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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ジェイソン・ボーン」

2016-11-12 06:35:00 | 映画の感想(さ行)
 (原題:JASON BOURNE)何やら、証文の出し遅れみたいな印象を受ける映画だ。そもそも、前の三部作でこのシリーズはひとまず完結しているはずだった。それでも今回あえて主人公ボーンを引っ張り出すからには、それに相応しいネタを用意して然るべきだが、これがどうにも気勢が上がらない。有り体に言えば、前回までのモチーフの“残りカス”を必死で集めて仕立て上げたという感じだ。

 前作「ボーン・アルティメイタム」での大立ち回りから数年後、行方知れずになっていたジェイソンはストリートファイトの世界で日銭を稼ぎつつひっそりと生きていた。彼の元同僚ニッキーはCIAの悪事を暴くため、ハッカーグループと組んで当局側のメインサーバーから機密を盗み出す。そこには、ボーン自身も知らない事実が隠されていた。ニッキーはそのことをボーンに知らせるべく、彼が潜伏していると思われるギリシアへと向かう。しかし、それを察知したCIAがニッキーを追い、ボーン共々片付けようとする。



 一方、ボーン抹殺計画を強引に推し進める長官のデューイに反感を覚えていた若手幹部のヘザー・リーは、密かにボーンに対して手持ちの情報を流していた。デューイはボーンの行方を追うかたわら、若くして大成功したIT業界の俊英を取り込もうとしていたが、それは彼の悪しき野望の第一歩であった。

 ボーン出生の秘密は前回で明らかになったはずだが、今回はなぜか彼の父親が昔テロの犠牲になってどうのこうのという、どうでもいい話が大々的にフィーチャーされている。それによって何か新しいストーリーの展開が見られるわけでもなく、前三作における“オマケ”みたいな価値しか無い。しかも、これが何度もリフレインされるものだから、途中で面倒臭くなってくる。

 敵役のデューイの目的というのが“ネットを牛耳って世界を支配する”とかいう、手垢にまみれたものであるのには脱力。その方法論も“ITに長じた大物を買収あるいは脅迫する”という芸の無さだ。CIA内部からボーンをフォローするリーのキャラクター設定も、「ボーン・アルティメイタム」のジョアン・アレン演じる幹部の“二番煎じ”である。

 ポール・グリーングラスの演出は意外なほど精彩が無い。アクションシーンはもちろん、ドラマ運びもキレが悪く、本人が気乗りしていないと思われるほどだ。主演のマット・デイモンは相変わらずだが、容貌には年齢を感じさせるあたり、観ていて辛いものがある。

 デューイ役にトミー・リー・ジョーンズ、主人公を付け狙う殺し屋にヴァンサン・カッセルが扮しているが、この程度の役柄に起用するのはもったいない感じがする。リーを演じるのはアリシア・ヴィキャンデルで、見た目は可愛いが、頭脳明晰な若手エリートとしては物足りない。ロケ地はジェームズ・ボンド映画ばりにワールドワイドながら、作品のカラーとしては何か違う気がする。もうこのシリーズは打ち止めにした方が良い。
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「ランブリング・ローズ」

2016-11-11 06:38:18 | 映画の感想(ら行)
 (原題:RAMBLING ROSE)91年作品。モントリオール映画祭の正式出品作品で、同年のアカデミー賞の主演女優賞などにノミネートされた話題作。アメリカのリベラルな伝統が、南部を舞台にして、マーサ・クーリッジ監督の手でうまく生かされている佳篇だと思う。

 1935年の夏。ジョージア州に住むヒリアー家は、ローズという娘をメイド兼3人の子供達の遊び相手として雇い入れる。彼女はヒリアー夫婦とすぐに打ち解け、子供達も懐いてすべて上手くいくように思えたが、実はローズは元売春婦だった。幼い頃に両親に捨てられ、ずっと売春宿で暮らしてきたのだ。そのためか性欲が人一倍強く、ヒリアー氏は彼女が“暴走”しないように絶えず気を遣っていた。しかし長男のバディは思春期に差し掛かっており、ローズを“女”として捉えて落ち着かない日々を送るハメになる。



 ある日、街でローズを巡って2人の男がケンカを始め、止めに入った警官のウィルキーに彼女は掴み掛かったため逮捕されてしまう。ところがこれが縁でローズはウィルキーといい仲になり、やがて結婚することになる。周囲は祝福するが、バディにとっては失恋同様のショックを隠せない。それから36年の時が流れ、年老いた父親を訪ねたバディは、ローズのその後の人生を知るのであった。

 保守的だが、人情に厚い南部の風土が的確に捉えられている。しかも、年上の女に憧れる少年の視線で描かれるという鉄板の設定を踏襲。だからこそ、突拍子も無い若い娘が画面を闊達に動き回っても違和感を覚えない。

 出色なのが、ヒリアー夫人のキャラクター設定だ。聴力障害はあるが、北部出身で大学卒。人柄も良く、皆に親しまれている。実家も金持ちであり、大恐慌なんか知ったことでは無い。彼女と頑固だが頼りになる旦那とのコンビネーションは、古き良き時代の理想的な家庭を違和感なく表現している。また、ヒリアー夫人の生き方とローズの振る舞いが絶妙のコントラストを演出し、ドラマに奥行きを持たせている。

 ローズに扮したローラ・ダーンは、間違いなく彼女のフィルモグラフィの中で最良のパフォーマンスを見せている。ヒリアー夫妻を演じるロバート・デュヴァルとダイアン・ラッドも堅実な演技。バディ役のルーカス・ハースはこの頃は初々しい。エルマー・バーンスタインによる流麗な音楽と、ジョニー・E・ジェンセンのカメラがとらえた痺れるほどに美しい南部の風景。ヒロインの生涯を垣間見せるラストも含めて、鑑賞後の印象は良好だ。
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「何者」

2016-11-07 06:22:56 | 映画の感想(な行)

 楽しんで観ることが出来た。当世の若者群像を上手く活写しているだけではなく、優れた心理ドラマに仕上がっている。映像面での仕掛けにも事欠かず、就職活動の当事者である学生はもちろん、幅広い層にアピールできる内容だ。また上映時間が無駄に長くないのもよろしい。

 大学の演劇部で脚本を書いていた拓人は、サークル活動を辞めて企業訪問に専念するが、なかなか結果が出ない。ルームメイトの光太郎は、何も考えていないように見えて、着実に内定に近づいていく。光太郎が以前付き合っていた瑞月は、家庭の事情により就職先を限定せざるを得なくなる。瑞月の友人である理香は、就職戦線で先行しているように見えて、実は自意識が強すぎ、受け入れてくれる企業が見つからない。理香の同棲相手である隆良は、当初は就活に没頭する周囲を冷ややかに見ていたが、やがて焦りの色が出てくる。

 理香が拓人たちと同じアパートに住んでいることが分かり、5人は理香の部屋を“活動拠点”にして集まるようになるが、彼らの中から内定者が出るに及び、最初は和気藹々だった雰囲気は次第に気まずいものに変わってゆく。直木賞を受賞した朝井リョウの同名小説(私は未読)の映画化だ。

 損得抜きで付き合える学生時代は終わり、打算や妬み嫉みが先行することが多くなる社会人生活へと移行する。就職活動はその“入口”だ。誰しも通る道。しかし誰もがそのパラダイムの転換を前にして思い悩む。同時に、自分が“何者”であるのかを赤裸々に突きつけられる場でもある。そういう普遍的なモチーフをしっかりと押さえた上で、本作ではSNSが効果的にフィーチャーされている。

 もちろんネット上では各人の心の声が(匿名で)綴られるのだが、それが“本音”ではあっても決して“本質”ではないことが描かれているのはポイントが高い。ネット上で得々と披露される腹の探り合いや手前勝手な決めつけは、真の内面ではない。有り体に言ってしまえば、そんなのは生理的な反射現象に等しいのだ。この“本音”と“本質”との混同に振り回され、親しくしている者達に対して疑心暗鬼になったり、夜郎自大な態度に転じたりと、千々に乱れる登場人物たちの内面を活写する三浦大輔の演出は実に達者だ。

 しかも、演劇人でもある三浦は、終盤に映画と舞台との垣根を取っ払ったような映像処理を大々的に導入。それが単なるケレンに終わらず高い求心力を発揮しているのは、言うまでもなく主題に対して真摯な態度で臨んでいるからだ。

 佐藤健に有村架純、二階堂ふみ、菅田将暉、岡田将生、そして拓人の先輩を演じる山田孝之と、若手の有望株をズラリと並べてそれぞれに見せ場を用意している作劇の巧さが光る(また、極端な大根役者が一人も出ていないのも良い ^^;)。中田ヤスタカの音楽も好調。

 関係ないが、私が就職活動をしていた頃(80年代)は、確か最初の内定は劇中で拓人が最初やろうとしていたように“本質”を出さずに“演技”だけで勝ち取ったように思う。それが可能な時代だったのだ(まあ、以後もそんなのが通用するほど甘くはなかったが ^^;)。活動時期も今と違って短くて済んでいた。対して今の学生は大変だ。苦労して就職先を見つけても、ブラックな職場環境で難儀することも多々ある。若者をはじめとする社会的弱者にしわ寄せが来る世の中は、いい加減是正してほしいものだ。
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「はつ恋」

2016-11-06 06:30:56 | 映画の感想(は行)
 2000年東映作品。脚本に難ありだ。シナリオを担当した長澤雅彦はそれまでプロデューサーを生業にしていたせいか、話の組み立て方には慣れていないようで、物語の前提・出発点からして無理がある。もっと別の人材を招聘すべきであった。

 主人公の女子高生・聡夏は春休みに入って早々に母の志津枝が突然入院し、しかも父親の泰仁との気まずい二人暮らしを余儀なくされ、憂鬱な日々を過ごしていた。ある日、母の頼みで彼女が大切にしていた古いオルゴールを探し出した聡夏は、その中から送付されていない一通の手紙と一枚の写真を見つける。



 どうやら24年前に母が父と出会う前に交際していた相手に宛てた、切々としたラヴレターらしい。聡夏は母に内緒でその男・藤木を探し、長年の母の願いを叶えることにする。だがようやく見つけた藤木は、人生に疲れた冴えないオッサンになっていた。聡夏は彼を“母親に相応しい男”に仕立て上げようと画策する。

 だいたい、母親がガンで入院したといっても、死ぬ一歩手前なんてことがわからない時点でわざわざ昔の恋人に会わせようというヒロインの心理が理解不能である。百歩譲って、それが好きな先輩に想いを十分伝えられなかったことの代替行為だということにしても、その結果どういう事態になることを期待しているのかさっぱり分からない。ヘタすりゃ家庭崩壊になって、一番困るのはヒロイン自身じゃないか。

 さらに悪いことに、聡夏に扮する田中麗奈は存在感こそあるものの、表情が単一であり微妙な内面演技などは苦手、つまりはこの頃の彼女は大根だったのである。いくら脇に原田美枝子だの平田満だの真田広之だの佐藤允だのといった多彩な顔ぶれを持ってきても無駄。多少地味でも、辻褄の合わない設定を力技でねじ伏せるほどの演技力を持つ女優を起用すべきだったと思う(でも、それじゃ客が来ないか ^^;)。

 篠原哲雄の演出は本作の前に撮った「月とキャベツ」(96年)や「きみのためにできること」(99年)などと比べて多少進歩しているらしく、まあ見られるレベルにはなってはいるが、今回は脚本がヘボすぎた。久石譲の音楽は彼としては水準の出来である。
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「怒り」

2016-11-03 06:25:22 | 映画の感想(あ行)

 力のこもった作劇で、鑑賞後の満足度は高い。よく見ると辻褄の合わない箇所も散見されるのだが、骨太な演出力とキャストの頑張りによって、観る者をねじ伏せてしまう。李相日監督は話題作はいくつか手掛けているのだが、質の面ではデビュー作の「青 ~chong~」(99年)をなかなか超えられなかった。しかしここにきて、ようやく代表作をリリースすることが出来たと言えよう。

 酷暑のある日、東京・八王子で夫婦が殺される事件が発生する。大きな“怒”の血文字が残った現場は凄惨を極めたが、犯人はなかなか特定できない。1年後、山神一也という者が本ボシであることが判明するものの、整形手術をして逃亡を続けている。そんな時、千葉と東京と沖縄に山神と似た風貌の男が現れる。

 千葉の海沿いの町では、元風俗嬢の愛子が身元不明の田代という青年と心を通わせるが、彼が手配書の写真と酷似していたことから愛子は思わぬ行動を取り、田代はどこかに行ってしまう。東京ではエリートサラリーマンで同性愛者の優馬が、偶然知り合った直人という若い男と一緒に暮らし始めるが、指名手配の写真と直人が似ていることから、優馬は動揺を隠せなくなる。母と共に沖縄に移り住んだ高校生の泉は、沖合の無人島に一人で生活する青年・田中と知り合うが、ある日同級生の男子生徒と出かけた歓楽街で災難に遭う。

 怪しい男が3人も同時に出現するというプロットは無理があり、犯人を追う捜査陣はあまり有能に見えない。沖縄のパートでは、無人島で若い娘が得体の知れない男と二人きりになるというシチュエーションを平気で提示している。そもそも真犯人の内面には切り込んでおらず、ただのキ○ガイであったと言わんばかりのオチでは、どうも釈然としない。

 しかしながら、それらの瑕疵を差し引いても、展開される各エピソードは観る者を圧倒するほどドラマティックだ。千葉のパートは頭の少し弱い娘に対する父親の懊悩と、暗い過去を背負った青年の迷いが画面から鮮明に伝わってくる。東京のパートは優れた“純愛映画”であり、また主人公達を取り巻く人物の扱いも見事と言うしかない。沖縄の、明るい陽光の中に見え隠れする米軍基地を背負った土地柄の不安要素が、泉達の運命の通奏低音になっている。

 彼らは過酷な現実に直面しながら、それでも人間関係を信じ、何とか希望を見出そうとしている。そのポジティヴさをバックアップする演出の頼もしさは嬉しくなる。

 渡辺謙を筆頭に、森山未來、松山ケンイチ、綾野剛、妻夫木聡、高畑充希、原日出子と豪華な顔ぶれを揃えていながら、それぞれの描写にはまったく手を抜いていないし、キャストも見事にそれに応えている。中でも印象的だったのは愛子に扮する宮崎あおいで、頭が弱く風俗に身を落としてしまう役ながら、突き抜けた透明感でキャラクターに血を通わせている。

 また、泉を演じる広瀬すずのパフォーマンスには驚いた。彼女より年上の若手・中堅の女優でも躊躇するような役に、よく挑戦したものだ。アイドル的な位置付けから一歩踏み出そうとする姿勢は評価したい。そして本作の最大の“発見”は、泉の男友達を演じる佐久本宝だ。序盤はナイーヴな雰囲気だが、徐々に存在感を増し、終盤にはドラマの帰趨を決定する重要な働きをする。そんな難しい役をまったく破綻無く演じきっており、今後の活躍を期待させる。

 笠松則通によるカメラワークは素晴らしく、坂本龍一の音楽は前に観た「レヴェナント:蘇えりし者」よりも数段ヴォルテージが高い。とにかく、今年度の日本映画を代表する秀作であり、観る価値は大いにある。
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「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」

2016-11-02 06:25:06 | 映画の感想(な行)
 (原題:THE NIGHTMARE BEFORE CHRISTMAS)93年作品。監督はヘンリー・セリックだが、作品はプロデューサーであるティム・バートンのものと思って間違いない。

 年に一度のハロウィンの夜。ハロウィンタウンの住人ジャック・スケルトンが一年かけて仕掛けるハロウィンはいつも大成功。ところが、大騒ぎする住人をよそに、マンネリに嫌気がさしたジャックは幽霊犬と一緒に墓場をあてどもなく歩いていた。しかし、いつの間にか迷い込んだ場所は、真っ白な雪とジングルベル、子供たちの笑い声と楽しそうな音楽が響き合うクリスマスタウンだ。初めて見る“真っ当なクリスマス”に魅了されたジャックは、サンタクロースを誘拐して次の年のクリスマスを“ハロウィン風”にすべく準備を開始する。



 言い忘れたが、これはミュージカル仕立てのストップモーション・アニメーション映画である。それまで実写では鼻につくバートンのオタク趣味が、ここでは万人に納得できるように展開されている。はかない夢に向かって邁進する主人公も、彼を慕うギハギだらけの人造美女も、悪の権化の魔人ウーギー・ブーギーも、実写でやればウソ臭くて観ていられないだろう。でもここではすべて許されるのだ。改めてアニメーションの不思議さに驚いてしまう。

 主人公ジャックのキャラクター・デザインをはじめ、各登場人物のグロテスクだがどこか愛敬のある造形は見事。ハロウィンタウンの恐ろしく暗い雰囲気も捨て難い。動きの精巧さ、コンピュータ合成などのSFX処理は素晴らしいの一言だ。そしてダニー・エルフマンの音楽も彩りを添える。

 面白いのは、クリスマスに憧れるジャックとは裏腹に、作者はクリスマスをバカにしているようなところだ。能天気な子供たちがプレゼント貰って喜ぶだけの“本式の”クリスマスより、グロいプレゼントで街中パニックになるハロウィン風クリスマスの方を断然楽しく描いている。このオタクな屈折ぶりがこういう映画ではいいのだ。しかも、映画の中で一番イヤなキャラクターはヘンに説教臭くて芸のないサンタクロースだったりする(笑)。

 筋金入りのオタクも時と場合によってはこんなポピュラリティを持った快作を仕上げてくれる。バートンの特異な才能を見直した一篇。次作「エド・ウッド」(94年)では、さらなる飛躍を見せてくれる。この頃の彼は絶好調だった。
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「淵に立つ」

2016-11-01 06:33:47 | 映画の感想(は行)

 大して面白くもない。それはこの映画が“為にする”ような構図を持っているからだ。つまりは結論を出すことを目的とせず、まず結論があって“そこに行き着いた”という体裁を整えるために作られている。しかも、おそらくは脚本と演出を担当した深田晃司はその“結論”のあり方を十分咀嚼しないまま撮っているため、終盤は作劇が破綻している。これでは評価のしようが無い。

 小さな町工場を営む鈴岡利雄と章江夫妻は、小学生の娘と3人でマンネリだが平穏な生活を送っていた。ある日、利雄の古い友人である八坂が訪れる。八坂は刑務所から出てきたばかりで、住む場所にも事欠いていた。利雄は彼を住み込みで雇い入れる。最初は面食らっていた章江と娘だが、次第に八坂を受け入れるようになる。

 だが、章江が八坂と懇ろになったことを切っ掛けに、思わぬ事件が発生。八坂は姿を消してしまう。8年後、利雄は八坂の行方を捜し続けていたが、工場で新たに雇った若い男が八坂の関係者であったことが明らかになり、利雄は彼を連れて八坂が住んでいると思われる場所に出向くのであった。

 要するに作者が描きたかったのは、日常生活の裏に潜むダークサイドだ。またそれは、人間の心の不可思議さに起因していると結論付けたいのであろう。しかし、そのために斯様な無理筋の設定と強引なストーリーを用意する必要があったとは、とても思えない。これはまさに“不幸のための不幸”であり“不条理のための不条理”だ。普遍性や共感性のかけらも無い。

 八坂がかつて殺人を犯し、利雄はそれに荷担したが、罪を被ったのが八坂だけだったというハナシは鼻白むばかり(警察はそこまで無能なのか?)。さらに工場で働く若い男と八坂との関係性は、まさに取って付けたようなプロットだ。もちろん“アクロバティックな筋書きを提示するのはケシカラン!”と言いたいのではない。この映画のダメな点は、あり得ないストーリーを納得させるだけの仕掛けが不在であることだ。

 斯様な与太話をもっともらしくデッチあげるには、エクステリアを思いっきりイレギュラーなものにするとか、あるいはブラック・ユーモアで味付けするとか、とにかく変化球で攻めるのが筋だろう。ところが本作はリアリズムめいたもので押し切ろうとしている。案の定、ラスト近くで収拾がつかなくなり、映画作りを放り出したような有様だ。章江と娘がクリスチャンであることが展開の伏線になるはずが、中盤以降はすっかり忘れられているのにも脱力する。

 家庭に異分子が入り込むという設定は、深田監督の代表作「歓待」(2010年)と通じるものがあるが、あの映画に比べると明らかに求心力は低下している。それでもキャストは健闘しており、八坂役の浅野忠信、利雄に扮する古舘寛治、章江を演じる筒井真理子、いずれも力のこもった演技を披露している。しかしながら映画の中身がこのような状態であるため、諸手を挙げての評価は出来ない。鑑賞後は徒労感だけが残った。
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