投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年11月 7日(土)22時31分27秒
>筆綾丸さん
>惟康君はずっと鎌倉に住んでいて、居成りで将軍になった、ということでしょうか。
これはその通りですね。
熊谷説に即して考えると、一度も征夷大将軍の「本邸」に入らないまま征夷大将軍になった人ということですね。
藤原頼嗣も、久明親王の子の守邦親王も同様です。
『中世の都市と武士』(高橋慎一朗著、吉川弘文館、1996)の「第二章 『武家地』六波羅の成立」に次のような記述がありました。
(p45以下)
--------------
頼経は、将軍を子息頼嗣に譲った後、寛元四年(一二四六)に「宮騒動」と呼ばれる幕府内紛に関与したとして京都へ送還される。『葉黄記』同年七月二十八日条は、次のように記す。
今日寅刻、入道将軍(頼経)自関東令渡給、重時朝臣若松宅<被(彼)朝臣開放(閑居)之地也>、
当時、北条重時は探題在任中である。「若松宅」は「六波羅若松殿」とも称されており、六波羅にあったことは確かで、重時の別荘と思われる。竹村俊則氏によれば、小松谷正林寺の東、渋谷通りの南に「若松池址」があり、藤原邦綱の若松亭の跡という。邦綱の若松亭は『源平盛衰記』に「邦綱卿山荘東山若松亭」と見え、頼朝宿所の候補となった「東山六条末別業」と同じものであろう。竹村氏は六波羅若松殿が邦綱の若松亭であったと推定している。邦綱は平氏と親密な関係にあったから、平氏滅亡後は没官され幕府の所有に帰した可能性は高い。若松殿はおそらく代々の探題の管轄するところであったろう。
頼経の子息頼嗣も、陰謀との関与を疑われ京都へ送還される。この時頼嗣が入洛後まず入ったのが若松殿であった。また、『勘仲記』弘安五年(一二八二)八月九日条には「今日東使相触之間、当寺相副下所司於大隈庄氏(民)令出対若松之由示之」とあり、この「若松」も若松殿であろう。若松殿は東使の宿所にも利用されていたのである。
>筆綾丸さん
>惟康君はずっと鎌倉に住んでいて、居成りで将軍になった、ということでしょうか。
これはその通りですね。
熊谷説に即して考えると、一度も征夷大将軍の「本邸」に入らないまま征夷大将軍になった人ということですね。
藤原頼嗣も、久明親王の子の守邦親王も同様です。
『中世の都市と武士』(高橋慎一朗著、吉川弘文館、1996)の「第二章 『武家地』六波羅の成立」に次のような記述がありました。
(p45以下)
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頼経は、将軍を子息頼嗣に譲った後、寛元四年(一二四六)に「宮騒動」と呼ばれる幕府内紛に関与したとして京都へ送還される。『葉黄記』同年七月二十八日条は、次のように記す。
今日寅刻、入道将軍(頼経)自関東令渡給、重時朝臣若松宅<被(彼)朝臣開放(閑居)之地也>、
当時、北条重時は探題在任中である。「若松宅」は「六波羅若松殿」とも称されており、六波羅にあったことは確かで、重時の別荘と思われる。竹村俊則氏によれば、小松谷正林寺の東、渋谷通りの南に「若松池址」があり、藤原邦綱の若松亭の跡という。邦綱の若松亭は『源平盛衰記』に「邦綱卿山荘東山若松亭」と見え、頼朝宿所の候補となった「東山六条末別業」と同じものであろう。竹村氏は六波羅若松殿が邦綱の若松亭であったと推定している。邦綱は平氏と親密な関係にあったから、平氏滅亡後は没官され幕府の所有に帰した可能性は高い。若松殿はおそらく代々の探題の管轄するところであったろう。
頼経の子息頼嗣も、陰謀との関与を疑われ京都へ送還される。この時頼嗣が入洛後まず入ったのが若松殿であった。また、『勘仲記』弘安五年(一二八二)八月九日条には「今日東使相触之間、当寺相副下所司於大隈庄氏(民)令出対若松之由示之」とあり、この「若松」も若松殿であろう。若松殿は東使の宿所にも利用されていたのである。
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