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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「おっぱいバレー」

2009-05-14 06:32:31 | 映画の感想(あ行)

 監督の羽住英一郎がテレビ・ディレクター出身であるためか、いまひとつ画面が弾まない。何となく小さくまとまってしまい、映画ならではの高揚感に欠ける。これがテレビドラマだったら許せるかもしれないが、ワイド・スクリーンでは辛いものがある。

 中学校の男子バレー部の顧問を担当することになった新任女教師。ところが部員はやる気ゼロ。年中エロいことしか考えていない悪ガキどもだった。そんな彼らにハッパを掛けるつもりが、いつの間にか“地区大会で一勝したらおっぱいを見せること!”という無茶な約束をさせられてしまう。顧問としては頑張って欲しくもあり、でもそうなっては窮地に立たされることは必至。果たして彼女のおっぱいの運命は・・・・(^_^;)。

 こういうアホアホな設定を、たとえば矢口史靖や周防正行あたりが演出すれば抱腹絶倒の学園コメディに仕上がったところだが、所詮はテレビ屋の羽住ではサマにならない。それを象徴するのが、舞台が北九州市であるにもかかわらず北九弁がまったく出てこず、全編にわたって標準語で通した点だ。

 この映画の作り手は方言の持つ“魔力”が分かっていないと見える。その土地に合った言葉を使うことは、登場人物に地に足の付いた存在感を付与することになるのだ。しかも今回は、劇中にちゃんと“北九州市で撮っている”との表記がある中で、経験の少ない俳優達(特に生徒役の連中)を起用していることもあり、ここでの方言の使用は有効なツールに成り得たはずだ。

 一方、1979年という時代設定にちなんだ大道具・小道具は特筆すべきものがある。特に学校の佇まいや街の風景、ヒロインが住むアパートの生活感などはとてもよく出ていた。しかし、裏を返せばこれは“外見だけ取り繕えばそれでヨシ”とする不遜な態度にも見える。ヘタすれば「ALWAYS 三丁目の夕日」のモノマネだ。時代設定を担うのは舞台セットではなく、あくまで登場キャラクターの造型であることを理解すべきだろう。

 素材に対する及び腰のスタンスが見て取れるから、本来笑って許してしまえる作劇のアラも目立ってしまう。ド素人の集団がわずか数週間で強豪チームと渡り合えるようになるはずがないし、そもそもそんな“おっぱい云々”の口約束など一喝すれば清算できるはずだ。主人公以外の教師連中の影は妙に薄いし、彼女の昔の恋人も何しに出てきたのか分からない。肝心の試合シーンも描き方がアッサリしすぎている。これでは満足できない。

 あまりケナすのも何だから、ひとつだけ褒め上げておくと、主演の綾瀬はるかである。天然キャラの持ち味がここでも全面展開しており、彼女が出て来るだけで楽しい。逸材揃いの若手女優陣にあって“華”を感じさせる得難い役者である。しかも、着ている服がメチャクチャ可愛いし、彼女のためならエロガキ連中ならずとも頑張ってしまいたくなる(笑)。その意味では観て損はないだろう。
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「ヴァイブレータ」

2009-05-13 19:25:07 | 映画の感想(あ行)
 2003年作品。分裂症気味の女性ルポライターと孤独なトラック運転手との“道連れの旅”を描いた赤坂真理の同名小説を廣木隆一がメガホンを取って映画化。主演の寺島しのぶの大胆演技も相まって世評はかなり高かったが、私はそれほどのシャシンとは思わない。

 最大の敗因はヒロインの内面の説明が過剰なこと。モノローグはもちろん、心の中の動きまでセリフで表現し、さらには無声映画ばりの“全面スーパーインポーズ”までが頻繁に挿入されるに及んで、観ていて気分が悪くなってきた。ベテランの荒井晴彦の脚本とも思えない失態である。

 女主人公の“過去”を匂わせるフラッシュバックの多用も鬱陶しいだけで、要するに登場人物の“手の内”を全部開示してしまっており、ストーリーが文字どおり“語るに落ちる”範囲でしか動かない。ラストの処理も取って付けたようだ。もっと映像だけで物語を綴るように腐心すべきだった。

 考えてみれば、廣木監督は多作のわりに目ぼしい映画と言えば前に紹介した「夢魔」ぐらいで、良く言えば中堅、早い話が凡庸な作家の部類に入る。“この程度”が達成度として妥当なところだと評するのは意地悪に過ぎるだろうか。

 ただし、相手役の大森南朋の演技だけは素晴らしい。ヒロインと同様にセリフは多いが、本当の自分を表に出さない。ラスト近くになってようやく彼の真の姿と苦悩を垣間見せるのだが、その抑制された語り口が見事に役をこちら側に引き込んでいる。寺島は“二世俳優”として知られているが、大森も父は異能の俳優だ。今後の活躍に期待したい。
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「バーン・アフター・リーディング」

2009-05-12 06:18:01 | 映画の感想(は行)

 (原題:Burn After Reading)少なくとも退屈はしなかったが、あまり評価は出来ない。これはコーエン兄弟の旧作「ファーゴ」の焼き直しに「ノーカントリー」のテイストを織り交ぜただけのシャシンではないのか。もちろんネタの二次使用だろうが何だろうが前回よりもリファインされていれば文句はないのだが、本作に限っては緊張度が落ちているのだからどうも手放しでは喜べない。

 売り言葉に買い言葉でCIAを辞めてしまったアル中の幹部職員が書こうとした暴露本の草稿入りのCD-ROMを巡って、イマイチ知恵の足りない連中が右往左往するうちに、凶悪犯罪に発展するという筋書きだ。いつもの“人間ってやつは、愚かでどうしようもない”というヒネたコンセプトに則って、濃い面々が織りなすブラックな笑いを楽しもうという仕掛けだが、語り口は上手いもののストーリーは完全にマンネリである。

 もっとも、マンネリズムを御愛敬として受け入れれば文句も出ないのだろうが、コーエン兄弟の遣り口は愛嬌として片付けられるほど扱いやすいものではない。特に、豪華キャストにつられて劇場に入ってしまったフツーの観客こそいい面の皮である。

 ジョージ・クルーニー扮する捜査官は身勝手なだけの野郎だし、ブラッド・ピット演じるスポーツジム・インストラクターは完全なアホで、しかも思いがけず途中で“退場”してしまうという愛想の無さ(この時、一瞬客席がざわついたのには笑ったが ^^;)。フランシス・マクドーマンド、ジョン・マルコヴィッチ、ティルダ・スウィントンといったクセ者キャストを揃えて、やっぱり後ろ向きの食えない役柄を振っているのは、手練れの映画ファンならば苦笑するだけだが、一般のお客さんにとってはドン引きすること必至だ。

 無手勝流のラストなんて(約束通りかもしれないが)やはり脱力する。今回のような配役ではなく、まったく無名の俳優たちを持ってきて楽しませてくれれば、それなりの努力は買うが、どうも今回は出演している面々にネタを丸投げしているようで愉快になれない。凝った小道具の使い方も、映像面での面白さも、ロケーションの効果も(今回は首都ワシントンが舞台だが ^^;)、あまり見られない。どうにも扱いに困る映画なのである。
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「夏時間の大人たち」

2009-05-11 06:33:39 | 映画の感想(な行)
 97年作品。「下妻物語」や「パコと魔法の絵本」などで知られる“映像派”中島哲也監督のデビュー作である。“ボクは将来オッパイの大きな女の子と結婚したいです。たとえばC.Cガールズの右から2番目のコのような・・・・”という小学4年生のたかし(日高圭智)のナレーションが入ると、画面にウェディングドレス姿の青田典子(本人)が登場し、“アナタのことはとっても好きです。でも、私、さか上がりのできない人とは結婚できないの。さようなら”と言って去って行き、ここで主人公のたかしはハッと目が覚める。この爆笑もののオープニングでイッキに観客の心をつかむ演出で、1時間13分の中編ながら、実にあなどれない快作だ。

 鉄棒のさか上がりが出来ないたかしが出来るようになるまでを描くという、何ということもない題材の中に、クラスメートや彼を取り巻く大人たちの微妙な屈託やペーソスを滲ませていて飽きさせない。何よりも感心するのが、子供時代の体験が一生を左右するほど重大なものであるという視点を忘れていないことだ。子供を主人公にした映画は星の数ほどあれど、子供の性格・行動が大人になってからの生活観にどれほど影響を及ぼしているかを“真に日常的で平易なレベルで”表現している例を他に知らない。

 “さか上がりが出来ない時の話なんて、大人になれば単なる笑い話さ”なんて言っても、その当時の欝屈した感情を大人になった今でも(自覚するしないは別として)引きずっていることを否定できる者はいないはず。たかしの父(岸部一徳)はムチ打ち症で稼業の電気屋を休んでいる間、子供時代の苦い経験(これもまた爆笑もの)が頭をよぎり、不安定な行動に駆り立てられる。母(菜木のり子)も今は亡き自身の母親との少女時代の切ない思い出に浸らない日はない。

 たかしが“お父さんは子供の頃の事なんて忘れてるんだろ?”と尋ねると、父は“忘れないよ”とつぶやく。さか上がりが出来なくて四苦八苦する体験が、その後のたかしの人格に影響を与え、また大切な思い出となっていくであろう過程を淡々と、共感を呼ぶほどに丁寧に描く。

 両親の子供時代を描くパートはノスタルジアに心が震えるような演出タッチ、そして小道具、舞台セット。たかしが直面する現在の場面は、何もない空間を活かした即物的で禁欲的な構図が印象に残る(まさに子供の目が捉えた誇張のない現実だ)。子供と大人が共通に抱く人生の疑問について考えるとき、ふと等身大の自分が見えてきて、自嘲と郷愁で胸がいっぱいになる。

 随所に挿入される効果的なギャグ。特に根津甚八や石田えり、余貴美子といった豪華ゲストがトンでもない場面で登場するあたりは大笑いした。菅野よう子による音楽も素敵だ。機会があれば観て損のない佳篇である。
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「ミルク」

2009-05-10 06:52:56 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MILK)とても感銘を受けた。アメリカで初めてゲイを公表しながら公職に就いた権利活動家、ハーヴィー・ミルクの半生を描くドラマだが、監督のガス・バン・サント自身が同性愛者ということもあり、切迫度はかなり高い。つまり、ゲイをマイノリティの一種と捉えて単に“差別はいけない!”と外部から通り一遍のスローガンを連呼している映画ではなく、真に当事者としての問題意識に直結しているのである。

 そして、マイノリティの立場や権利を遵守することが、ひいては一般市民の利益に繋がることをも活写する。少数派の意見を尊重することは、多数派の不利益になることでは決してない。なぜなら、少数派だろうが多数派だろうがそれぞれが保有する“人権”は同じだからだ。時として、多数派の意見を押し通すことは全体的な人権侵害に繋がるケースが発生する。いくら多くの人々が支持する施策であろうとも、市民に負担を強いるものであっては、それは巡り回って多数派の人権をも脅かすのだ。

 この映画が現時点で製作されたことはタイムリーと言うしかない。ついこの前まで経済面での権利行使を野放しにした新自由主義は、そこに“自由”という言葉が付いている以上、規制のない活発な経済活動を標榜するものだと多くの者が思って支持した。しかし、その“自由”は一部の富裕層や勝ち組の連中だけが享受できるものであり、その他の人々は“貧困に追い込まれる自由”しかないことが分かって、そのツケを払うために今や世界中が大騒ぎしている状態だ。

 新自由主義が台頭したときに、人々が“自由”の名のもとに虐げられる層が発生することに少しでも思いを馳せていたならば、こんな事態にはならなかった。過度な自己責任万能論は、他者の人権を軽んずることとイコールだったのだ。

 こんな状況を打破するにはどうしたら良かったのか。それは劇中のミルクがちゃんと教えてくれている。他者の痛みについて知らない、あるいは知ろうとしない態度を改めること。偏見を捨て、マイノリティも多数派も同じく社会を担っている人間であることを認識すること。そして皆が幸せになれるように、希望を持つこと。ラストに描かれる、志半ばで倒れたミルクを追悼する市民の行進は、それが不可能ではないことを高らかに謳いあげている。

 ショーン・ペンは最高の演技。冒頭、いきなり若い男(ジェームズ・フランコ)をナンパするあたりの扇情的な表現力には舌を巻いたし、政治家になってからの揺るぎない信念を抱きつつ難局に対峙する存在感の大きさは申し分ない。エミール・ハーシュやジョシュ・ブローリンなど脇のキャストとも万全だ。テーマの普遍性・重大性を勘案しても、現時点で必ず観ておくべき映画であると確信する。
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「M(エム)・バタフライ」

2009-05-09 20:53:32 | 映画の感想(英数)
 (原題:M Butterfly )93年作品。デイヴィッド・クローネンバーグ監督もミョーな映画を撮ったものである。“マスター・オブ・ホラー”の異名をとる彼だが、これは柄にも合わない大失敗作だと言ってしまおう。

 1964年。北京のフランス大使館に勤務する副領事館長のルネ・ガリマール(ジェレミー・アイアンズ)は京劇の人気俳優ソン=リリンに惚れ込んでしまう。妻も捨て、頻繁にソンのところへ通うルネだが、子供が出来た時点で当局側によって引き離される。数年後、帰国したものの閑職に追いやられ、生きる張り合い失ったルネのところへ突然ソンが訪ねてくる。彼女は実は諜報部員で、フランスの国家機密を盗むためにルネに近づいたことが明るみになる。

 実話の映画化だが、話題はソン役をジョン・ローンが演じていることである。つまり、男であるソンを長年ルネは女と思い込んでいたわけで、事件が発覚した当時は国をあげての大騒ぎになったという。

 ソンをローンが演じることはすでに観客は知っており、ローンの女装もそれほど完璧ではない(ハリウッドの特殊メイク技術をもってすれば巧妙に仕上げることが可能だったにもかかわらず)。アップで見ればしっかり男だ(会うときはいつも二人きりであり、他の誰かに女装を見破られることもない)。つまり、ルネ一人だけが相手を女だと信じて疑わなかったわけで、これはクローネンバーグがいつもテーマとして取り上げる“人間の妄想の恐ろしさと滑稽さ”に添ったものだということはわかる。ところが、作者の敗因はこれを“東洋と西洋”という単純な二項対立の上で描こうとしたことである。

 誰が信じるだろう。たいして大昔でもない60年代半ばにほとんど死語となった“麗しい東洋の幻想”に溺れる西洋人の姿を。しかもこの男は大使館員である。一般人より国際情勢に通じているはずの人間がである。プッチーニのオペラ“蝶々夫人”がドラマの重要なモチーフとして扱われているが、ソンはルネに、これを“西洋人にとって都合のいい東洋人女性像”と言ってのける。にもかかわらず、彼はすっかりオペラの登場人物気取りでソンを“僕のバタフライ”などと呼ぶ。ひょっとして西洋人のアジアに対する認識のなさを風刺しようという意志があったのかもしれないが、これだけマヌケな主人公だと、風刺以前の問題。話にならない。

 ラストシーンではルネは自分でオトシマエをつけることになるのだが、「戦慄の絆」や「裸のランチ」のラストのような、人間の凶々しい深層心理の暗部を見せつけられたようなショックはない。アイアンズが熱演するほど、主人公の筋金入りのバカさ加減が浮き上がり、観ているこちらはタメ息をつくしかないのだ。

 京劇の場面や文化大革命のデモのシーンなど迫力のカケラもなく、中国人俳優の動かし方もサマにならない。何よりも英国紳士然としたアイアンズがフランス人である不思議(セリフも英語)。全体にキワ物臭く、感心したのはハワード・ショアによる音楽だけである(-_-;)。
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「ある公爵夫人の生涯」

2009-05-08 06:32:46 | 映画の感想(あ行)

 (原題:THE DUCHESS )アカデミー賞を獲得した衣装デザインが要チェックだ。18世紀後半の英国の貴族社会で実際に着られていたと思われる、絢爛豪華なコスチュームの数々。特にヒロイン役のキーラ・ナイトレイが身につけるドレスは呆れるほど手が込んでいる。彼女が演じるジョージアナ・スペンサーは当時のファッション・リーダーだったらしく、ナイトレイも着こなしには実に気合いが入っている。

 もちろん、登場人物全員の衣装にも抜かりはなく、ひょっとしたら出演者のギャラよりも衣装代の方が高かったのではないか(笑)。さらに、しっかりした時代考証に基づいた美術が観る者の目を奪う。名所・旧跡も盛りだくさんで、観た後は見栄えの良い装丁の美術全集に向き合ったような充実感を覚えた。

 さて、肝心の映画の内容だが、残念ながらこれが大して面白くないのだ。監督・脚本のソウル・ディブはどうもマジメ過ぎる。貴族社会のドロドロとした裏側をもっとケレン味たっぷりに見せて欲しかった。ジョージアナが嫁ぐデヴォンジャー公爵(レイフ・ファインズ)は結婚してからも平気で浮気に走り、果てはジョージアナの友人であるエリザベス(ヘイリー・アトウェル)と同居してしまうのだ。これは何も公爵がどうしようもないヘタレ野郎だったからではない。それどころか彼は以前の交際相手との間に出来た娘を、母親の死後に引き取るという殊勝なこともやってのける度量の広い人物だ。

 ただし、当時の貴族が結婚する目的は何かといえば、跡継ぎを作るためである。どんなに立派な家柄でも、後継者が居なければ“お家断絶”である。ジョージアナに男子が産まれないので、彼は仕方なく複数の女に手を出したのだ。ところが映画はそのあたりの葛藤を通り一遍に描いてしまう。情念も苦悩もなく、単にサッと流すのみ。これでは面白くない。

 ジョージアナと彼女が惚れ込む若手政治家との仲も、紆余曲折あった割には印象は意外なほど淡白だ。もっと扇情的に捉えても良かったのではないか。故・ダイアナ妃はスペンサー家の出身で、彼女の境遇を劇中のジョージアナに重ね合わせているのは分かるのだが、それだけでは全編を引っ張る原動力にはならない。あと一つか二つ大きな山場が必要だったかと思う。

 ナイトレイは相変わらず時代劇が似合う。ファインズも好演。ジョージアナの母親に扮するシャーロット・ランブリングもさすがの海千山千ぶりだが、ドラマ自体が何となく沈んだタッチに終始するために、あまり印象に残らないのが辛いところだ。
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柳川に行ってきた。

2009-05-07 06:23:50 | その他

 連休の一日、柳川市(福岡県)に出かけて川下りを楽しんできた。私は実家も福岡県内にあり、一時期を除いてずっと九州に住んでいるのだが、柳川市内を縦横に走る堀割を小舟で巡る名物の“川下り”には子供の時以来行ったことがなかったのだ。今回は嫁御の要望もあり、久々に足を運んだ次第である。

 天気には恵まれたが、カンカン照りの中で1時間も小舟の中でジッとしているのは堪えた。そういえば、子供の頃に行ったときはちょうど春休みだったことを思い出す。今の時期でこんな具合なのだから、真夏なんかに行くものじゃないだろう。船着き場では菅の笠をレンタルしていたが、帽子を被っていない時にはあれは必須アイテムだ(笑)。

 それにしても、堀から見る柳川の街には風情がある。川面が新緑に映えて美しい。岸沿いの民家には堀へと続く階段が備えてあり、これは昔洗濯などに使っていた名残である。あちこちで合鴨が泳ぎ、岩場ではカメが甲羅干しをしている。花菖蒲の季節はまだ先だが、岸に生えた実を付けたキンカンの木や栴檀の花などが目を楽しませてくれた。

 柳川を舞台にした映画としては、高畑勲監督の「柳川堀割物語」が思い出されるが、もうひとつ有名な作品に大林宣彦監督の「廃市」がある。あの映画のラストに登場する鉄道は、旧国鉄の今はなき佐賀線だ。柳川市には現在西日本鉄道が通っているが、昔は国鉄も走っていたのである。今でも存続していれば何か観光資源にはなったかもしれない(ちなみに、筑後川にかかる鉄橋は今では国の重要文化財に指定されている)。

 川下りを終えた後は、もちろん名物のウナギのせいろ蒸しに舌鼓を打ち(高かったけどね ^^;)。旧柳川藩主の立花氏別邸を見物した。ちょうど神社(水天宮)の祭が開催されていて人通りがかなり多く、そのせいで疲れたが、まあ充実した一日だった(^^)。
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「シリアの花嫁」

2009-05-06 06:09:43 | 映画の感想(さ行)

 (英題:The Syrian Bride)感服すべき秀作だ。第三次中東戦争により“無国籍状態”になったイスラエル占領下の村に住むモナは、シリアの男性の家に嫁ぐことになった。しかし、国境線を越えると国籍がシリアに確定してしまい、元の村には戻ることが出来ない。そういうヘヴィなシチュエーションの中で結婚式に出席した人々と、その関係者達とが織りなす群像劇を作り出した監督(製作と脚本も兼ねる)のエラン・リクリスの腕前は実に非凡である。

 何より、作劇の焦点をこういうシビアな政治的状況に丸投げしておらず、ドラマの背景のひとつとして料理している点が素晴らしい。本編はあくまでホームドラマなのである。国際問題や社会問題を扱った映画は数あれど、ヘタをすればそんな“問題”を取り上げたこと自体に満足してしまい、肝心のストーリーは完全にその“問題”に寄りかかった挙げ句に“お座なり”になる例はけっこうあるのではないだろうか。

 とにかく、十数人にもなる主要登場人物を決して手抜きせずに捉え、それぞれのキャラクターを掘り下げると共に見せ場をも振り分けてしまう作者の手腕に圧倒される。しかも演出テンポが良く、シークエンスの切り分けも名人芸クラス。ユーモアを散りばめて観客を笑わせることも忘れていない。結婚式をネタにした集団ドラマといえばロバート・アルトマンの「ウエディング」やミーラー・ナイールの「モンスーン・ウェディング」を思い出すが、この映画はそれらより遙かに優れていると思う。

 そして、分かりやすい家族劇で観る者を引き込んだ後だからこそ、終盤近くの切迫した事態の深刻性がヴィヴィッドに伝わってくるのだ。出てくる連中は地元の住民ばかりではなく、シリア本国の者がいるかと思うとイスラエル側の人間もいる。さらには国連関係者やロシア人まで顔を揃える。飛び交う言語はアラビア語やヘブライ語、英語やロシア語やフランス語など多岐に渡っている。そんな様々な文化圏に属している者達が“結婚”という普遍的な祝祭には一様にポジティヴな反応を示しつつ、しかしどうしても超えられない壁が彼らを阻んでしまう、その不条理に身を切られる思いである。

 ヒアム・アッバスやマクラム・J・フーリとクララ・フーリの親子など、おそらくは本国では実力派として通っているであろうキャストのパフォーマンスは万全。そして、不安定な状況下にあっても毅然として一歩を踏み出すヒロインの姿には感動する。実質的な主人公であるモナの姉の名前はアマルだ。アマルはアラビア語で“希望”を意味するらしい。彼らの住む世界に希望があらんことを心より願いたい。
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「チック・タック」

2009-05-05 06:14:51 | 映画の感想(た行)
 95年のアジアフォーカス福岡映画祭で観たイラン映画。舞台はテヘランの下町。祖父の家から小学校に通うサイードとクラスメートのハッサンは親友同士。二人は成績優秀だが、担任の先生からご褒美の腕時計をもらったのはハッサンの方だった。実は彼の父親の形見で、母親が担任に渡したものだった。面白くないのはサイード。うっかりハッサンの腕時計に手を出してしまい、担任からこっぴどく叱られ、サイードとの仲も険悪化。下校中になんとか仲直りするものの、祖父にいいとこを見せたいサイードは、ハッサンから腕時計を借りて自分のご褒美として祖父に報告しようとする。

 しかし、祖父はカバンに時計をしまい込み、鍵をかけたまま外出してしまう。二人は必死でカバンを開けようとするがうまくいかない。ハッサンの母親は息子が帰って来ないので心配し、事情を知った担任は翌日サイードの祖父を学校に呼び出すが、祖父はプライドを傷つけられたと誤解し、サイードを転校させると言い出す始末。事件は雪だるま式に大きくなっていくが・・・・。

 イランの俊英モハマッド=アリ・タレビ監督作品。前作「ザ・ブーツ」(94年)に引き続き子供の世界を描いているが、相変わらず子役の扱い方は神業的で、演技うんぬんの次元のはるか上を行く。ただし、キアロスタミがよくやる“ドキュメンタリーとフィクションの融合”とは趣は異なり、ここでは確実に物語としての脚本と演技が存在するのだが、この小芝居のカケラさえ感じない自然さ。まるで我々がこの中近東の街にいるかのような臨場感。イランという風土・文化が映画的空間そのものではないかと思ってしまう。

 同じ成績なのに友人だけがご褒美をもらったり、祖父が自分を理解してなかったり、母親とのコミュニケーションがうまくいかなかったりetc.ここで描かれる出来事は一見他愛がないが、当人にとっては(また観客の多くが幼い頃そうだったように)価値観を左右されるような大問題であり、普遍的にアピールする素材であることは間違いない。しかし主人公たちは絶望に逃げたりせず、彼らなりの誠実さで事態を好転させようとする。

 ハッサンの家庭やサイードが両親と別居している事情には戦争の影があることは明白。ただ映画はそこをハッキリ描かない。疲弊した社会の有り様を追うより、また戦争の悲惨さを強調するより、無邪気な子供たちの姿を通して、他人を思いやる博愛的な精神と希望を失わない前向きな生き方をうたいあげることにこそ意味があるという、作者の確信犯的なポジティヴ性が画面を覆う。

 時計、安全ピン、スープの入ったボールなど、小道具の使い方がすべてドラマの伏線となる巧妙な作劇。そしてあまりにも見事なラストは泣けてきた。単なる児童映画のジャンルを超えた、普遍的な美しさを備えた珠玉のような作品だ。
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