上毛新聞コラム「視点」・核家族の視点でしか捉えられない金融機関支店長
上毛新聞という地方紙のコラムに「視点」という記事がある。(http://www.raijin.com )
このコラムは、毎日輪番で決められた人たちの記事を掲載している。
http://www.raijin.com/news/kikaku/opinion2008/opinion20081128.htm
2008/11/28の記事は「車で5分」「お年寄りの目線考えて」と題して金融機関・某中金の支店長M氏が2年前単身赴任直後の回想を書いている。
そこで、前橋市内の中心部というマンションに引っ越してきて照明器具がないことに気がついて、管理人に電器屋の場所を聞くところが副題にあるとおり「車で5分」である。
「車で5分」とは、「ヤマダ電機だかコジマ電器」まで「近くにあるよ。車で5分くらいだから」ということで、本人は「単身の私は車を持っていない。従って『車で5分』と言われて途方に暮れる。」というのである。
歩いて5分なら400m程度だが、車で5分なら平均時速30kmとして2.5km。東京なら環状線の一駅程度。東京人なら歩いてゆける距離だし、必要とあらばタクシーで行くことだって出来る。
それがなんと「歩いてゆける近所の商店街に電器屋はないですか」と空洞化してシャッター通りになった街を歩き回ったという。
見つけたのは「おてんとさんも沈みかけた。」というが7月だから何時なのかわからない。しかし、シャッター通りの閉店は夏ならまだ陽の明るい夕方6時。一方、電器量販店は夜10時くらいまでやっている。
そこで今の感覚なら、そして金融という庶民に関わる職業人なら「クルマ社会だから」ガソリンが高くて大変だったろうとか、クルマの維持費が家計にひびくとか書きそうなものだ。11月下旬に新聞各紙に一面広告で揮発油税、ガソリン税の不合理について意見広告がなされたはず。
ところが、それに続くことは「これからクルマを『卒業』してしまうお年寄りがもっと多くなったらどうするんかと。」なのである。
そして、事例が群馬・前橋のお年寄りの意見ではなくて「亡くなった私のばあちゃんが言っていた。」事なのである。
筆者は東京出身ということだから「ばあちゃん」も東京人なのか、少なくとも上州人でないことは確かだろう。
その「ばあちゃんは、近所に大型スーパーができても。頑(かたく)なに近所の商店街で買い物を続けていた。」と続く。
だから「これからもっと増えるであろうお年寄りの目線で考えると商店街の復活は急務なのかもしれない」としめる。
ここから考えられることは、東京人というのは地方に来ても「東京の感覚」は抜けないと思うことだ。地方の「ばあちゃん」は、そして特に上州人の「ばあちゃん」はこの支店長が言うほど「頑なに近所の商店街で買い物を続け」ない。
車に乗って、どこまでも出かけるし、それも適わないときは息子や娘に頼むと言うこともするものだ。
「お年寄りの目線」とはいうものの、商店街の商店主は郊外に住居を移して住んでいないし、当然ドーナツ状態の空洞化で商店街に人がいない。
「愛妻が言っていたこと」のお年寄りのための自助努力‥‥でも、「商店街の個人商店」が成立し得ないシャッター通りではいずれにせよ絵に描いた餅である。
そして、「相手の目線を徹底的に大事にして知恵を尽くす‥‥ということかもしれない。」と「きれい事」で最後に結ぶが、金融機関の支店長としてどう考えても「相手の目線を徹底的に大事にして知恵を尽くす」ということが言葉の端端から感じられない。
なぜなら、未だに群馬の感覚でなく東京人の発想でしか物事を感じられないからである。
所詮、東京から地方に赴任してきた人物というのは、常に米国人がどこへ行っても米国流を押し通すのと同じように、どこへ行っても東京の感覚でしかものを見られない、判断できないというのを露骨に現してしまったものだ。
そして、年寄りは「独立して住む」という核家族の感覚にとらわれ、家族、子供などの支援という視点が抜けているのはなにやら妙な気がするというものである。