投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月 2日(水)12時12分35秒
>筆綾丸さん
>水林彪氏
私は去年検討した『天皇制史論―本質・起源・展開』の論理にけっこう納得しているので、同書と比べると『歴史と哲学の対話』はいろいろな点で物足りない感じがしました。
といっても後半、竹田青嗣氏との対談はまだ読んでもいないのですが。
『天皇制史論─本質・起源・展開』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f54a9a6b71d2a71d719efd5573fc5382
「天皇制の超時代的存続の秘密」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3186f4845f0d08ed1683a49f509cfde9
<支配の正当性>史論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2a70643647ae5e286dbf566e472a9be
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
テンノリアン 2015/12/01(火) 12:47:54
小太郎さん
『歴史と哲学の対話』を半分ほど読みました。
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本郷ーうーん、そうかもしれませんね。ただ、そこで問題になってくるのは、カンタベリー大司教は世襲ではないでしょう?
ーー世襲かどうかはどうでもいいでしょう。王権を承認する機能として、「構造」が同じではないか、という話なんですから。しかも王権と括弧つきの「聖性」との上下関係というか力関係も同じじゃないかと。どちらも、王権のほうが、すでに地位が高くなっていて。(84頁)
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対談者の発言をこうもあからさまに否定したら、これはもはや編集者の立場を逸脱していますね。本郷氏は、この野郎、とムッとしたのではないかな。じゃ、君が議論を続けろよ、と。
編集者は少なくとも三人はいて、それぞれが別々に発言しているため無記名とせざるをえず、とりあえず傍線で代表させた、というような事情なんでしょうね。あるいは、この無記名の傍線は対談者のための補助線なんだよ、と己惚れているのかもしれません。
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ーー権力は握ったとしても、その正当性を認証してくれる「機関」がやはり必要になってくる。それで秀吉は、そういう「機関」として天皇を使ったということではないでしょうか。(78頁)
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編集者Xのこの発言は、戦前の「天皇機関説」などを意識したものなんでしょうが、うるせえな、という感じですね。
66頁以降は国家と権力の話で、正統性と正当性という言葉が頻出するのですが、正確に使い分けられていない印象を受けました。編集者は、こういうところこそ注意すべきなんですが、対話に補助線を引くことに夢中で、散漫になっているのかもしれません。
水林彪氏の著書に、マックス・ヴェーバーをめぐり、丸山真男は正統性と正当性に関して誤訳している、というような記述があることを思い出しました。
前半の対談ははじめの方にフッサール現象学の話が少し出てくるものの、あとはホッブスとロックとルソーを中心にした歴史の話で、ほとんど哲学の香りがせず、期待が外れました。
いちばん面白かったのは、本郷氏の「テンノリアン」という造語です。Tennorian と綴るのでしょうが、Tennoriant と綴れば(発音は同じ)、微笑む天皇、を含意し、Tennorien と綴れば、無の天皇、を含意します。後者の Tennorien はバルトの空虚の中心をも含意できるかもしれません。
これから、後半の対談を読みます。
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