今回のお気に入りは竹鶴政孝パート183、手吹きボトルです。
やったー!
ついにスーパーニッカ手吹きボトルが届きました。
それにしても未開封ボトルとは・・・。
ボトルとキャップのナンバーがそろっていて、ラベルが
無事なら完品と考えていましたが、今回のはそれを上回る
未開封。探していた以上のボトルであり、当然、落札価格も
予算していた額を楽々超えました。
通帳の残が一気に寂しくなりましたが、満足満足。
なにしろ実際に販売していた期間(昭和37年~昭和45年)でさえ
年間千本しか市場に出まわらず「まぼろしの」という形容詞が
ついたほどのボトルなのですから・・・。
以前、未蒐集品の中の欲しいものベスト3を書きました。
今回はNo.2が入手できました。
残るは、No.1の一号ウヰスキーとNo.3のベアーニッカの
ポスター。
いつか入手できたらいいな。
夢にまで見た手吹きボトル。
このボトルにまつわる物語は、いかにも竹鶴政孝らしい物語。
大好きな逸話のひとつです。
ニッカのホームページに詳しく書かれていますが、その一部を
ご紹介します。
http://www.nikka.com/special/supernikka/bottle.html
=============================
『スーパーニッカ ボトルへの想い』
「ウイスキーが熟成するまでに何年もかかる。これは娘が
大きくなれば嫁にやるのと一緒なのだから、立派な衣装を
着せてやりたい」。
最高のウイスキーには最高のボトルを。
竹鶴政孝は、夢と理想を追った酒、スーパーニッカの
ボトル製作を、以前から付き合いのあった各務(かがみ)
クリスタルに依頼している。
各務クリスタルは1934年、ニッカウヰスキーと同年に
創立されたガラス工房である。創業者の各務鉱三氏は青年時代、
ドイツに渡ってガラス工芸を学んでいる。
政孝がスコットランドから帰国し、日本でウイスキーづくりを
始めた頃である。ヨーロッパ体験が二人を意気投合させたのか、
政孝とはしばしば酒を酌み交わしたという。
1955年にはゴールドニッカのボトルを製作してもいる。
1962年、念願のスーパーニッカが完成し、これを収める容器を
探していた政孝は、あるとき各務クリスタルを訪れて、一本の
ボトルに目を留めた。
「パッと見るなり“これがいい”と、抱きしめて離さなかった」。
各務氏の片腕として活躍していたガラス工芸作家、佐藤潤四郎氏は、
かつてそう語っている。溶けたガラスに吹き竿を使って息を吹き込み、
一本ずつ手で完成させる手吹きのボトル。すらりと伸びた首と
柔らかにふくらんだボディ、容量もぴったり合っていた。
難点は手づくりゆえに量産できないこと。高価でもあった。
2級ウイスキーが300円台で買えた時代、ボトルの原価だけで
500円したというのだから、容器というよりひとつの工芸品と
いえた。手吹きゆえ口径が一本一本異なり、これまた手で作られた
ガラス栓とは、ひとつずつ擦り合わせる必要があった。ボトルと栓、
それぞれに番号がふられ、これが合致しないとぴたりと閉まらなかった。
やがて、機械によるボトル製造技術が発達し、スーパーニッカのボトルも
手吹きから機械吹きへと置き換わる。しかし、鶴を思わせる優美な姿は
変わらなかった。
このボトルのデザインについて問われた佐藤氏は、こう答えたという。
「だいたい壜(びん)というのは、放っといてもああいう形になるんですよ」。
ガラスに吹き竿で息を吹き込めば自然な球形が生まれる。そこから注ぎ口を
長く伸ばせばスーパーニッカのボトルになる。
自然が生んだ、繊細な造形。自然に育まれたスーパーニッカにふさわしい、
みごとな花嫁衣裳であった。
===================================
やったー!
ついにスーパーニッカ手吹きボトルが届きました。
それにしても未開封ボトルとは・・・。
ボトルとキャップのナンバーがそろっていて、ラベルが
無事なら完品と考えていましたが、今回のはそれを上回る
未開封。探していた以上のボトルであり、当然、落札価格も
予算していた額を楽々超えました。
通帳の残が一気に寂しくなりましたが、満足満足。
なにしろ実際に販売していた期間(昭和37年~昭和45年)でさえ
年間千本しか市場に出まわらず「まぼろしの」という形容詞が
ついたほどのボトルなのですから・・・。
以前、未蒐集品の中の欲しいものベスト3を書きました。
今回はNo.2が入手できました。
残るは、No.1の一号ウヰスキーとNo.3のベアーニッカの
ポスター。
いつか入手できたらいいな。
夢にまで見た手吹きボトル。
このボトルにまつわる物語は、いかにも竹鶴政孝らしい物語。
大好きな逸話のひとつです。
ニッカのホームページに詳しく書かれていますが、その一部を
ご紹介します。
http://www.nikka.com/special/supernikka/bottle.html
=============================
『スーパーニッカ ボトルへの想い』
「ウイスキーが熟成するまでに何年もかかる。これは娘が
大きくなれば嫁にやるのと一緒なのだから、立派な衣装を
着せてやりたい」。
最高のウイスキーには最高のボトルを。
竹鶴政孝は、夢と理想を追った酒、スーパーニッカの
ボトル製作を、以前から付き合いのあった各務(かがみ)
クリスタルに依頼している。
各務クリスタルは1934年、ニッカウヰスキーと同年に
創立されたガラス工房である。創業者の各務鉱三氏は青年時代、
ドイツに渡ってガラス工芸を学んでいる。
政孝がスコットランドから帰国し、日本でウイスキーづくりを
始めた頃である。ヨーロッパ体験が二人を意気投合させたのか、
政孝とはしばしば酒を酌み交わしたという。
1955年にはゴールドニッカのボトルを製作してもいる。
1962年、念願のスーパーニッカが完成し、これを収める容器を
探していた政孝は、あるとき各務クリスタルを訪れて、一本の
ボトルに目を留めた。
「パッと見るなり“これがいい”と、抱きしめて離さなかった」。
各務氏の片腕として活躍していたガラス工芸作家、佐藤潤四郎氏は、
かつてそう語っている。溶けたガラスに吹き竿を使って息を吹き込み、
一本ずつ手で完成させる手吹きのボトル。すらりと伸びた首と
柔らかにふくらんだボディ、容量もぴったり合っていた。
難点は手づくりゆえに量産できないこと。高価でもあった。
2級ウイスキーが300円台で買えた時代、ボトルの原価だけで
500円したというのだから、容器というよりひとつの工芸品と
いえた。手吹きゆえ口径が一本一本異なり、これまた手で作られた
ガラス栓とは、ひとつずつ擦り合わせる必要があった。ボトルと栓、
それぞれに番号がふられ、これが合致しないとぴたりと閉まらなかった。
やがて、機械によるボトル製造技術が発達し、スーパーニッカのボトルも
手吹きから機械吹きへと置き換わる。しかし、鶴を思わせる優美な姿は
変わらなかった。
このボトルのデザインについて問われた佐藤氏は、こう答えたという。
「だいたい壜(びん)というのは、放っといてもああいう形になるんですよ」。
ガラスに吹き竿で息を吹き込めば自然な球形が生まれる。そこから注ぎ口を
長く伸ばせばスーパーニッカのボトルになる。
自然が生んだ、繊細な造形。自然に育まれたスーパーニッカにふさわしい、
みごとな花嫁衣裳であった。
===================================