Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

ワールドカップサッカー・アジア予選④

2005-01-29 | Football Asia
ようやくイングランド大会の10年後、楊成国らを擁してアジア予選を突破し臨んだ1976年モントリオール五輪で、ベスト8に進出した。(準々決勝では銀メダルのポーランドに 0-5 で敗れる。)
だが翌年から始まったワールド杯アルゼンチン大会予選にエントリーはしたのだが、組み分けでイスラエルが入れられると(他は、韓国、日本)何の前触れも無く棄権を申し出てきたて、3大会連続の棄権となったがその直後からすこしずつ、上昇を始める。
バンコックで行われたアジア大会、決勝で韓国と対戦をしたが、決着は延長戦に入ってもつかず、両国優勝となった。そして表彰式でどちらの国歌を先に吹奏するかを決めるコイントスで勝った北朝鮮選手団の喜びぶりが印象的であった。そしてこの年に行われたアジアユース選手権ではイラク、韓国に次いで3位に入り翌年日本で開催されたワールドユース大会への出場権をイラクが棄権した為に手に入れたのだが恐らく政治的な理由で本大会を棄権。日本にはやって来なかった。
1976年にバンコックで行われたアジアユースでもイランと優勝を分け合っており、80年代以降へ期待がもたれていたと考えられる。
だが1980年2月下旬にシンガポールで開催されたモスクワ五輪では期待されたが、地元シンガポールに敗れるなど6カ国中4位に終わり、その年末、香港で開催された中国、日本、香港、シンガポール、マカオが集って開催されたワールド杯スペイン大会の一次予選でも決勝で中国に破れ、二次予選進出はならず、結局本大会にはクウェートとニュージーランドが進出した。
70年代後半から80年代中期にかけて中近東諸国の台頭が顕著で、それに対抗できる東アジアの国は韓国しかなかった時期であった。
それでもニューデリーで行われた1982年のアジア大会、東アジア諸国で唯一北朝鮮がベスト4に進出した。準決勝のクウェート戦は激しい試合となり延長戦の末敗れたが、この試合後事件が起こる。判定に不満を持ったコーチ数人が審判団に掴み掛かり、最後は警官隊が入ってこの騒ぎを鎮圧せねばならなかった。 そして北朝鮮は2年間の対外試合禁止を言い渡される。この年のワールド杯スペイン大会にアジア代表として出場したクウェートに健闘しただけに残念な事件であった。
1985年2月、ワールド杯メキシコ大会予選が始まった。日本、シンガポールと同組になったが、この予選も日本の後塵を拝し前回同様2次予選に進めなかった。この大会は韓国が決勝で日本を破り8大会振りに本大会出場を決め以降5大会連続、本大会に進出している。
 1989年5月から始まったワールド杯イタリア大会予選でもまた日本と同組になった。直接対決は1勝(平壌 2-0 ) 1敗 ( 東京 1-2 ) であったが、香港戦を2戦とも引き分けた日本を押さえて同年10月マレーシアで開催された2次予選に進出した。しかし、1次予選を勝ち抜いた他の5カ国を相手にカタールには 2-0 で勝ち、予選を突破した UAE と引き分けたが、中国 ( 0-1 ) サウジアラビア( 0-2 ) そして韓国 (0-1) に破れ6か国中最下位に終わった。 この南北対決は1980年クウェートで開催されたアジアカップ準決勝以来であった(当時2-1で韓国の勝ち)。
80年代以降韓国の後塵を拝し続けてきたがアジア大会では以外に成績が良く、1986年のソウルでのアジア大会を棄権した以外、上記した82年大会と90年大会では成績が上回った。その90年北京大会準決勝でタイを破って決勝に進んだ北朝鮮の決勝の相手は韓国が有望視されていた。しかし、延長戦の末イランが韓国を破り、12年ぶりの決勝での南北対決はならなかった。決勝ではイランが北朝鮮を1-0で下して1974年以来16年ぶりの優勝を収め、2位が北朝鮮。韓国は3位に終わったのであった。  <つづく>