Mr.コンティのRising JAPAN

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Play Back 1981 日本シリーズ Part 1

2009-10-31 | プロ野球

クライマックスシリーズを勝ち抜いたセ・パの2チームが日本一を掛けて争う日本シリーズがいよいよこの週末から始まる。巨人対北海道日本ハムの対決は28年ぶりとなる。
当時は両チームとも後楽園球場を本拠地にしていたことから“後楽園シリーズ”とも言われた。パ・リーグは当時前後期制を採用しており後期を制した大沢啓二監督率いる日本ハムがプレーオフで前期覇者のロッテオリオンズを破り東映時代の1960年以来21年振りのリーグ王者となった。より多くのファンを惹きつける為に1973年のシーズンから前後期2シーズン制を敢行したパ・リーグだったがその努力がようやく成就したのが前年。1980年の後期は球団創設2年目で断トツ最下位が指定席だった ( 今では考えられない ) 西武ライオンズの突然の快進撃があり日替わりで首位が入れ替わる大混戦。そんな中日本ハムが抜け出し最終戦、後楽園で行われた近鉄バファローズ戦に勝つか引き分けるかで優勝が決まるところまで来ていた。そしてこの試合に敗れても残り2試合の近鉄、3試合の西武のどちらかが全勝しない限り日本ハムが後期優勝と云う絶対有利な最終戦前であった。しかも西武と近鉄の直接対決が2試合あった。 しかしこの試合日本ハムは二番手で登場した、この年22勝を挙げて最多勝利を始め五冠王を達成したスーパールーキー木田勇が打ち込まれて敗れ、勢いに乗った近鉄が残りの2試合、西武戦に連勝し後期優勝をさらってしまった。
だがこの混戦がパ・リーグ復興の狼煙となり翌シーズンは”熱パ””エキサイティングリーグ・パ”と銘打った宣伝ポスターが貼られるなどパ・リーグが大いに注目され始めた。
日本ハムはその1981年、広島カープから優勝請負人、江夏豊をエース高橋直樹とトレードで獲得。そして左腕投手の間柴茂有が開幕15連勝で無敗。プロ野球史上勝率10割を達成した。打線では3番にホームラン打者“サモアの怪物” トニー・ソレイタ、4番に柏原純一、5番にトミー・クルーズの重量打線に島田誠、高代の1,2番コンビ、古屋、菅野と云った渋い選手達が下位打線を占めるなどまさに投打の噛み合った全盛期。前期こそ優勝したロッテに4.5ゲーム差を付けられ4位に甘んじたが後期は2位阪急に 3.5ゲーム差を付けて優勝。プレーオフでもロッテを破り優勝旗を手に入れた。通算でも68勝54敗8分で1位だった。

一方我が愛するジャイアンツは前年1980年は第一期長嶋監督時代の6年目、最後の年。V9時代を支えた選手が次々と衰えを見せるなか若手育成にも着手しながらの3位は好評価に値すると思ったがシーズン終了後監督の座を解任される。
しかも王貞治が現役引退を発表。英雄総退場でこれからジャイアンツはどうなるのだろう?と真剣に心配する中、後任の藤田元司監督がドラフトで原辰徳の交渉権を引き当て新時代の始まりを感じさせた。
シーズンが始まると江川が20勝、西本が18勝、そして前年からようやくローテーション入りを果たした定岡が11勝と3本柱が充実。更にリリーフエースの左腕投手、角が連日の快投を見せる。打線では新人原の22本塁打が最多本塁打であったが快足松本匡が1番打者に定着。頭を悩ませたポジション問題も中畑の怪我で篠塚が2塁に入り打率 .356 を残した。原はサードを守る(原は最初はセカンドで起用されていた。)事となり、 怪我で復帰した中畑は1塁に入り、この年トレードで入団したベテラン松原が夏場以降はベンチに。更にベテラン河埜、堅実なスイッチヒッター、ホワイト。そして山倉がリーグを代表する捕手に成長するなど若手選手達が大きく飛躍を遂げ、73勝48敗9分、2位広島に6ゲーム差をつけ断トツの4年振りリーグ優勝を飾った。
世間は藤田監督を長嶋の遺産で優勝した幸運な監督という見方をしたが前年1勝の加藤初を12勝させたり、前年3試合、7イニングスしか登板しなかった浅野啓司を中継ぎに起用するなど藤田監督は何人もの選手を“蘇生”させた。 
事実年間本塁打数135本は広島(181本) 中日(151本)に次いで3番目。チーム打率 .26796 も同様に3番目であったが防御率 2.88 は1位。 藤田監督の投手陣の再整備がなければ優勝は無かったとおもっている。藤田氏は第二次政権下でも2度 1989年 2.56 1990 年 2.83 のチーム防御率でチームを優勝に導いている。特に1989年はチーム本塁打が106本しかなかった。

江川、江夏、角 エース総崩れの終盤乱戦の開幕戦。

巨   人 000 000 131  5  工藤1勝
日本ハム 101 101 011x 6  角1敗

ソレイタ1号(江川) 柏原1号(江川) 岡持1号( 加藤初 ) 松原1号( 江夏 ) 

ジャイアンツのシリーズ開幕投手は当然20勝投手の江川。 先頭打者の島田を打ち取り続く高代を三振に仕留めこの試合は幾つ三振をとれるか?と楽しみにし始めた矢先、3番のソレイタにレフトスタンド最前列に飛びこむ本塁打を浴びてしまう。2回は三者凡退で切り抜けるも3回は1死1塁から1番島田に右翼線を抜かれる2塁打を打たれ続く高代の犠牲フライで2点目を献上。それでも続くソレイタとの2回目の対決はキャッチャーファールフライに打ち取り、3回以降はエンジンがかかってくるだろう…と思った。しかし4回は先頭打者の柏原にレフトスタンドに運ばれ、その後も古屋、菅野がセンター前に。後続は投手の高橋一三だったので追加点は許さなかったが6回はまたも先頭打者の柏原にライト線を破られる2塁打を打たれ菅野に適時打を喫しこの回を終わってマウンドを降りる憂き目に。6回8被安打の4失点。奪三振はわずかに3。予想だにしなかったペナントレース中に見せた快投とは程遠い内容。 
江川らしさを見せたのは5回の第二打席で2塁打を放った時ぐらいだった。

一方日本ハム先発の高橋一三はかつてジャイアンツのV9を支えた投手。私が小学生時代一番好きな選手だった。V9最後の年となった1973年は23勝を挙げ2回目の沢村賞を受賞。( 1回目は22勝した1969年 ) しかし翌年以降2勝、6勝と信じられない凋落。1975年シーズンオフに富田勝と共に日本ハムにトレードに出された。その時ジャイアンツに移籍して来たのが張本勲(と加藤初)だった。 
日本ハムに移籍後、途中故障もあったが貴重な左腕投手としてなくてはならない存在で前年は9勝、そしてこの年は5年振り二桁となる14勝を挙げていた。 
その高橋一三の“雄姿”に私は感動していた。 
この試合ではベテランの投球術をいかんなく発揮。7回に江川の代打平田薫に2塁打を打たれ、続く松本にも2塁打を浴び遂に失点を喫するが、6回までジャイアンツ打線を4安打無失点に抑える粘投。3番篠塚、4番中畑、5番ホワイトを1安打に抑え、6番新人原を3打席1三振に討取っていた。7回先頭打者ホワイトにレフト前に運ばれ続く原をエラーで出塁を許す。そしてトマソンの代打吉田(巨人時代はバッテリーを組んだこともある)を三振に切って取ったところで守護神江夏が登場した。 
しかし江夏は山倉を外野フライに打ち取った後、江川の代打起用でそのまま守備に着いた平田に左翼越えの2塁打を浴び、続く松本のタイムリー打であっという間に 4-4 の同点に追い付かれる。
その裏日本ハム先頭打者、岡持の本塁打で再び突き放すが9回表先頭打者河埜の代打松原誠が江夏から同点本塁打をレフトスタンドに叩き込みついに江夏をKOしてしまった。ベンチに戻った松原が藤田監督と抱き合う姿が印象的だった。 
松原は前年19年在籍した横浜大洋からジャイアンツにトレードで移って来たが大洋で投手コーチ経験のあった藤田監督が“ベテランの力が必要”と暖かく迎え、“拾ってもらった藤田監督に恩返しが出来た。”と試合後語った。 
だがまだ試合は終わらない。9回裏、ジャイアンツの守護神、角が捕まる。 1死からソレイタに替って“守備固め”に入った服部にセンターにはじき返され、続くこの日3安打の柏原を歩かせ、岡持に替る代打井上弘昭にレフトにはじき返され試合を決められてしまった。 井上はジャイアンツの V10 を阻止した1974年中日の優勝メンバーでこのシーズンから日本ハムのユニフォームを着ていた。

江川、江夏、角といった両チームのエースが揃って打ちこまれ乱戦となった。気になったのは篠塚、原の二人が3無安打に終わった事。日本ハムは初回のソレイタの本塁打が江川をKOするきっかけとなったが柏原が長打2本を含む3安打、8番菅野も3安打。続く第二戦を落とすとジャイアンツはかなり苦しくなる….と思った。

助っ人一振り、西本激投  ジャイアンツタイに

巨   人 000 000 020 2   西本1勝
日本ハム 100 000 000 1  間柴1敗

ソレイタ2号( 西本 ) ホワイト 1号 ( 間柴 )

9回裏ジャイアンツ1点リードで迎えた9回裏日本ハムの攻撃。 塁上にはソレイタと柏原がいたが既に2アウト。打席には途中出場の服部。前日も途中出場ながら角からヒットを放ちサヨナラ勝ちのホームを踏んでいる。 しかしマウンド上の西本聖は服部をこの試合10個目となる三振に切って取りジャイアンツがシリーズをタイにした。
マウンド上ガッツポーズの西本が印象的だった。
江川KOの後を受けてマウンドに上がった西本だったが2死後またもソレイタにレフトスタンドに運ばれて先制されてしまう。 そして打線もこのシーズン15勝0敗の間柴の前に5回を除く毎回走者を出すがタイムリーが出ない。篠塚がチャンスで2併殺。原も抑えられていた。しかし西本の投球内容はまさに“激投”。2回以降得意のシュートで毎回三振の山を築きヒットを打たせない。 7回ジャイアンツが1死1,2塁の場面で西本に打席が回って来たが藤田監督はそのまま西本を打席に送る。ここは得点に結び付かなかったが8回、二死から中畑がこの日2本目の安打で出塁。そして続くホワイトが間柴が投じた外角低めに落ちる球をライトに流し打つとそのまま打球はスタンドに飛び込む見事な逆転2ランホームラン。そして西本が8,9回も抑え日本シリーズ初先発初完投。そして江川のお株を奪う毎回の10奪三振を記録。

翌日の日刊スポーツの一面にはこの試合の殊勲者、西本とホワイトが握手をしている写真が大きく掲載され私は大学を卒業するまでその新聞を大事に持っていた。(今でも持っていたら良かったなぁ…..)
ホワイトにはシーズン終了後英語でファンレターを送り同封したハガキにサインをして送り返してもらいそれをずっと壁に張っていた。(今はどこにやったかわからない…..)

守備要員の逆転打で日ハム2勝目

日本ハム 010 002 000 3    工藤2勝  江夏1S
巨   人 200 000 000 2  定岡1敗

中畑1号 ( 岡部 )

ジャイアンツの先発は定岡。そして日本ハムはシーズン13勝を挙げ最優秀防御率( 2.70 ) のタイトルを獲得した岡部憲章だった。 
岡部は東海大相模高校時代は原辰徳と同級生。しかしエース村中の影に隠れて登板機会は少なかった。そして村中は原、津末と共に東海大学に進学。岡部は日本ハムに入団。プロ通算12シーズン在籍し通算勝利数は32勝だったが1981年は素晴らしい成績を残し、津末や村中が出来なかったタイトルホルダーとなった選手だった。だがこの試合は初回に中畑に2ラン本塁打を浴び3回でマウンドを降りた。シリーズ3試合目で先制したジャイアンツだったが2回以降は得点を挙げられなかった。

ジャイアンツ先発の定岡はまずまずの立ち上がり初回1死1,2塁のピンチは柏原を併殺に打ち取り、2回は菅野の内野ゴロの間に1点を失うが4回の1死満塁のピンチは代打岡持、続く代打加藤を打ち取る。6回に1死から古屋、大宮に連打され打席には鍵谷康司を迎える。このシーズン69試合出場した鍵谷であったが主に守備固めの起用。この試合も菅野に代打岡持が送られ、その後に2塁の守備に着いた初打席だったがこのチャンスにバットを一振りすると打球はライト線を破る。 1塁走者が捕手の大宮だったのでホームには還れないかな?と思ったが生還を許し逆転されてしまった。
7回にはジャイアンツも2死ながら1塁に柳田を置き打席に河埜を迎え、工藤から同じ様にライト戦を破る打球を放った。柳田は長躯ホームを陥れるがクロスプレーとなりアウトの判定。柳田が抗議に詰め寄ろうとする出鼻を村田球審はもう一度アウト !! のコール。柳田はそのまま硬直してしまった。 この二つの中継プレーの差が出たシーンでもあった。
9回2死無走者。マウンド上は江夏。1点ビハインドのジャイアンツベンチは代打に松原を送るが、ここは外角低めの変化球で空振り三振に切って取られ初戦の借りを返された。 ジャイアンツ打線は1番の松本と6番原以降の下位打線が無安打に終わり苦戦を強いられた。 

前半戦の3試合を終えて日本ハムの3本柱( 高橋、間柴、岡部 ) もそんなに悪くないなぁという印象。第4戦先発するであろう江川がまた打ちこまれないか…次の試合が始まるまでずいぶん心配をした     
                                                                 つづく.... 

       



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