p487以下
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五 平治の乱前の政局
保元元年(一一五六)夏までに源光保・光宗ら美濃源氏を支えていたのは鳥羽法皇であった。法皇の死後も光宗は異例の出世を遂げるが、これは彼らの基盤が鳥羽法皇のみに依拠したものではない証左である。それでは保元・平治期における源光保・光宗の権力基盤は何か。それを探るためには、まず鳥羽法皇の治世の晩年にさかのぼらねばならない。
久寿二年(一一五五)九月、守仁親王が立太子された。守仁は後白河天皇の第一皇子で、鳥羽法皇の孫にあたる人で、のちの二条天皇である。守仁の春宮(東宮)坊には多くの美濃源氏(国房流)の人々が任用されている。まず光保の娘(鳥羽法皇の寵姫)が乳母となっている。光保の次子光盛が春宮蔵人(定員四)になっている。光宗ものちに春宮殿上人(二十四人の内)に加えられている。すなわち源光保の三子はことごとく守仁親王に近侍していたのである。また、武官にも近親者が見える。十余人の帯刀を束ねる帯刀長(定員二人)を、源光綱(光保の甥)・源国長(光長の子)が占めていた。さらに春宮の厩を管理していた主馬首(うまのかみ)には、源光長(光保の甥)が衛門尉から任じられている。このように春宮の公的な武力は、源光保近親の美濃源氏により要所を固められていた。いわば守仁親王の春宮御所は、美濃源氏(国房流)の牙城ともいえる様相を呈していた。
美濃源氏は古くから帯刀などに任じられてきた一族だが、このように一時に集中して任命されるのは初めてである。おそらくこれは偶然ではないだろう。なぜなら守仁立太子により崇徳上皇はほぼ完全に自分の子孫への皇位継承を断ち切られ、不満をつのらせていた。いつ崇徳によるクーデターが発生しても不思議でない状況であった。実際、この後一年もしないうちに保元の乱が発生している。こうした不穏な情勢の中、鳥羽法皇は最も信頼していた源光保の一族で親王の周りを固め有事に備えていたのではないかと思う。
この措置は、源光保・光宗父子を中心とする美濃源氏にとっても大きな意味をもつ。春宮が天皇となれば、春宮坊の官人に出世の道が開かれることはよくあり、実際に保元三年(一一五八)の守仁即位後、彼らの多くは官職を得ている。光綱と国長はともに衛門尉に任官し、光保の娘は典侍になったとされている。
特に注目したいのは、源光宗が念願の内殿上人となったことである。この時彼はまだ十八歳である。これは異例の措置であり、二条天皇との特別なつながりが予想される。それを伺わせる興味深い記事がもう一つある。保元三年十二月、二条天皇の実母故藤原(源)懿子への贈后が行われた。その際、贈后宣命は左兵衛督藤原惟方に下され、惟方は源光宗を次官として伴いその墓所へ向かっている。さて彼らの派遣はその官職に由来するものではなく、私的な縁によるものである。惟方は二条の乳母子で、その第一の腹心である。光宗がこの使者に加えられたということは、惟方同様に信頼される地位にいたからに他ならない。この頃源光宗が二条天皇の側近の一人に名を連ねていた可能性は高い。
【中略】
六 平治の乱と源光保の動向
これまで源光保の平治の乱における役割は消極的な評価しか受けてこなかった。この章では、平治の乱における源光保ら美濃源氏の動向とその果たした役割を再考してみたい。まず平治の乱の経過を『百錬抄』・『平治物語』(金刀比羅本。以後金刀本)により簡単に整理すると以下のようになる。
①十二月九日 藤原信頼・源義朝らによる後白河上皇の三条御所急襲。信西宿所攻撃。信西は逃亡。
②十日 臨時除目。
③十七日 信西の首、西獄門の前の樹に懸けられる。
④二十五日 二条天皇らの内裏脱出・六波羅行幸。
⑤二十七(六)日 官軍内裏攻撃。源頼政の心替わり。義朝ら内裏を出て、六条河原で合戦。信頼・義朝敗北。後日、信頼斬首。
⑥一月九日 義朝らの首、東獄門の前の樹に懸けられる。
この乱で信西排除に挙兵した武士として、源義朝一族、源頼政、源季実・季盛父子、源重成(佐渡式部大夫)と共に出雲前司源光保と甥の伊賀守源光基(詞書によれば検非違使)ら美濃源氏の名が見える。この様子は『平治物語絵詞』の「三条殿夜討」中にも鮮やかに描かれている。こうした活動の結果、②において源光保は隠岐国を賜り、甥の光基は伊勢国を賜っている。すなわち美濃源氏も反乱軍の主力の一角を占めていたのである。しかし光保の活動はこれにとどまらない。実は、この乱の中で源光保はさらに二度に亙り重大な役割を果たしている。
一つは、逃亡中の信西を尋ねだしその首をとったことである。出雲前司光保は郎等五十余騎を率いて信西を探索していたが、宇治田原の山中の穴にいたところを発見し討ち取っている。十四日光保の宿所神楽岡で首実検した後、翌日検非違使源資経に首は引き渡された。ここで注目したいのは、光保に「敵」の記載があることと、光保が信西の舎人・馬をよく知っていたということである。光保が信西を発見したのは単なる偶然ではなく、なんらかの遺恨によるように思えるが、定かではない。ともかく信西をこの世から抹殺した点では源光保が最大の功労者である。
もう一つは、光保らが清盛方に走ったために源義朝は内裏を出ざるを得なかったということである。すなわち⑤で官軍(平家)が内裏を攻め一旦退去した後に、陽明門を守備していた「出雲守光泰・伊賀守光基・讃岐守末時・豊後守時光、これらは心変わりして六波羅の勢に馳加わ」り、これが平治の乱の勝敗を左右したという。実は、これは金刀本の『平治物語』には見えず、陽明文庫本の『平治物語』に見える記事である。『平治物語』の諸本中でも陽明文庫本は日録的な記事が多く、古態を残したものとされる。一般に最も知られている金刀本は、『平家物語』で活躍する頼政像に影響され、古態を存する諸本には登場しない場所まで頼政を何度も登場させているとされる(田中宣一氏)。このように頼政の存在・行動が拡大化されたため、金刀本では光保の存在は消されてしまったのである。
さて、以上のごとく源光保の行動が平治の乱の勝敗を決めた。何が彼にこのような行動を取らせたのか。結論から言うと、二条天皇親政派としての立場が彼を動かしたのである。上記の④のように既に二条天皇とその側近は清盛の六波羅邸に入り内裏から離脱していた。この時点で、親政派としてこの乱に加わっていた光保・頼政らも、内裏に留まる必要はなくなったのである。こうした彼らの行動を、「心変わり」(裏切り)と『平治物語』では批判しているが、この意見はあくまでも彼らを源義朝の配下と見る考えに基づくものである。前章でも述べたごとく、源義朝と源光保はべつの集団であり、光保はけっしてその下風に立つものでなかった。『平治物語』中に見えるような、源義朝を「一門の中、大将とたのみて候」とする事実はないのである。
従来、この乱における源光保の存在は軽視されていたが、以上から彼を乱の立て役者の一人と見なしても差し支えないだろう。すなわち信西政権下逼塞させられていた源光保は、平治の乱で再び脚光を浴び復活したのである。
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五 平治の乱前の政局
保元元年(一一五六)夏までに源光保・光宗ら美濃源氏を支えていたのは鳥羽法皇であった。法皇の死後も光宗は異例の出世を遂げるが、これは彼らの基盤が鳥羽法皇のみに依拠したものではない証左である。それでは保元・平治期における源光保・光宗の権力基盤は何か。それを探るためには、まず鳥羽法皇の治世の晩年にさかのぼらねばならない。
久寿二年(一一五五)九月、守仁親王が立太子された。守仁は後白河天皇の第一皇子で、鳥羽法皇の孫にあたる人で、のちの二条天皇である。守仁の春宮(東宮)坊には多くの美濃源氏(国房流)の人々が任用されている。まず光保の娘(鳥羽法皇の寵姫)が乳母となっている。光保の次子光盛が春宮蔵人(定員四)になっている。光宗ものちに春宮殿上人(二十四人の内)に加えられている。すなわち源光保の三子はことごとく守仁親王に近侍していたのである。また、武官にも近親者が見える。十余人の帯刀を束ねる帯刀長(定員二人)を、源光綱(光保の甥)・源国長(光長の子)が占めていた。さらに春宮の厩を管理していた主馬首(うまのかみ)には、源光長(光保の甥)が衛門尉から任じられている。このように春宮の公的な武力は、源光保近親の美濃源氏により要所を固められていた。いわば守仁親王の春宮御所は、美濃源氏(国房流)の牙城ともいえる様相を呈していた。
美濃源氏は古くから帯刀などに任じられてきた一族だが、このように一時に集中して任命されるのは初めてである。おそらくこれは偶然ではないだろう。なぜなら守仁立太子により崇徳上皇はほぼ完全に自分の子孫への皇位継承を断ち切られ、不満をつのらせていた。いつ崇徳によるクーデターが発生しても不思議でない状況であった。実際、この後一年もしないうちに保元の乱が発生している。こうした不穏な情勢の中、鳥羽法皇は最も信頼していた源光保の一族で親王の周りを固め有事に備えていたのではないかと思う。
この措置は、源光保・光宗父子を中心とする美濃源氏にとっても大きな意味をもつ。春宮が天皇となれば、春宮坊の官人に出世の道が開かれることはよくあり、実際に保元三年(一一五八)の守仁即位後、彼らの多くは官職を得ている。光綱と国長はともに衛門尉に任官し、光保の娘は典侍になったとされている。
特に注目したいのは、源光宗が念願の内殿上人となったことである。この時彼はまだ十八歳である。これは異例の措置であり、二条天皇との特別なつながりが予想される。それを伺わせる興味深い記事がもう一つある。保元三年十二月、二条天皇の実母故藤原(源)懿子への贈后が行われた。その際、贈后宣命は左兵衛督藤原惟方に下され、惟方は源光宗を次官として伴いその墓所へ向かっている。さて彼らの派遣はその官職に由来するものではなく、私的な縁によるものである。惟方は二条の乳母子で、その第一の腹心である。光宗がこの使者に加えられたということは、惟方同様に信頼される地位にいたからに他ならない。この頃源光宗が二条天皇の側近の一人に名を連ねていた可能性は高い。
【中略】
六 平治の乱と源光保の動向
これまで源光保の平治の乱における役割は消極的な評価しか受けてこなかった。この章では、平治の乱における源光保ら美濃源氏の動向とその果たした役割を再考してみたい。まず平治の乱の経過を『百錬抄』・『平治物語』(金刀比羅本。以後金刀本)により簡単に整理すると以下のようになる。
①十二月九日 藤原信頼・源義朝らによる後白河上皇の三条御所急襲。信西宿所攻撃。信西は逃亡。
②十日 臨時除目。
③十七日 信西の首、西獄門の前の樹に懸けられる。
④二十五日 二条天皇らの内裏脱出・六波羅行幸。
⑤二十七(六)日 官軍内裏攻撃。源頼政の心替わり。義朝ら内裏を出て、六条河原で合戦。信頼・義朝敗北。後日、信頼斬首。
⑥一月九日 義朝らの首、東獄門の前の樹に懸けられる。
この乱で信西排除に挙兵した武士として、源義朝一族、源頼政、源季実・季盛父子、源重成(佐渡式部大夫)と共に出雲前司源光保と甥の伊賀守源光基(詞書によれば検非違使)ら美濃源氏の名が見える。この様子は『平治物語絵詞』の「三条殿夜討」中にも鮮やかに描かれている。こうした活動の結果、②において源光保は隠岐国を賜り、甥の光基は伊勢国を賜っている。すなわち美濃源氏も反乱軍の主力の一角を占めていたのである。しかし光保の活動はこれにとどまらない。実は、この乱の中で源光保はさらに二度に亙り重大な役割を果たしている。
一つは、逃亡中の信西を尋ねだしその首をとったことである。出雲前司光保は郎等五十余騎を率いて信西を探索していたが、宇治田原の山中の穴にいたところを発見し討ち取っている。十四日光保の宿所神楽岡で首実検した後、翌日検非違使源資経に首は引き渡された。ここで注目したいのは、光保に「敵」の記載があることと、光保が信西の舎人・馬をよく知っていたということである。光保が信西を発見したのは単なる偶然ではなく、なんらかの遺恨によるように思えるが、定かではない。ともかく信西をこの世から抹殺した点では源光保が最大の功労者である。
もう一つは、光保らが清盛方に走ったために源義朝は内裏を出ざるを得なかったということである。すなわち⑤で官軍(平家)が内裏を攻め一旦退去した後に、陽明門を守備していた「出雲守光泰・伊賀守光基・讃岐守末時・豊後守時光、これらは心変わりして六波羅の勢に馳加わ」り、これが平治の乱の勝敗を左右したという。実は、これは金刀本の『平治物語』には見えず、陽明文庫本の『平治物語』に見える記事である。『平治物語』の諸本中でも陽明文庫本は日録的な記事が多く、古態を残したものとされる。一般に最も知られている金刀本は、『平家物語』で活躍する頼政像に影響され、古態を存する諸本には登場しない場所まで頼政を何度も登場させているとされる(田中宣一氏)。このように頼政の存在・行動が拡大化されたため、金刀本では光保の存在は消されてしまったのである。
さて、以上のごとく源光保の行動が平治の乱の勝敗を決めた。何が彼にこのような行動を取らせたのか。結論から言うと、二条天皇親政派としての立場が彼を動かしたのである。上記の④のように既に二条天皇とその側近は清盛の六波羅邸に入り内裏から離脱していた。この時点で、親政派としてこの乱に加わっていた光保・頼政らも、内裏に留まる必要はなくなったのである。こうした彼らの行動を、「心変わり」(裏切り)と『平治物語』では批判しているが、この意見はあくまでも彼らを源義朝の配下と見る考えに基づくものである。前章でも述べたごとく、源義朝と源光保はべつの集団であり、光保はけっしてその下風に立つものでなかった。『平治物語』中に見えるような、源義朝を「一門の中、大将とたのみて候」とする事実はないのである。
従来、この乱における源光保の存在は軽視されていたが、以上から彼を乱の立て役者の一人と見なしても差し支えないだろう。すなわち信西政権下逼塞させられていた源光保は、平治の乱で再び脚光を浴び復活したのである。
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