元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「淵に立つ」

2016-11-01 06:33:47 | 映画の感想(は行)

 大して面白くもない。それはこの映画が“為にする”ような構図を持っているからだ。つまりは結論を出すことを目的とせず、まず結論があって“そこに行き着いた”という体裁を整えるために作られている。しかも、おそらくは脚本と演出を担当した深田晃司はその“結論”のあり方を十分咀嚼しないまま撮っているため、終盤は作劇が破綻している。これでは評価のしようが無い。

 小さな町工場を営む鈴岡利雄と章江夫妻は、小学生の娘と3人でマンネリだが平穏な生活を送っていた。ある日、利雄の古い友人である八坂が訪れる。八坂は刑務所から出てきたばかりで、住む場所にも事欠いていた。利雄は彼を住み込みで雇い入れる。最初は面食らっていた章江と娘だが、次第に八坂を受け入れるようになる。

 だが、章江が八坂と懇ろになったことを切っ掛けに、思わぬ事件が発生。八坂は姿を消してしまう。8年後、利雄は八坂の行方を捜し続けていたが、工場で新たに雇った若い男が八坂の関係者であったことが明らかになり、利雄は彼を連れて八坂が住んでいると思われる場所に出向くのであった。

 要するに作者が描きたかったのは、日常生活の裏に潜むダークサイドだ。またそれは、人間の心の不可思議さに起因していると結論付けたいのであろう。しかし、そのために斯様な無理筋の設定と強引なストーリーを用意する必要があったとは、とても思えない。これはまさに“不幸のための不幸”であり“不条理のための不条理”だ。普遍性や共感性のかけらも無い。

 八坂がかつて殺人を犯し、利雄はそれに荷担したが、罪を被ったのが八坂だけだったというハナシは鼻白むばかり(警察はそこまで無能なのか?)。さらに工場で働く若い男と八坂との関係性は、まさに取って付けたようなプロットだ。もちろん“アクロバティックな筋書きを提示するのはケシカラン!”と言いたいのではない。この映画のダメな点は、あり得ないストーリーを納得させるだけの仕掛けが不在であることだ。

 斯様な与太話をもっともらしくデッチあげるには、エクステリアを思いっきりイレギュラーなものにするとか、あるいはブラック・ユーモアで味付けするとか、とにかく変化球で攻めるのが筋だろう。ところが本作はリアリズムめいたもので押し切ろうとしている。案の定、ラスト近くで収拾がつかなくなり、映画作りを放り出したような有様だ。章江と娘がクリスチャンであることが展開の伏線になるはずが、中盤以降はすっかり忘れられているのにも脱力する。

 家庭に異分子が入り込むという設定は、深田監督の代表作「歓待」(2010年)と通じるものがあるが、あの映画に比べると明らかに求心力は低下している。それでもキャストは健闘しており、八坂役の浅野忠信、利雄に扮する古舘寛治、章江を演じる筒井真理子、いずれも力のこもった演技を披露している。しかしながら映画の中身がこのような状態であるため、諸手を挙げての評価は出来ない。鑑賞後は徒労感だけが残った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする