書道家Syuunの忘れ物

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上毛新聞コラム「視点」・核家族の視点でしか捉えられない金融機関支店長

2008-11-29 17:09:52 | 雑感・どうでも良いこと

上毛新聞コラム「視点」・核家族の視点でしか捉えられない金融機関支店長

 上毛新聞という地方紙のコラムに「視点」という記事がある。(http://www.raijin.com )
このコラムは、毎日輪番で決められた人たちの記事を掲載している。
http://www.raijin.com/news/kikaku/opinion2008/opinion20081128.htm

2008/11/28の記事は「車で5分」「お年寄りの目線考えて」と題して金融機関・某中金の支店長M氏が2年前単身赴任直後の回想を書いている。
そこで、前橋市内の中心部というマンションに引っ越してきて照明器具がないことに気がついて、管理人に電器屋の場所を聞くところが副題にあるとおり「車で5分」である。
「車で5分」とは、「ヤマダ電機だかコジマ電器」まで「近くにあるよ。車で5分くらいだから」ということで、本人は「単身の私は車を持っていない。従って『車で5分』と言われて途方に暮れる。」というのである。
歩いて5分なら400m程度だが、車で5分なら平均時速30kmとして2.5km。東京なら環状線の一駅程度。東京人なら歩いてゆける距離だし、必要とあらばタクシーで行くことだって出来る。
それがなんと「歩いてゆける近所の商店街に電器屋はないですか」と空洞化してシャッター通りになった街を歩き回ったという。
見つけたのは「おてんとさんも沈みかけた。」というが7月だから何時なのかわからない。しかし、シャッター通りの閉店は夏ならまだ陽の明るい夕方6時。一方、電器量販店は夜10時くらいまでやっている。

そこで今の感覚なら、そして金融という庶民に関わる職業人なら「クルマ社会だから」ガソリンが高くて大変だったろうとか、クルマの維持費が家計にひびくとか書きそうなものだ。11月下旬に新聞各紙に一面広告で揮発油税、ガソリン税の不合理について意見広告がなされたはず。
ところが、それに続くことは「これからクルマを『卒業』してしまうお年寄りがもっと多くなったらどうするんかと。」なのである。
そして、事例が群馬・前橋のお年寄りの意見ではなくて「亡くなった私のばあちゃんが言っていた。」事なのである。
筆者は東京出身ということだから「ばあちゃん」も東京人なのか、少なくとも上州人でないことは確かだろう。
その「ばあちゃんは、近所に大型スーパーができても。頑(かたく)なに近所の商店街で買い物を続けていた。」と続く。
だから「これからもっと増えるであろうお年寄りの目線で考えると商店街の復活は急務なのかもしれない」としめる。

ここから考えられることは、東京人というのは地方に来ても「東京の感覚」は抜けないと思うことだ。地方の「ばあちゃん」は、そして特に上州人の「ばあちゃん」はこの支店長が言うほど「頑なに近所の商店街で買い物を続け」ない。
車に乗って、どこまでも出かけるし、それも適わないときは息子や娘に頼むと言うこともするものだ。
「お年寄りの目線」とはいうものの、商店街の商店主は郊外に住居を移して住んでいないし、当然ドーナツ状態の空洞化で商店街に人がいない。
「愛妻が言っていたこと」のお年寄りのための自助努力‥‥でも、「商店街の個人商店」が成立し得ないシャッター通りではいずれにせよ絵に描いた餅である。

そして、「相手の目線を徹底的に大事にして知恵を尽くす‥‥ということかもしれない。」と「きれい事」で最後に結ぶが、金融機関の支店長としてどう考えても「相手の目線を徹底的に大事にして知恵を尽くす」ということが言葉の端端から感じられない。
なぜなら、未だに群馬の感覚でなく東京人の発想でしか物事を感じられないからである。
所詮、東京から地方に赴任してきた人物というのは、常に米国人がどこへ行っても米国流を押し通すのと同じように、どこへ行っても東京の感覚でしかものを見られない、判断できないというのを露骨に現してしまったものだ。
そして、年寄りは「独立して住む」という核家族の感覚にとらわれ、家族、子供などの支援という視点が抜けているのはなにやら妙な気がするというものである。


素人の博打のババを引かされた日本経済の憂鬱

2008-11-28 23:42:17 | 日本の経済議論

素人の博打のババを引かされた日本経済の憂鬱


産経新聞は、農林中金の平成20年9月中間決算で「保有有価証券の含み損が3月末の4306億円から1兆5737億円へと拡大。」と報じている。
思えば、昨年「証券化商品への投資残高を7兆円まで拡大」と広言していたとブログ
「低金利。日本金融機関・米国への資金提供の入れ込(2008.7.20)」
で既にエントリーしている。
プログでは触れいてないが、実はサブプライム問題が顕在化して「割安になった証券化商品を買いあさった(読売新聞)」。それも為替リスクを無視してのことだったはず。
又、その後の後追いブログ
「3000億円増資報道・解体か存続か事実上の破綻に近い?農林中金(2008.10.28)」
「3000億円増資報道・事実上の破綻に近い?農林中金 その2(2008.10.29)」
である程度その農林中金という農水省の天下り機関である実態を書いている。
そして今回は、
「財務基盤を強化するため、各地の農協などへ出資を求め年度内に1兆円超の増資計画も正式発表した。」
「上野理事長は、当面は海外重視の運用を見直すが、『グローバル化の流れは変わらない』と述べ、市況が回復すれば再び海外で積極投資する考えだ。」
と報道され、さすが元官僚の無責任体制というものを思い知らされるものである。
なぜなら、今後損失は拡大する傾向にありしかも、安易な海外投資に対する反省がない。
その上、「公的資金に頼るつもりはない」と逃げを打っている。
それは、もし金融機能強化法によって「資本注入」されるとするならば、例え「旧法で注入の条件としていた再編促進や経営責任の追求」が求められなくとも「道義的責任」から理事長の引責辞任は当然だろう。
しかも退職金なしで。
2008/11/27報道各社が「田母神前空幕長に退職金手続き 防衛省」と7000万円弱の退職金が支払われると非難している。
しかし、大損失した農林中金の(天下り)理事長の年俸が約4100万円だと聞かされれば、田母神前空幕長の退職金など安いものではないか。
ここで、理事長はこの大損失にも係わらず、「海外で積極投資」をうたっているからその責任など当然取るはずがない。管理職が責任を取らないから担当者もお咎めなしだろう。
なんとも無責任体制とはこのことだ。

一方、「サイゼリヤ・140億円のデリバティブ損失で連続ストップ安、見えぬ底」ともある。これは、「円相場が豪ドルに対して円安に振れれば支払金額が軽減されるスワップ取引を証券会社と結んでいた。ところが、実際には大幅な円高となり、その評価損は他通貨を含めて140億円に達しているという。」という円安が当分続くと思い込んだ誤りに基づくものだ。
同じ様なものが、「駒沢大、155億円損失」‥「「スワップ取引」と呼ばれる3つのデリバティブ(金融派生商品)契約。‥‥問題のデリバティブ取引は、主に金利などを交換する「金利スワップ」と「通貨スワップ」の2種で、昨年度、外資系金融機関2社と契約」
その他にもいろいろ報道されたが、探すのも面倒なのでこれのでとするが、どうして日本円は円安のままで推移すると考えたのか実に不思議だ。
少なくとも1年前の段階ではサププライム問題が顕在化して早晩金融バブルは弾けると想像出来たはずではないか‥‥今から見れば結果論だが。
実は、あのFXで巨額脱税の主婦は、脱税の摘発もあって7月にFXを手仕舞いし、又あの秋葉原のビルをキャッシュで一棟買いした「誤発注で大儲けした個人投資家」も株安を見越してそれなりに手を打ったに違いない。
機関投資家という一応プロが痛い損失を被る中、一部のセミプロ(?)投資家は上手に売り抜ける。
この人から考えれば、「機関投資家というプロ」が素人で「セミプロ個人投資家」が玄人ということになる。

さて、2008/11/28の読売新聞朝刊に日本銀行が発表した「10月の金融政策決定会合」の議事要旨が掲載されていた。読売新聞の見出しでは「『市場との対話』懸念残る」と批判的に書かれている。今のマスコミ経済人の論調は、「ゼロ金利政策」への回帰要望なので予想されたことではある。

産経新聞では「田村編集委員」が
イ)「日銀は日本の好機をつぶすのか」(11/22 20:53)
ロ)「円高を加速させる『ゼロ金利回避』」(11/23 09:37)
で日銀政策を批判しているが、世界経済の潮流を無視した事実誤認を繰り返している。
以下 イ)の論調から
1)日銀のかたくなな政策が国際的な金融政策の潮流変化についていけず、円高を加速させているためだ。
‥‥‥はっきり言って、今の円高が日本が「ゼロ金利政策」にせず、日本経済を魅力的にしなかったからと批判しているようだが、誰が見ても「円キャリートレード」の解消だくらいのことは素人でも分かる。
そして、ドル札を過大に発行すればドルの価値が下がるのは経済の常識というものだ。
2)急激な円高は株価の急落を誘い、大手金融機関を資本不足に追い込み、企業の収益力を奪う。                   
‥‥‥株価の急落は円高の影響ではなく、投資銀行などのファンドの解約による換金売りというのは同じく常識で、本来円安になるはずがそれよりも円買いの圧力が強いことを意味している。それだけドルが弱いということだ。
そして、企業の収益力を奪うというが、米国経済が失速して購買力もローンの組めない状態であれば、消費社会の米国へ売り込むという長年の「ビジネスモデル」が崩壊したということで、トヨタやソニーが減益になっても円高というより販売不振である。

そして、トヨタ自動車は欧米に対して、「ゼロ金利ローン」で車を販売するという暴挙に出そうな情報がある。それが出来るならは日本でやるのかといえばやらないだろう。
それだけ、日本で儲けて諸外国で安く車を売るというビジネスモデルは限界だと言うことだ。
3)「日銀が円資金を市場に出し渋るのは、ゼロ金利を避けるためだ」と市場関係者の多くがみている。「ゼロ金利」になると、短期金融市場機能での日銀の影響力は大幅にそがれ、金融調節の妙味がなくなる。日銀のエゴがゼロ金利を拒む。
‥‥‥とやっと、本音が出た。
ところが「ちょっと待てよ」なのだ。
なぜかといえば、日本が「ゼロ金利政策」を実施して、果たして景気は良くなったのかということだ。
事実は、過去ブログでエントリーしたとおり、企業は高金利時代に借りた資金の返済に追われ、「ゼロ金利政策」が終わる頃には持っていた資金を使い果たして倒産の憂き目を見るか体力を消耗した。
銀行は、金を借りる優良企業が減り、又金融庁が債権を厳しく査定して企業から貸し剥がしを促進した。
貸すリスクを取るならば、海外の投資ファンドに安い金利で貸し込んだのが「円キャリートレード」。
事実は、「ゼロ金利政策」というのは、「デフレ脱却の触れ込みながら」国内から資金流出を招き日本経済のデフレを促進したにすぎなかった。
論者は、そんなことを無視して尚も日銀批判を続けるのだが、もし今「ゼロ金利政策」に回帰したとしても、世界経済を見れば景気が上がるとはだれ一人思わない。
そして、まだ日本から米国へ資金をつぎ込めと主張して止まない。
それはこのくだり‥‥
「1987年10月19日の株価大暴落「暗黒の月曜日」以降は日米金利差を縮小させないために利上げできず、結局超金融緩和の中で株と不動産のバブルが膨張した。」
「『為替相場』と『日米金利差』は日銀にとって禁句だ。」

以前から言うように、日本の金を米国に注ぎ込むことによって、米国は返す予定もない借金の上にドル高好景気となり、日本は自身の金を貸した「おこぼれ」をもらうという自虐。
結果、日本から資金が無くなりデフレスパイラルに陥ったということである。
そして、この論者というのは日本は「デフレ不況」に陥っていなかったと思っている節がある。
「金融危機が世界的デフレ不況に転化し、日本も巻き込みつつある現在と、その恐れが皆無だった20年前とは状況が完全に異なる。」
冗談ではないぜ、日本は世界がデフレ不況に転化する前から「デフレ不況」だ。
好景気なら、とっくの昔に政策金利はサププライム問題以前の米国並みの5%にはなっている。
そして、日銀がもし再び「ゼロ金利政策」をして景気が上がらなかったとき、この「論者」はかっての帝国陸軍参謀殿のように「なぜだ!オカシイ」「経済が間違っている」と言うのだろうか。
ロ)の論調で、「日米の逆金利差はさらに広がりそうだ。円高は一層加速しよう。」と金利差一本やりで、米国のサププライム問題による不良債権処理とその過程によるドル札増刷を全く無視している。
そして、不思議なことに「円キャリートレード」の不合理さ、金融バブルの発生の原因の一つということを全く無視している。
無視するのは、「円キャリートレード」問題を出されると、「ゼロ金利政策」回帰という論調が根底から崩れる事につきる。
その上、論調の冒頭「円高に歯止めがかからない。原因は、ヘッジファンドなどの円買い戻しにあるといわれているが、実は現象に過ぎない。」と述べいるのにもかかわらず、
「ヘッジファンドも日本の金融機関から借り入れた円資金を『巻き戻す』。国内外で円売り、ドル買いを仕掛ける勢力はいなくなり、一方的に円買い・ドル売りが進む。」と逆のことを言っている。

はっきり言って、自分の論理が実体経済と合わないのに認めようとしないで自説を力説する。
しかも、過去の経済政策を顧みようとしない。
本当に何度も言うように、帝国軍人の戦略のなさと戦術の稚拙さを思い起こさせるものだ。
あの愚劣な作戦、インパール作戦は、現地の司令官が反対したために、更迭までして参謀本部が敢行した、単なる後ろに回り込む作戦。
日本の経済政策があの「インパール作戦」とならないように望むだけというのが僅かな願いというものではある。
イ)論文
【円ドル人民元】日銀は日本の好機をつぶすのか
11/22 20:53
世界金融危機はつい最近まで「日本の好機」のはずだったが、一挙に危うくなってきた。日銀のかたくなな政策が国際的な金融政策の潮流変化についていけず、円高を加速させているためだ。

 米低所得者向け高金利型住宅ローン(サブプライムローン)危機による打撃が比較的軽いとみられてきた日本の金融機関も大手企業も財務体質が良好だった。だが、急激な円高は株価の急落を誘い、大手金融機関を資本不足に追い込み、企業の収益力を奪う。

 現在の円高・ドル安の実相は金融現象である。ドル金利よりも円金利が高くなる日米の金利差逆転で、円の魅力が実力以上に増したからだ。日銀は政策金利を10月末に0・2%引き下げたあと、0・3%の水準を維持しようとして市場への資金供給を増やさない。これに対し、米連邦準備制度理事会(FRB)は金融危機に対応するために巨額のドル札を刷っては短期金融市場に流し込んでいる。FRBの市場誘導金利は年1%で、日銀の政策金利0・3%より高いが、為替相場に影響する市場金利は今月に入って米国で0・3%を下回るケースが増えている。米国は欧州とともにデフレ不況の深刻化を防ぐために、一段の利下げと量的緩和に踏み切る見通しで、日米の逆金利差はさらに広がりそうだ。そうなると、円高は一層加速しよう。

 「日銀が円資金を市場に出し渋るのは、ゼロ金利を避けるためだ」と市場関係者の多くがみている。「ゼロ金利」になると、短期金融市場機能での日銀の影響力は大幅にそがれ、金融調節の妙味がなくなる。日銀のエゴがゼロ金利を拒む。

 不可解なことに、日銀にとって円相場と株価は考慮外のようだ。金利据え置きを決めた21日の政策決定会合は「経済・物価の見通しとその蓋然(がいぜん)性、上下両方向のリスク要因を丹念に点検しながら、適切に金融政策運営を行っていく」とした。物価と景気動向に注意するというのは、昔からの日銀の常套(じょうとう)句である。危機対応しなければならないというのに、まるで平時モードそのものである。

 日銀が国際的な協調行動を警戒する背景には、1985年9月の「プラザ合意」の後の苦い経験がある。円高・ドル安進行阻止のために何度も米国との協調利下げに追い込まれた。1987年10月19日の株価大暴落「暗黒の月曜日」以降は日米金利差を縮小させないために利上げできず、結局超金融緩和の中で株と不動産のバブルが膨張した。日銀内の異論は封じ込められ、金融引き締めのタイミングを失した。以来、「為替相場」と「日米金利差」は日銀にとって禁句だ。

 金融危機が世界的デフレ不況に転化し、日本も巻き込みつつある現在と、その恐れが皆無だった20年前とは状況が完全に異なる。日銀が「独立性」を生かすために、国際協調に背を向け、日本経済が死に瀕するようなら、本末転倒もはなはだしい。(編集委員 田村秀男)
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
ロ)論文
【国際政治経済学入門】円高を加速させる日銀「ゼロ金利回避」
配信元:SANKEI EXPRESS 11/23 09:37
 円高に歯止めがかからない。原因は、ヘッジファンドなどの円買い戻しにあるといわれているが、実は現象に過ぎない。真因は急ピッチの日米金利差縮小にある。最近は米金利が日本より低くなる金利差の逆転が起きている。米連邦準備制度理事会(FRB)が金融危機に対応するため、巨額のドル資金を刷っては短期金融市場に流し込む量的緩和に伴って、短期市場金利が大幅に低下している。対照的に日銀は円資金の供給量を抑えて市場金利が政策金利(年0.3%)を下回らないように金利操作している。米国や欧州はデフレ不況突入を防ぐために、さらに利下げに踏み切る見通しで、日米の逆金利差はさらに広がりそうだ。円高は一層加速しよう。

 ■相場左右する日米金利差
 米国の高い金利と日本の低金利という日米金利差が円ドル相場にどう響くは、グラフをみれば一目瞭然(りょうぜん)である。日米金利差は日銀が「ゼロ金利政策」を打ち切った2006年7月をピークに縮小し始めた。金利差の縮小がはっきりした07年6月から円高方向に振れ出した。米国発グローバル金融危機の発端は07年8月の米低所得者向け高金利型住宅ローン(サブプライムローン)危機勃発(ぼっぱつ)だが、円はその2カ月前に円安の底を打っていた。

 日米金利差が円ドル相場を左右する傾向は1980年代後半から一貫している。機関投資家やヘッジファンドなど投資ファンドが比較的低い円資金を日本で調達して円を売りドルを買って、より高金利のドル資産で運用して収益を稼ごうとする。それは「キャリートレード」と呼ばれる。

 ■「ミセス・ワタナベ」
 数年前からは、海外で「ミセス・ワタナベ」と総称される日本の個人投資家が「外国為替証拠金取引(FX)」に参入するようになった。最大で手持ち資金(証拠金)の200倍ものドルを買い、円安・ドル高と日米金利差で収益を容易に稼ぐことができた。これも一種のキャリートレードである。FX取引仲介業界によれば、FX取引が盛んなときには1日で3兆円分もの円売り・ドル買い介入効果が見込めたという。

 「ミセス・ワタナベ」と海外の市場関係者から呼ばれたのは、家庭の主婦までが手を染めるまでFX取引が一般化したことが背景にある。日本人の姓に多い「渡辺」を引用したわけだ。実際には5割以上が会社員で、多くはインターネットを駆使してFX取引している。読者のなかにはそんな「FXプロ」もいらっしゃるだろう。

 ところが、ここへきての急激な金利差縮小と円高で、FX取引で痛手を受けている個人投資家も多いようだ。特に金利差が開いている間は、多少の円高になっても金利差益で損失をカバーできたが、今はその逆である。日米金利差は解消、逆転したからだ。個人を中心としたFX投資家はこうして退場を迫られている。ヘッジファンドも日本の金融機関から借り入れた円資金を「巻き戻す」。国内外で円売り、ドル買いを仕掛ける勢力はいなくなり、一方的に円買い・ドル売りが進む。

 ■忘れられた本来の使命
 現在、米国の短期市場誘導金利は年1%で、日本の政策金利0.3%とはまだ差がある。ところが実際の市場金利は今月に入って米国で0.3%を下回るケースが増えている。日銀は10月末に0.2%利下げしたあとも0.3%の水準を維持しようとして市場への資金供給を増やしていない。米FRBは欧州とともに近く一層の金融緩和に踏み切る情勢で、日銀が現行の金融政策を続ける限り、日米金利差逆転が定着しそうだ。その結果、円高・ドル安にはずみがつくのは必至だ。

 現在の円高・ドル安は日米の金融政策のずれから生じた金融現象なのである。日本の金融機関や産業界は、世界金融危機による直接の打撃は米欧に比べて少ないとみられてきたが、円高に伴う企業収益の大幅減と株価の急落で、金融機関は株式の含み益を喪失、企業の資産も損なわれている。

 日銀はゼロ金利回避により金融市場への影響力を保持しようとしているが、日本経済の安定という本来の使命を後回しにしている。その結果、健全だったはずの日本の金融・産業界が金融危機に引きずり込まれ、死屍累々(ししるいるい)という最悪の事態になりかねない。
 (特別記者・編集委員 田村秀男/SANKEI EXPRESS)

大月隆寛・【コラム・断】で自爆する・マスコミへのおもねり暴露

2008-11-27 01:47:31 | マスコミ照魔鏡
大月隆寛・【コラム・断】で自爆する・マスコミへのおもねり・暴露

産経新聞の【コラム・断】何をしたかったのか?(2008.11.26 03:19)
というコラムで、今更ながら例の田母神俊雄・前航空自衛隊幕僚長の投稿論文問題に触れている。
それで、なぜ今頃というのか又は掲載が今頃になったのかと思えば、掲載が今頃になったのかも知れない。
それにしても、その文面を見てみると確実に投稿論文「全文」を読んでいないとありありと分かる。
何故なら冒頭で「そこまでやるなら、普通クーデターでしょう。」と何やらビント外れの書き出しだからである。なぜピント外れなのかと言えば、投稿論文は「歴史に関すること」で自衛隊・自衛官等には何も触れていないからだ。
はっきり言って、「歴史」を書いて「クーデター」という物理行動へとは、普通どう考えても結びつかない。何と言っても「行動せよ」という「アジ」論文でもない。
多分、認識は「朝日」「読売」などの新聞報道の範囲に留まる。
そして、そのマスコミは一様に「侵略戦争でなかった」、「村山談話に反する」であって、論文全文に踏み込むものはなかった。
要するに、田母神論文を一切読ませないように「封印する」というのが、国会参考人質疑でも堂々と委員長から述べられたことだ。
そして、その封印という作業は、テレビ放映にNHKは参加せず、新聞各社で論文全文を掲載したところはない。朝日、毎日新聞などが、ほんの数行引用したくらいだったはず。

大月隆寛(札幌国際大学教授)は、藪にらみの意見を得意とするところなのだが、文章の基本の「原文の当たらない」という欠点が露出した。多分こう言うのは性格なのかも知れないが、学者としては失格の部類としてか思えない。
かって、子どもの修学旅行に行かせる金が(もったい)ないから、修学旅行に行かせなかったと同コラムで書いた事があった。
こういう種類の人物は、自分可愛さで自分に対しては無駄遣いしたりするタイプだから、他人のことが分からない。
そして、売文業としてマスコミの動向に敏感に反応して「左翼か変人」を装うのはけしからぬことだ。
それにしても、軍人と自衛官の区別のつかないのがこういう売文業にもいるのか、その振りをするというのは日本人の良くないクセだ。
日本の言葉で言う「自衛官」とは、「官吏」であって「警察官」「消防官」「裁判官」‥‥と数多くある「役人」の一種だ。
それを軍人と便宜上「言い換え」区別するというのが戦後「欺瞞」である。
だから本来、海上保安庁という国境を越える警察権を行使する「行政機構」は「軍隊」でなくてはならないが、これも「官吏」という枠内にいる。
その結果、「海上保安官」は拿捕されて捕虜になっても「軍人」ではないので、かってに処刑されても法律上保護されないという欠点がつく。
そして、
「政府見解はもとより、あなた自身の職務として最前提となってきたはずの米軍との信頼関係を損ないかねない発言をあえてしてまで、果たしてあなたは何をしたかったのか?」と全く無知なことを暴露してしまったのは、またまた痛かった。
米国も当時日本と同じように、コミンテルンの被害を被ったという共通認識があれば、田母神俊雄論文もあながち「米国非難」ではない。

正直言って、「何もわからぬこちとらシビリアンとしては。」といいながら、その「シビリアン」以下で、家庭の幸せも願わず、かつ子どもの幸せをも奪う非情さ。
情けない人物というは、田母神俊雄氏ではなくてこの「大月隆寛」その人であろうということを暴露してしまった「自爆」だった。

【断 大月隆寛】何をしたかったのか?

2008.11.26 03:19

そこまでやるなら、普通クーデターでしょう。え? そこまで考えてなかった? っていうか、そんな同志が今の自衛隊の中にゃいなかった、って、そういうことですか? 田母神将軍。

  現役の軍人(ですよね、どう考えても)が、腹くくって(ですよね、普通は)あそこまでのことを発言し、物議を醸し、世間を騒がし、更迭されたついでに国会 にまで喚問されても、一向に悪びれることなく自説を展開したのは、ひとまずあっぱれです。立場をわきまえぬ無法千万なことはもちろんですし、だからこそ解 任も当然でしょう。でも、逆にそこまであえてやってのけるからには、「それから先」もちゃんと熟慮し、手当てをした上でのこと、と普通に期待しちゃうじゃ ないですか、何もわからぬこちとらシビリアンとしては。なのに、どうやら何もなかったらしい。理屈はどうあれ、まずその一点であたしゃ、釈然としません。

  たとえば最近、裁判官が判決に際して、ちょっと個人的な説教垂れたりするのが目立ちます。失礼ながら将軍、それと通底する気分、どこかにあったりしません でしたか? つまり、「自分」の名前で世間にものを言いたい、表現したい、と。だとしたら、正直がっかりです。情けないです。

 わが自衛隊 の中でいちばん米軍とかかわりの深いのが空自、と聞いています。有事想定の共同演習でも、米軍との連携が最も密接に求められる、と。政府見解はもとより、 あなた自身の職務として最前提となってきたはずの米軍との信頼関係を損ないかねない発言をあえてしてまで、果たしてあなたは何をしたかったのか? 軍人で あり武人である以上、まさか「自分の意見を言いたかった」、だけじゃないですよねえ…?(札幌国際大学教授)


蘭亭序を中心として‥碑法帖入門・伊藤滋先生講演

2008-11-24 23:21:53 | ちまたの噂・雑記事
平成20年11月23日(日)、上野の精養軒で伊藤滋先生による講演会があった。
演題「碑法帖入門・蘭亭序を中心として」
蘭亭序は、あの「蘭亭序」の話である。
確か、この夏には東京江戸博物館で中国から臨模本の展示があって、大盛況だったと思う。
今回は、「蘭亭序」の拓本や臨模本を比べて年代が新しいとか、拓本を又石に彫って拓本を取るとかそう言う中国の訳の分からないことを説明した。



兎に角、蘭亭序と言うものは、真筆が存在しないで全て模造品が出回っている。
その上、その蘭亭序を石に彫って、拓本にしたものが何種類もあり、事実「宋時代」以降にしか遡れないから妙なものだ。



そして、その拓本自体に違うものが結構ある。
兎に角面白いのは、その拓本、臨模本の時代を遡ることも本物であるかも一切確かめようがないという。
そこで、時代を確かめるため押してある「蔵書印」で古いと見るしかないという。



拓本も何種類もあって、このうち二つずつが同じ石からのものと言うことを示したもの。



拓本の取り方、印面の部分の石の堀方に新旧の区別が付く。



拓本も、その前のものの拓本を元にして、石に彫って又拓本を作るとか。



それで、拓本に押されていた印を見てみると、同じ印のはずなのに微妙に違うということが分かる。
早い話、印も偽造されたのかも知れないということもある。
いずれにせよ、中国では偽物文化が盛んだから金儲けにたくさん複製品が作られたというのだろうし、多分現在でも作られている。
講演は、何やら興味を持って2時間半程度の講演を終わり、蘭亭序の本を売っているというので2000円で購入してきた。
綺麗な拓本の写真があって、こんな安い値段で販売出来るのも拓本本体を持っているからなのだろうと思われる。
今年の、春先香港、クリスティーズで「蘭亭序」の拓本が販売されたという。
買ったのは、日本の女性だそうで約5000万円とか。
但し、今まで見る蘭亭序とは、大分趣が違う写真が紹介された。

その後3時30分から上野精養軒の場所を変えてレセプション。
それにしても、休日は精養軒も人が多い。



よく知った顔を見るけれど、結構知らない人も多い。


2年前は、何かの関係からか、レセプションに出なかった人が多く料理が大量に余ってしまったことがあった。
そこで食い意地を張って、ピラフの中の「貝」を食べたら、火が良く通っていなくて??翌日から熱を出して3日間寝込んでしまったことがあった。
今年は、貝類は出でいなかったが、なるべく注意して食べたというもの。



なんというか、あまり食べないうちにお腹が一杯になり食べられないというのは困りもの。
又、今年は結構人数も多かったのが、少し気がついたらほとんど食べ尽くされていた。



今年は、不思議と最後のコーヒーとアイスクリームが早く出で、3時30分開始から1時間程度でレセプションが終わってしまったのは、帰る方としては有り難かった。
というよりも、料理が終わったと言うものだろう。
それにしても、上野精養軒のパーティ料理は結構美味しいのでいつも楽しみにしているものではある。

第40回日展・第5科・書を見る。

2008-11-24 00:02:40 | ちまたの噂・雑記事
平成20年11月23日(日)は、新国立美術館の開館に合わせて9時30分に東京駅に到着して、何とか10時に間に合った。
日展を見るためなのだが、実は2年振りである。
なぜなら、日展が東京美術館から新国立に移った昨年は様子が分からなかったから、行かなかったからである。
それが今年は、画材屋に行ったら前売り券が売られていた。
前売り券というと、以前都美の時は、JRの券売り場で売られていたが、今回は800円で地下鉄の通路で前売り券が売られていた。
だから、当日会場の入り口で1200円の当日券を買っている人など見たことがない。
自分は、幾らで買ったのだろうか、多分700円。
多分というのは覚えていないし、領収書もなかったからなのだが‥‥



日展というと、写真がない。
何故かというと、休祭日は写真撮影は禁止、平日でも撮影許可がいる。
しかし、有料の毎日書道展であっても、書道関係というのは写真撮影はどこでも「可」というのが言わば常識である。
確かに、「絵画」など勝手に写真を撮られてしまえば、「絵はがき」「図録」などが売れないから経営上問題があるだろう。
それにしても、未だに「絵はがき」を売っているなど、旧態依然としているのは「日展」ならではなのかも知れない。



それでも都美の時、知り合いの書家の作品があったので「目を盗んで」デジカメで撮ったことがある。
何故なら、休日だと行っても、「書」の平入選の場所などほとんど人っ子一人いないところだからだ。
それが、どこからとも無くあの青の制服を着た「おばさん」が飛んできて、一くさり「休日は撮影禁止」ですと怒鳴られたことがある。
規則は規則だからね。
しかし、書道関係だと非常に奇異である。
実は、結構見ていないところでカメラでパチパチと記念撮影というのは日展5科ではたまに見ることがあるからだ。

さて、都美から新国立になって展示スペースが多くなったと思ったら、どうもそうではないらしい。
何故なら、依然展示スペースの割り振りは都美時代とあまり変わらない気がしてならない。
新美というのは、各階に大きく分けて3大展示スペースがあって、必ず1階の三分の一は新美の企画展。
だから、1階は2スペース。2階は3スペース、3階は、講堂を挟むために2ないし1スペース。
そして、1科日本画と2科の洋画で1.5ずつ使い、工芸と彫塑で2使うと、5科の書は相変わらず1スペース。
そこに1000点以上(公募入選970点9.17%)、日展の総入選数の72.82%が展示されるから相も変わらず見苦しい展示だ。
今年は、1科の日本画(入選率34.85%)の展示などは素晴らしい展示で、洋画(24.75%)もそこそこ、彫塑(64.02%)も同一フロアでの展示になったから結構見栄えがする。
一方、入選率が8%前後だった5科は、新美になってから9%前後になったから展示数が200点ほど多くなった。
いずれにせよ、毎日書道展などに比べたらわかりにくい展示だ。
特に、特選が25室という出口のところにある。
しかも、審査員、役員、委嘱と入選、新入選などキャプションは全て同じ色の「明朝体」のパソコン打ち出し。
この文字が小さい、見にくい。
その上、説明が「写植」のようなもので益々貧弱。
作品はどうなんだ‥‥‥早く言えば、全く同じ。
何年も同じ。多分、数年前の作品を持ち寄っても同じ展覧会が出来てしまうくらい同じ。
しかも、特選‥‥といってもどこが他の作品と違うのか、一般人ならというか我々でも区別が付かない。

毎日系だと、創作が強いからそれなりに作品の善し悪しが判る。
ところが、日展、読売系という先生とそっくりのコピーを書かない限り入選はしない。
‥‥ということであれば、書道界の内情というものは大方想像が付く。
はっきり言って作品ではなくというか、作品では優劣の区別が付かないから、人物で序列をつける。
いろいろ複雑な人間関係の上に成り立つのが「特選」という賞というものだと言うことだ。



ならば、書だけかと言えば、「絵画」の世界だって同じだと聞く。
「特選」を取るためには、「師系列」要するにどこの先生の「会」に所属するのかというのが条件だそうだ。
そう言えば、日展の洋画‥‥版画の「ジュディ・オング」。
今年は、この名で出でいた。但し、一番最後の方の部屋の末席の場所だった。



この長い列は、レストランに入るためのもののよう。
やはり連休は大混雑だ。
書道は、不思議と毎日展より少ない気がするが。

日本経済が回復しない訳・「納得する」仕組みの脳構造の欠陥

2008-11-20 22:45:22 | 日本の経済議論
日本経済が回復しない訳・「納得する」仕組みの脳構造の欠陥

2007/02/03産経新聞・【正論】東京大学教授・松井孝典「納得する」仕組みをどう作るか
‥‥という論説があった。
その要約は‥‥‥


科学というのは、このような「分かる」という認識の世界である。
信じるのはこの意味で「納得する」の分かりやすい例である。



とのことで分かるとおりである。
その「納得する」仕組みとは、当時の小生のブログでは「『分かる』と『納得する』の定義をし、その上で確立された事柄はそのまま信じろと『衆愚』を主張している」と書いた。ここでは、この「納得する」仕組みを別の言い方で解き明かしてみたい。
この松井先生が言う「納得する」仕組みとは、教科書に書いてある事、又は「政府見解」などの件は、国民の英知を集めて説いたものだからそのまま「信じろ」と言うことである。
だから、その教科書や「政府見解・方針」の中身は詮索せず、そのまま受け入れろと言うことでもある。
ところが、昨今のサブプライム問題に端を発した世界同時不況は、正にその「納得する仕組み」の破綻であると言える。
なぜなら、サブプライム関連の住宅証券は、格付会社がAAAの評価をしたから「安全確実」と誰もが信じて投資したのだが、その中身は誰も知らなかった。
これは、それこそ「納得する仕組み」では身の破滅である事を表している。
一方、日本経済を見てみれば、欧米に留学して欧米流の経済学のスペシャリストになった学者は、その経済学理論に対して一切の疑問を挟まない。
すなわち、教科書の中身は疑わない。そうは言うものの、その教科書に書かれているものは「例外」なのかもしれないと言うことだ。
かって、遺伝の教科書として1865年に発表されたメンデルの法則というものを習った。しかし、そのメンデルの法則の例というものは「例外の特殊例」であることも一緒に習ったのを記憶する。普通一般に自然現象などを数式等に表すことがある。しかし、その数式に当てはまるのは、その数式が生まれた環境によるもので、環境が違えば意味がない。
ところが、「教科書」に誤りがないと錯覚するとそんな原則も無視する。
なぜなら、「分かる」というその教科書に書いてある事を疑うのを嫌うからだ。

そして、「納得する」という「教科書」をしっかりと身につけ学歴社会という階段を上り詰めたのが「中央官庁の官僚」や「経済学者」ということになる。
昔で言えば、幼年学校、士官学校、陸大と卒業して参謀本部入りの軍人官僚である。
当然その教科書に書いてあること以外では何をやって良いのか分からない。
だから、もし日本に本当の経済学者がいるならばあの「失われた10年」から学んで新しい「経済学」を構築しているはず。
現在そんな経済学が出来たとは聞き及んでいない。彼ら経済学者は自らが学んだ「教科書」から離れられず、今社会現象を説明できずにいる。

この松井先生は、その「正論」の最後で、


「今、日本で必要なことは、したがって『分かって』もらうための仕組みではなく、『納得して』もらうための仕組みを考えることなのである。その納得する仕組みは、風土と歴史によって異なる。
わが国独自の、その様な仕組みをどう構築するかが問われているといってもよい。」



と実に曖昧なことを言っている。
ところが、そこでよく考えてみれば、実は「納得する」というのは、本来狩猟民族の理解であり、「分かる」というのは自然を相手にする農耕民族の思考回路であることが分かる。そう言う農耕民族的の「分かる」世界に、「納得する」という観念の指導者が出る場合、非常に問題が多い。
何故なら、その様な「分かる」世界では「失敗したときの」フィードバックがないからだ。そして、狩猟民族は、「納得する」という一致団結した統制を取ると共に、失敗したらその指導者を交代させ、「失敗の理由」をフィードバックする新陳代謝がある。

 週刊新潮 [ 2008年11月27日号]
あとの祭り/なぜ、田母神論文が生まれたか・渡辺淳一
を見てみると、日本占領下の戦後教育の成果というものが良く出ていることが示されている。
何故なら、渡辺淳一氏は、典型的な「納得する」教育を受けている。
それでいて、その認識がないままに、自分の「体験」すら物事を分析出来ず、誰かに言われた短絡した思考・評価でしか「体験」を説明出来ないという欠陥に陥っている。

その他のことは、前回のブログ
「産経・正論「分かる」と「納得する」の言い回しの理解」
http://pub.ne.jp/Indianinkworld/?entry_id=530782
に譲るとして、今いる自分の環境も経済も分析出来ずに日本はどうしたものか。
考えてみれば、麻生総理がG20に行って言ったことは、「1000億ドル(10兆円)」をIMFに供与すると言ったのみで、何をどうするのかは全くの人任せ。
そして、今日本にも世界同時不況が押し寄せてきても、なすすべもない日本経済ということを見れば、既に「納得する」世界の脳構造は崩壊したといって間違いない。

どどのつまり、「失われた10年」を経験しても何の成果も理論も上げられなかった経済学者、政治家達というのは、もはや日本を託すのには適しないと言わざる終えない。


地方を犠牲にして、大都市・大企業だけ栄えた国の経済の終焉

2008-11-18 20:28:23 | 日記

地方を犠牲にして、大都市・大企業だけ栄えた国の経済の終焉


今日の新聞社説を読むと、「国内総生産(GDP)実質成長率は、年率換算の前期比でマイナス0・4%だった。連続のマイナス成長は、ITバブルが崩壊した2001年以来のことである。」とある。
しかし、今までの実感として景気が良かったのか??と訝るものである。
なぜなら、地方ではあの「住専処理」から一貫してマイナス成長だからだ。
しかも、あのなんでも中国へ、中国へ工場進出と地方にあった工場は閉鎖され、その下請け企業は廃業するか、親企業の後に従って中国へ工場進出するしかなかった。
そう言う地方の犠牲の上に東京という「景気の良い都市」が存在して、中央官庁の経済関連役人やら、学者が好景気を謳歌していた気がする。
いずれにせよ、バブルの頃から地方に何か波及してくるときには「景気が弾けた時」で、見たことも聞いたこともない東京のマンション業者から「投資向けのマンション」を買いませんかという電話がかかってくる。
そのうちにそんな電話も掛かってこなくなったと思ったら、街の真ん中の大きな邸宅の持ち主が「相続破産」寸前で投げ売りしてマンションが出来るという。
ところが、あの改正建築基準法のお陰で建築確認が遅れ、そして不動産バブルが弾けたのか、今や邸宅の跡地には雑草が蔓延る空き地になってしまった。

この様に地方から国の政策を見ていると、国内景気を良くしようなど何も思っていない事がありありと分かる。そして、大企業は海外生産、海外工場進出で国内の雇用は益々細り、例の低所得者層という人達を創出させた。
確か、バブルの頃には自動車工場などに期間工として勤め、月額4-50万円も稼いでいたのも実は彼らだった。

そして、借金をしてものを買いあさっていた米国民は、今や借金も出来なくなって現在の景気減退と言うことになったが、そもそも彼らに借りた金を返すのかという疑義がある。
金を借りたら、返さずそのまま逃げてしまうと言われる中国人と同じように、金を借りても返さなくても良いのなら金を貰うのと同じ。
こんなのであれば、誰だった金を借りものを買う。
しかし、日本人というのは元来借金が嫌いな人種で、今でも買い物は「いつもにこにこ現金払い」と言うのが普通だ。
だから、日本人というのは金がなければものは買わないし、買うとしても値崩れして周回遅れの製品を買ったりする。
今、内需拡大と経済評論家、マスコミ、チーフエコノミストは言う。
ところが、庶民から見れば高給取りの連中のくせに金のない「庶民に金を使わせる気か」と怒鳴りたくなる。
この様に日本の政策というのは、国民を犠牲にして金を外国に貢ぐようなことをしていた。
その貢がれた金で米国は借金をし、又その金で日本の土地を買い、企業を買った。
これこそ、日本人の自虐の最たるものだろう。
しかも、そんな日本から工場を海外に移して利益は、日本に持ち込まない大企業と米国への資金供与を目的として低金利政策を続けたのなら、日本政府当局というのは国民の敵のようなものだ。

ここで国の成り立ち、国家としてなすべき事の基本を考えてみよう。
国家の目的の第一は、国民の安全保障と国民の利益。
それと当時に国民を豊にすることだろう。
よくよく考えてみれば、米国は「強い軍隊と強いドル」を希求し、同じく中国もロシアもEUも多かれ少なかれ似たようなものだ。
振り返って、日本を見てみれば、日本は軍隊を持たず「事実上の警察予備隊」という軍隊でない軍隊を持ち、最近では「昨年9月、談合や情報流出など相次ぐ不祥事の再発防止のため設立された防衛監察本部」という組織が思想統制をして、思想的に弱体化させるという。
経済では、世界でも珍しい「紐付き」でないODAで金だけ出して、その途上国に日本の国連常任理事国入りを反対されたり、又は、謝罪に謝罪をして「国軍」を削減したり‥‥
一方、金を出せ、技術をだせと言われると金も技術も何の制約もなしに出して、逆にその成果は教えられないと言われる。

この様に最近では、日本は国民を守るための「軍隊」に対して「守るべき国はない」と公言してはばからない。
又、国民の金は国外へ持ち出して「円安にして高いものを買わせ」、国民の財布には「金がない」のにもっと出せと増税するという。
福祉も大切だが、福祉重視の国は日本とは大きく違うと言う事をひた隠しにして、その福祉という「ばらまき」のみ強調している。
正直言って、映画の題名ではないが「わたしは貝になりたい」
‥‥とは地方に住む国民にとって、今の自虐政府という悪夢が通り過ぎるのを待っていると言うことである。


前橋市・水と緑と詩のまちが泣く・街路樹伐採

2008-11-17 16:05:00 | 風景写真館
11月も中旬になって、周りの木々の紅葉もだんだんと綺麗になった。特に今年は、赤や公孫樹(いちょう)の黄色には目を楽しませることもある。
結構小道など綺麗なものだ。
しかし、こういう広葉樹というものは、夏には木陰を作り、今散々言われている「二酸化炭素」吸収には効果がある。
そして、不思議なことに紅葉というのは、色々な場所で時期というものがある。
ところが、最近国道などの街路樹では紅葉が見られない。
なぜならば、10月下旬から木々の剪定に入り、紅葉して落ち葉が落ちる前に刈り取ってしまうからだ。
落ち葉が、下水路をふさぐという色々な理由があるのは確かだが、味気ないことだ。

ところが、そんな車が多く通らないようなところでも異変がおきていた。
それは、前橋市立図書館の駐車場だった。



驚くべき事に、あるはずの樹がない。
この場所の過去の写真を見てみれば明らかだろう。


この写真は、2003年12月に余りに綺麗だったので撮っておいたもの。
逆の方角から見ると。



この銀杏の木は、いつ頃からあったのか記憶がない。すくなとも20-30年以上前から同じ状態であったはず。
この駐車場が出来る前は「逓信病院」が戦後あって、その後空き地だったのだがその頃にあったのかも分からない。

そして、この銀杏の葉は、結構近所の人が掃いていたりするのだが、今や無残なことになってしまった。


切り株の後も新しい無残な銀杏の木。
これは、落葉する前に切ってしまおうという意図が見え見えだろう。これでは前橋市のキッャチフレーズ「水と緑と詩のまち」が泣くと言うものだ。





無残な切り株が並ぶ。




よく見れば分かるように、街路樹や木々が恐ろしく少ない。
そう言えば、群馬県庁の周りの樹齢100年を超える「厩橋城」からの木々を一時の行事のために一斉に切ってしまった。
それは、国民文化祭というのが、群馬県で行われたときで、そのイベント用に巨大スクリーンを設置するのに松の木が邪魔だったからであると言われる。
そして、一部を伐ると不自然と用もない全部の樹をきってしま伐ってしまった。
その時の小寺知事は、その後の5選を目指した知事選で落選し、その報いを得たが木々は戻らない。
小寺元知事などのように旧自治省出身の落下傘政治家は、地元の伝統文化を破壊するのが通例で、戦後は県庁のある場所の厩橋城の遺稿は徹底的に破壊された。

それにしても、小さな木々だと言っても、市民に楽しまれた樹を単なる役人の都合で伐採するというのは、前橋市というのは地球温暖化阻止を唄っていながら、実はそんなことは「関係ねぇ」という役所だと言うことがよく分かる。



そしてこの美しい風景は二度と見られないのである。
2003年12月2日撮影。

露出時間 : 1/125秒
レンズF値 : F4.9
ISO感度 : 100
Exifバージョン : 0220
オリジナル撮影日時 : 2003:12:02 10:01:33
対象物の明るさ : EV6.8
露光補正量 : EV0.0
開放F値 : F2.8
レンズの焦点距離 : 24.00(mm)


文藝春秋2008 12月号立ち読み「世界同時不況 日本は甦(よみが)えるか」

2008-11-16 23:59:47 | 日本の経済議論
文藝春秋2008 12月号立ち読み「世界同時不況 日本は甦(よみが)えるか」

‥‥暗澹たる気持ち‥‥‥

文藝春秋で「世界同時不況 日本は甦えるか」と題して高橋洋一/榊原英資/竹森俊平/渡辺喜美/水野和夫/田村秀男/宮崎哲弥(司会)が話し合っている。
1-「失われた十年」再び来たる 2-株安・円高地獄の脱出策は? 3-「アメリカ金融帝国」没落す 4- GMがトヨタに買われる日
と大上段に振りかざして、「未曾有の経済危機の核心を七人のエキスパートがえぐる」としているのだが、はっきり言って従来の経済談義の枠から出るものではなかった。
特に、高橋洋一氏など小泉内閣の総理秘書官で、いわゆる米国式な視点で日本経済を作り直そうとした意見は、どうもしっくりゆかない。
はっきり言えば今の現状に合わないというか、悪いことを言えば「旧帝国陸海軍の参謀殿」というかって応用の利かない戦術しか提示出来なかった、経済議論でしかない。
しかし、同じ様な米国経済ベッタリの竹森俊平氏(慶応大学教授)や水野和夫(三菱UFJ証券)、ベッタリでもないとしても同じ傾向のある田村秀男(産経新聞論説委員)氏は意見が合うようだ。
違うのは、経済はド素人という渡辺喜美と、榊原英資(元財務官)。
そして、特に突出して話を主導しているのが高橋洋一なのであるが、榊原英資が持論を展開するとほとんど理解出来ないと言うか、頭が受け付けない様子が見て取れる。
榊原英資の持論というと、以前エントリーしたのを再掲してみると‥‥

地方紙に「にっぽん診断」というコラムがあった。
「円安バブルの崩壊」「個人投資家にツケ回る」としてあの榊原英資(元財務官・早稲田大学教授)が述べている。
「‥‥ 極端な円安が今、崩壊した訳だ。長く続いたゼロ金利、低金利の異常さが今になってやっと認識され始めたのだ。『デフレ脱却』を旗印にゼロ金利継続を主張した小泉・竹中路線とそれにそこそこ付き合ってきた日本銀行の誤りのツケを、‥‥円安バブル崩壊のコストは極めて重く日本経済にのしかかることになろう。」

この文藝春秋誌上では、ゼロ金利政策、低金利政策を早く止めて政策金利を2.0%程度にしておけば、利下げ余地もあって日本経済にとって良かったと述べいているに留まる。
一方、高橋洋一氏は、今後「ゼロ金利政策」に移行し、且つ「量的緩和」を推し進めれば景気は回復すると広言して止まない。
そして、「ゼロ金利政策」は効果がなかったではないかと反論すると、「量的緩和」をしても翌日には「金」を引き上げたと日銀の政策を批判する。
しかし、実際は「量的緩和」をして金融機関に「金」を積み上げても、借りる企業はなく単に金融機関のみに金が集まって、市場には流れなかった。
そして、逆に企業は持てる資金、資産を食い潰して「高金利時代」の借入金の返済に充てたわけで、市中の「金」マネーサプライは減少したはず。
実際データーを見てみると(日銀・量的金融指標(市場規模・残高等)/通貨・マネーサプライ (1998年4月から2008年4月まで))
「ゼロ金利政策」を実施した1999年2月から半年以上経った1999年12月から一般企業で急速に資金力が減り、事実上のゼロ金利政策が解除される年の2006年の3月頃には最低値を記録して以後多少の微増がある程度である。
(但し、何の指標で見るかで異なるが)
こんな風に、「ゼロ金利政策」というのは経済に関して意味がなかったし、水野和夫の様に、例え高金利にしても「金を借りている人」にしか影響が出ないと単純に考えている人物もいるから‥…といっても水野和夫氏は、中国経済信奉者だから日本経済はどうするのだと言うものであるが‥‥

最後の方になると、高橋洋一氏などが主張する「マクロ経済」ではなくて、これからは「ミクロ経済」だと榊原英資氏に言われると、その内容も少々雑であったが、やはり頭が全然受け付けない様子であった。

景気を良くする、経済を良くするというのは、国民に「金を持たせる」か「国民の資産」を公平に増やすと言うことにつきる。
その典型例が日本のバブル経済だったのだか、その簡単な原理が分からないのが、ここに参加した「七人のエキスパート」という人達の大半の様だ。
国民の7割が資産(?)として所有している不動産の値上がりは、心理的に国民に「小金持ち」の感覚を与えたし、事実土地を売れば一生食えるというにわか土地成金も出現した。それが回り回って株、債権になってきた。
それを潰したのが、いわゆる米国経済至上主義者であり、マスコミ、官僚達の共産主義思想による「土地所有」アレルギーだった。
そしてもう一つ米国にやり玉に挙げられたのが、「マル優」と日本の貯蓄信奉。
批判されるや税金を取りたい国税は率先して「マル優」を廃止、国は機関投資家に毎月米国国債を幾ら買ったか報告させた。
その米国国債は、やはり米国の差し金によってのその後円高による為替差損で大損をして、証券、生保の破綻の遠因になった。
そして、その手が使えなくなれば、低金利として米国債権へ投資させた。

要するに、日本の国内から金が消えて無くなるというのは、デフレ不況。
今の日本政府の遅い対応、物事の本質を理解していない経済対応は、益々日本経済を混迷させるとしてか思えない。

「良い円高」と「悪い円高」との議論を文藝春秋ではしていたが、実際は「良い円高」しかあり得ない。
何故なら、円高は輸入大国でもある日本では直接国民のふところ具合に影響する。
それに対し、輸出企業のトヨタ、ホンダ、ソニーというのは、ドルを円換算しての話であって、日本企業というより世界に工場を持つ世界企業。
幅広く、国民の隅々まで「円安」の影響は及ばないのは常識ではないか。
米国が「強いドル」を主張したのと同じように、日本も「強い円」を必要とするというのは当然ではないか。
しかし、旧帝国軍人の海大、陸大出の参謀殿が考え方の転換が出来なかったように、欧米に留学して博士号まで取って、頭が日本経済から離れてしまった人物には、もう日本経済を論じて欲しくない思いがする。
戦前の参謀殿の失敗は、もうゴメンであるというのが、偽らざる意見である

日本国憲法に軍隊の規定がない・シビリアンコントロールの無意味

2008-11-14 23:26:27 | 日記
日本国憲法に軍隊の規定がない・シビリアンコントロールの無意味

先の田母神俊雄・前航空幕僚長更迭問題から、シビリアンコントロールと言うものが問題になっている。
このこと(シビリアンコントロール)に関しては、読売新聞が1面(2008/11/14・13版・12解説)を割いて、「基礎から分かる文民統制」と題して解説している。
そして副題は「運用基準 明確性欠く」なのである。
面白いことに、「導入の経緯」「問(Q)」‥‥という小さい囲み記事が「文民統制」という問題点を指摘してしまっている。
そして、その他の大きな記事、解説というのものは実は本質を突いておらず、自衛隊に対する「軍事」アレルギーやその場限りの「ご都合主義」、その存在の法的な意味合いを全く無視している議論である。
問題点は、
としていわゆる箸の上げ下ろしまで厳しく「統制」、「規定」している制度を「文民統制」と又曲解している始末であることを暴露している。
一方、その囲み記事ではまず経緯から‥‥
元々GHQの占領下、(朝鮮戦争の脅威から)警察予備隊の創設に係わって、米軍軍事顧問団の幕僚長から「シビリアンコントロール」を指示されたという。
そして、この「シビリアンコントロール」は、「文官統制」と訳され、この訳の曲解が「文官(官僚)」と「武官(軍人)」ということで、「官僚」が制服組をコントロールすることと解釈した。
結果、「政治による軍の統制」であるはずのシビリアンコントロールが、長い間、防衛省の官僚(背広組)が自衛隊を統制することとされてきた。‥‥中略‥‥他国では類を見ない形が続けられてきた。」
そして、最後に憲法に触れ、
そもそも日本国憲法は「戦力」を持たないと明記されているため、軍隊を統制するための詳しい仕組みが必要なかった。」
「日本国憲法66条2項で大臣について文民規定を設けているほかは、憲法にはシビリアンコントロールに係わる規定はない。」と憲法上自衛隊は軍隊ではないと述べてしまっている。
続けて「欧米では、議会に軍事に関する基本権や統帥権があることが憲法に規定されているのと比べて大きい違いだ。」と書く。

メインの解説で今は、防衛省の‥‥「背広組(官僚・事務官)も制服であれ、国民に対して直接責任を負い得る立場にない」と統制する側でないとのことになっている。
又、憲法論に戻ると‥‥というか、この自衛隊に関して述べると必ず憲法が絡んでくる。
解説では、「文民」規定について、「内閣法制局資料」によればと‥‥
(イ)旧陸海軍の職業軍人の経歴を有するものであって、軍国主義的思想に深く染まっていると考えられるもの。
(ロ)自衛官の職に在る者‥以外のもの
としているとある。
これは、その昔法学の講義で「憲法論」を習うと必ず教えられることではあったが、実はこの解釈というのは矛盾する。
何故なら、今は旧職業軍人などという人は存命ではないし、元将校であっても召集・志願で軍事になった人は中曽根元首相(元海軍主計将校・少佐)を見れば分かるとおりその経歴は影響ない。
「軍国主義的思想に深く染まっていると考えられるもの。」というのは、問答無用であると同時に、逆に憲法に違反する。
又(ロ)の項目も、官僚である「自衛官」のまま国務大臣に成れるわけはないからこれも矛盾する。
そして、憲法上「文民」という言葉は出で来るが、対比する「軍人」という言葉が出てこない限り日本の国には「軍人」は存在しない。
こういう憲法上の制約がある上に、自衛隊は軍隊と規定されていないし、事実上の自衛隊の職務執行は警察の域を出ていない。
法治国家である以上、法律に縛られるし憲法に規定縛られる。
かって、社会党が自衛隊は憲法違反であると主張したが、軍隊とすれば憲法違反だが「自衛隊」という「専守防衛部隊」であるから憲法違反ではないと逃げ切ったはず。
そして、集団的自衛権も行使出来ないし、イラクでは銃の使用は本人の意志に任せるという具合だった。
よくよく考えてみれば、今の自衛隊は「軍隊でもないから」派兵はされないし、不審船や海賊は警察組織の「海上保安庁」。国内の凶悪事件は「警察庁・警視庁」として、学生運動、赤軍派の闘争の治安維持で殉職したのは「機動隊」。
だから、事故で死ぬ以外自衛隊というのは非常に安全な武力組織である。
この前、海上自衛隊の特殊部隊が訓練中に亡くなった事件があったが、早い話自己満足の無駄。
何故なら、今の状況では100%実戦に投入される見込みはない。
何せ今や警察組織にテロ特殊部隊が存在する。

そんな、戦争にも警備行動にも出動せず、出動は災害派遣と雪祭りの雪集めと雪像づくりというのが自衛隊の実態である。

はっきり言って、何が「文民統制」だと言うものではないか。
憲法という法律上「軍人」が存在しない以上「文民統制」も当然憲法上存在しない。
しかも「軍隊」でもない「軍隊もどきの」自衛隊を軍隊として見立て、「軍隊として」外国から行動を余儀なくされると、今度は「軍隊ではないとして」その「軍隊としての行動」に足を縛ってきた。
その様にして、「軍隊たるべきこと」を阻止していた自衛隊を、時として「軍隊」呼ぶのは、如何に「軍隊アレルギー」、ご都合主義年か思えない。
読売新聞も、例のナベツネに迎合して「文民統制」について拳を振り上げたものの、調べれば時の政府、官僚の「ご都合主義」との実態の真実に揺れて、囲み記事で暴露している。ここで本来自衛隊という存在を考え直すべきだが、「やぶ蛇」になるために左派マスコミ人、民主党も実は田母神俊雄・前航空幕僚長問題は、なるべく避けて通りたいことなのではないかと考えたりする。
よくよく見れば、自衛隊問題を今でも頻繁に報道しているのは、バックファイヤーを繰り返す読売新聞だけというのは面白いものだ。