元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ナイト&デイ」

2010-11-03 06:45:13 | 映画の感想(な行)

 (原題:Knight and Day)意外にも(笑)、楽しんで観ることが出来た。トム・クルーズが組織に追われるナゾのエージェント役で、それに巻き込まれる女がキャメロン・ディアス。どう考えても中身がスッカラカンのお気楽活劇になりそうな雰囲気のシャシンだが、これがなかなか侮れない仕上がりなのだ。勝因は、作者の“これでいいのダ!”という開き直りであろう。

 騒動の発端が“永久的なエネルギー源”の争奪戦ということになっているが、物理的に言ってそんなテクノロジーは存在しない。かくもトンデモなシロモノをいけしゃあしゃあと物語の重要小道具にしていること自体、作り手の割り切りが感じられて潔い。つまり“これは最初から最後まで、単なる与太話なのですよ”と宣言してしまっているのだ。

 トム君は脳天気の極みのような役どころだが、これがまた彼の資質にマッチしている(笑)。また、作者も“彼はこんな役が一番似合っている”と完全に見切っているのだと思う。キャメロン嬢も負けずに脳天気で(爆)、最近シリアス路線に傾いていた彼女(まあ、それはそれでサマになるのだが ^^;)を本来のキャラクターに戻したような清々しさが充満している。

 さらに、ヘンに社会派ぶったようなネタが出てこないこともアッパレで、現実と完全に遊離したストーリーであることを強調。こういう盤石な(?)設定だからこそ、どんなに荒唐無稽なモチーフが出てこようとも許してしまうのだ。

 ジェームズ・マンゴールドの演出はテンポが良く、何のストレスもなく映画を追うことが出来る。よく見たらSFX処理なんか現在のレベルからすればあまり上等ではない。しかし、そこは“愛嬌”として受け取ってもらえるだけの御膳立てが整えられている。

 舞台もアメリカから始まって南の島やオーストリア、さらにはスペインとワールドワイドであり、まるで「007」シリーズのノリである(そういえば「007」をパクッたようなアクション場面も散見される)。もちろん、観光気分も十分味わえる。

 出てくるギャグにハズしたところがないのも嬉しく、主演二人のやりとりには大いに笑わせてもらった。トム・クルーズが中途半端な筋立ての「ソルト」の主演を蹴って、本作に専念したのもよくわかる。とにかく、絶好のデート・ムービーだ。娯楽映画はかくありたい。
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「28日後...」

2010-11-02 06:39:58 | 映画の感想(英数)
 (原題:28 Days Later )2002年作品。ウイルスによって人類のほとんどがゾンビ化した世界を舞台に、主人公(キリアン・マーフィ)と生き残りったわずかな人間たちによるサバイバル劇が展開する。

 秀作「スラムドッグ$ミリオネア」より前のダニー・ボイル監督の作品に感心したことは一度もない。「トレインスポッティング」にしろ「ザ・ビーチ」にしろ、極めて薄っぺらな描写だけで“人間なんて、所詮こんなものだ”と一人達観し、同時にそれのアンチテーゼとして“希望を持った人物像”をこれまたイージーに差し出すのみ。この作家の頭の中には“低レベルの人間洞察による二者択一”しか存在しないのであろう。

 ただし、デビュー当時から映像感覚だけは独特のものがあるのは認める。だが、このホラー編ではゾンビ化ウィルスにより荒廃したロンドンの風景や荒々しいカッティングといった見せ場が、デジカム使用の薄汚れた画像によって全て台無しになっており、特に暗い場面での色の潰れは無惨の極みである。自己の唯一の長所を放棄するとは、一体何を考えているのだろう。

 作劇の低調さはいつもの通り。わずか28日で政府もマスコミも消滅させてしまい、それを登場人物の誰もが疑問に思わないというバカバカしい設定の中を、ステレオタイプで頭の悪そうなキャラクター達がウロウロするだけの映画だ。参考にしたというジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」シリーズの足元にも及ばない。

 しかも、一通り映画が終わった後、周囲からの要望により一端ボツにした別の結末をエンドクレジットの後にくっつけるという無様なマネを容認したのだから呆れてしまう。いずれにしても、この頃のボイル作品は観る価値はない。
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「終着駅 トルストイ最後の旅」

2010-11-01 06:30:50 | 映画の感想(さ行)

 (原題:The Last Station)物語の組み立て方に難のある映画だ。ロシアの文豪トルストイの死につながる最後の家出の真相を描くマイケル・ホフマン監督作品だが、トルストイの秘書になった青年ワレンチンの視点からドラマを追っていること自体が敗因である。もっとも、狂言回しのような第三者から物語を綴ることには異存がない。問題は、その第三者の扱い方が中途半端である点だ。

 1910年、トルストイの文学と思想に心酔するトルストイアン(トルストイ主義者)のワレンチンは、トルストイの個人秘書に採用されたことを喜ぶが、上司のチェルトコフに命じられたのはトルストイ夫人のソフィヤの言行を監視して報告することだった。世界史上の“三大悪妻”の一人とされるソフィヤは、トルストイの理念を無視して金儲けだけに執心した女だと言われる。

 だが、映画の中ではトルストイ夫妻は明らかに愛し合っている。だからこそ、ちょっとした認識の違いで溝が深くなってしまうのだ。この複雑な関係を描くには、トルストイの理想と現実主義のソフィヤとの確執に厳しく迫らねばならない。それを第三者の目を通して叙述するのならば、その第三者はトルストイ夫妻の深く関わり合って両者の立場を良く知る人間か、あるいは全然関係のない傍観者に現象面だけのリポートをさせて、結論を観客に任せるかのどちらかにすべきであろう。

 ところが、ここでのワレンチンの立場は妙に煮え切らないのだ。トルストイ主義に心酔はしているが、実のところ世間知らずの若造でもある。トルストイ夫妻に表面的には仲良くしてもらっているものの、付き合いが浅いので懐には飛び込めない。要するに、どうでもいいキャラクターなのだ。

 その“どうでもいい奴”の描写が必要以上に長い。トルストイが村に作り上げたコミュニティ内で、若い女と懇ろになるとかいった微温的なエピソードが並ぶだけ。もちろん、トルストイ主義の何たるかは全く語られない。

 どうしても第三者の立ち位置が必要ならぱ、事業補佐担当のチェルトコフをそれに据えれば良かったのだ。夫妻に深く関わってきた彼ならば、本人達とは別の視点で主題を見つめることが出来て、またそれを観客に納得させるだけの作劇に貢献したと思う。

 トルストイに扮したクリストファー・プラマーとソフィヤ役のヘレン・ミレンはさすがに上手く、脚本の浅さをある程度はカバー出来ていたとは思う。音楽も映像も申し分ない。ただ、舞台がロシアなのに全員が英語で話していること自体がどうにも愉快になれない(笑)。製作にロシア資本も入っているのだから、ぜひとも本場のキャストで映画化すべきであったろう。
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