると‥‥
昨年(2008)の8月、第60回記念毎日書道展の受賞者による第23回中国へ書の研修視察団・訪中旅行が企画されました。
会名については、団長および副団長の雅号に共通する『龍』により『龍龍会』と名付けました。
ここに、帰国の報告にかえて、帰国展を開催させていただきます。

展覧会は、団長および副団長他、会員賞参加者8、毎日賞参加者10、U23毎日賞1の21人、21点。
会員賞参加者・
池谷天外(独立)、石川昇玉(日書美)、大平邑峰(書芸院)、駒崎流芳(日書院)、鈴木大有(創玄)、野瀬雋水(芙桑)、前田龍雲(書芸院)、森桂山(創玄)
以下省略。
会場に着いたのは、春洋会書展からだったので午後4時をだいぶ過ぎた頃だったか。
真ん中の椅子に、稲村先生が座り、大平先生も見えた。
出品者の印は、稲村先生が全員に刻して鈐印したと聞いていたが、駒崎先生は「私のは自分のもの(稲村先生の作)を‥‥」と言っておられた。
そうすると、龍龍会書展の案内状の文字は、中村先生、印は稲村先生と言う事になろう。
そして、印は、「白文」だから、作品に鈐印してある印も見たところ「白文」が多かった。
会場には、女性もいて取りあえず何も感じなかったのだが、後日駒崎先生によると、大平先生の奥様も見えてましたとのこと。
全く気づかず、今になって思えば恐縮するところである。
夕方、17時が迫り会場にテーブルが搬入される。
レセプションが始まる。
呼ばれてもいない上に、タダ酒を飲むわけにも行くまい。
だいいち春洋会でもう腹は満腹状態。
ほうほうの体で、会場から地下鉄の駅に走り込んだ。考えてみれば結局写真一枚も撮らなかった。