今日は朝から体調が悪く、右足踵の痛風が痛く全うに歩けません。
左足親指は生爪を剥がし、そこにばい菌が入ってフランクフルトくらいに腫れて膿んでます。
ここもちょっと何かに触れるだけで、飛び上がるほど痛いのです。
右足の痛風がなければ、左足を誰かに踏まれたら、2mのバーくらいは軽く跳び越すことが出来る様な気がしてます。
尿道結石は下腹部の痛みは治まったものの、背中に鈍痛があり、気分がいいものではありません。
右足、左足、背中の痛みが緩衝作用を起こし、無痛になる可能性は無いものかと期待していますが、現時点では3の3乗で痛みを感じています。
気分は最悪ですが、天気は雲はあるものの秋晴れで、爽やかで気分が良く、東海道線の車窓から富士山を見ようと、進行方向に背を向けたボックス席に陣取り、城山公園、大磯駅入線前の富士見ポイントで眺めました。
山の端に水分があるのでやや曇っておりましたが、頭にうっすらと雪をかぶった蒼い偉容を久し振りに拝みました。
湘南育ちは、毎日のようにこの富士を眺めているので、雄大稀有な美しい心を持った人物が輩出することになっています。
しかし、今までのところ、現実にそのような人物に巡り会ったことはありません。
昨日はブログが膨大になってしまい、買い求めた古書のコメントを書くことが出来ませんでした。
自分のためのメモ書きなので書きますが、お読みいただいている皆さんが面白いかどうかは分りません。
西部 邁「思想史の相貌」
このかたの物は今まで買ったことが無いような気がしています。
若い頃はどちらかというと左翼陣営の人のものを読んでいたので、右系統のかたの物は避けていました。
最近、右翼の論客として時々テレビで観ますが、すっかりお年を召し、全体としてはダンディですが、何だか変な手袋をやっていてみすぼらしい感じがします。
見た目と人の評価は異なるもので、服装で人を見くびってはいけないと両親からきつく言われておりますが、近頃では見た目のほうを重要視する考え方が主流となっていて、世間はそれに踊らされて薄っぺらいポピュリズムが席巻しています。
読んで無いので、何とも言いようがありませんが、テレビでの発言は面白い部分があり、大いに期待しています。
平松洋子「忙しい日でも、おなかは空く。」
この方は、先日購入して少しだけ読んだ、小川洋子との書物に関する対談本で、正統的な読書遍歴を子供の頃からしていて、単なるグルメエッセイの書き手のオバサンと認識していてはいけないなあと感じました。
この本は既に文庫化されていて、多分新潮文庫で持っていると思いますが、この単行本の装丁は素晴らしく、本は内容だけじゃなくて、見た目と持った感じが大切であることを納得させられます。
本文中に添えられている写真も見事なものです。
江國滋「あそびましょ」
娘さんの本がずらっと並ぶ棚に、娘さんの本に挟まれてぽつんと一冊だけあり、見逃してしまう所でした。
それを見て、父親の孤立感と孤独を感じ、思わず落涙しそうになりました。
かつて、このかたの落語に関する本が欲しくて、探し回ったのですが、何冊か入手し、当初の目的は達成したのです。
娘の派手な活躍に隠れた寂寥感が本にも現れているのでしょうか、背表紙に滋の文字を見るとぐっと胸に迫って来るものがあり、俳句の本でもつい買ってしまうのです。
変哲こと小沢昭一が参加していた「やなぎ会」のメンバーでもあります。
娘さんも優れた作家で、オヤジを越えているという評価も多いのですが、そちらのほうは二三冊だけにとどめています。
集めだすと、膨大な本を積んで置くことになりはしないかと恐れますが、親父を裏切って娘に鞍替えしたら、世間様の目が厳しくなりますからね。
養老孟司『「自分」の壁』
先日河合隼雄と筒井康隆の3人で笑いに付いて書かれた本を読んで、考えかたがユニークなので実に面白いなと思い、そういや最近、角川か新潮文庫で3冊に纏めた物を買って置いたなと思い出し、本の山を探索したのですが見つからず、仕方ねえなあ、BOに行けばいくらでもあるから、よさそうなのを買おうと思って買い求めた次第です。
人間の思考というのは、世間の流れに流されて、世間の考え方と同じになってしまい、そのうちその思考方法が癖になるので、中々新しい視点から物を見ることが出来なくなります。
そのため私は若い頃、普通の人になっちゃうといけないてんで、長い間新聞を読まず、歯も磨かずやってきたのですが、非常識で歯無しの人間になっただけで、いいほうには出ませんでした。
このかたは死人が出ると死体を貰い受けに出向いて、運んで来て解剖をするというユニークな生活をしていたことが、思考方法の面白さにつながっているようです。
この本で、私の脳が揺さぶられることを期待したいですね。
茨木のり子「詩のこころを読む」
この方については既に度々書き、もう加えることも無いのですが、これも2冊目です。
もしかすると3冊目かもしれませんが、茨木のり子、須賀敦子、武田百合子は同じ本が何冊あってもいいんです。
文学好きの女性にプレゼントします。
しかし男というものは不思議ですね、このようなキリッとした女性が好きな一方で、風間ゆみのようなAV女優が好きで、巨乳ですが二段腹で、経験豊かで強かな熟女の風情に惹かれます。
昔であれば、トルコ風呂などで多くの男性の性欲を満足させたのでしょうが、現代は画像によって男性の射精を促しているわけです。
延べ数万から数百万の男性が彼女のエロスを消費しているのでしょうが、本人の性交の回数は少なくて済みます。
このかたは熟年になっても人気で長くAV女優をなさってますが、800本に出演して一回当り3回の性交をしても高々3千回です。
効率が良い反面、AVは視覚と聴覚による刺激だけですから、味覚、嗅覚、触覚による快感は置き去りにされてしまいます。
男の性は頭の中で行われることを考えれば、それでよいのでしょうが、五感による全体性の喪失が性の領域だけでなく、他の事柄を認識する場合にも影響するのが問題と思います。
現代は、自由なようで不自由な所があり、女性と知り合って肉体関係を結ぶと面倒なことがあり、それが嫌でAVに走る男性も多いようです。
面倒が起きない女性かどうかは分りにくく、もし分っても人気が高く取り合いになりますから中々機会が訪れません。
江戸時代や明治以降でも地方では、男と女が情交をする機会が多く仕組まれていて、盆踊り、祭り、筆おろし、若衆宿、夜這い、歌垣など色々とあったことが分っています。
少なくともそういった機会があれば、パートナーを選ぶ時にかなり踏み込んだ所まで、お互い吟味が出来たのではないでしょうか。
例えば、ある村では筆おろしが神社のお堂などで行われ、村の後家さんやら有志の女房たちが、元服の年頃14歳前後の、童貞男子の筆おろしをしました。
二三日お堂にこもって性交を繰り返すわけですから、出てくる頃には一端の男になっているというわけで、通過儀礼として凄く有効で、しかも、このとき出来た子供は神の子ですから、庄屋や村が後ろ盾になり共同体の子供として育てるわけです。
神の子を大切に育てるという感覚がいいですね。
時代は少し古くなりますが、宣教師ルイス・フロイスが本国に当てた報告書に、日本という国は礼儀正しく清潔な国だが、性に関しては開放的で女は貞淑という概念を持たない。
と書き送っているので、明治にキリスト教の処女性を尊ぶ概念が入るまでは、性交に対する罪悪感は少なかったと思われます。
惚れた腫れたは3年もたつと覚めてしまうので、覚めた後にもパートナーとしてやっていける相手はどういった人かを見極めるには、若い頃から複数の異性と性交を頻繁にして、のぼせ上った恋は終わることを知り、見た目ではなく、共に生活をしてゆくうえでの性格の良さや相性を見極める目を身につけることだと思います。
そういう仕組みを社会で持てば、未婚や離婚の問題も少なくなり、人間関係が円滑にしかも深くなり、少子化にも歯止めが掛かるのではないかと思います。
この日、昼は駒でチラシを食べましたが、刺身が鮪、鰹、小鯛の酢〆、蛸、昆布締め鱚とちょっと変わっていました。
味噌汁は蜆、それに茶碗蒸しは何時ものとおりでした。
馬車道で屋台が出て近在の商店がボロ市みたいなことをやっていました。
痛い足を引きずりながら、そこを抜け、関内駅前のセルテに行き芳林堂に行きましたが、探している本がなく、目に付いた「柳家小三治の落語 5」小学館文庫を購入しました。
この人も江國滋、小沢昭一の「やなぎ会」のメンバーです。
落語は何となく暗さがあるので、好きではないのであまり聞きませんが、何回かテレビで聴いた感想では上手いと思います。
過去に何度も好みの落語家を書いていますが、先代のば馬生がなんといっても艶っぽくて粋な感じでよかったですね。
浅草の並木で酒盃を傾けている写真は堪らなく良い。
その粋な感じは娘の志乃に遺伝しまして、美人じゃないけど色っぽいでしょ。
左足親指は生爪を剥がし、そこにばい菌が入ってフランクフルトくらいに腫れて膿んでます。
ここもちょっと何かに触れるだけで、飛び上がるほど痛いのです。
右足の痛風がなければ、左足を誰かに踏まれたら、2mのバーくらいは軽く跳び越すことが出来る様な気がしてます。
尿道結石は下腹部の痛みは治まったものの、背中に鈍痛があり、気分がいいものではありません。
右足、左足、背中の痛みが緩衝作用を起こし、無痛になる可能性は無いものかと期待していますが、現時点では3の3乗で痛みを感じています。
気分は最悪ですが、天気は雲はあるものの秋晴れで、爽やかで気分が良く、東海道線の車窓から富士山を見ようと、進行方向に背を向けたボックス席に陣取り、城山公園、大磯駅入線前の富士見ポイントで眺めました。
山の端に水分があるのでやや曇っておりましたが、頭にうっすらと雪をかぶった蒼い偉容を久し振りに拝みました。
湘南育ちは、毎日のようにこの富士を眺めているので、雄大稀有な美しい心を持った人物が輩出することになっています。
しかし、今までのところ、現実にそのような人物に巡り会ったことはありません。
昨日はブログが膨大になってしまい、買い求めた古書のコメントを書くことが出来ませんでした。
自分のためのメモ書きなので書きますが、お読みいただいている皆さんが面白いかどうかは分りません。
西部 邁「思想史の相貌」
このかたの物は今まで買ったことが無いような気がしています。
若い頃はどちらかというと左翼陣営の人のものを読んでいたので、右系統のかたの物は避けていました。
最近、右翼の論客として時々テレビで観ますが、すっかりお年を召し、全体としてはダンディですが、何だか変な手袋をやっていてみすぼらしい感じがします。
見た目と人の評価は異なるもので、服装で人を見くびってはいけないと両親からきつく言われておりますが、近頃では見た目のほうを重要視する考え方が主流となっていて、世間はそれに踊らされて薄っぺらいポピュリズムが席巻しています。
読んで無いので、何とも言いようがありませんが、テレビでの発言は面白い部分があり、大いに期待しています。
平松洋子「忙しい日でも、おなかは空く。」
この方は、先日購入して少しだけ読んだ、小川洋子との書物に関する対談本で、正統的な読書遍歴を子供の頃からしていて、単なるグルメエッセイの書き手のオバサンと認識していてはいけないなあと感じました。
この本は既に文庫化されていて、多分新潮文庫で持っていると思いますが、この単行本の装丁は素晴らしく、本は内容だけじゃなくて、見た目と持った感じが大切であることを納得させられます。
本文中に添えられている写真も見事なものです。
江國滋「あそびましょ」
娘さんの本がずらっと並ぶ棚に、娘さんの本に挟まれてぽつんと一冊だけあり、見逃してしまう所でした。
それを見て、父親の孤立感と孤独を感じ、思わず落涙しそうになりました。
かつて、このかたの落語に関する本が欲しくて、探し回ったのですが、何冊か入手し、当初の目的は達成したのです。
娘の派手な活躍に隠れた寂寥感が本にも現れているのでしょうか、背表紙に滋の文字を見るとぐっと胸に迫って来るものがあり、俳句の本でもつい買ってしまうのです。
変哲こと小沢昭一が参加していた「やなぎ会」のメンバーでもあります。
娘さんも優れた作家で、オヤジを越えているという評価も多いのですが、そちらのほうは二三冊だけにとどめています。
集めだすと、膨大な本を積んで置くことになりはしないかと恐れますが、親父を裏切って娘に鞍替えしたら、世間様の目が厳しくなりますからね。
養老孟司『「自分」の壁』
先日河合隼雄と筒井康隆の3人で笑いに付いて書かれた本を読んで、考えかたがユニークなので実に面白いなと思い、そういや最近、角川か新潮文庫で3冊に纏めた物を買って置いたなと思い出し、本の山を探索したのですが見つからず、仕方ねえなあ、BOに行けばいくらでもあるから、よさそうなのを買おうと思って買い求めた次第です。
人間の思考というのは、世間の流れに流されて、世間の考え方と同じになってしまい、そのうちその思考方法が癖になるので、中々新しい視点から物を見ることが出来なくなります。
そのため私は若い頃、普通の人になっちゃうといけないてんで、長い間新聞を読まず、歯も磨かずやってきたのですが、非常識で歯無しの人間になっただけで、いいほうには出ませんでした。
このかたは死人が出ると死体を貰い受けに出向いて、運んで来て解剖をするというユニークな生活をしていたことが、思考方法の面白さにつながっているようです。
この本で、私の脳が揺さぶられることを期待したいですね。
茨木のり子「詩のこころを読む」
この方については既に度々書き、もう加えることも無いのですが、これも2冊目です。
もしかすると3冊目かもしれませんが、茨木のり子、須賀敦子、武田百合子は同じ本が何冊あってもいいんです。
文学好きの女性にプレゼントします。
しかし男というものは不思議ですね、このようなキリッとした女性が好きな一方で、風間ゆみのようなAV女優が好きで、巨乳ですが二段腹で、経験豊かで強かな熟女の風情に惹かれます。
昔であれば、トルコ風呂などで多くの男性の性欲を満足させたのでしょうが、現代は画像によって男性の射精を促しているわけです。
延べ数万から数百万の男性が彼女のエロスを消費しているのでしょうが、本人の性交の回数は少なくて済みます。
このかたは熟年になっても人気で長くAV女優をなさってますが、800本に出演して一回当り3回の性交をしても高々3千回です。
効率が良い反面、AVは視覚と聴覚による刺激だけですから、味覚、嗅覚、触覚による快感は置き去りにされてしまいます。
男の性は頭の中で行われることを考えれば、それでよいのでしょうが、五感による全体性の喪失が性の領域だけでなく、他の事柄を認識する場合にも影響するのが問題と思います。
現代は、自由なようで不自由な所があり、女性と知り合って肉体関係を結ぶと面倒なことがあり、それが嫌でAVに走る男性も多いようです。
面倒が起きない女性かどうかは分りにくく、もし分っても人気が高く取り合いになりますから中々機会が訪れません。
江戸時代や明治以降でも地方では、男と女が情交をする機会が多く仕組まれていて、盆踊り、祭り、筆おろし、若衆宿、夜這い、歌垣など色々とあったことが分っています。
少なくともそういった機会があれば、パートナーを選ぶ時にかなり踏み込んだ所まで、お互い吟味が出来たのではないでしょうか。
例えば、ある村では筆おろしが神社のお堂などで行われ、村の後家さんやら有志の女房たちが、元服の年頃14歳前後の、童貞男子の筆おろしをしました。
二三日お堂にこもって性交を繰り返すわけですから、出てくる頃には一端の男になっているというわけで、通過儀礼として凄く有効で、しかも、このとき出来た子供は神の子ですから、庄屋や村が後ろ盾になり共同体の子供として育てるわけです。
神の子を大切に育てるという感覚がいいですね。
時代は少し古くなりますが、宣教師ルイス・フロイスが本国に当てた報告書に、日本という国は礼儀正しく清潔な国だが、性に関しては開放的で女は貞淑という概念を持たない。
と書き送っているので、明治にキリスト教の処女性を尊ぶ概念が入るまでは、性交に対する罪悪感は少なかったと思われます。
惚れた腫れたは3年もたつと覚めてしまうので、覚めた後にもパートナーとしてやっていける相手はどういった人かを見極めるには、若い頃から複数の異性と性交を頻繁にして、のぼせ上った恋は終わることを知り、見た目ではなく、共に生活をしてゆくうえでの性格の良さや相性を見極める目を身につけることだと思います。
そういう仕組みを社会で持てば、未婚や離婚の問題も少なくなり、人間関係が円滑にしかも深くなり、少子化にも歯止めが掛かるのではないかと思います。
この日、昼は駒でチラシを食べましたが、刺身が鮪、鰹、小鯛の酢〆、蛸、昆布締め鱚とちょっと変わっていました。
味噌汁は蜆、それに茶碗蒸しは何時ものとおりでした。
馬車道で屋台が出て近在の商店がボロ市みたいなことをやっていました。
痛い足を引きずりながら、そこを抜け、関内駅前のセルテに行き芳林堂に行きましたが、探している本がなく、目に付いた「柳家小三治の落語 5」小学館文庫を購入しました。
この人も江國滋、小沢昭一の「やなぎ会」のメンバーです。
落語は何となく暗さがあるので、好きではないのであまり聞きませんが、何回かテレビで聴いた感想では上手いと思います。
過去に何度も好みの落語家を書いていますが、先代のば馬生がなんといっても艶っぽくて粋な感じでよかったですね。
浅草の並木で酒盃を傾けている写真は堪らなく良い。
その粋な感じは娘の志乃に遺伝しまして、美人じゃないけど色っぽいでしょ。