Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

年の瀬にワールドカップを振り返る その2

2006-12-30 | FIFA World Cup
1次リーグの組み合わせ
これは少しタフなグループであったと言えないか?過去の組み合わせは下記の通り。

2006 ブラジル クロアチア オーストラリア
2002 ベルギー ロシア チュニジア
1998 アルゼンチン クロアチア ジャマイカ

組み合わせが決まった時、決勝トーナメント進出は1998年大会より可能性有りと思った。だが他のアジア代表と比較すると少し“不公平な”組み合わせ?とも感じた。

韓国 フランス スイス トーゴ
イラン ポルトガル メキシコ アンゴラ
サウジアラビア スペイン ウクライナ チュニジア

全ての組にアフリカ代表が入り、それぞれから勝ち点を挙げている。今大会のアフリカ代表国はチュニジア以外全て初出場だがその中でも比較的実力が劣るのがアンゴラとトーゴ。オーストラリアの替わりに上記アフリカ3カ国が入っていれば結果はもう少し変わったかもしれない。前回2002年大会は地元開催なのでシード国。これは世界のトップ6と戦わなくて済むアドヴァンテージがあった。それだけ地元開催以外のワールドカップは厳しいものなのだ。だがクロアチアから勝ち点を挙げた事はもう少し評価されても良いと思う。クロアチアでは“日本から勝ち星を挙げられなかった為に1次リーグで敗退した”と言われているからだ。
そして更に“不公平”を感じたのが試合時間だ。ブラジルは全てがナイトゲーム。日本は炎天下で2試合を行った。オーストラリアもクロアチアも日本戦以外の2試合はナイトゲーム(ブラジル対オーストラリア戦は午後6時開始)。これはセレソンを欧州のゴールデンタイムで放映すると言うスポンサー絡みの試合時間決定のわりを日本だけが食った形になったが、競技場もカイザースラウテルン(対オーストラリア)ニュルンベルグ(対クロアチア)とフィールドが屋根で覆われておらずピッチ上に直射日光をもろに受ける会場。フランクフルトやミュンヘン、シュツッツガルトの様に屋根付の競技場であればとも思われる。私が現地入りしたのはオーストラリア戦の後の6月16日。とてもとても暑く、ニュルンベルグでのクロアチア戦をスタンドで観戦したが、2階席のひさしで直射日光は避けられたもがスタンドに居るだけでも暑くてたまらない。ピッチ上の気温など想像もつかぬものだっただろう。そんな事も知らずに“運動量が少なく、覇気が感じられない。気力が感じられない。”と言う人には一度そこに立ってみろ言いたくなる。

大会前のコンディショニング
大きな大会になればなるほど直前の微調整は非常に大切だ。ブラジルが準々決勝で敗退したのもこれがあるのではないか?練習のほとんどを有料で公開していた。これでは選手達は集中して大会前の調整練習に臨めたのだろうか? 日本の大誤算の一つは大会直前のドイツ戦での加地の故障だろう。高原も古傷を悪化させた。 結果論だが2-0 とリードした時点でサブの選手を投入し彼らの試験場としても良かったか。まさか ZICO 監督は“ドイツでドイツ代表を破った日本代表監督”の称号が欲しかったのではあるまい。田中真の離脱も痛かっただろう。それに後で新聞判った事だが、カイザースラウテルン入りした際、試合前日に宿泊したホテルにクーラー設備が付いておらず寝苦しさを訴える選手もいたとの事。この辺りは今後の改善課題だろう。 また中村俊輔、高原らのコンディションも今一だったらしい。中村は初めて欧州で通年のレギュラー出場を果たし疲弊し切ってのワールドカップ、逆に高原は所属先でのHSVでの出場機会が激減しコンディショニングにどうしても影響を与えたのだろう。同じことは稲本、小野そして柳沢にも言えたかもしれない。

監督の戦術そして用兵
全てを決めると言われた緒戦のオーストラリア戦。事実この試合の敗北が1次リーグ敗退を決めたが、試合は序盤から圧倒的に押される展開で川口のセーブが無ければいつ点を取られてもおかしくなかった。だがこのオーストラリアの猛攻もワントップ、ヴィドゥーカのポストプレー等に拠るもの。最初からもう少し対策は無かったか?幸運な先制点を挙げてからも劣勢は続いたが後半はオーストラリアの方がスタミナ切れを起こしていた。キューウェルなどはいつ下げられてもおかしくなかったが、ヒディンク監督がケーヒル、ケネディ、アロイージと攻撃の看板を増やし続けそれが功を奏した。だがその前に坪井が負傷退場し、加地、坪井の最終ラインが離脱したのが痛かった。これでヒディンク監督の攻撃的な交代策を容易にし、日本の交代が後手に回った。後日宮本が語っていたが“1-1 に追いつかれた時点でDF陣は勝ち点1を守ろうとするがFW陣はどうしても勝ちにいってしまう。”と前線と後衛での意思統一が図れなかった。だがオーストラリアも日本も引き分けでは1次リーグを突破出来ない。勝ちに行くのは間違いでも無いと思う。ただ逆転されてから大黒を投入するのならなぜもっと早く?とも思った。
クロアチア戦は“背水の陣”であったが、現地に乗り込んだ私は自然に”クロアチアに勝つんだ”と思った事が日本サッカーの進歩の表れだろう。クロアチアとは8年前も同組になったが、その時本気でクロアチアに勝てると思ったサッカー常識者は何人いただろう?結果は引き分けた。プルソのPKを川口がストップした。多くのシュートチャンスをクロアチアは失敗してくれた。しかし、相手を崩しての最大の決定機を作ったのは日本だった。あの柳沢のシュートミスのシーンだ。そして先にガス欠を起こしたのはクロアチアだった。試合内容はややクロアチアが押していたが、この試合を引き分けれられた事こそ日本サッカーの進歩の証拠だ。だが運動量を誇る日本がどちらかをナイトゲームで行えればと無念に思う。最後のブラジル戦。玉田の先制ゴールはこれまで日本サッカー界の積み重ねの結果だ。

ZICO采配
すっかり“戦犯”扱いされている ZICO 前監督。色々批判を浴びせられているが彼にも言い分があるだろう。

基礎体力の向上
そんなこと最初から判っていただろう?と多くの人が吐き捨てるが、朝日新聞に掲載されていた彼の言い分はこうだ。“私はもう50歳を越えているが、代表戦選手の中で私の体をぶつけてボールを取れた選手が何人いたか?” これはトルシエ前々監督も言っていた。世界のトップクラスが 300m走とクーパー走はどれぐらいの数字を残すのだろう?ちなみに私は現役時代クーパー走は 4200m 近く走った。(サッカー選手じゃなくて陸上選手だったからね。)

意識の違い
これは最も的を得ているのではないか?“セレソンの選手はワールドカップは優勝するものと考えているがまだ日本の選手はアジア地区予選を突破した事で満足をしている。” これは歴史が作るものだと思う。今後、アジア地区予選突破を重ねることによってその意識も替えられると思う。

私は全面的に彼を擁護しているのではない。ZICOはブラジルの様に選手たちの個の能力に試合結果を求めたのだろう。まだ日本はそこまで中田英寿の様にワールドカップを戦うだけの“個の能力”を備えた選手は少なかったのだろう。具体的な自分の戦術を持たない彼にワールドカップを託した協会に責任もあるかもしれない。だが良き指導者の指揮が無ければ世界で勝てないというのも少し寂しい気がするなぁ。

もし私が現地にまでワールドカップを観戦しに行かなければ川口がPKを止めたシーン以外は“なんだこんな大会”と思い出したくも無い大会になっていたのかもしれない。しかし日本がワールドカップを遠くから見ていた時代から、ワールドカップと言えばバレーボールと言われた時代からサッカーのワールドカップを観て来たのでまだ日本がワールドカップに出てくる事に幸せを感じる。今大会で日本が世界サッカー界での位置づけが判った人も多いだろう。そして4年後に向けて今度はイビチャ・オシム新監督が“救世主”として崇められているが私はそれには懐疑的だ。就任後の会見で“今の日本サッカーは故障した車を手押ししている。”例えたが果たしてそうであろうか?1990年ワールドカップのユーゴスラビアを実際に見た人がどれだけいるだろうか?ストイコビッチをはじめサビチェビチ、プロシネツキ、カタネッチ、プロシネツキ。これだけのメンバーがいた。それでベスト8に導いたと言うかベスト8止まりだったと思うかはお任せする。(ボバンがいなかったからと言われそうか?) 平和な限りサッカーはこれからも続く。これからもワールドカップに出続けることを願うよ。

年の瀬にワールドカップを振り返る その1

2006-12-30 | FIFA World Cup
今年も残すところあと数日。先日“あさまでテレビ”を看た。(まだ全編ビデオで見ていないけど。)かつての日本代表選手や著名な解説者、そしてサポーター代表が集い今年最大のサッカーイベント、FIFA World Cup の総括等を行なっていた。そして最近の一般紙の中でも今年のワールドカップを振り返る論説が出ていた。 何度思い返しても2敗1分 得点2失点7勝点1でグループ最下位は変わらない。(当たり前か?)そして世間では“ ZICO はダメだったオシムは日本サッカーの救世主”という風潮が渦巻いている。果たして本当にそうだろうか?今年のワールドカップは1次リーグ敗退で終わったが、ワールドカップはこれからも続く。いつの日か上位進出できる日もあるだろうが、アジア地区予選を突破出来ない時もまた来るかもしれない。世間で言われている様に ZICO JAPAN はダメだったのだろうか?

ZICO JAPAN
4年前の日韓ワールドカップで史上初の1次リーグ突破を果たしたが、結局はベスト16止まり。しかし中心メンバーの殆どは4年後のワールドカップでも戦えるだろう。いやむしろ円熟期を迎えるので非常に楽しみな大会になるだろうな、と思った。そこに“舞い降りた”のはブラジルの英雄で J リーグの看板選手でもあった神様 ZICO。最初に指揮を取ったジャマイカ戦では中盤には中村、中田、稲本、小野が並び1982年のセレソンの様に“和製黄金のカルテット”と呼ぶ人も多かった。だが実際に1982年スペイン大会でのセレソンのカルテットをテレビでさえ観たことのある人はどれだけいるだろう?ジーコ、ソクラテス、ファルカン、エデル(トニーニョ・セレーゾよりも攻撃面では圧倒的にエデルが貢献していた。今でも私はエデルがこの時の黄金に中盤の1員と思うんだけど。勿論トニーニョ・セレーゾも前回のアルゼンチン大会にも出場した素晴らしい選手。)彼らは華麗なテクニック、パス回しだけでなくミドルレンジからもがんがん鋭いシュートを放ちゴールを上げていた。(ソクラテス 2 エデル 2 ジーコ 4ファルカン 3 得点 ) だからとても82年大会のブラジルとは比較出来なかった。 まぁ“黄金のカルテット”はその後お披露目される事は無く、もしかするとあの中盤は ZICO JAPAN 旗揚げの“興行用”だったのかもしれない?だがドイツワールドカップに向けてのメンバーこそ史上最強の代表ではなかったか?想像だけどメキシゴ輪メンバーと試合をすれば面白いかな?(釜本が居る分メキシコ組が勝つか?) したがって期待が高くなるのは当然であった。アジアカップ優勝、コンフェデレーションズ杯での健闘もそれに欧州でプレーする選手も増えた事などが拍車をかけた。トルシエ前監督の“赤ワインに例えれば熟成を重ね今が飲み頃”という例えもうなづけた。

日本の位置付け
では何故日本は1次リーグも突破出来なかったのだろう?私が初めてワールドカップを観たのは1974年の西ドイツ大会。決勝戦だけがテレビ放映された。ただ当時小学生だった私はこの大会の権威は判らなかった。綺麗な緑の芝生の上にオレンジ色のオランダ選手のユニフォームが良く映えていた事だけを覚えている。“世界サッカー選手権”と何かに書かれていた。以降1978年アルゼンチン大会から4年に一度の大イベントとして楽しみにして来たが、最近のマスコミ諸氏の中には日本のワールドカップの位置づけ、サッカーのワールドカップがどれほどの大会なのかを明確に、そして正確に理解出来る人がどれだけいるだろうか? 今大会アジアからは韓国、サウジアラビア、イランが他にアジア地区予選を勝ち抜いてワールドカップに出てきた。確かに日本はメキシコ五輪銅メダルと言うアジアサッカー史上では3本の指に入るであろう快挙があるがこの3カ国と比較しても日本は“サッカー新興国”なのだ。サウジアラビアがワールドカップに初出場したのはあのドーハの悲劇に日本国中が涙にくれた予選を勝ち抜いての1994年アメリカ大会。その前の1988年(カタール)1984年(シンガポール)のアジアカップで2連覇を果たし、1989年10月シンガポールで開催されたワールドカップアジア最終地区予選に臨んだが中国、韓国に破れ6か国中5位に終わり更なる強化を施しようやくワールドカップ出場に漕ぎ着けた。イランも今回で3回目の出場だが、初出場は1978年アルゼンチン大会。まだアジア枠が1つしかない時代。当時のパーレビ国王が豊富なオイルダラーを強化に充ててのワールドカップ出場だったが、1968年のアジアカップから3連覇を果たし、1972年ミュンヘン五輪 1976年モントリオール五輪にも出場。そして1974年アジア大会での優勝を経てのワールドカップ初出場であった。アルゼンチンワールドカップ後に革命が勃発しパーレビ王朝は倒されたが、もし革命がなければイランはもっともっと強くなっていただろう。韓国のサッカー史はもう語るまでも無い。アジア諸国でさえこれだけの積み重ねを施してのワールドカップ出場だった。日本が国を挙げて本格的にサッカーに取り組み始めたのは1990年代に入ってから。70年代~80年代は選手や関係者達の血の滲む様な努力と犠牲によって韓国をはじめアジア諸国と戦ってきたのだ。韓国、イラン、サウジアラビアはアジア枠が1または2しか無い時すでにワールドカップ出場を果たしており、日本は出場枠が3に拡がったフランス大会にようやく出場を果たした。スポーツは全てが積み重ね。その時代を知らずして“ワールドカップで日本は惨敗だった”とか“ワールドカップとは….”等マスコミが講釈を垂れ流しているのを見ていると本当に腹が立つ。 月並み言葉だが“ワールドカップ”は甘いものでは無いのだ。 続く