Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

ワールドカップサッカー・アジア予選②

2005-01-27 | Football Asia
オーストラリア代表選手であった Johnny Warren のコメントは続く。
“初戦を 1-6 第二戦目も我々自身の進歩は感じられたが 1-3 で破れ、ワールド杯の出場などは儚いものだったと認識した。北朝鮮は技術も高く、規律も取れており何しろ全選手が Full Time のプロで軍人的な規律があり、我々はただのパートタイマーに過ぎなかった。我々のチームはこの予選の前に結成され、その最初の試合がワールド杯予選であった。この予選後に我々はカンボジア、マレーシア、香港とテストマッチを行ったが、この様なマッチメークは大切な予選前に行われるべきであった。当時の北朝鮮は我々に国際レベルのサッカーはどの程度かを教えてくれた。“ 
尚、この9年後、Johnny Warren に率いられたオーストラリア代表は韓国を破ってアジア、オセアニア地区代表として1974年FIFA WORLD CUP 西ドイツ大会に出場する。
そしてイングランドでの第8回FIFA WORLD CUP。当時も北朝鮮は東欧諸国等限られた共産圏諸国としか経済、文化の交流が無く、その上今ほどマスコミも発達しておらず、アジアからの出場は1954年の韓国以来であったが、その韓国は2戦2敗(対ハンガリー 0-9, 対トルコ 0-7 )で敗れておりアジアからの出場国などには誰も注目をしなかった。しかも大会の前に行った同じく大会出場国であったハンガリーとの親善試合では 0-7 と敗れていた。
第4組、ソ連、チリ、イタリアと同組に振り分けられた北朝鮮の本大会初戦のソ連戦は、0-3と完敗であった。アジアには未だワールド杯は早すぎると苦笑する欧州列強もいたであろう。だが三日後のチリ戦。初戦のイタリア戦を0-2と落とし、後の無い前大会ホスト国に対して先制点を許すも終了2分前に朴勝人(パク=スンジン)のゴールで引分ける。ワールド杯史上アジアの国が挙げた最初の得点、勝ち点であった第3戦のイタリア戦、試合の行われたミドルスブラの観客は殆どが北朝鮮の味方であったが、この日を最後に当地を後にすると誰しもが未だ思っていた。
しかし、北朝鮮の選手は臆すること無く勇敢に欧州列強であるイタリア戦に臨む。前半34分、イタリアMFブルガレリが自らの反則タックルで負傷退場を強いられると、次第に主導権を握っていく。当時のルールでは交代出場が認められていなかったので、イタリアは以降一人少ない人数での続行を強いられた。そして42分朴斗翼が当時の欧州屈指の名手ジャンニ=リベラからボールを奪い、そのままゴールを奪う。後半に入ってもイタリアを圧倒。最後まで主導権を握り続け遂にイタリアは2大会連続で一次リーグで帰国をすることになってしまった。対チリ、対イタリア戦共に対戦相手国より中1日ずつインターバルが長かったと言う日程の有利さがあったが、それ以外にも当時の試合のビデオを見ると対戦相手をはるかに凌ぐ運動量で空いたスペースに次々と選手が出てきて、細かいパスを正確に繋ぐその戦術は相手国にとっては脅威となった。この戦術こそ前回の日本、韓国がワールド杯で成功をみたその前例であると言えよう。同じような戦術でその30年前、ベルリン五輪で日本が優勝候補スウェーデンを3-2と逆転で破ったが、それを手本にしたのかもしれない。
大会前、ハンガリーには大敗したものの、同じく大会前モスクワでディナモモスクワを破った事が大会後明らかになるなど潜在能力を秘めたチームであったのだ。 <つづく>