元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ」

2010-11-20 06:43:41 | 映画の感想(な行)

 (原題:Nowhere Boy )ジョン・レノンが十代の頃を描いた伝記映画だが、主人公の才気を前面に出した作品だと思って観ると肩透かしを食らう。ジョンに扮するアーロン・ジョンソンは身のこなしにキレがなく、楽器演奏の手ほどきも他人から粛々と受けるのみ。とても後年世界を席巻した逸材には見えない。トーマス・ブローディ・サングスターが演じるポール・マッカートニーの方が、遙かに異能ぶりを発揮している。とにかく音楽ファンには物足りない内容だろう。

 だが、映画の焦点がジョンの産みの親と育ての親との確執であることが分かると、俄然興趣が増してくる。ジョンには2人の母がいた。主に育ててきたのは義母である。しかも義母は実母の姉であり、伯父が急死するまでジョンは実母が健在で近所に住んでいることを知らなかったのだ。

 実母に急接近するジョンだが、彼女はまるで彼の姉のように若々しく、陽気で音楽好きだ。ジョンの音楽への傾倒は実母の影響が大きかったのである。正直言って、2人の母の間で揺れ動くジョンの葛藤にはあまり興味が持てない。設定こそイレギュラーだが、青春物の構図としては“よくある話”である。それより2人の母の描き方は監督が女流のサム・テイラーウッドであることも相まってか、とても辛辣でリアリティがある。

 開放的な性格の実母(妹)は、実は身持ちが悪く、多くの男性遍歴がある。義母(姉)はこんな親に息子のジョンは育てられないと思い無理矢理に彼を引き取るのだが、奔放な妹を内心羨ましく思ってもいる。何とか妹のように生きたいと思っても、カタい性格の自分にはどうしようもない。それは妹も同じことで、堅実な生活を築いている姉のようになりたくても、今さらキャラクターは変えられない。

 そんな風に長年ソッポを向いてきた2人が、ジョンの成長により何とか和解へのきっかけを掴もうとするプロセスは、かなり説得力がある。姉妹を演じるクリスティン・スコット・トーマスとアンヌ・マリー・ダフの演技は素晴らしく、たぶん実際の彼女たちもこんな具合にジョンに接していたのだろうと思わせる存在感を獲得している。

 特に実母とジョンの関係性は、のちに年上のオノ・ヨーコと一緒になり新たな表現方法を会得していくジョンの行く末を暗示しているようだ。音楽の使い方は控えめだが、それでも当時のヒットを散りばめた選曲は、ビートルズの音楽的ルーツをも示していて印象的である。
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「カルテット」

2010-11-19 06:29:34 | 映画の感想(か行)
 2001年作品。作曲家の久石譲が映画監督に初挑戦した映画。音楽を通じて人生を切り開こうと奮闘する4人の若者を描く。正直言って、久石譲の監督としての腕は大したことがない。ドラマが未整理の上に上映時間が長く、クライマックスに至るくだりも段取りが悪く盛り上がらない。

 ただし、村上龍だの石井竜也だのといった過去に異業種の者が映画に手を出した例と比べるとかなりマシ。少なくとも“映画”にはなっている。また、音楽関係者だけに演奏シーンの処理は抜かりがない。

 音大出身の主役4人を演じるのは袴田吉彦、桜井幸子、大森南朋、久木田薫だが、久木田を除く3人がまったくの素人。しかし特訓の成果か、本人達が実際に演奏しているかのように見せているのはさすがである。

 個人的には彼等が練習もかねて日本中のイベント会場や公共施設をドサ回りするシークエンスが好きである。そこで「キッズ・リターン」や「HANA-BI」といった久石の代表作が弦楽四重奏バージョンで演奏されるが、これがなかなかの聴き所である(特に「となりのトトロ」のテーマが流れる場面は素晴らしい)。

 異業種監督としてのハンデを、愚直なまでに自分の“得意分野”に専念することにより何とかカバーした作品ということになろうか。映像も美しく、まあ観て損のない映画ではある。
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「義兄弟」

2010-11-18 06:55:27 | 映画の感想(か行)

 (英題:SECRET REUNION)かなり面白く観た。映画には“バディムービー”というジャンルがある。立場のまったく違う者達が何かの事情で一緒に行動しなきゃならない状況に追い込まれ、反目し合いながらも連帯感を高めていくというパターンの作品で、その中には傑作もけっこうある。本作はその“バディムービー”の基本的な図式をもう一捻りしているのがポイントが高い。それは、双方が相手の正体を知っているが、相手が自分の正体に気付いているとは思っていないという点である。

 北朝鮮から“影”と呼ばれる凄腕の殺し屋が韓国に潜入。韓国情報院のイ・ハンギュは“影”を追うが、紙一重の差で凶行を防ぐことが出来ない。しかも自らのスタンド・プレイを咎められて情報院を解雇されてしまう。

 数年後、私立探偵として外国人相手のヤバい仕事を請け負うようになったハンギュは、捜査現場で“影”のアシスタントをしていた北朝鮮工作員のソン・ジウォンを見付ける。いまだ逃走中の“影”のシッポを掴むため早速ジウォンに接近して仕事仲間に誘う彼だが、ジウォンもハンギュの顔を忘れてはいない。かくして“相手はオレの正体に気付いていないはずだ”と思い込んでいる二人の、山あり谷ありの珍道中が始まる。

 ハンギュに扮するソン・ガンホとジウォン役のカン・ドンウォンの好演が光る。猪突猛進型だが憎めないキャラクターを演じさせれば、ガンホの右に出る者はいないだろう。さらにオフビートさと時折ギラリと輝く情念の深さをも感じさせ、人物像に奥行きを与えている。今までトレンディ俳優(死語 ^^;)としか思っていなかったドンウォンも、端整な顔立ちの中に家族と分断された悲しみと行き場のない怒りを秘めたような、抑制の効いた演技でアピール度が高い。

 チャン・フンの演出はテンポが良く、最後までドラマ運びに淀みがない。ギャグの振り方も万全であり、主人公二人のトンチンカンなやり取りには笑わせてもらった。終盤のバトルシーンから鮮やかな幕切れまで、存分に楽しめる。

 それにしても、かつて南北工作員同士の仁義なき戦いを描いた「シュリ」の頃とは、朝鮮半島情勢が違っていることを思い知らされる。もはやあの映画のように単純な二者択一で割り切れるような次元の話ではないのだ。さらに主人公2人が探偵として引き受ける仕事が、ベトナムから韓国に連れてこられて逃げ出した外国人花嫁の捜査というのも象徴的で、グローバルな問題を内包した東アジアの状況が垣間見える。その意味でも観る価値はあるだろう。
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諏訪哲史「アサッテの人」

2010-11-17 06:37:29 | 読書感想文
 第137回芥川賞を獲得した小説だが、最近読んだ本の中では一番つまらない。作者はいったい何が楽しくてこれを書いたのか、誰に読ませるつもりだったのか、まるで分からない。本作はどういうわけか群像新人賞も受賞しているが、現在における純文学の存在価値について思わず考えてしまった。

 普段より奇行が目立っていた叔父がとうとう失踪。主人公はアパートに残された叔父の日記を見つけ、改めて彼の人となりを検証してみる・・・・という筋書きはあって無いようなものだ。最初の1頁から予防線を張りまくったような言い訳がましいフレーズの連続で萎えてくる。

 だいたい、物語の重要モチーフである叔父のキャラクターについて何も述べられていないのだ。単に“ヘンな人だった”という上っ面の(言葉だけの)描写しかない。その変人ぶりを印象付ける箇所は皆無。少なくとも劇中に出てくる“チューリップ男”のような具体的描出がなければ、読者は納得しない。

 その“チューリップ男”というのは、エレベーターの監視係が目撃した人物。一見普通のサラリーマンだが、エレベーターで内で一人きりになると頭上に両手でチューリップの花の形を作ったり、はたまた逆立ちしたりと常軌を逸した行動に出る。そして扉が開くと何もなかったような表情で出て行くのである。

 ストレス過剰か、はたまた周囲とのコミュニケーション不足か、いずれにしろ相当な屈託を抱えた人間であることが窺える。まるでパゾリーニ監督の「サテリコン」の登場人物のような破滅願望を持つキャラクターであり、実に分かりやすい。その“分かりやすさ”が主人公や彼の叔父には見当たらない。まるで読み手に対して“アサッテの方向”を指し示しているようだ。

 文章自体もメリハリがなく無為に流れるのみ。こんなのは読んでいて疲れるだけである。さらには終盤にかけて現れる掟破りのケレン味に至っては、これはもう文学でさえあり得ない。ただの悪ふざけだ。とにかく、楽しもうと思って小説を手にする者(私も含む)にとって、まったく縁のない書物だと断言して良いだろう。
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「さらば愛しの大統領」

2010-11-16 06:31:45 | 映画の感想(さ行)

 まったく面白くない。全然笑えない。(古い表現で恐縮だが ^^;)静まりかえった観客席の間を飛び交うシラケ鳥の大群を前に、いたたまれない気持ちになってくる。一部に“すごく笑える!”との評もあるようだが、感受性というのは人それぞれなのだなァと諦観するしかない。まあ、正直言ってこの映画を観て爆笑の渦に巻き込まれたような人間とは、あまり話すこともないとは思う(呆)。

 大阪府知事選において泡沫候補扱いされていた世界のナベアツが、なぜか当選。調子に乗って独立国家宣言を強行し“大阪合衆国”初代大統領に就任してしまう。ところが暗殺予告が届き、大阪府警随一のアホコンビ・早川刑事(宮川大輔)と番場刑事(ケンドーコバヤシ )が捜査に乗り出す・・・・といったストーリーはあってないようなものだ。全編これ“一発ギャグ”の連続。

 最近は一発芸を売り物にしたお笑い番組が減っていることでも分かるように、大衆マクロの嗜好としてはストーリー性のある話術が芸人には求められているようだ。つまりは“一発ギャグ”の羅列自体が“古い”のだ。

 しかも、ここでギャグのレベルは限りなく低い。テレビの(今はもう終了した)「爆笑レッドカーペット」や「エンタの神様」なんかの方がよっぽどマシだ。同じ吉本系の笑いにしても、よしもと新喜劇の足元にも及ばない。

 吉本芸人の他にも吹石一恵や釈由美子、大杉漣、志賀廣太郎、前田吟、仲村トオルといった“フツーの俳優”も顔を見せているのだが、彼らが気の毒になってくるほどだ。

 監督は柴田大輔とナベアツ自身。ナベアツは演出は初めてとはいえ、放送作家として実績を積んでいるという話だから、この惨状に対しての言い訳は出来ないはずだ。ましてや冒頭での“アホに成り切って観て下さい”との但し書きは、何かの悪い冗談としか言いようがない。アホに成り切らないと観られないのならば、最初から“アホ以外は入場禁止”とでも明言しておけば良かったのだ。

 それにしても、表面上は“大阪を愛している”というポーズを取っていながら、実は大阪を一番バカにしているのはナベアツ自身なのかもしれないという気もする。ちなみに彼は大阪府出身ではない。
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ピアノのリサイタルに行ってきた。

2010-11-15 06:24:51 | 音楽ネタ

 先日、久々にクラシックのコンサートに出掛けてみた。ピアノのリサイタルで、演奏者は昨今意欲的な活動を続けている河村尚子だ。演目はバッハのコラールとベートーヴェンのピアノソナタ第18番、ブラームスの4つの小品、そして今年生誕200年を迎えたショパンのピアノソナタ第2番およびマズルカとスケルツォからの選曲である。

 最初は“音色は明るいがタッチが軽いかな”と思っていたのだが、このピアニストは演奏が続くにつれて徐々にエンジンが掛かってくるタイプらしく、ベートーヴェンの後半の楽章あたりから安定感が出てきてピラミッド・バランスに落ち着いてくる。

 コンサートのハイライトはショパンの2番だと思うが、私が感心したのはブラームスだ。陰影に満ち、ノスタルジックな雰囲気に溢れるこの曲を実に滑らかに弾きこなしている。この作曲家の真骨頂はオーケストラ物よりも室内楽曲や器楽曲にあると思っているが、決して重たくならずに哀愁に満ちた旋律を浮き彫りにしており、曲想の奥深さを伝える良好なパフォーマンスであった。

 ただし、もうちょっと一般にアピール出来るような明るい曲を持ってきた方が楽しめたと思う。ショパンの2番は有名なナンバーだが、葬送行進曲で知られるように沈んだ曲だ。ベートーヴェンにしても、18番は地味である。同じ時期のベートーヴェンの作品ならば17番とか21番のようなポピュラーな楽曲を取り上げて欲しかった。

 それにしても、会場になった福岡銀行本店大ホールは客席の階段が急勾配である。高年齢層の観客にとっては辛いのではないかと、いらぬ心配をしてしまった。

 なお、河村は色白のファニーフェイス。オジサン層にウケそうなルックスではある(笑)。技巧面では確かなので、もしも彼女の新譜が出たらチェックしておきたい。
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「雷桜」

2010-11-14 06:47:52 | 映画の感想(ら行)

 作品のコンセプトが中途半端だ。ちゃんとした時代劇なのか、単なるファンタジーなのか、まるで判然としないまま終わってしまう。廣木隆一監督はこういう“ヅラもの”を撮るのが初めてであるのに加え、本来上手い演出家ではないことも相まって、煮え切らない結果になってしまった。

 19世紀前半、徳川将軍・家斉の十七男である清水斉道は幼い頃の母親による虐待が原因でメンタル的障害を負っていた。静養のために家臣の瀬田助次郎の故郷である江戸近郊の瀬田村に一時滞在した彼は、そこで地元民から“天狗”と呼ばれる野生の娘と偶然出会い、恋に落ちる。彼女は実は赤子の頃に誘拐された助次郎の妹で、庄屋の娘の遊だった。育ての親であった田中理右衛門とも別れた彼女は山から里へ降りることになるが、どうもそこの暮らしには馴染めない。そんな中、斉道の命を狙う一団が暗躍し始める。

 山の中のシーンに違和感があると思ったら、ロケ地は沖縄らしい。わざわざそんな場所で撮るからには通常の時代劇とは一線を引いたおとぎ話のタッチで映画を進めたいのかと思ったが、斉道の周囲の人間模様は従来通りの時代劇調なのだから、観ていて居心地が悪い。しかも、事の原因となった藩同士の勢力争いも、斉道が抱く屈託についても、表面をなぞるのみ。まったく深みがない。

 日本版「ロミオとジュリエット」との触れ込みなので、映画の主眼はラブストーリーであることは分かるが、これがヘンに現代風なのだ。少なくとも、チョンマゲを結ったまま“愛している”などという浮ついたセリフは吐いて欲しくない。

 廣木監督の仕事は相変わらずテンポが悪く、1時間半程度でサッサと終わりそうなネタを、段取りが悪いおかげで2時間以上も引き延ばす結果になってしまう。安手の書き割りのような“雷桜”のセットをはじめ、画面に隙間風が吹きまくっている。

 斉道に扮した岡田将生はここでも大根で、心に傷を抱えた悲運の若侍にはまるで見えない。家老役の柄本明も頑張ってはいたが、話がこんな軽量級では空回りしている感がある。時任三郎や大杉漣、池畑慎之介、坂東三津五郎といったキャストも十分動かしていたとは言い難い。

 唯一良かったのが、ヒロインを演じる蒼井優。表情や声の質を微妙に変えることによって、キャラクターの内面にグッと迫る表現力を発揮しているのはさすがだ。立ち回りシーンに見られる身体能力の高さは言うまでもない。ハッキリ言って、彼女が出ていなかったら途中退場していたようなレベルのシャシンである。
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最近購入したCD(その21)。

2010-11-06 06:47:41 | 音楽ネタ
 ザ・ビートルズのディスクを買ってみた。実は、私はビートルズのレコード及びCDを購入するのは初めてである。私はいわゆるビートルズ世代には属していない。ポップスやロックに興味を持ちだしたのは70年代半ばだが、その頃ビートルズはとうの昔に解散していた。

 もちろん、ビートルズにハマっていた奴は周囲にけっこういて(もちろん、リアルタイムではなくグループ解散後に彼らの楽曲を好きになった連中だ)、私もそいつらから無理矢理に(笑)聴かされたクチなのだが、現在進行形のサウンドを追うのに手一杯だった私に、そんな“過去のバンド”を振り返る余裕はなかった。それだけ当時のミュージック・シーンは面白すぎたのだ。



 さて、ニルヴァーナの登場に始まった激動の90年代が終わり、21世紀に入ってロック・シーンに目立った大きなムーヴメントも見当たらない現在、やっと昔の音源をチェックする気になってきた。以前のアーティクルでも古いロックのCDについて述べたが、今回なぜビートルズかというと、去年(2009年)から最新リマスターによるディスクが出回り始めたからだ。購入したのは「ザ・ビートルズ 1962~1966」(通称:赤盤)と「ザ・ビートルズ 1967~1970」(通称:青盤)の2枚のベスト盤である。昔からのファンならば全てオリジナル・アルバムで揃えるところだろうが、それほどの思い入れのない私にとってはベスト盤で十分だ。



 楽曲自体はお馴染みのものばかりなので、特段コメントする必要もない。印象的なのは、音質の方である。あらためて聴いてみると、マスタリングの重要性というものを痛感する。従来の音源とは明らかに違うのだ。楽器の定位がまるで異なっている。音像自体も鮮明だ。それだけ当時のメンバーが、どういう姿勢でレコーディングに臨んだのかを垣間見ることが出来る。

 たまたまビートルズという超メジャーなバンドであるからこそ、こういう念の入ったマスタリングが可能だったと思うが、古い録音でも手を加えれば現在に通じるアピール度とセールスを実現させることを証明した好例であろう。今後は別の往年の有名ミュージシャン達の音源も掘り起こして欲しいものだ。

 クラシックの旧盤も一枚紹介したい。テレマンのパリ四重奏曲集(第一番~第六番)である。演奏は寺神戸亮のヴァイオリンと上村かおりのヴィオール、クリストフ・ルセのチェンバロ、そして有田正広のフルートによるアンサンブルだ。使われているのは通常の楽器ではなく、すべて作曲当時のものを再現したオリジナル楽器である。92年録音。



 発売当初は「レコード芸術」誌の特選にエントリーされた有名盤だが、私は聴くのは初めてだ。どうして今回買う気になったのかというと、この頃のDENONレーベルの作品群が廉価盤として再発されたからである。しかも、CDの高音質規格の一つである「Blu-SPEC CD」仕様だ。前にも紹介したようにこの仕様はSONYの考案だが、昔はデジタル録音方式でのライバル関係にあったDENON(日本コロムビア)とSONYのテクノロジーがこういう形で手を結ぶとは、実に意外である。

 内容については、素晴らしいの一言である。テレマンという作曲家はバッハやヴィヴァルディといった他のバロック時代のコンポーザーに比べれば地味な印象があるが、この演奏はテレマンが稀代のメロディ・メーカーであることを見事に立証している。録音も文句の付けようがない。横方向と奥行きの音場は広大で、音像はどこまでも滑らかだ。同じ演奏者によるハンブルグ版の「6つの四重奏曲」という本作の続編みたいなディスクもあるが、機会があればそれも聴いてみたい。
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「桜田門外ノ変」

2010-11-05 06:32:09 | 映画の感想(さ行)

 この、全編を覆う安っぽさに辟易してしまうような映画だ。これは何も、大沢たかおという大根役者が画面の中央にいるからだけではない。どうも作り手の“こころざし”というか、素材を掘り下げる力量レベルが低いようなのだ。

 それは、冒頭と終盤に映される現在の桜田門外の様子に象徴される。ラストなんか国会議事堂のアップで終わってしまう。これはたぶん、本編の図式を現代の日本に当てはめ、高々しく憂国のシュプレヒコールを上げようという魂胆だろう。しかし、事はそう簡単には行かないのだ。当時と今とでは状況が違う。

 確かに桜田門外で大老を手に掛けた者達は“日本を何とかしなければならない!”という切迫した心境にあったのだろう。一方の井伊直弼だって同じことで、日本のために西欧列強とギリギリの妥協点を探っていたのだ。ところが、両者の所業は結果として多くの流血沙汰に繋がってしまう。国を守ろうと言いながら、そのために少なくない犠牲者が出てしまうシチュエーションなど、現代では決してあってはならないのである。

 テロの応酬に終始した幕末の日本を引き合いに出して、現在において憂国の士が払底していることを嘆く作者達の姿勢は底が浅い。今の日本に必要なのは武力行使も辞さないイデオロギーの跳梁跋扈ではなく、国全体の最小不幸を目指した現実的な方策である。わざわざ幕末の志士に御登場願う必要はないのだ。

 さらに愉快になれないのは、こういう“我々は立派な主題を掲げているのだ”という思い上がりによる、いわゆる“上から目線”がそこかしこに感じられることだ。映画が始まってからの説明的シークエンスやナレーションの何と多いことか。歴史的背景など紹介してもらわなくても、カタギの観客ならばそれぐらい分かっている。まるで“分かっていないだろうから、説明してやる”と言わんばかりの不遜な態度が見え見えではないか。

 こういう感心しないスタンスを取っているからなのだろう、内容も映像もまるで深みがない。殺陣は大したことはないし、セットなんかまるで書き割りのようだ。ただ“こうなりました”という筋書きを追っているだけ。良かった点と言えば事件を起こした元水戸藩士達の“その後”が分かったということぐらいだろうか。まあ、そんなことは映画を観なくても文献をチェックすれば済むことなのだが(^_^;)。

 佐藤純彌は出来不出来の幅の大きい監督だが、今回は明らかに失敗作だ。脇には柄本明や北大路欣也、伊武雅刀といった面子を揃えているのに、実にもったいない話である。
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「ホテル・ハイビスカス」

2010-11-04 06:37:18 | 映画の感想(は行)
 2002年作品。沖縄を舞台にしたコメディ「ナビィの恋」(99年)が大好評だった中江裕司監督作品。またしても沖縄の風土をバックに、超オテンバな女子小学生とその家族の非凡な日々をスケッチ風に追う。

 感想だけど、まったくダメ。なぜ「ナビィの恋」があれほど面白かったかというと、沖縄出身ではない中江監督が“部外者の立場”を崩さず、沖縄独特の風俗を取り入れながらも、それらと距離を置きつつ、“面白い恋愛コメディを作ってやろう”という初志を貫徹したから。つまりは“素材に淫すること”を拒否して普遍的なコメディ映画の王道を歩んだことが大きかったから一般の観客にアピールできたのである。

 ところがこの作品は“沖縄の精霊”だの“戦時中の哀しい歴史”だのといった“沖縄独自のモチーフ”に必要以上に接近し、それにドップリ浸かってしまっている。肝心の話はといえば、毒にも薬にもならない微温的なものばかり。要するに凡百の“沖縄エキゾチック映画”と同じ。冒頭に出てくる行き倒れ同然でホテル・ハイビスカスにたどりつく本土の若者の扱いが極めていい加減なのがそれを象徴していよう。

 我々は“部外者による沖縄かぶれの映画”など観たくはないのだ。まっとうな娯楽映画を観たいのだ。部外者のくせに“利いた風な口を叩くな”ってのが正直な感想である。

 なお、公開当時に評論家連中が誉め上げていた子役の蔵下穂波だが、私には単なる“うるさいガキ”にしか思えなかった。もっと“しつけ”が必要である。
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