五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

自己受容

2008年03月25日 | 第4章 愛とゆるし
ドラマ「薔薇のない花屋」。そして、先日放映した「ごたいせつ」というドラマ。
いずれも、愛の原型について描かれた、深い内容のドラマです。

「愛」とは何か。
この問いかけに、すぐ答えられる人はなかなかいないでしょう。居たとしても、その人の言葉はたぶん私が感じているものとは違うはずです。

「生き甲斐の心理学」の勉強では、「個人が思っている愛、感じている愛が愛」、だから、私が第三者に強く自分の「~あるべき愛」を語っても、遠い太鼓を聴いているようでピンとこないと思います。

成育史を通し、自分の体感と五感を信じて見えてくる愛が、その人にとっての「愛の原型」と言われているようです。

それらのドラマを見ながら、新約聖書の(ヨハネ4.1.42)「サマリアの女」をずっと考え続けていました。
欧米で生まれた心理学は、そのアイデンティティに「キリスト教」というものが深く関わっています

「サマリアの女」の節では、「自己受容」と「気づき」が描かれているのですが、井戸端で出会ったひとりの男性(イエス)が、傾聴し、問いかけ、そのことによって、その女性が浄化され気づいていくお話です。

短い時間に、これだけの気づきが得られるとは、と思うのですが、「気付き」にしても「受容」にしても、理屈では分かりません。

体感と五感です。


薔薇のない花屋、
「愛」に憧れている主人公は、「与えること」はできても「与えられる」ことを怖がります。自分が今、幸せになっても、いつかは壊れる時が来る、という不安感の増長により、「愛する人々との生活」と向き合うことができませんでした。
最終回、それぞれの「愛の孤独」に苦しんできた人たちが、食卓を囲みます。それから逃げ出したい主人公。でも、彼の恋人がとっさに腕を掴み、その場面に踏みとどませるのです。「逃げる」ことのできなかった彼は、そこで、大粒の涙をこぼします。

フロイトの防衛機制を重ね合わせ、浄化作用を起こした主人公に「サマリアの女」を想い浮かべました。

自分の内に宿る答えを信じると、きっと何かが見えてくるはずです。

目で見て、触って、嗅いで、味わって、聴いて、感じ取り、関わる人を大切にすることは、生きている人にしか味わえない喜びであると、しみじみ思います。


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