キュヴェ タカ/cuvee taka 「酔哲湘南日記」

新鮮な山海の恵みを肴に酒を吞み、読書、映画・音楽鑑賞、散歩と湘南スローライフを愉しんでいる。 

申し訳程度に自転車で走った

2024年07月23日 | Weblog
午後4時を過ぎても気温が32℃から下がらず、外へ出てみても日が強くて夕方の日の衰えを感じなかった。
それでも20分を過ぎたので、大磯方面へとりあえず自転車を走らせた。
六所神社の辺りまで行って、すんなり帰ってきたので、40分には家に着いた。
まあ、酷く暑いからこの程度で止めておくのが大人の嗜みだ。

角力は前半戦の最後の2番を観た。
そこで風呂に入って身体を洗ってサッパリとして出てきたら、後半戦の取り組みが時間いっぱいだった。

朝、知人のところでカボスをいいたので、割と本格的なモヒートを作った。
柑橘が青くて酸っぱいと結構それっぽくなるもんで、ミントは大量にあったから、シロップ抜きのモヒートで、ホワイトラムはハバナクラブを使った。
枝豆を持って居間で飲みながら相撲観戦をしたが、最近すっかりこのパターンが定着した。
今日も感じたのは照ノ富士の強さだった。
10戦全勝で、次が2敗の琴桜一人ってところが情けない。

昨日サゴシの刺身が喰えなかったのを残念がったので、妻がサゴシを買ってきていて、刺身に切ってくれた。
枝豆、白茄子味噌田楽、茄子の甘辛煮、胡瓜の糠漬け、ミニトマト、寸菊のお浸しを肴に、もう一杯モヒートを作り、その後ティーチャーズに変えた。


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子供の頃の海水浴

2024年07月23日 | Weblog
子供の頃は4時頃になると母に連れられて弟と一緒に海岸に出かけて水浴びをした。
麦わら帽子、ランニングシャツ、海水パンツ、木のサンダル姿だった。
10分入って同じ時間ぐらい浜で温まり、又入るのを繰り返した。
1時間ほどで浜から上がり、井戸水で身体を洗い砂と塩を落としたが、14℃だから冷たくてね。
当時は水道がなくて、井戸から手押しポンプで水をくみ上げていた。
もちろん風呂も、長い樋を渡して、井戸から風呂桶に水を溜めていた。
沸かすのは薪だった、それでオヤジが休みの日には薪割りをやっていた。
外でざっと身体を洗うとパンツを脱いで風呂に入ったが、風呂が沸いていたのは、浜に行く前に母が沸かして置いたのだろう。
風呂からあがると天花粉を点けられて、8畳の奥でバスタオルにひっくり返って涼んだ。
この時、何時も股団扇をやっていて、後年その姿を女友達に観られ、T君は部屋でこんなことやってるのよと吹聴された。
男兄弟がいなかった彼女にとって、その姿は衝撃だったようだ。
その後も事あるたびに、股団扇のことを云われたが、彼女が目撃した一物は、残念ながら彼女の身体の中に入り込むことは無かった。
そして、多少身体が冷えてくると、浴衣を着て廊下で西瓜を食べた。
もちろんタネを庭に吹き飛ばしながらね。






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プロヴァンスは暑いだろうなあ

2024年07月23日 | Weblog
6時になったので起きて風呂に入った。
夏は起きたらすぐに風呂だ。
そして汗をかいてもすぐに風呂だ。
それで日に3,4回は入ることになるが、快感だね。
薬師丸ひろ子が若くて可愛い顔で、自動小銃をぶっ放した後で、「快感」って云ったけど、確かにあれも気持ちよさそうだが、夏の風呂ってのも酷く快感だ。

6時半から朝飯の支度をした。
先回はウルメ鰯の丸干しを冷蔵庫で妻が作っていたが、今朝はマイワシの丸干しだった。
ウルメのほうが綺麗に仕上がるが、マイワシの内臓がチョットはみ出した風情も悪くない。
ツーファーのため、内臓はご法度だが、内臓の無いマル干しは、特出しのないストリップと同じで味気ない。
5本の内3本は内臓ごといただいた。
シメジと茄子と豆腐と茗荷の味噌汁、胡瓜の糠漬け、茄子のオイル焼、味の南蛮漬けを食べた。

部屋の温度は現在29.4℃、今日も暑くなりそうだ。
最高温度予報は34℃だが、きっと33℃止まりだろう。
プレシネは「プロヴァンスの休日」だが、ピーターメイル原作のプロヴァンスシリーズなんだろうか。
最初の著作の「プロヴァンスの12か月」の出版が1989年だったが、日本でブームになったのは翻訳が発売された1993年以降だったと記憶する。
ワインをやっていたので、南仏の生活に憧れ、ワインの取り扱いが急に増えた。
しかし、夏にプロヴァンスのことを思うと暑さがいや増しになるね。
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世界の仕組み

2024年07月23日 | Weblog
山内泉さんの忠告に従って、猛暑の中での無用な外出を避けていたが、流石に昼下がりの一番暑い時は頭がボーっとなっていてその気にならないが、夕方、自転車で平塚へ行ってみて、割と平気なので心を強くした。
午前中と夕方、やや気温が低い時にお出かけをするってことをやらないと根本的な運動不足になり、足第三次世界大戦が仕組まれた」を読んでみた。
この方YouTubeで時々ご説を拝聴していたが、誠実な感じの話し方で好感が持てたが、幸福の科学の出身だということで本質を図りかねていた。
文章を読んでみるとディープステイトについて書かれえているのだが、色々な方のものより明快で分かりやすく、観た感じはソフトで切れくる感じがしないんだけど、明晰な頭脳の持ち主で随分勉強をなさっているんじゃないかと思った。
ディープステートを一言でいうと、利権に群がっている連中で、カネが一番の人たち。

ユダヤ国際金融資本家、軍産複合体、ネオコン、グローバリストなどなど、色々な言い方をされ、その通りなんだが、要はカネの匂いのするところに集まる連中で、そのためには倫理など要らないって輩だ。
日本がそうならないのは、豊かな自然に恵まれて喰うのに困らず、しかも島国で外敵の侵入がしにくかったためだ。
砂漠の中で生きてゆくために、相手を殺してでも自分が生き残ればって考えが生まれ、困った人に食い物を分けても、どうにか自分も生きていける環境にあった日本とは大違いだ。

豊かな地域と云うのは地球上に色々あったが、地続きに厳しい環境で暮らす民族がいた場合、そういう民族は生死を常にかけているから闘いになると強く、豊かな地域の民族を滅ぼしてしまったんだろうし、その後もそういった土地の取り合いになるから争いは収まらない。
日本は地政学的にも絶妙のところにあった。
ポルトガルの宣教師がやってきたときに、種子島に鉄砲が伝来し、それを短期間で国産化し、当時武力において世界有数の国になっていた。
そして国を閉じて260年、その間に産業革命により欧米の武力が強くなり、恫喝され明治に国を開き、素早く欧米の秘術と社会システムのコピーをして支配されるのを乗り切った。
だが、昭和初期に日本の運営をした連中が無能であったために戦いに敗れ、そこで初めてアメリカの属国に成り下がってしまった。

一方、ユダヤ人は国を持たず、理不尽な酷い迫害をうけ、カネが生き延びて行く唯一の護符であったから、それを得るためには人殺しでも何でもしてきた。
自分たちが受けた迫害を思えば、人を殺すくらいどうでもない事と思うだろう。

まあ以上、最初の60ページを読んだところでの感想に過ぎない。
今日も暑そうなので、昼下がりの部屋で暑さを耐える時間には、この続きを読むことになるだろう。



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