鬼平や竹鶴~私のお気に入り~

60代前半のオヤジがお気に入りを書いています。

お気に入りその1008~竹鶴政孝パート246

2015-01-29 12:19:28 | 竹鶴
今回のお気に入りは竹鶴政孝パート246、マスターブレンダーの自叙伝②です。

北海道新聞の夕刊に連載されたニッカウヰスキー第3代マスターブレンダー佐藤茂生氏の自叙伝から興味深いエピソードをご紹介します。
今回は第1話と第2話です。

「私のなかの歴史~ウイスキーとともに」

○第1話 北海道へ 創業者のロマンにひかれ

佐藤氏は1946年京都生まれ、京都大学卒。
先輩からニッカウヰスキーに誘われました。
創業者・竹鶴政孝さんのことを調べるうちに、頑固でウイスキー一筋の人柄にひかれました。
品質第一で、こだわりの人。
ものづくり、特に口に入れるものをつくるのに携わりたいという思いが強かったのでニッカ入社を決断しました。
1969年入社、1か月の研修の後、余市蒸溜所に配属になりました。
洋風の城構えとアーチ状の石構えに驚かされましたが、中に入り、さらに感動しました。
日本とは思えない石造りの建物と赤いトタン屋根の見事な調和に戦慄さえ覚えました。
ウイスキーとはこういう環境で造られるのか、そしてこの工場を設計した政孝さんとはどのような人物なのか、一気に関心が高まりました。
政孝さんは、スコットランドと似た、冷涼なところで、じっくりと熟成させて造るのがウイスキーであるという信念を持っていました。
それが政孝さんのウイスキー造りのロマンですね。


○第2話 余市時代 魅力的だった政孝さん

ニッカウヰスキー北海道工場(余市蒸溜所)では研究課に勤務しました。
ウイスキーの研究開発、品質管理の仕事などをしていました。
原酒造りや商品造りにも関与しており、現場は醸造関係、蒸留関係、混和関係に分かれていました。
私は混和関係を担当し、毎日、商品の官能検査に熱中しましたが、将来ブレンダーとして長く勤めるとは想像もしていませんでした。
そのころはウイスキーが伸びていく、成長段階の時代でした。
ニッカの当時のメインはハイニッカ、ブラックニッカ。
特級のG&Gに力を入れ始めたばかりでした。
私の仕事は官能検査(利き酒)。
スコッチや国内メーカーのウイスキーなども使い、香りや味を評価する力を磨いていくわけです。
創業者の竹鶴政孝さんの伝統を守っていくと同時に時代の好みにマッチしたウイスキーを造っていくわけです。
政孝さんと実際に声を交わしたことはありません。
周りで見ているという状況でした。
当時私などは入ったばかりで、政孝さんは雲の上の存在でした。
そのころは東京で生活されていました。
新商品を作る時には余市に来て中身の最終決定をしていました。
毎年夏に来られて、従業員全員を集め、鰊御殿(にしんごてん)を移設した会館で懇親会が開かれました。
みなさん、政孝さんと会うことを大変楽しみにしていて、大いに盛り上がっていました。
声の大きい人でした。
味のある、人をひきつける、包容力のある声でした。
みんなが魅了される、それがすごかったですね。
北海道工場には2年半いました。
余市蒸溜所の風景がその気候風土も含め、日本のウイスキーの原点だと思います。
退職した今も、そう確信しています。
その後弘前工場で5年間、ブランデー、シードル、アップルワインなどの商品開発と工場で瓶詰めしたウイスキーの品質管理を担当していました。

コメント
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