『孤火の森』 目次
『孤火の森』 第1回から第10回までの目次は以下の 『孤火の森』リンクページ からお願いいたします。
『孤火の森』 リンクページ
兵が大砲に玉を詰めようとしている時だった。
目の前から森が消えた。
どこからともなく「森が・・・」 と、さざ波のように聞こえてきた。 玉を持ったままの兵が森を見ると、そこにあるはずの森が無くなっている。 玉を持ったまま動きが止まる。
「目! 目くらましだ! さっさと玉を詰めろ!」
兵隊長の叱咤がとぶ。
目くらまし・・・それは森の民がした事なのか? それならばもう森の民は自分たちの存在を知っているということ。
兵たちの間に動揺が広がる。
若い兵たちは伝え聞いている。 幻覚のことを、同士討ちのことを。 あれだけ高揚していた気持ちが一瞬にして狼狽(ろうばい)へと変わる。
カン、と若い兵の鎧に何かが当たって鋭い音をたてた。
「うわぁーーー!!」
若い兵が抜刀し、見えない何かに向かって剣を振り回す、それが伝播していく。 その間にも、他の兵の鎧にもカンカンと何かが当たっていく。
冷静さを失った若い兵たちが剣を振り回すうち、隣にいた者の剣と交わる。 キン、という音をたて互いの剣が離れるが、目の前にいる兵が本物かどうか、幻覚を見せられているのではないか、それともこの相手は森の民ではないかと、何もかもに疑心暗鬼になり剣を振りかざす。 それがあちこちに起きだした。
若い兵は年長の兵にまで剣を向けてきた。 年長の兵においてもあの時のことを思いだし、顔を半分引きつらせながら剣を受ける。
「やめー! やめー!」
兵隊長が声を限りに叫ぶが怒声と剣戟の音でかき消されてしまう。
すぐに呪師と共にその場を離れたジャジャムが安堵のような息を吐いた。 セイナカルに見せられるものでは無いことは分かっている。
「ジャジャム殿・・・」
この呪師はまだ若い、三十にもまだなっていない。 ジャジャムはこの呪師の父親を知っている。 良い呪師だった、腕も心根も。 父親は守り切れなかった。 いや、守る以前に、セイナカルの言いなりだった。 後悔している。 この娘だけは守りたい。
「引こう。 こんな所で森の民に知られてしまっては勝ち目などない。 リラ、お前のせいではない、安心せよ」
切り合いを始めた兵を背にすると二人で早足で歩き始めた。 暫く歩いているとザッという音が聞こえた。
振り返ると逃げ出した兵を烏の大群が襲っている。
森の主は他の森に応援を頼むのではなく烏に応援を頼んだようであった。 だがこれが夜襲であったのならば、烏に応援を頼むわけにはいかなかっただろう。
「急ごう」
来た道を戻って行った。
「ブブ?」
布越しにポポが声をかけた。
ブブが床(とこ)で身じろぎをした気配を感じたが返事がない。
「入るぞ」
床の中でブブが目を開けた。 どんな顔をしてポポと会えばいいのだろうか。 顔を見られたくない、掛布を引っ張って頭から被った。
布を撥ね上げて入って来たポポが一旦足を止め、もう一度ブブを呼んだが返事はまたなかった。 でもブブが起きているのは分かっている。 ブブが横になっている床まで歩み寄り横にしゃがみこむ。
床と言っても木の板を敷いた上に燻した草の藁を敷き、その上に布を被せているだけである。
「ブブ? その・・・腹が痛いか?」
ある程度のことは夕べアナグマから聞いた。
ブブからの返事はない。
「えっと・・・他に具合の悪いところはないか? その、頭が痛いとか、吐き気がするとか、イライラするとか、だるいとか、ああそんなんじゃなくて・・・その、他にないか?」
アナグマから聞いたことを並べたが、ブブが体をどんな風に害するかはサイネムからは聞いていない。 だからアナグマから聞いた以外の症状はないか、そう訊ねるしかなかった。
掛布の中でブブが眉をしかめる。 今ポポが言ったことは全て今のブブの状態に当て嵌まっている。 それなのに他とはどういうことだ、これ以上どこの具合が悪くなっているというのだ。 それともポポはブブをイライラさせに来たのか。
憤りかけたが、ふっと息を吐いた。
(ポポがそんなことをするわけない)
たんに身体の心配をしてくれているんだ。
(馬鹿だな、そんなことを考えるなんて)
掛布の中でブブが首を振った。
ブブからの返事があった。 ポポの顔に満面の笑みが広がる。
「そ、そうか、ないか。 その、喉が乾かないか? 水持ってこようか?」
掛布の中でもう一度ブブの首が振られた。
「要らないか。 なら腹が減ってないか? 飯が炊き終わってるはずだけど・・・」
そうだった、アナグマから食欲が失せることもあると聞いていたのだった。 それに腹が痛くて食欲も何も無いだろう。
「あ、あの、えっと・・・」
「湯・・・」
くぐもった声が聞こえた。 掛布の中からのブブの声。
「え? なに? ゆ?」
「温かいものが飲みたい」
「あ! 湯な! 分かった、すぐに持ってくる、待ってろ!」
ドタバタと音を鳴らしてポポが出て行った。
プハーと言って、ブブが掛布から顔を出す。
「ん?」
どうしてだろうか、掛布を掴んでいた手首が、指が動かしにくい。
「あれ? なんで?」
両手を掛布から外して握ったり広げたりする。 動かないわけではないが動かしにくい。 手首を動かしてみるが、こちらも同じ感じがする。
「どうして・・・」
こんな症状はヤマネコから聞いていない。
そこに布を撥ね上げてヤマネコが入って来た。
「起きたかい、どうだい?」
手には皿を持ち、そこに握り飯が置かれている。 少し小さめだ。 そして湯気を立てた小さな壺。
「腹を冷やすとよくないからね。 どうだい? 食べられそうかい?」
「あ・・・」
そこに湯気を上げた木椀を持ったポポが入って来た。
「ブブ! 湯だ! ちょっと熱すぎ・・・。 あ・・・」
ヤマネコがポポを見て微笑む。 やはりこの二人はこうでなくてはいけない。
「よく気が利くじゃないか」
「ブブが飲みたいって」
「そうかい、それじゃあ、その湯を飲ませてやんな。 ちゃんと冷ましてやるんだよ。 それとブブは夕べ食べなかったんだ。 無理じゃないようだったら食べさせてやってあげな。 あたしは戻ってるからね、何かあったらいつでも呼びに来な」
ブブのことは気になるが、ポポもブブの今の状態を受け入れてきたようだ。 今は二人だけにしてやろう。
「うん」
握り飯が乗った皿とお替わり用にだろう、壺を置いていった。
ポポがブブの横に座って木椀の湯をフーフーと冷ましてやる。
「ブブ、起きられるか?」
沈んだ顔のブブがゆっくりと上体を起こしてきた。
手首と指以外はどこにも違和感はなさそうだ。 いつも通り動かすことが出来る。
ほい、と言ってポポが木椀をブブに渡すのをゆっくりとブブが受け取る。 木椀を包み込もうとして・・・。
「おっと・・・」
均等に指に力が入らない。 木椀を落としかけたのをポポが受けとめた。
「どうした?」
「なんでもない・・・」
「んじゃ、はい、ちゃんと持てよ?」
そろりそろりと一本ずつ指に力を入れていく。
「・・・ブブ?」
どう見てもブブの様子がおかしい。
「ブブ、どうした? ちゃんと教えて?」
今度は手首がカクリと曲がって、木椀から零れた湯がポポの手にかかった。
「あち・・・」
「あ、ゴメ・・・」
言いかけたブブの目から次々と涙が溢れだす。
「ブブ・・・」
ブブに何が起きているのだろうか。
「ごめんよ、まだ熱すぎた。 ブブの口の中が火傷するとこだったな、オレが飲ませてやるよ」
残った湯に息をかけ今度こそ冷ますと、そっとブブの口に木椀をあてた。
お頭の部屋の中では話が進められていた。
「それは有難い。 少し・・・」
そう言った切り、後ろを向いて深い息を何度か繰り返してサイネムが黙ってしまった。 目を瞑っているようだ。
何事だ? という目をしてお頭と若頭が目を合わせるが、森の民のすることは全く以って分からない。
暫くすると大きく息を吐いたサイネムが目を開いてこちらに向き直った。
「待たせて悪かった」
「いや・・・」
「その穴を掘るために腰を痛めたのか?」
「え・・・」
「それは悪かった」
「違げぇーよ、その、あそこに行くまでにギクッてなっただけだ」
「わたしたちは痛みに呪をかける時にはそれなりのものを先に見る。 足首はあの日捻ったものだろう。 だがあの腰は長い時の中、無理を重ねたことからくる腰の歪みだった」
「歳いきゃあ、腰だって悪くなるわな」
「手をかけさせたな、礼を言う」
「・・・」
「お頭、こんな時は素直になりましょうぜ」
「馬鹿か、あの二人の為にすることは誰に何の礼を言われるこっちゃねーんだよ」
お頭がそう言った時、布の外から声がかかった、声の主はヤマネコ。 握り飯を持って来たようだ。
「入んな」
ポポがここに居たことはアナグマから聞いている。 ポポの話をしてもいいだろう。 握り飯がのった皿を置きながらお頭に話しかける。
ヤマネコが声をかけた時にサイネムの髪の毛と瞳はまた黒に戻していた。
「ブブが起きてきたよ、今はポポが見てる。 ま、仲良く戻ったようだね」
「そうかい、ブブの様子はだうだ?」
「あたしが見た時には何も? 初めての時はあんなもんだろ。 ブブに無理をさせないでおくれよ。 ああ、それとポポを働かさないでおくれな、ブブのそばに置いてやりたいからさ」
「ったく、この甘甘の乳母が」
「乳母? 何を急に昔の話をしてんだい」
ふん、と言い残してヤマネコが出て行った。
洞に入るまでにアナグマとヤマネコのことを話したが、サイネムは素っ気なかった。 だからヤマネコのことは念を押して言いたかった。 その為のフリであった。
「乳母か・・・」
ヤマネコが『急に昔の話し』 と言った。 お頭がわざと言ったのだということは分かっていた。
「そうだ、あいつが双子に乳をやってくれてた。 自分の子を亡くしていくらも経ってなかったからきつい頼みだとは思ったがな、あいつしかいなかった」
「そうか・・・」
「せっかく握ってくれたんだ、ま、食べな」
「ああ、ありがたく頂く」
そう言って握り飯に手を伸ばした。
食べながらも話は進められていく。 お頭の掘った穴を利用するということだった。 そこまではいいが穴から出た後のことである。
サイネムが難しそうな顔をして話が止まった。
ブブとポポが生まれたあの日から考えると兵の数は留守を預かる程度だろうが、たとえ呪が使えるといっても一人で兵を抑えるのは難しいと考えているのかもしれない。
「応援を頼んだらどうでぇ? 森の王女のことだ、森の民が手を貸すだろうよ」
「来る前に聞いた話、この男が教えてくれた話があるだろう」
この男、それは若頭のこと。
「え? ああ」
「その話はすぐにあちこちの森に伝わる。 そうなればどこの森も敏感になる。 そんな時に頼めるものでは無い」
「自分たちのこれからの女王のことなのにかい」
「女王になるゼライアがそれを望むことは無いと知っている」
「ゼライアねぇ」
それはブブのこと。
「そういえば、あの森はどうなったんですかね」
あの森、若頭がサイネムに話した森のことである。 若頭がお頭に向けて言ったが答えたのはサイネムだった。
「事前に分かった、回避できただろう。 ああ、そうだ。 森の主が礼を言っておいてくれということだった」
若頭が何度も目を瞬(しばたた)かせる。 そして出た言葉が「森の民が?」だった。
「森の民は礼を欠かすことはしない」
そう言えば少し前にこの男はお頭に礼を言うと言っていたのだった。 自分に降りかかってきたことではなかったから何も考えず受け止めていたが、森の民は礼を言うのだった。
あの時、先に行っててくれと言い、遅れてこの男はやって来た。 きっとその時に鳥の足にでも知らせを付けて飛ばしたのだろうが、それにしてもいつの間に森の主からの返事を受け取ったのだろうか。
そんな疑問を頭の片隅に持ちながらも、迂闊にも声にしてしまった失言ともとれる言いようを撤回しなくては。
「そ、そうかい、そりゃ悪かった。 たまたま耳にしただけのことだ。 どうってことないって言っといてくれ」
礼を言われるほどのことではない、そう言いたかったが、そう言ってしまっては森の民からの礼を断った形になるのかもしれないと思いこんな言い方になった。
サイネムが頷きで応える。
「森を探りに行っちゃあ、どうでぇ。 兵が何人いるとか、どこにいるとか、あんたなら出来るんじゃねーのか?」
「何度か探りに行ったが何人もの兵を見た。 それに呪師が居たからな、思うように探れなかった」
「呪師ねぇ・・・だがそれはブブがまだ小さい時の事だろう?」
サイネムが言っていた。 最初の八年くらいはあの穴から出ていたと。
「ああそうだ。 あの時より兵の人数はある程度減っただろうが呪師は今も居るはず」
「そう言やぁそうだな、兵は減ってるわな。 今はあちこちに散らばしてるんだ、あの森だけにかまってられないだろうさな」
「兵を散らばしている?」
また何かしようとしているのかとサイネムがお頭に訊き返す。
「・・・ちょっといいか?」
返事をしようとしかけたお頭より早く若頭が口を挟む。
「なんでぃ」
「お頭じゃありませんぜ、こっちの旦那」
お頭が最初に旦那と呼んでいたのだから、名を呼ばずともそれでいいだろう。
「今の話もそうだが、森が敏感になるって、あ、いや森ってのは森の民ってことだよな、森の民が敏感になるって言ってたな? あの森が兵に襲撃されたことで」
「ああ」
「森の民は気付いてないのか? 全部の森がその対象にされてるって」
「どういうことだ」
「いや、言い過ぎた。 対象にされてるかどうかってのは、はっきり聞いたわけじゃない。 だがどこの山の民も言ってる、兵が山の中を歩いて森に向かってるってな。 だからいま兵があちこちの森に散らばってる。 そのやり口は・・・あの森、ブブとポポが生まれた森が襲われたのと同じやり口だ」
「間違いはないのか」
「あくまで、山の民が兵が森に向かって歩いているのを見た。 森の民に見つからないためにだろう、遠回りをして。 それはあの森を襲った時と同じやり方だ。 それしか言えない」
半眼になり考えるようにしたサイネムが瞼を上げた。
「・・・今日の森はどこよりも小さい森。 そこが一番にやられた、そう考えると有り得なくもない話。 少し・・・」
そしてまた背を見せると目を瞑り深い呼吸をするとそのまま動かなくなった。
今度もまたお頭と若頭が目を合わせる。 二人が上目遣いにサイネムの後姿を見ながら木椀を口にした。
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孤火の森(こびのもり) 第12回
兵が大砲に玉を詰めようとしている時だった。
目の前から森が消えた。
どこからともなく「森が・・・」 と、さざ波のように聞こえてきた。 玉を持ったままの兵が森を見ると、そこにあるはずの森が無くなっている。 玉を持ったまま動きが止まる。
「目! 目くらましだ! さっさと玉を詰めろ!」
兵隊長の叱咤がとぶ。
目くらまし・・・それは森の民がした事なのか? それならばもう森の民は自分たちの存在を知っているということ。
兵たちの間に動揺が広がる。
若い兵たちは伝え聞いている。 幻覚のことを、同士討ちのことを。 あれだけ高揚していた気持ちが一瞬にして狼狽(ろうばい)へと変わる。
カン、と若い兵の鎧に何かが当たって鋭い音をたてた。
「うわぁーーー!!」
若い兵が抜刀し、見えない何かに向かって剣を振り回す、それが伝播していく。 その間にも、他の兵の鎧にもカンカンと何かが当たっていく。
冷静さを失った若い兵たちが剣を振り回すうち、隣にいた者の剣と交わる。 キン、という音をたて互いの剣が離れるが、目の前にいる兵が本物かどうか、幻覚を見せられているのではないか、それともこの相手は森の民ではないかと、何もかもに疑心暗鬼になり剣を振りかざす。 それがあちこちに起きだした。
若い兵は年長の兵にまで剣を向けてきた。 年長の兵においてもあの時のことを思いだし、顔を半分引きつらせながら剣を受ける。
「やめー! やめー!」
兵隊長が声を限りに叫ぶが怒声と剣戟の音でかき消されてしまう。
すぐに呪師と共にその場を離れたジャジャムが安堵のような息を吐いた。 セイナカルに見せられるものでは無いことは分かっている。
「ジャジャム殿・・・」
この呪師はまだ若い、三十にもまだなっていない。 ジャジャムはこの呪師の父親を知っている。 良い呪師だった、腕も心根も。 父親は守り切れなかった。 いや、守る以前に、セイナカルの言いなりだった。 後悔している。 この娘だけは守りたい。
「引こう。 こんな所で森の民に知られてしまっては勝ち目などない。 リラ、お前のせいではない、安心せよ」
切り合いを始めた兵を背にすると二人で早足で歩き始めた。 暫く歩いているとザッという音が聞こえた。
振り返ると逃げ出した兵を烏の大群が襲っている。
森の主は他の森に応援を頼むのではなく烏に応援を頼んだようであった。 だがこれが夜襲であったのならば、烏に応援を頼むわけにはいかなかっただろう。
「急ごう」
来た道を戻って行った。
「ブブ?」
布越しにポポが声をかけた。
ブブが床(とこ)で身じろぎをした気配を感じたが返事がない。
「入るぞ」
床の中でブブが目を開けた。 どんな顔をしてポポと会えばいいのだろうか。 顔を見られたくない、掛布を引っ張って頭から被った。
布を撥ね上げて入って来たポポが一旦足を止め、もう一度ブブを呼んだが返事はまたなかった。 でもブブが起きているのは分かっている。 ブブが横になっている床まで歩み寄り横にしゃがみこむ。
床と言っても木の板を敷いた上に燻した草の藁を敷き、その上に布を被せているだけである。
「ブブ? その・・・腹が痛いか?」
ある程度のことは夕べアナグマから聞いた。
ブブからの返事はない。
「えっと・・・他に具合の悪いところはないか? その、頭が痛いとか、吐き気がするとか、イライラするとか、だるいとか、ああそんなんじゃなくて・・・その、他にないか?」
アナグマから聞いたことを並べたが、ブブが体をどんな風に害するかはサイネムからは聞いていない。 だからアナグマから聞いた以外の症状はないか、そう訊ねるしかなかった。
掛布の中でブブが眉をしかめる。 今ポポが言ったことは全て今のブブの状態に当て嵌まっている。 それなのに他とはどういうことだ、これ以上どこの具合が悪くなっているというのだ。 それともポポはブブをイライラさせに来たのか。
憤りかけたが、ふっと息を吐いた。
(ポポがそんなことをするわけない)
たんに身体の心配をしてくれているんだ。
(馬鹿だな、そんなことを考えるなんて)
掛布の中でブブが首を振った。
ブブからの返事があった。 ポポの顔に満面の笑みが広がる。
「そ、そうか、ないか。 その、喉が乾かないか? 水持ってこようか?」
掛布の中でもう一度ブブの首が振られた。
「要らないか。 なら腹が減ってないか? 飯が炊き終わってるはずだけど・・・」
そうだった、アナグマから食欲が失せることもあると聞いていたのだった。 それに腹が痛くて食欲も何も無いだろう。
「あ、あの、えっと・・・」
「湯・・・」
くぐもった声が聞こえた。 掛布の中からのブブの声。
「え? なに? ゆ?」
「温かいものが飲みたい」
「あ! 湯な! 分かった、すぐに持ってくる、待ってろ!」
ドタバタと音を鳴らしてポポが出て行った。
プハーと言って、ブブが掛布から顔を出す。
「ん?」
どうしてだろうか、掛布を掴んでいた手首が、指が動かしにくい。
「あれ? なんで?」
両手を掛布から外して握ったり広げたりする。 動かないわけではないが動かしにくい。 手首を動かしてみるが、こちらも同じ感じがする。
「どうして・・・」
こんな症状はヤマネコから聞いていない。
そこに布を撥ね上げてヤマネコが入って来た。
「起きたかい、どうだい?」
手には皿を持ち、そこに握り飯が置かれている。 少し小さめだ。 そして湯気を立てた小さな壺。
「腹を冷やすとよくないからね。 どうだい? 食べられそうかい?」
「あ・・・」
そこに湯気を上げた木椀を持ったポポが入って来た。
「ブブ! 湯だ! ちょっと熱すぎ・・・。 あ・・・」
ヤマネコがポポを見て微笑む。 やはりこの二人はこうでなくてはいけない。
「よく気が利くじゃないか」
「ブブが飲みたいって」
「そうかい、それじゃあ、その湯を飲ませてやんな。 ちゃんと冷ましてやるんだよ。 それとブブは夕べ食べなかったんだ。 無理じゃないようだったら食べさせてやってあげな。 あたしは戻ってるからね、何かあったらいつでも呼びに来な」
ブブのことは気になるが、ポポもブブの今の状態を受け入れてきたようだ。 今は二人だけにしてやろう。
「うん」
握り飯が乗った皿とお替わり用にだろう、壺を置いていった。
ポポがブブの横に座って木椀の湯をフーフーと冷ましてやる。
「ブブ、起きられるか?」
沈んだ顔のブブがゆっくりと上体を起こしてきた。
手首と指以外はどこにも違和感はなさそうだ。 いつも通り動かすことが出来る。
ほい、と言ってポポが木椀をブブに渡すのをゆっくりとブブが受け取る。 木椀を包み込もうとして・・・。
「おっと・・・」
均等に指に力が入らない。 木椀を落としかけたのをポポが受けとめた。
「どうした?」
「なんでもない・・・」
「んじゃ、はい、ちゃんと持てよ?」
そろりそろりと一本ずつ指に力を入れていく。
「・・・ブブ?」
どう見てもブブの様子がおかしい。
「ブブ、どうした? ちゃんと教えて?」
今度は手首がカクリと曲がって、木椀から零れた湯がポポの手にかかった。
「あち・・・」
「あ、ゴメ・・・」
言いかけたブブの目から次々と涙が溢れだす。
「ブブ・・・」
ブブに何が起きているのだろうか。
「ごめんよ、まだ熱すぎた。 ブブの口の中が火傷するとこだったな、オレが飲ませてやるよ」
残った湯に息をかけ今度こそ冷ますと、そっとブブの口に木椀をあてた。
お頭の部屋の中では話が進められていた。
「それは有難い。 少し・・・」
そう言った切り、後ろを向いて深い息を何度か繰り返してサイネムが黙ってしまった。 目を瞑っているようだ。
何事だ? という目をしてお頭と若頭が目を合わせるが、森の民のすることは全く以って分からない。
暫くすると大きく息を吐いたサイネムが目を開いてこちらに向き直った。
「待たせて悪かった」
「いや・・・」
「その穴を掘るために腰を痛めたのか?」
「え・・・」
「それは悪かった」
「違げぇーよ、その、あそこに行くまでにギクッてなっただけだ」
「わたしたちは痛みに呪をかける時にはそれなりのものを先に見る。 足首はあの日捻ったものだろう。 だがあの腰は長い時の中、無理を重ねたことからくる腰の歪みだった」
「歳いきゃあ、腰だって悪くなるわな」
「手をかけさせたな、礼を言う」
「・・・」
「お頭、こんな時は素直になりましょうぜ」
「馬鹿か、あの二人の為にすることは誰に何の礼を言われるこっちゃねーんだよ」
お頭がそう言った時、布の外から声がかかった、声の主はヤマネコ。 握り飯を持って来たようだ。
「入んな」
ポポがここに居たことはアナグマから聞いている。 ポポの話をしてもいいだろう。 握り飯がのった皿を置きながらお頭に話しかける。
ヤマネコが声をかけた時にサイネムの髪の毛と瞳はまた黒に戻していた。
「ブブが起きてきたよ、今はポポが見てる。 ま、仲良く戻ったようだね」
「そうかい、ブブの様子はだうだ?」
「あたしが見た時には何も? 初めての時はあんなもんだろ。 ブブに無理をさせないでおくれよ。 ああ、それとポポを働かさないでおくれな、ブブのそばに置いてやりたいからさ」
「ったく、この甘甘の乳母が」
「乳母? 何を急に昔の話をしてんだい」
ふん、と言い残してヤマネコが出て行った。
洞に入るまでにアナグマとヤマネコのことを話したが、サイネムは素っ気なかった。 だからヤマネコのことは念を押して言いたかった。 その為のフリであった。
「乳母か・・・」
ヤマネコが『急に昔の話し』 と言った。 お頭がわざと言ったのだということは分かっていた。
「そうだ、あいつが双子に乳をやってくれてた。 自分の子を亡くしていくらも経ってなかったからきつい頼みだとは思ったがな、あいつしかいなかった」
「そうか・・・」
「せっかく握ってくれたんだ、ま、食べな」
「ああ、ありがたく頂く」
そう言って握り飯に手を伸ばした。
食べながらも話は進められていく。 お頭の掘った穴を利用するということだった。 そこまではいいが穴から出た後のことである。
サイネムが難しそうな顔をして話が止まった。
ブブとポポが生まれたあの日から考えると兵の数は留守を預かる程度だろうが、たとえ呪が使えるといっても一人で兵を抑えるのは難しいと考えているのかもしれない。
「応援を頼んだらどうでぇ? 森の王女のことだ、森の民が手を貸すだろうよ」
「来る前に聞いた話、この男が教えてくれた話があるだろう」
この男、それは若頭のこと。
「え? ああ」
「その話はすぐにあちこちの森に伝わる。 そうなればどこの森も敏感になる。 そんな時に頼めるものでは無い」
「自分たちのこれからの女王のことなのにかい」
「女王になるゼライアがそれを望むことは無いと知っている」
「ゼライアねぇ」
それはブブのこと。
「そういえば、あの森はどうなったんですかね」
あの森、若頭がサイネムに話した森のことである。 若頭がお頭に向けて言ったが答えたのはサイネムだった。
「事前に分かった、回避できただろう。 ああ、そうだ。 森の主が礼を言っておいてくれということだった」
若頭が何度も目を瞬(しばたた)かせる。 そして出た言葉が「森の民が?」だった。
「森の民は礼を欠かすことはしない」
そう言えば少し前にこの男はお頭に礼を言うと言っていたのだった。 自分に降りかかってきたことではなかったから何も考えず受け止めていたが、森の民は礼を言うのだった。
あの時、先に行っててくれと言い、遅れてこの男はやって来た。 きっとその時に鳥の足にでも知らせを付けて飛ばしたのだろうが、それにしてもいつの間に森の主からの返事を受け取ったのだろうか。
そんな疑問を頭の片隅に持ちながらも、迂闊にも声にしてしまった失言ともとれる言いようを撤回しなくては。
「そ、そうかい、そりゃ悪かった。 たまたま耳にしただけのことだ。 どうってことないって言っといてくれ」
礼を言われるほどのことではない、そう言いたかったが、そう言ってしまっては森の民からの礼を断った形になるのかもしれないと思いこんな言い方になった。
サイネムが頷きで応える。
「森を探りに行っちゃあ、どうでぇ。 兵が何人いるとか、どこにいるとか、あんたなら出来るんじゃねーのか?」
「何度か探りに行ったが何人もの兵を見た。 それに呪師が居たからな、思うように探れなかった」
「呪師ねぇ・・・だがそれはブブがまだ小さい時の事だろう?」
サイネムが言っていた。 最初の八年くらいはあの穴から出ていたと。
「ああそうだ。 あの時より兵の人数はある程度減っただろうが呪師は今も居るはず」
「そう言やぁそうだな、兵は減ってるわな。 今はあちこちに散らばしてるんだ、あの森だけにかまってられないだろうさな」
「兵を散らばしている?」
また何かしようとしているのかとサイネムがお頭に訊き返す。
「・・・ちょっといいか?」
返事をしようとしかけたお頭より早く若頭が口を挟む。
「なんでぃ」
「お頭じゃありませんぜ、こっちの旦那」
お頭が最初に旦那と呼んでいたのだから、名を呼ばずともそれでいいだろう。
「今の話もそうだが、森が敏感になるって、あ、いや森ってのは森の民ってことだよな、森の民が敏感になるって言ってたな? あの森が兵に襲撃されたことで」
「ああ」
「森の民は気付いてないのか? 全部の森がその対象にされてるって」
「どういうことだ」
「いや、言い過ぎた。 対象にされてるかどうかってのは、はっきり聞いたわけじゃない。 だがどこの山の民も言ってる、兵が山の中を歩いて森に向かってるってな。 だからいま兵があちこちの森に散らばってる。 そのやり口は・・・あの森、ブブとポポが生まれた森が襲われたのと同じやり口だ」
「間違いはないのか」
「あくまで、山の民が兵が森に向かって歩いているのを見た。 森の民に見つからないためにだろう、遠回りをして。 それはあの森を襲った時と同じやり方だ。 それしか言えない」
半眼になり考えるようにしたサイネムが瞼を上げた。
「・・・今日の森はどこよりも小さい森。 そこが一番にやられた、そう考えると有り得なくもない話。 少し・・・」
そしてまた背を見せると目を瞑り深い呼吸をするとそのまま動かなくなった。
今度もまたお頭と若頭が目を合わせる。 二人が上目遣いにサイネムの後姿を見ながら木椀を口にした。