書道家Syuunの忘れ物

趣味のパソコンやカメラの実機レビュー、書道展の情報発信、CyberLink MVPなのでYouTube配信をしています。

小さな街の歴史でもねつ造されるものなのか(広報まえばし)

2014-01-21 00:14:56 | 前橋市残照


広報まえばし平成26年1月1日号(みんなと未来をつなぐ前橋情報紙 広報まえばし 2014.1.1 No.1499) という前橋市の広報誌がある。


この中で「楫取県令と前橋二十五人衆」と言う記事があり、25人の名前が列挙されていた。ここでの問題は以下の部分
「下村善太郎を中心とした前橋の有力者25名は、県庁を誘致し、前橋を関東の大都市とするためには、いかなる犠牲をも払う覚悟で楫取に協力を約束した。楫取はその至誠に感動し、県庁を前橋に移す決心を固めた。前橋二十五人衆とは、次の方々である。
下村善太郎・勝山源三郎・勝山宗三郎・須田傳吉・大島喜六・江原芳平・市村良平・竹内勝蔵・横川重七・松井林吉・鈴木久太郎・荒井友七・荒井久七・深町代五郎・八木原三代吉・筒井勝次郎・中島政五郎・田部井惣助・武田友七郎・横川吉次郎・生方八郎・桑原壽平・太田利喜蔵・久野幸人・串田宗三郎」
(前橋市・広報まえばし・広報まえばし平成26年1月1日号テキストデータより抜粋)


この文章での曖昧さは、前橋から高崎に県庁が移ってしまったと言う前提が正確に述べられていないこと。
そして、高崎から前橋に県庁を戻すにはどうしたらよいかで、当時費用として10万円(一般的な給与が月額10円の頃の話)必要だったことなどがない。
その10万円を集めるに当たって、前橋の雄志からの寄付として1万円を出資すると言い出したのが冒頭の「下村善太郎」翁で初代前橋市長になる。
それでこの25人は、このときに寄付として出資したのかと言うことになると甚だ疑問である。
何故かと言えば、この10万円というのが明治初頭当時としては途方もない金額だからである。
下村善太郎翁が寄付した1万円とは実際の貨幣換算ではなく今の感覚として考えればおよそ10億円という感じである。
なんと言っても、あの安田財閥の安田商店(銀行)の総資産が5,000円だったというのだから。
要するに生糸商人で莫大な利益を一気に儲けた一発屋や生糸相場で当てた人物なのではなかろうか。
ちなみに、あの山種証券を創設した山﨑種二翁は、高崎から東京に出て米相場で当てたという話は有名。
小生などのみみっちい感覚で言えば、宝くじで7億円でも当てれば、1,000万円くらいは寄付も出来るかな???なのである。
このことから寄付できる人物というのは当時としても、自ずと決まってくるのではないだろうか。
少なくとも最近までは、その一族というのは終戦直後の財産税(税率90%・農地解放に対する市街地での課税)でほとんど破産したとはいえ、前橋の町に痕跡を残していると思われる。


(記事と写真は関係がありません)


実を言うと、小生は青少年育成委員を嘱託されているために毎年1月に新年会に出る。
それでこの「前橋二十五人衆」を聞いてみれば、ほとんど知らない人ばかりなのである。
名字から今でも残っていて少なくとも資産家と評されるあの家の先祖かと思われる人物もいる。
しかしながら、下村善太郎翁に継ぐ大口寄付をした人物は載っていないし、戦後まで少なくとも名を知られた人達もその25人に入っていない。
その新年会で聞けば、我が家の先祖も寄付したはずだが・・・という意見も合った。


(記事と写真は関係がありません)


この「前橋二十五人衆」を調べてみれば、幾人かは分からないではないが事実上ほとんど分からない。
ちなみに、小生の祖祖父の荒井甚次郎は、明治維新の時に松平氏(前橋・厩橋城主)の入橋について入橋し、その後相場で財を残し前橋のかなりの部分を所有したという。
この荒井甚次郎が当時寄付の中心になった関係から5,000円の出資をしている。

そして当然この「前橋二十五人衆」には含まれていない。
その一方で寄付できる資産家だったのに渋って最後まで出資しなかったとして有名だった人物がこの「前橋二十五人衆」に含まれている。

極めて高額の寄付だったので、出し渋るというのは理解できるとしても、出資したように記録されるというのは草葉の陰の本人としてもばつが悪かろうと思うものでもある。

本文と写真は関係がありません。

その他の記事は、こちらを参照


書道家・荒井柊雲(Syuun)のデジモノレビュー



尚、本ブログが閉鎖されたときは「書道家・荒井柊雲(Syuun)のデジモノレビュー」がメインブログに昇格します。


第20回 篆青会展 を観覧する(CanonPowerShot S100で撮る)

2012-09-15 18:46:01 | 前橋市残照

第20回 篆青会展 を観覧する(CanonPowerShot S100で撮る)




平成24年9月14日~16日まで、第20回篆青会展(代表 杉村青逸)が前橋市文京町の群馬県生涯学習センターで開催されている。
篆青会は、杉村青逸先生が主宰する有鄰会の別組織で篆刻の会である。
元の有鄰会は、群馬県書道界の重鎮だった米倉大謙先生の系譜にあたる。






篆青会展には、まえには「篆刻・体験コーナー」と言うものがなかったように記憶する。
しかし、群馬篆刻協会展(会長・阿部裕幸)で「体験コーナー」を続けているので最近はこういう傾向になったのかもしれない。
小生も篆刻は割合と好きで本格的にやってみたい気もしないではない。しかし、なかなか踏み切れないというのが実情である。
逆に言えば、書をやるよりは同時に篆刻をした方が趣味と実益があるように感じる。









CanonPowerShot S100、こういう多少薄暗い展覧会の写真はすばらしくよく撮れる。
改めて思うと、これならなまじデジ一眼を持ってゆく必要もないと言うことを思い出した。

どうもS110が発表になるらしい。
1年も立たずに不具合にならないようにマイナーチェンジだと思う。
S100から何を変えるのかと言う気がする。

外観変更とWiFi、がつくくらいなら、S100で充分。

タッチパネルも余り使わないしね






icon icon

災害か少ない地域に住んで良かったと思った一日でも花粉症は辛い

2011-03-12 22:47:33 | 前橋市残照

災害か少ない地域に住んで良かったと思った一日でも花粉症は辛い

2011年3月11日から今まで一日中「東日本大震災」のニュースでいっぱいだった。
このTVを見ているとまるで「カタストロフィーCatastrophe」の映画がまるっきり嘘でなかったと言うより、映画より凄い津波であった。
何十時間も見せられていると、家から外に出ると何事もないのが不思議なくらいな感じになる。
思えば、東京の下町隅田川に掛かる白髭橋とかのあたりは「白鬚(しらひげ)東地区防災拠点」と言うのがあって、津波を「防災団地、都営白髭東アパート」で食い止める様になっている。
あちこちの通路には、巨大な防火シャッターや防水扉があった様な気がする。そのほか東京には巨大な地下水路があって、ここも津波の水などを一時的に入れる様に出来ているらしい。実際、そんなものが機能することにならなければよいと思うが、いずれにせよ100年又は、200年に一度の防災に備えている。
その1~200年に一度の大地震、大災害が東北で起きてしまっているのだが、既に何とも言葉を失うばかりである。
端的に言えば、内陸部で津波の心配はないし、台風も高い山の影響か何となく避けて通る群馬の中央部に住んでいて良かったかなと思うものである。
実は、地震も断層がある藤岡から少し遠い。
それで日本銀行の支店というのがある。この日銀支店というのは、首都圏が機能しなくなったときのバックアップのためである。だから地下金庫に何十億円だが何百億円だかの現金が置いてある。
そう言う災害の少ない首都圏のバックアップというのは、終戦直前に「本土決戦司令部」が置かれたことでも良く分かる。
それで、高崎は陸軍の高崎連隊があったのにほとんど無傷の一方、前橋大空襲(中心市街地の8割を焼失)というのがあった。しかし、実際の司令部本隊は渋川に避難していたから妙なものだった。
こんなところは、雪は降らないが「からっ風」が辛い、今時花粉症が辛い。
その昔は生糸の生産で大富豪が沢山いて、10万円(当時寄付を募った)を用立てて群馬県庁を高崎から呼び戻した(明治14年)。
この寄付金の凄さから見ると安田財閥の安田善次郎の出した寄付金というのはたかが知れている。挙げ句の果てに100円を惜しんだばかりに刺客にあって殺されいる。
その前橋の勢いはどこへやら、前橋大空襲で罹災し、戦後の財産税(税率90%)で高額納税者はほとんど破産し、それでも残った資産家は戦災復興事業で根こそぎなくなった。
それで、今や県庁所在地で全国一土地の評価が安い。
貸し店舗空き率全国ワーストナンバーワン。
しかし残ったのは、災害が少ないと言うことだけか。
それにしても、今年の花粉症はかなり酷い。
少しのことで出かけると、それを回復させるのに半日かかる。

「NEWアイカップペット」という目を洗う道具はかなり有効でも、今年は大変である。
無ければもっと大変で仕事にもならない。
早く花粉シーズンが早く無くなってくれればと念願するというものの、何とかどこにも出ない様にして我慢するしかない。

目をやさしく洗う洗顔器NEWアイカップペット

目をやさしく洗う洗顔器NEWアイカップペット
価格:1,080円(税込、送料別)


<IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=B8E953&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as4&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;ref=ss_til&amp;asins=B000O2TFLE" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME><IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as4&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;ref=ss_til&amp;asins=B000FQT58M" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME><IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=EF8DCE&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as4&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;ref=ss_til&amp;asins=B003Q42N7K" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME><IFRAME style="WIDTH: 120px; HEIGHT: 240px" marginHeight=0 src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=000000&amp;IS2=1&amp;bg1=F7ED9A&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=syuunassociat-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as4&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;ref=ss_til&amp;asins=4623058530" frameBorder=0 marginWidth=0 scrolling=no></IFRAME>


syuun の不思議な少年時代 その21 Episode 1

2010-03-20 00:18:53 | 前橋市残照
syuun の不思議な少年時代 その21 Episode 1
その1
私立学校の高額寄付者という話が出て、何やら昔の話が沸々と湧き出てきたような気がする。話といっても半世紀以上も前であって、成人した女性の髪型は、「サザエさん」の髪型みたいだった頃である。
実際、私立学校というのは幼稚園しか通ったことはなく、又小生の子どもが通った私立幼稚園では寄付の「キ」の字も出なかった。
その私立幼稚園とは、同名の幼稚園が全国のあることからミッション系の幼稚園であった。近年その私立幼稚園のウェブサイトには設立過程としてこんな風に書いてある。
「創立1895年(明治28年)、創立にかかわったアメリカ人宣教師が聖書『心の清い人は幸いである』の聖句から『清心』と命名。」
ところが、そんな説明などついぞ聞いたことがなかった。
何と言っても、戦前の「清心」とは全く断絶していたと言って間違いないと言うより、戦前からの係わり合いをわざと隠していたと言うのが本当だろう。
そして、通っていた頃から卒園して6年あたりまで、「寄付」という通知が毎年のように来たことがあった。
あこぎな幼稚園だと思いつつ案内書を見ても、当然そんなことは書かれていなかった。
だから知るよしもなかった。
そして入園していた頃、父母にK園長が説明していたこと。
父母に寄付理由を説明して、寄付集めに邁進してたことと「園の歩み」が矛盾していたりする。
今となっては証人も証拠も無いから正しようもないが、ほとんどどこからか持ってきた眉唾の園史が含まれているようなのである。
「清心幼稚園土地建物を買い取り」というのが昭和9年にある。
それなら昭和31年に園舎の土地建物を買うと、猛烈な寄付活動を展開したのは何だったのだろうか。
そして昭和32年に建物を買ったと言うのだが、買ったのは園舎の一部と自分の自宅部分の建物だった。
そして、またしても今度は園舎の土地を買うと言って、寄付集めを展開したものの前年轍があるので結局寄付が集まらず、不思議と道を挟んだ向こう側の土地を買った。
買った理由は、何か園庭に問題が生じたらしかったとの説明したが、単に売りに出でいたからであったのかも知れない
園舎の土地を買うと言って寄付集めをしたのに買わなかった批判を恐れて、園庭として暫時使ったが直ぐに閉められてしまった。
そして、結局無理な寄付集めも出来ず、残りの園舎の土地全部は銀行からの借り入れで買ったと言うとこが後に明らかになった。
そのK園長はとっくの昔に鬼籍に入っているし、その跡を継いだ同じくK先生‥‥初出勤というか、担当の組の園児だった。‥‥も御存命ならかなりの歳だと言うものだ。
そして、戦前の話が妙に詳しいと思ったら「創立時の精神と『魂の教育』」と言うところにもっともらしいことが書いてあった。
そして、その根拠となった資料が「『清心幼稚園の創立とその精神』(創立110周年記念誌「清心幼稚園の創立とその精神」(藤岡一雄)より抜粋)」と言うのもの。
だから設立の頃の話としては間違いはないと思うところである。
しかし、戦中後にK先生がどの様にやってきたのかなどは一切書かれていない。
察するところ、K園長は戦前幼稚園には係わっていたのは間違いないとしても、かなりの誇張がある。
第一の嘘というのは、先に述べたように園舎、園庭を昭和9年に買い取ったと言うことだろう。
戦前において、単なる使用人に過ぎない人が、広大な園舎や園庭を買えるはずもないのは誰が見ても分かりそうなものだ。
いずれにせよ妙な事は書かずに、寄付、寄付と連呼していたK園長の話を少しずつ思い出してみよう。
秀逸なのはクリスマス会という妙なイベントであったというのは、実に面白いものだった。

初市・だるま市・風景写真ぐんま・まえばし

2010-01-10 10:51:26 | 前橋市残照

平成22年もあれよあれよという間に10日も過ぎた。Img_1413
実際、今年の年末年始は「パソコンのお勉強」に終始したが、それもこれもWindows7を導入してしまったのが切っ掛けである。Img_1391
例年なら、デジカメをどうしようかと考えるところだった。
しかし、最近のデジカメというのは恐ろしく性能がよくなってきたために、普通に撮る分には買い換える必要がない。ここのところ20,000円以下で買える製品末期のデジカメで充分なのである。
一方、一眼レフの方も2-3年前のもので何とか収まっているし、スナップ写真だとコンパクトデジカメ(コンデジ)の方が良かったりする。Img_1416
但し、持っているデジ一眼もキャノン、ニコンではないからスポーツだと中々上手く行かないと言うのが真実である。Img_1424
この世の中、デジカメでなくともあまりに変化が激しい。昨年の今頃は何やらせわしかったものなのである。
そんなわけで、今年も前橋の初市の日が来た。
小さい頃のだるま市というのは、国道50号の起点から前橋駅までと膨大なものImg_1395だったが、今では寂し限りとなった。
最近では、ダルマなど買わない家があるようなのだろう。
昔は、ダルマを買わない家などはなくて、どの家にもそれなりの家に合わせた大きさのものがあった。
今年、土曜日で結構暖かい日だったが、少々で遅れて10時を過ぎてしまったので八幡様のお炊き上げに間に合わなかった。
そのためか今まで見た事が無い行列に出会った。

これは今まであったのには気がつかなかった。一応ぐるりと廻って見たものの今年はめぼしいものは無かったね。Img_1397
いつもは、文房具屋で初売りをやっていて全品20%offなのだがどうも製品がない。
何年か前には、文房具の福袋10,000円、15,000円というものを買ったことがあった。Img_1400
これで、万年筆やファイロファックスの手帳など買いそろえたが最近は売れないのでしょうか。但し、筆記用具は時代遅れで使い物にならなかったものもある。Img_1407

東京方言に気づかない・寺島尚正 ラジオパンチ!のCM

2009-08-19 19:08:10 | 前橋市残照
東京方言に気づかない・寺島尚正 ラジオパンチ!のCM

文化放送で間違いやすいので共通語に入っていない語意をCMで流し続け未だに気が付いていないでいる。
それは、明日(あす)、明後日(あさって)に続く言葉。
関東一円では、続くのは「やなあさって」、「しあさって」と続く。
しかし、東京だけが逆で「し明後日」、「やな明後日」。
これは、東京方言で非常に間違いやすい。別に東京の言葉が共通語でないというのは当たり前の話で、東京の言葉だから全て正しいとは限らない。
特に、関東で同じような言葉を話しながら通じないこともあるのである。

以前、その順番について放送局に問い合わせがあったようだった。
そこでは当時の落語家・月の家 圓鏡(5代目)氏が、落語では「し明後日」、「やな明後日」の順番だと結論づけたのだが、実際は不適切だろう。
落語は、江戸の言葉だからそれで正しいかも知れないが、放送で言う共通語とは違う。

所謂東京弁というのは、元々利根川の上流地域の言葉に近く、昔は利根川に沿って住民が移動してようだ。
だから、東京下町あたりは関東でも「言葉が汚い」「語尾が強い」と言われる「前橋」あたりの言葉に近いし、一般的には、八甲田雪中行軍遭難事件の遭難しなかった方を率いた弘前第31連隊の福島泰蔵大尉の郷里に近い。
確か、利根川沿いに墓があったはず。
八甲田雪中行軍遭難事件とは、あの新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」で有名なあの日露戦争を前にして行った八甲田雪中行軍遭難事件である。
映画では徳島大尉として、高倉健(弘前第三十一連隊)が演じたが、東北弁を話していたのには笑えた。
福島泰蔵大尉は、今の伊勢崎の出身で元高崎連隊所属だった。

話はそれたが、こういう微妙な表現違いというのは、東京地域だけで言うのなら良いが放送という広範囲に流布するときは問題がある。
従って、NHKでは「しあさって」という表現は避けているはずである。

「お盆」15日に送り盆の慣習のある家々

2009-08-16 13:36:17 | 前橋市残照
「お盆」15日に送り盆の慣習のある家々

8月になったかと思ったら今日2009/08/16はお盆の「送り火」である。
本当は、うちでも今日お墓参りに言って「送り火」と言う事になるのだが、我が家の伝統で15日に送る。だから13日に「迎え盆」で15日に「送り盆」という1日少ない。
母の実家でも同じだったのだが、母がお嫁に来てもうちでは同じだったそうな。
1日早い理由というのは、昔のことだが使用人を多く使っていた大農家(元名主など)の素封家では、16日に使用人に暇を出して「盆」を送らせたという慣習からだという。
母の実家も何代も変わって、もう農家ではなくなってしまったし当然使用人もいない。しかし、その盆を送るという習慣だけは残っている。
一方、我が家の習慣としては何故15日に送るのかは誰も教えてくれなかったし、言わなかった。
うちの親戚では、迎え火にもならない11日から盆の準備をする家があってそう言う家では当然16日に送る。

‥‥とはいうものの今年は、11日から遊びに行ってしまったのでうちの迎え火は14日だった。お墓参りには「花」がつきものなのだが、今年はこの花を買うのに苦労をしてしまった。そのわけは、10年以上前からの知り合いのお花屋さんに買いに言っていたのが、今年の3月末で止めてしまったからである。
それで、墓参りの途中花屋を探すと中々見つからない。
シャッター通りの中央商店街にあった花屋は当然今はなく、少し足を伸ばして行った名前を知っていた花屋は「盆の花」などは置いていなくて葬式の花作りに忙しそうだった。
結局、廻りに廻って最近出来たスーパーお盆用の花を買って墓に持っていったが、正に「しょぼい」。
墓場の花の貧弱なほどみすぼらしいものは無いが、他の墓の花がこの連日の暑さでほとんど枯れていたから「瑞々しいだけが」取り柄。
送り盆に家族で行ったら、花を買ってくれば良かったと‥‥‥
今度の彼岸には立派に「花を飾ろう」と思ったのは、少々の慰めというものだった。

前橋三大祭り・七夕祭りと昔の片原饅頭

2009-07-12 00:34:18 | 前橋市残照
2009/07/14 ・追加・まんじゅうや追加・

7月9日より前橋市の三大祭りの一つ「前橋七夕祭り」が始まった。
前橋の三大祭りとは、1月9日の「初市・だるまの市」。
7月の「七夕祭り」、10月の前橋祭りである。



この三大祭りのうちいつも雨にたたられて散々だったのが、この七夕。それは、まだ梅雨明け目前だから仕方がないと言うものの、梅雨の晴れ間というものもある。
そして、この七夕に続いて、実は8月に花火大会がある。
それがどういう事か、ここ5-6年七夕祭りに雨が降られたことがない。前日雨にたたられても、当時になると小雨になり薄日が差したりする。
丁度今の高木市長に代わってから、偶然に雨に降られていない感じた。同じく不思議なことに花火大会で夕立に逢うこともない。



2009/07/11は、何やら薄日が差す日和で、大勢の人が出た。
いつものシャツター通りが人混みで埋まる。これだけ人が出れば、商店の人も張り合いがある感じはする。
最近出来ている○○モールというのは、本来こういうアーケード街の筈なのだが。



今日は、小中学生も部活帰りで、浴衣姿は少ないが明日の日曜日はたくさん出るだろう。



アーケード街から外れて振り返ると、前橋に初めて出来たデパートの荒れた姿が目に入る。
3階建ての1-2階までに、初めてエスカレーターが出来たと子供の時に記憶する。
当時のデパート名は「アサヤ」といった。
その後、貸しビルになっているが裏から見るとみすぼらしくなっている。



裏通りをぐるりと廻ってみると、右側の近代的な再開発ビルと左側の昔ながらの建物が並ぶ。
正面のコンクリート作りの建物は、洒落た本屋だった。丁度神田(東京)の古本屋街の一画にあるような。
それがある時潰れてしまった。
その後何になったのか忘れたが、凡そ20年も前のことだったかも知れない。
それから、今までのように空き家になっている感じがある。



交差点に来ると、「片原饅頭」というかっては「前橋名物」の酒まんじゅう屋の姿がある。
「片原まんじゅう」というのは、昔手のひら大の大きな饅頭で、薄皮饅頭。
一見タダの「酒まんじゅう」の様だが、中のあんこが透けて見えた。そして、そのあんこが多く美味しかった。
その後二回りも小さくなったが、「薄皮饅頭」だけは変わらなかった。
それが何時の頃からか、薄皮饅頭ではなくなって単なる「あんこが多い」酢饅頭になり、後継者がいなくなって閉店した。
長男は小生と前高同期、東大へ進学して大学教授になった人物。
よく知っていたけど、甘い物を食べなくなった時代の趨勢というのは仕方がない。
実は、店が閉店する頃に「片原饅頭」に弟子入りして「ノウハウ」を全て学んだ人が、「酒饅頭屋」を起こしてその味を残している。((有)正幸・と言う店らしい)
もらって食べた見たら、閉店間近の「片原饅頭」の味がした。

この片原饅頭というのは、今でも「和菓子」を製造している会社が元々譲ったという。(正確には覚えていない)
そして、片原饅頭には本店というのがあった。
今では有料駐車場になっているところの国道17号沿いにあって、同じ「酒饅頭」を売っていたのだが、それは「薄皮饅頭」ではなかった。
その昔、「片原饅頭」を買うには予約して、その時間に行かないと買えないという大人気だった。
それで急に買って行こうとすると間に合わないから、その本店の方で買ったことがある。
記憶では、値段は同じか少し高く、坂下の「片原饅頭」に遠く及ばなかった、只の「酒饅頭」だった。

片原饅頭の変遷を考えてみると、大判の酒饅頭が中型になった頃だったかも知れない。
それは、作っていた職人が止めて大判の酒饅頭が作れなくなったのかどうかは知らないが、兎に角職人が変わった。
次に、もう一度小さくなった時は、「薄皮饅頭」ではなくなっていた。
その薄皮饅頭というのは、皮の上下はオブラートを重ねたように薄く、黒いあんこが見えたもの。時として、その皮が破れてあんこが見えていたものもあった。
その技術というものが継承されなかったのは、聞くところによると店の主人は職人でなく、女将さんは「売り子」だったことだ。
やはり伝統技術というものは、家族で守らないと継承されない。

もし、家族が職人であったなら、今でもあんこが見える薄皮饅頭として「片原饅頭」は前橋名物として食べられたかも知れない。
人を雇って事業を行うというのが、いかに難しいかと言う事だろう。
小さな会社というものは、そこで使う免許、資格というものは全て社長が持っていて成り立つ。
免許を持っている人を雇って事業をやるなど、今ではあり得ないだろうが昔は多かった。

‥‥‥‥‥
そして、その当時大人気で冠婚葬祭の引き物としてもてはやされたのが、アーケード街の入り口の煎餅屋・萬栄堂だった。不思議なことに、亡き父の同級生だった。
有名だったのは、「瓦煎餅の三山煎餅」。
三山は、赤城、榛名、妙義の山の絵が刻印してあった。

その店も、アーケード街から出で国道に店を構え、その後どうしたのか分からない。
街の変遷は何か残しておかないと薄れてしまう。事実、「片原饅頭」が二つあったことさえ誰も知らない。
最近は、無駄にも街の写真を撮っておくと結構記念になったりする。

前橋市・敷島公園の沿革秘話と荒井甚次郎

2009-06-01 22:33:53 | 前橋市残照
前橋市・敷島公園の沿革秘話

県庁所在地秘話


2009/06/01地方紙の上毛新聞に敷島公園の事が書いてあった。
敷島公園とは、前橋市にある広大な公園である。
公式HPによると「敷島公園は、利根川と広瀬川に挟まれた場所に約37haの広大な面積を有しています。」とある。

しかし、その沿革は単に「前橋市街地の北側、利根川の左岸に位置する敷島公園は、大正11年に官有地の払い下げをうけて公園となりました。」とあるだけでその実態は書かれていない。
元々の敷島公園というのは、今現在ある姿になるまで結構紆余曲折がある。
なぜなら、「園内は、約2,700本の松林があり、平地の松林としては全国有数の規模です。」(前橋まるこどガイド・HP)とあるのだが、小生が子供時代はボート乗り場からずく先には、ロープで仕切りがあって松林の過半は私有地だった。
そのうちに、そのロープの位置が北に移動して行き、最後に木の冊で出来た松林の一画まてになった。その頃とは、昭和30年代半ばだったと思う。
最終的には前橋市が周囲を買収し、区画整理と一貫して整備して今の状態になった。
それは、まだ戦後のことで大正時代はどうだったのだろうか。

そのヒントは「大正11年に官有地の払い下げ」と言うところにある。
実際、前橋市はまだ原型だった敷島公園を市有の公園にする意義を感じてていたものの実は資金がなかった、「金」が無かった。
そこで、頼みにしたのは前橋市の中の有志。特に、県庁所在地を前橋市に持ってくる時に中心的な資金集めをした人物に依頼した。

県庁を持ってくるのに当時の金で100,000円必要と聞いて、10,000円を用立てるからと言い出したのは、もちろん初代前橋市長下村善太郎氏。
「当時、生糸の輸出で財を成していた前橋では、生糸商人と後の初代市長・下村善太郎により、県庁を前橋城跡に誘致する事を明治政府に提案し、各部署が分散配置されていることに不便を感じた明治政府はこの案を了承し、県庁は前橋に移転した。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)」(明治14年)

当時の10,000円とは、今で言えば2億とも3億円とも言える額であったのだか、そこで資金集めを相談したのが荒井甚次郎氏だったという。
荒井甚次郎翁は、埼玉・川越藩の出で明治維新の時に、時の城主(松平氏)に付き従って前橋(厩橋)に入橋した。
甚次郎翁は、廃藩置県と共に県庁職員となり地方行政を担当したが、その後民間に移り事業を興した。
そして、その事業が順調になると番頭に譲って、新しい事業、運送、土木、建設業を興し続けた。
それだけでなく、その事業で得た大金を利用して当時流行した生糸、米などの相場に進出してその資産を莫大なものにした。
子供には、「楽になったから」らく。
「千金の金を持てるようになったから」泉太郎と名付けたぐらいである。
その居宅‥‥前橋市の中心部にあった1,500坪の大邸宅には、お客が引きも切らなかったという。
そんな風に前橋でも指折りの大金持ちがこの荒井甚次郎翁であり、慈善事業にも精を出した人物でもあった。
だから、下村善太郎氏が頼みとするのは当たり前で、当然甚次郎翁は、自らは5,000円出すからと応諾した。
そして、当時の前橋の有志に勝手に請求書を送りつけたという。
ランクは5,000円、3,000円、2,000円というものだったという。
最高ランクの5,000円を請求された数人も快諾し、50,000円前後までは集まったが100,000円まではほど遠い。
中には、2,000円を請求されながら、説得にもかかわらず最後まで支払いを拒否した人物もいたという。
それで仕方なく下村善太郎氏は、集まった金の金額を以て交渉した結果、政府から快諾を得たというのが本当の話なのだという。

そう言う経緯であったので、またも資金繰りと言うところでは甚次郎翁のところに話が舞い込んだ。
多少病魔に冒されて具合が悪かった甚次郎翁ではあったが、依頼を受けて払い下げの資金を出し、即刻前橋市に寄付をするという手筈をとった。
その後、甚次郎翁が前橋市の求めに応じて交渉の上買い増しを続けたものの、甚次郎翁の病状が悪化してその後の買い増しは頓挫した。
ただそれは、今で言うなら敷島公園のほんの一部であって、今の松林はほとんど含まれていない。
実は、その後も実際は同じく有志を募っての買い増しを続け、戦後まで続いた。
しかし、終戦後農地には「農地解放」があったと同じように、宅地には「財産税」と言うものがあった。
その税率90%という高額のために当時の高額納税者、土地持ちと言われた人達は、物納によるしか納付できず、いわゆる前橋市の有志という人達はほとんど破産した。

不思議なことに、「支払いを拒否した人物」は戦後大地主として残ったはずだが、今は良く分からない。
こんな話は、歴史の中に消えてしまって残っていない。
当時郷土を発展させようとした人達は、名前を残そうとはしなかった。
理由は、郷土に尽くすのは当たり前であったのと、石碑などに名前を残さずとも当時は誰でも知っていたことだからである。