元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「一切れのパンの愛」

2015-01-16 12:08:10 | 映画の感想(は行)
 (原題:CINTA DALAM SEPOTONG ROTI )91年作品。インドネシアを代表する監督であるガリン・ヌグロホの長編デビュー作で、私は東京国際映画祭の“アジア秀作映画週間”で観ている。同監督の映画に接するのは初めてだったが、その実力を窺わせるには十分なレベルを達成していると思った。

 若手ビジネスマンのハリス、モデルのマヤン、カメラマンのトパンの3人は幼年時代からの親友だった。やがてハリスはマヤンと結婚するが、トパンとの友情は変わることはなかった。ところがハリスとマヤンの仲が怪しくなる。どうやらハリスが少年の頃、母親の不義を目撃したことが心の傷として残り、夫婦関係にも悪影響を及ぼしているらしい。3人は東ジャワへの旅に出かける。それは彼らの人生の再出発のきっかけともなる旅だった。



 描写やストーリー展開にまったく無理がなく、多くの日本の観客が当時東南アジア映画に対して持っていたであろう先入観、泥臭いとか、演出がぎこちないとか、そういうマイナス・イメージに関するものはこの映画にはない。それどころか、あちこちに洗練されたタッチも見受けられ、描きようによってはとても暗くなりがちな題材をさわやかに描ききっている。青春映画の佳篇といってもいい。

 ジャワ島の雄大な自然の風景に思わず見入ってしまう。この地方のことはよく知らず、インドネシアの観光地といえばバリ島ぐらいしか思い浮かばない私にとっては実に新鮮だった。都会の場面ではクローズアップが多く、自然をバックにするとロングショットや空中撮影を大々的に展開させる監督の手腕には納得がいく。そして何といっても民族音楽の効果的使用が印象に残る。

 キャストはもちろん知らない面々ばかりだが、いずれも水準以上のパフォーマンスを披露している。同監督の作品はその後世界各国の映画祭で上映され好評を博するが、日本での一般公開作品は「枕の上の葉」(99年)など数本しかない。もっと紹介されて良い作家だと思う。
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「ゴーン・ガール」

2015-01-13 06:35:17 | 映画の感想(か行)
 (原題:Gone Girl )キャストの力演で何とか最後まで見ていられるが、ミステリー映画としては上等ではない。プロットの練り上げが完全に不足している。オスカー候補という声もあるらしいが、この程度ではまず期待出来ないだろう。

 ミズーリ州の片田舎に暮らすニックとエイミーの若夫婦。以前二人は売れっ子作家であるエイミーの仕事の拠点であるニューヨークで暮らしていたが、都合によりニックの実家のある当地に越してきたのだ。結婚5周年の記念日に、エイミーは突然失踪する。状況から事件性が強いと判断した警察はすぐに動き出すが、エイミーが有名人であるため、ダンは周囲からすすめられるがままに記者会見を開き、情報提供を呼びかける。ところが捜査が進むにつれ、なぜか彼に不利な証拠ばかりが見つかり、マスコミからは容疑者扱いされてしまう。

 早い話が、失踪事件はエイミー自身の狂言であり(注:これは中盤で早々に明かされるため、ネタばれではない)、映画の焦点は彼女が如何にセッティングをしたか、そしてダンがどういうリアクションを示すのか、そういったことに移っていく。しかしながら、これがヘタクソでどうにもならない。

 エイミーの逃避行は、プロットとして穴だらけである。ちょっと髪型と服装を変えたぐらいで騙し通せるはずもないと思うのだが、なぜか堂々と人の多いバーへ行ったりする。案の定途中で致命的な失態を演じてしまうのだが、そのことに以後まったく言及されていないのは噴飯ものだ。さらには切羽詰まって“昔の知り合い”に泣きついたりもするのだが、そのあたりも御都合主義の極みでシラけてしまう。

 ダンの方も嫁さんに寄り切られてばかりで、主体性の無さを露呈(そもそも、甲斐性も無いのに世間に名の知られたカミさんと結婚してしまう軽率さからして、まったく感情移入出来ない)。さらには警察も弁護士も、勿体振っているわりにはドラマに大きく絡んでこない。作者が問題提起したかったであろうマスコミのあり方云々についても、何を今さらという感じだ。こういう調子で終盤に近付くほど話がグダグダになり、気勢の上がらない幕切れを迎える。

 この夫婦に扮するベン・アフレックとロザムンド・パイクはかなりの熱演で、観客を退屈させないようにエネルギッシュに動き回るが、ストーリー自体が斯様な状態なので、ただ“ご苦労さん”としか言いようがない。

 デイヴッド・フィンチャーの演出は「ゲーム」や「パニック・ルーム」などの凡作連発の頃に戻ったみたいな生彩の無さで、観ていて盛り下がるばかり。トレント・レズナーの音楽および使われていた既成曲は印象に残らず。別に観なくても良い映画だ。
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「スリーメン&リトルレディ」

2015-01-12 06:21:06 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THREE MEN AND A LITTLE LADY )90年作品。赤ん坊を育てるハメになった三人の男共が巻き起こす騒動を描いたフランス映画「赤ちゃんに乾杯!」をハリウッドでリメイクした「スリーメン&ベビー」の続編である。

 前作で三人の“父親”と共同生活を始めたメアリーの母親シルビアが、イギリス人の演出家と結婚することになり、当然娘のメアリーもイギリスに渡ってしまう。三人は潔く諦めようとしたものの、やっぱり未練があり、思い切ってイギリスへ行くことになる。映画はその珍道中をコメディ・タッチで描く。

 まあ、お手軽な映画なのだが、アメリカとイギリスとのカルチャー・ギャップ(もちろん、アメリカ人の視点による)を取り上げているあたりが面白かった。大柄なアメリカ野郎どもが小さなオースチン・ミニに押し込められて“これは、電気自動車かっ!”と文句を言うシーンをはじめ、その車が羊の群れに囲まれて立ち往生し、通りすがりのオッサンに道を聞けば、その言い回しの何と長くて要領を得ないことか。英国では“急いで行く”というのは“途中でお茶の時間を設けないこと”であるらしい(爆)。

 シルビアと結婚する予定のディレクターの家は古色蒼然とした屋敷で、周りの女性陣も色気の無いパサパサした感じの面子ばかり。さらに子供の教育に関しては、アメリカ人からすれば断じて許せないほどのドライなものだ。つまりは、子供を人間扱いしていない。そして中流以上の子が入れられる寄宿舎というのが、まるで捕虜収容所みたいなヒドいところである。三人はこの事実に憤慨するのだが、自分たちは子供には極端に甘く、決してホメられたものではないのが笑える。

 エミール・アドリーノの演出は取り立てて器用ではないが、まあ破綻無くドラマを進めている。トム・セレック、スティーヴ・グッテンバーグ、テッド・ダンソンの“父親”たちも、そつなく仕事をこなした程度。音楽はジェームズ・ニュートン・ハワードで、堅実なスコアを披露している。
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「フューリー」

2015-01-11 07:04:36 | 映画の感想(は行)

 (原題:FURY)スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」の二番煎じで、しかも出来は遠く及ばない。そうなった原因のひとつは、主演のブラッド・ピットが製作も手掛けていたからだろう。以前彼がプロデュースに参画した「それでも夜は明ける」の中で、いかにもカッコつけたような“いい人”の役で出演していたのと同様に、この作品はブラピの“俺様映画”としての側面が大きい。

 1945年4月、ベルリンに向かって侵攻するアメリカ陸軍部隊の中に、ドン・“ウォーダディー”・コリアーが車長を務めるM4シャーマン戦車があった。自ら“フューリー”と命名したこの戦車で何度も修羅場をくぐってきた彼だが、副操縦士の死亡に伴い、代わりに新兵で戦闘経験の無いノーマンを加入せざるを得なくなる。そんな中、ドイツ機甲師団の攻撃を受けて他部隊がほぼ全滅してしまう。なんとか生き残ったウォーダディー達だが、たった一台で敵軍と対峙することになり、彼らは決死の覚悟で戦いに臨む。

 最大の敗因は、主人公のバックグラウンドがほとんど描かれていないことだ。厳しい姿勢で戦地に赴くのは軍人だから当然としても、敵に対するスタンスや任務遂行の段取りなどがどうもチグハグである。これでよく幾度も死地を乗り越えられたものだ。

 ドイツ軍には容赦しないくせに(投降してきても射殺)、偶然出会った現地の女達には場違いなほど“優しく”接する。相手がゲリラ兵である可能性もあると思うのだが、どうも御都合主義的に振る舞い方を変えるタイプのようだ(呆)。言うまでもなくブラピ先生の“カッコつけ”のために挿入されたシークエンスだが、この箇所だけが劇中で完全に浮いているのは如何ともし難い。

 終盤のバトルに至っては、まるでお笑いぐさだ。たかが戦車一台に約300人ものドイツ兵が手こずるはずもないだろう。それ以前にウォーダディーは一度撤退して体勢を立て直すべきだったが、やっぱり“カッコつけ”が大好きなブラピ御大は、玉砕覚悟の無謀な戦いを選択してしまう。

 そんな有様だから、派手なドンパチが画面上で展開しても観ているこちらはシラけてしまうのだ。ラストの空撮は十字架をイメージしていることは明らかだが、そんな具合に戦争の悲惨さを(御為ごかし程度に)挿入しても、証文の出し遅れだろう。

 デイヴィッド・エアーの演出はキレもコクもなく、ノーマンに扮するシャイア・ラブーフをはじめキャストは弱体気味。ウォーダディー配下の面々よりも、ノーマンと仲良くなる女の子を演じたアリシア・フォン・リットベルクの方が印象に残ってしまうのだから脱力してしまう。観る前は期待した戦車同士の戦いもほんの一部しかなく、評価出来る箇所を探すのが難しい失敗作と言ってよかろう。
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「ペパーミント・キャンディー」

2015-01-10 07:58:26 | 映画の感想(は行)
 (英題:Peppermint Candy)99年作品。観ていて胸を締め付けられた。大胆な構成とキャストの好演により、この頃の韓国映画を代表する秀作の一つに仕上がっている。各地の国際映画祭に出品され、本国でも大鐘賞の5部門独占受賞を果たした。

 40歳になる主人公のヨンホは、久しぶりに集まった労働組合の元仲間たちが催したピクニックに参加する。河原で楽しげにはしゃぐ昔の同僚たちを尻目に、彼一人が浮かない顔だ。やがて彼は鉄橋によじのぼって線路に入り、向かってくる列車に両手を広げて立ちはだかる。その3日前にヨンホは自殺を決意していたが、ひょんなことから彼はペパーミント・キャンディーの瓶を抱え、今は人妻となった死の床にある初恋の女性スニムを見舞いに行くことになる。そして映画は時制を逆行し、冒頭の99年の春から、ヨンホが20歳の若者だった79年の秋までを追う。



 この頃、80年の非常戒厳令拡大措置から光州事件、ラングーン事件、大韓航空機爆破事件と、韓国は激動時でもあった。主人公も当然無関係ではいられない。ヨンホはかつて公安刑事で、反政府抗議運動を繰り広げる者達を取り締まるため、容赦のない訊問・拷問を実行した。それでも彼は最初はリンチまがいの尋問にためらうのだが、やがて平気で激しい取り調べを行い、相手に重大なダメージを与えるようになる。気弱で心優しかった彼の心は、この時点で“死んで”しまったのだ。

 それからの妻との妥協的な結婚や刹那的な浮気等の描写は、人生を捨ててしまった男の荒廃ぶりをえぐりだして観る者に大きなインパクトを与える。だが、本作はそんな韓国独自のバックグラウンドだけで作劇を際立たせているのではない。



 悲惨な運命が待ち受ける前にも平穏な日々が存在していたという、その厳然たる事実を普遍的に活写し、改めて人生の残酷さと不思議さを強く印象づけることによって、この映画は屹立した魅力を獲得したと言えよう。

 イ・チャンドンの演出は強靱で、イレギュラーな設定をものともせずにドラマを形成している。主役のソル・ギョングをはじめムン・ソリ、キム・ヨジンら脇の面子も含め、皆好演だ。

 ラスト、これから待ち受ける苦難の人生を知らずにガールフレンドに向かって夢を語るヨンホの姿は本当に素敵だ。その夢や希望が脆くも崩れ去ってしまうまでそう時間は掛からないのだが、だからこそ、その瞬間の輝きが掛け替えのないものになる。鑑賞後のインプレッションは苦いが、決して絶望的な気分にはならない。広く奨めたい映画である。
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「イロイロ ぬくもりの記憶」

2015-01-09 06:37:20 | 映画の感想(あ行)

 (原題:爸媽不在家)第66回カンヌ国際映画祭におけるカメラドール(新人監督賞)受賞作だが、正直それほどの映画だとは思えない。主要アワードを獲得した作品が、必ずしも良質であると限らないことを如実に示しており、出来としては“中の下”である。

 舞台は97年のシンガポール。小学生のジャールーは共働きの両親とともに高層マンションに住む一人っ子であるが、言うことを聞かないワガママな問題児だ。ある日、フィリピン人のテレサが住み込みのメイドとしてやってくる。もちろん最初はテレサを邪魔者扱いするジャールーだったが、マジメに仕事をこなす彼女に、彼は次第に懐いていく。一方、ジャールーの父親はアジア通貨危機による不況でリストラに遭い、しかもそれを家族に言い出せない。母親の勤め先でも従業員の解雇が頻繁に起こり、殺伐とした雰囲気が漂い始める。

 この映画は、各モチーフをいわば箇条書きで列挙しているだけだと感じる。ヒネた子供と、あまり教育熱心だとは思えないその両親と、慣れない環境に放り込まれた他国出身のメイド。一方では東南アジア全域にダメージを与えた通貨危機があり、それ以前にシンガポール国民を取り巻く特異な環境がある。作者はこれらの項目を有機的に結合させて映画的興趣を創出しなければならないはずだが、そのあたりが不十分。

 ジャールーとテレサはいつの間にか“何となく”仲良くなるし、母親はその関係に複雑な思いを“何となく”抱き、父親は逆境を“何となく”やり過ごそうとする。要するに、登場人物達の内面と関係性にまったく肉迫しておらず、状況描写だけでお茶を濁しているのだ。こんな調子で終盤にお涙頂戴的なシーンを用意してもらっても、鼻白むばかりである。

 とはいえ、これが長編デビューとなるアンソニー・チェンの演出には、大きな破綻は無い。複数の公用語が存在し、状況によって使い分けるシンガポールの国民性や、アジア通貨危機の深刻さを伝えていることは評価しても良いだろう。しかし、それがドラマの面白さにまるで繋がっていないことに不満を覚える。各キャラクターに魅力が備わっておらず、感情移入出来る登場人物がいないのも愉快になれない。特に、本国に子供を残しており何かと屈託の多いはずのテレサの描き方が淡白であるのは致命的だとも言える。

 失職した夫が、妻にその事実を告げられずに悩むというネタならば黒沢清監督の「トウキョウソナタ」があり、異国で働くフィリピン人メイドの苦労を描くならばマリルー・ディアス=アバヤ監督の「マドンナ・アンド・チャイルド」があるが、この映画はそれらに遠く及ばない。それほど積極的には奨めたくはない作品だ。
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「エネミー・オブ・アメリカ」

2015-01-08 06:37:21 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Enemy Of The State)98年作品。別に何てこともないハリウッド製大味サスペンスなのだが(何しろプロデューサーがジェリー・ブラッカイマーだ ^^;)、今から考えると多少の興味を覚える。先を見越した製作側の目の付け所は、決して悪くなかったということだろう。

 首都ワシントンに住む弁護士のディーンは順風満帆な生活を送っていたはずだったが、ある日、偶然出会った大学時代の同級生から出所不明のビデオテープを押し付けられたことにより、彼の人生は急展開する。テープの中身は、国家安全保障局(NSA)の高官レイノルズがテロ防止法案をめぐって対立する議員を暗殺している場面だった。こうして何も知らないままNSAのターゲットになったディーンは、NSAの情報管理システムによってプライバシーを暴かれ、職まで失ってしまう。彼は過去に軋轢のあった元NSA技官で現在は情報屋のブリルに助けを求め、共にNSAと戦う決意をする。

 トニー・スコット監督らしいチラチラとした外連味たっぷりのカメラワークは鬱陶しく、展開も行き当たりばったり。上映時間は不必要に長い。さらにクライマックスの銃撃戦の段取りが、同監督の旧作「トゥルー・ロマンス」の二次使用だったのには脱力した。

 しかし、物語の設定に限ればけっこう面白い。地球上のどこにいようと、巨大システムから監視されているという気色悪さ。たとえば特定秘密保護法なんかが極端に拡大解釈されると、ひょっとしてこんな社会になってしまうのではないかという、苦々しい思いがこみ上げる。主人公たちが、悪者と同じ方法で仕返しするのも象徴的だ。

 主演のウィル・スミスは可もなく不可もなしだが、ブリルに扮するジーン・ハックマンは儲け役だ(昔、コッポラ監督の「カンバセーション/盗聴」で彼が演じた役柄に通じているあたりも面白い)。ジョン・ヴォイトも悪役を演じさせると凄味が出てくる。トレヴァー・ラビンの音楽も好調だ。
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「寄生獣」

2015-01-07 06:27:57 | 映画の感想(か行)

 退屈せずに終わりまで観ることが出来た。もっとも、本作は“パート1”であることは鑑賞前から承知していたので、これ一本で完結していなくても腹は立たない(まあ、それを知らなかったら少しはムカついたかもしれないが ^^;)。時間潰しにフラリと映画館に入って向き合うには(グロ描写が苦手な観客を除けば)適当なシャシンであると思う。

 ある日どこからか謎の寄生生物が来襲し、多くの人間の脳を乗っ取り、宿主を異形のものに変化させる。そしてその並外れた戦闘能力で人間を捕食していくのだった。平凡な高校生である泉新一もその生物に乗っ取られそうになるが、とっさの判断により脳への侵入は防ぐ。ところがパラサイトは右手に宿ってしまい、とりあえず“ミギー”と名乗ったその生物と彼は奇妙な共同生活を送るハメになる。他のパラサイトは、そんな特異な状態にある新一とミギーを危険分子と見なし、両者の間で激しいバトルが展開。さらに新一の通う高校に、新任教師の田宮良子と転校生の島田秀雄という、二体の寄生生物の化身が乗り込んでくる。

 よく考えると設定には随分と無理がある。寄生生物の出自が分からないのには目をつぶるとしても、何のために人間世界に侵入してきたのか不明だ。繁殖や生命維持が目的ではないようで、劇中で“とにかく人間の数を減らす”というような存在意義も示されるみたいだが、何やら取って付けたようである。

 ミギーにしても、脳ではなく右手に寄生したからああなったと説明されるが、ならば他の個体も脳以外に取り憑いて様子を見るという方法もあったのではないかという疑問も残る(笑)。同じような題材ならば、ロバート・ロドリゲス監督の「パラサイト」の方が、まだ筋が通っていたのではないだろうか。

 しかしながら、山崎貴のリズミカルな演出と効果的な映像処理は、多少の作劇の不備もカバーしてくれるほど達者である。新一がミギーの影響を受けて(ダーク)ヒーローとして脱皮するという、いわばシンプルな図式を押さえておき、あとは筋書きを滞りなくサクサクと進めておけば、観る側にとってのストレスは少ないという計算だ。SFXは(もちろんハリウッド作品ほどカネを掛けられないが)なかなか頑張っており、格闘場面のスピード感と段取りの上手さは高いレベルを達成している。

 主演の染谷将太は独特のふてぶてしさが活きており、当初はイレギュラーな状況に戸惑うも、やがて開き直って戦いに身を投じるようになるあたりが違和感なく表現されている。田宮良子に扮する深津絵里も、珍しく回ってきた悪役を楽しんでいるようだ。

 しかし、一番印象に残ったのは島田秀雄を演じる東出昌大である。典型的な大根である彼の持ち味を逆手に取り、棒読みセリフも映えるパラサイトの不気味な雰囲気を醸し出していて絶品だ(爆)。

 続きはパート2で確認することになるが、観てみたい気になる。なお、断っておくが、私は有名な元ネタのマンガを読んでいないし今後読む予定も無い。だから“原作と比べてどうのこうの”という感想は述べられないが、そもそも映画化作品を原作との比較を中心にして批評することにあまり意味があるとも思えない(まあ、やるのは自由だが)。映画は、それ自体が独立した表現物として取り扱うべきである。
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