元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「夜がまた来る」

2009-04-15 06:32:10 | 映画の感想(や行)
 94年作品。石井隆の監督第6作。コアな映画ファンならば先刻御承知だが、劇画家でもある石井は“名美と村木の物語”をライフワークとしている。手掛けた映画は秀作もあれば凡作もあるが、この映画はかなりクォリティが高い。まさに快作だ。

 潜入捜査中の麻薬Gメン(永島敏行)が運河に浮かんだ。しかも麻薬の横流しの濡れ衣を着せられている。復讐を誓う妻・名美(夏川結衣)は組織のボス(寺田農)をつけ狙うが、ボスの親衛隊の一人・村木(根津甚八)に邪魔される。だが、ボス暗殺に失敗し、危機一髪の名美をかばったのも村木であった。いつしか二人は強い絆で結ばれていくのだが・・・・。

 冒頭の名美と夫のベッド・シーンでの、愛のあるセックスをしっとりと描く演出は好感が持てるが、夫が殺され組織の男たちから輪姦され、自殺未遂まで起こし、開き直ったように反撃に転ずるその後のドラマティックな展開を活かす重要な伏線になっている。

 石井の前作(正確には前々作)「ヌードの夜」(93年)がなぜ失敗したかというと、名美のキャラクターを主体性がなくて依頼心が強い“うっとおしい女”にしてしまったからである。でも、今回の名美は違う。自分から行動する女、戦う女なのである。しかし、アメリカ映画でたまに見られる“女性優位の単純アクション”(なんじゃそりゃ)では決してなく、重大なピンチになると村木がちゃんと助けに来る。ツッパってはいるが、どこか男の庇護を喚起するような弱さを持っているあたり、実に観客の心の琴線に触れるヒロイン像なのだ(女性の観客は違う感想を持つだろうけど)。

 いつもの石井作品のような観念的でジメジメしたイメージはほどよく抑えられ、昔の日活アクションみたいな、わかりやすい娯楽活劇としての面が強調されている(そういえばこの題名は小林旭の「さすらい」の歌詞からとったものだ)。クライマックスの主人公たちと悪者どもの決闘シーンなど、迫力ある展開で手に汗を握らせた。もちろん、シャブ中になった名美を村木が立ち直させる場面での、フェイドイン&フェイドアウトを多用する画面処理など、得意技もしっかり出している。

 根津はじめ、悪役の寺田や椎名桔平も好演だが、何といっても健気なヒロインに扮する夏川の熱演が注目だ。これが映画デビュー作で、全編服を着ている場面の方が少ないという設定ながら、キレのいい身体の動きはアクション映画にぴったりである。残念ながら公開当時は限られた上映で本作を実際目にした観客は少ないが、現時点でビデオ等をチェックする価値はある。安川午朗の音楽も素晴らしい。
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「ロルナの祈り」

2009-04-14 06:32:43 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Le Silence de Lorna )さっぱり面白くない。「ロゼッタ」と「ある子供」でカンヌ国際映画祭の大賞を2回も獲得しているジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督(ダルデンヌ兄弟)の新作。今回はベルギーの国籍を取得するため麻薬中毒の青年と偽装結婚したアルバニア出身のヒロインを、例によって突き放したようなドキュメンタリー・タッチで描いている。

 ただし、そのドラマの設定が説明されるのは中盤以降になってからだ。それまでは、見ようによっては主人公はヤク中のダンナに辟易しながらも風体の怪しい男どもとよからぬ話をしている、単なる“身持ちの悪い女”としか思えないところがある。もちろん何やら偽装結婚めいたことも匂わせるのだが、ハッキリとした事情は分からない。作者の側からすれば、これは“対象をリアリズムに徹して追った結果”なのだろうが、観ている方は真相が掴めないままイライラさせられることになる。

 たとえば、冒頭近くにドラマのアウトラインを暗示させるモチーフぐらい入れるべきではなかったか。さらに劇中では食い足りない描写が目立ち、ストーリーの進行を妨げる。ヒロインの“本当の恋人”をめぐるエピソードや彼女の職場での人間関係などの扱い方は雑に過ぎるし、極めつけは主人公の夫が唐突にいなくなることだ。それまでの展開と大きな断層があり、何の作劇的効果もなく観客を戸惑わせるばかりである。それからあとの筋書きは無茶苦茶で、思いがけず“妊娠”したことを知ったヒロインの無軌道すぎる行動の数々は、映画作りを途中で放棄したとしか思えない。

 この失態はおそらく、作者の認識違いに起因しているのであろう。ダルデンヌ兄弟の作風の特徴は前述のようにドキュメンタリー・タッチにあるのだが、それは素材をリアルに捉えるための“手法”に過ぎない。それ以前に起承転結をハッキリさせた堅牢なプロットが必要であることは言うまでもないのだ。しかし本作はドキュメンタリー・タッチそのものがリアルな作劇の絶対条件であると見なされている。その“手法”が採用されているという事実に寄りかかり、肝心のストーリーが限りなく軽視されているのだ。いわば手段が目的化してしまっている。これでは万人を納得させるシャシンが出来るわけがない。

 映像自体も平凡で、キャストに至っては名前も覚えたくないような連中ばかり。それにしてもヒロインはアルバニア出身という設定にもかかわらず、最初からベルギー人みたいな印象しか受けない。東欧らしいエキゾティックなところがまるでないのだ(まあ、現地人が見たらハッキリと違うのかもしれないが ^^;)。このあたりも観ていて萎える一因である。
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「霧の中の風景」

2009-04-13 06:42:16 | 映画の感想(か行)
 (原題:Topio Stin Omichli)88年ギリシア=フランス合作。幼い姉弟がまだ見ぬ父親を求めてギリシアからドイツまで旅するというロード・ムービー。監督は「旅芸人の記録」「アレクサンダー大王」で知られるテオ・アンゲロプロスだが、出来不出来の激しいこの作家の作品群の中では、この映画は良くない部類に属する。

 ロード・ムービーというと「パリ、テキサス」はじめとするヴィム・ヴェンダース監督の諸作品とか、アメリカ映画だったら「レインマン」や「ミッドナイト・ラン」という映画を思い出す私であるが、そんな映画とはまるで違う。それらの映画の主人公たちは、旅するうちに何かを得るとか、人間的に成長するとか、また何かを清算して新しい生活にのぞむとか、要するに何かしら変わっていくというのが普通だった。変わることが映画のテーマであった。しかし、この映画の主人公たちは全然変わらない。むしろ変わろうとしないのだ。

 旅する子供たちの前にあらわれる大人たちというのが、どいつもこいつもみじめったらしい連中ばかりだ。彼らを引き受けてくれない伯父さんがまずそうだし、保護してくれるはずの警官たちも降る雪に見とれてぼんやりしているだけ。夜の街ではウェディング・ドレス姿の若い女が泣きながらレストランから走り出て来るし、ひん死の馬が路上に捨てられている。姉弟を拾ってくれた旅芸人の一座は波止場で衣装を投げ売りして解散し、唯一親切にしてくれたオレステスという青年も兵隊にとられて去って行く。

 しかし姉弟はそんな大人を見ても何とも思わないみたいだ。最初から保護を求めていないしアテにしていない。乗せてくれたトラックの運転手が姉を乱暴しても、ショックを受けた様子もない。世の中とはそんなものだと観念しているかのようだ。ひょっとすると母親に対してもそういう感じであっさり捨ててきたのかもしれない。

 この世には頼るものなど何もないというニヒリズムこそがこの映画のテーマかもしれない。だったとしたら私はそういう暗い映画には用はない。さっさと忘れるのみだ。 わざと天気の悪い日ばかりを選んで撮影された画面は憂欝を誘う。まったく気の滅入るような映画である。
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「ワルキューレ」

2009-04-12 07:01:32 | 映画の感想(わ行)

 (原題:Valkyrie)良くも悪くも“トムくんの映画”である。まず良いところを挙げると、展開が分かりやすいところだ。純粋な愛国心から、ヒトラーの暴走に反発していたトム・クルーズ扮するシュタウフェンベルク大佐が暗殺計画に手を染めてゆく過程が実に平易に描かれてゆく。ブライアン・シンガーの演出も捻ったところのまるでない正攻法のものだ。

 ヒトラーが絶えず暗殺の危機にさらされており、未遂事件が頻発したことは歴史好きならば誰でも知っているが、どちらかというと、このことを知らない観客が多いと思われる状況の中ではこういう衒いのない展開にした方がマーケティング面で有利だったのは間違いない。しっかりとした時代考証に裏打ちされたセット・美術は万全だし、ニュートン・トーマス・シーゲルのカメラによる重厚な画面も見応えがある。

 この“ワルキューレ作戦”には多くの軍関係者が関わっているはずだが、シュタウフェンベルク大佐が加わった途端に事態が彼中心に動いてゆくのには苦笑してしまった。でも、これも“あまり難しい演技は得意ではない”トムくんのレベルに周囲が合わせたということで納得できよう(爆)。

 逆に言えば、このトム・クルーズ中心の作劇が映画自体に深みを与えることに失敗している。シュタウフェンベルク大佐をはじめ、事件の首謀者の大半が格式のある家柄の出身者だ。プロシア時代の貴族や、由緒ある軍人の家系の者にとっては、オーストリア出身の成り上がり者に過ぎないヒトラーの下に仕えること自体が耐えられない。このあたりの屈託が本作にはまったく描かれていないのだ。さらに、彼らの祖国ドイツに対する愛着や、そのためにあえて凶行に走らざるを得ない苦悩も、スッポリと抜け落ちている。これでは歴史劇ではなく単なる「ミッション:インポッシブル4」ではないか。

 そして最大の落ち度は、観客の多くがこの“ミッション”が失敗に終わることを知っていることだ。たとえ暗殺計画の存在自体は知らなくても、ヒトラーは暗殺されて死んだのではなく、陥落寸前のベルリンで自決したことは誰でも分かっている。結末の割れたサスペンス劇ほど気勢の上がらないものはないのだ。しかも、肝心の“どうしてヒトラーは爆死しなかったのか”について(劇中では)具体的に触れられておらず、手落ちと言われても仕方がないだろう。

 史実をネタにした娯楽編を作ること自体に異議を唱えるつもりはないが、素材に対する真摯な考察や深い認識を捨象してしまっては、宙に浮いたような軽めのシャシンしか作れない。この意味でトム・クルーズを起用したことは合理的ではなかったと思う。ケネス・ブラナーやテレンス・スタンプ等、重量感のある脇のキャストも実にもったいない。
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「制覇」

2009-04-11 19:20:19 | 映画の感想(さ行)
 82年東映作品。それまで「日本の首領(ドン)」以来ヤクザ映画から4年ほど遠ざかっていた東映が満を持して放った大作だが、今ではこの作品の存在自体を覚えている人も少ないであろう。それだけ他のヤクザ映画と比較しても本作のヴォルテージは低いのだ。

 原作は志茂田景樹のノンフィクションで、日本最大の暴力団組織(当然、モデルは山口組)の親分の死去に伴う壮絶な跡目争いを、幹部の家族の側から描こうとしている。つまりは従来型の“実録もの”の切迫感とホームドラマとを合体させようという試みだ。しかし、このコンセプトで“大作”に仕上げるというのは無理があったのではないか。

 製作費は9億円だという。なんとそのうち2億円が出演者のギャラである。三船敏郎、岡田茉莉子、名高達郎、中井貴恵、秋吉久美子、丹波哲郎、小池朝雄、小林旭、若山富三郎、岸田森、そして鶴田浩二までが顔を揃える豪華30大スターの競演だ。逆に言えば、これだけの顔ぶれを揃えたものだからそれぞれに一つの見せ場を振っておかなくてはならず、結果として非常に散漫な総花的な作りになってしまった。もっとテーマを絞ってじっくり撮った方がよかったのではないか。

 たとえば、ドンの妻であった岡田茉莉子の苦悩、名高達郎演じる新聞記者がドンの娘を恋人にしてしまったゆえの葛藤などをディテールを精査しながら描けばけっこうまとまったシャシンになったのではないだろうか。中島貞夫の演出キレがなく、鳴り物入りで公開されたにもかかわらず興行的にもさっぱりだったのも当然と思わせる出来である。
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「ホルテンさんのはじめての冒険」

2009-04-10 06:40:28 | 映画の感想(は行)

 (原題:O'Horten)さほど面白い映画ではない。理由は描写全般が“ぬるい”からである。主人公ホルテン(ボード・オーヴェ)は長年ノルウェー鉄道で運転士として働いてきた。定年で円満退社となるはずだったが、最後の勤務日の前夜に開かれた送別会終了後の“トラブル”によって外泊を余儀なくされる。挙げ句の果てに翌日は遅刻。列車は彼を置いて出発してしまう。

 大過なく運転士稼業を終えるはずが、最後の最後で手違いが発生。おかげでかねてより抱いていた定年後に向けての心積もりが雲散霧消する。思わぬ事態に直面した初老の男のディレンマを描くベント・ハーメル監督作だ。

 定年退職した男が自分自身を見つめ直す話といえば、ジャック・ニコルソン主演の「アバウト・シュミット」あたりを思い出す。ハッキリ言ってあの映画は上等ではなかったが、この映画はさらにつまらない。なぜなら、ホルテンは定年前から半分死んだような生活をしていたからだ。

 彼には妻子もなく、ダイヤ通りに列車を動かしては職場と家と運行先の宿泊所とを行き来する毎日。来る日も来る日も寸分の狂いもない決まり切った時間を過ごす。実直と言えば聞こえは良いが、面白味のある人間ではない。そんな彼が職務を終えようが最後の勤務で失敗しようが、ほんの少し目先が変わるだけで“死んだような生活”の本質には変わりがない。したがって、そこに何らかの映画的興趣が醸成されるとは考えにくいのだ。

 それでも本作は主人公の信条が揺らぐようなモチーフを用意しようとしている。しかし、たかが空港に勤めている友人を見つけ出すのに苦労したり、愛用のパイプが無くなったり、所有するヨットを手放したり、はたまた変わった趣味を持つ老人と知り合ったぐらいでは、屁の突っ張りにもならないだろう。終盤は思い掛けぬロマンスの予感も挿入されるが、これはいかにも取って付けたようだ。ハッキリ言って、このエピソードを申し訳程度に付け加えるならば、最初からテンション上げて突っ込んだ方が数段説得力のある展開になったと思う。

 まあ、ケナすばかりでは何だから見どころも挙げておこう。それは主人公の職業にちなんだネタである。鉄道マンの生活と矜持、特に表彰式や送別会での“しきたり”や独特な会話の内容は興味深い。そして、トンネルを抜けて大雪原を疾駆する列車の描写は素晴らしい。もしも鉄道ファンがこの映画に接すれば、大喜びすることは想像に難くない。濃いめの色遣いが目立つ映像も悪くないと思う。
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「ゴッドファーザー PARTIII」

2009-04-09 06:46:37 | 映画の感想(か行)
 (原題:The Godfather Part 3)90年作品。やはりフランシス・フォード・コッポラという監督は“「ゴッドファーザー」シリーズを生み出した作家”として映画史に残るのかもしれない。

 前作で実の兄を殺さなければならなかったマイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)の苦悩は大きかった。すでに暗黒街では確固とした地位を築いた彼だが、老境に入った今これまでの罪ほろぼしをするかのように、なんとローマ法皇庁と手を結び、数々の社会活動に手を染める。自分の仕事をなんとか合法化し、ヨーロッパの巨大企業をも傘下に治めようとするまでになった。ところが、第一作で死んだ兄ソニーの私生児ヴィンセント(アンディ・ガルシア)のいるファミリーの下部組織のゴタゴタにつけこんで、本場イタリアのマフィアが介入してくる。それは法皇庁内の勢力争いをも巻き込み、ついにはコルレオーネ一家と、イタリアの政治を左右する影の巨大組織との抗争に発展する。

 当時のコッポラが「ゴッドファーザー」のパート3を撮る気などさらさらなかっただろうことは、彼の映画を観続けてきた者なら、誰だってわかる。しかし、とにかく彼はこの映画を作る必要があった。理由は簡単。コッポラの会社ゾーエトロープが借金600万ドルをかかえて経営危機になり、その返済金を捻出するためだ。しかし、出来上がった作品は、そんな生臭い状況を忘れさせてくれるような力作になっていた。現時点ではこれより後に評価すべき映画は撮っていない。

 公開時に彼が来日したときのインタビューで、“これはオペラですね”という質問に対し、“第一作からオペラとして考えていた。パート3はオペラそのものだ”と答えている。ちなみに物語やキャラクターは、エリザベス朝演劇によるという(キネマ旬報誌より引用)。

 パート3はまさに、イタリア・オペラだ。もちろん、クライマックスがマスカーニの「カヴァリレア・ルスティカーナ」の舞台だからということもある。また、この映画を包み込む仰々しさ、ハッタリのかまし方、悲劇的な結末、そして第一作から共通する暗く深い色調の画面と、おなじみの哀愁に満ちた音楽がオペラ的雰囲気を盛り上げる。

 しかし、この映画が質的に優れているかというと、そうではないと思う。あまりにもご都合主義の人間関係だし、エピソードが多すぎるし、第一、主人公のマイケルは、どうにも自分勝手で人間が薄い。それでもなお、この映画は魅力的である。この力技、この見栄の切り方、こむずかしいことは抜きにしてイッキに観客を引き込んでしまう手法。間違いなく、これもひとつの映画の楽しみ方であろう。ラストシーンは何より、ヴィスコンティの「ベニスに死す」を思わせたりもする。
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「フィッシュストーリー」

2009-04-08 06:29:48 | 映画の感想(は行)

 なかなか面白く観た。別々の時制によるエピソードが平行して展開する作劇になっているが、メインは70年代に活動した売れないパンクバンドの話である。伊坂幸太郎の原作は未読ながら、この作家の別の小説に接してみると音楽に対する造型が実に深いことが見て取れる。それも、マニアックに延々とウンチクを垂れ流すスノッブさとは無縁の、一般の音楽ファンとしてのスタンスをキープしているところが好感度が高い。

 音楽の持つ素晴らしさを“なんて良いのだろう!”と率直に何の衒いもなく認める心の底からの肯定性。これが本作においても、一見荒唐無稽な物語に確固とした中心軸を構築するバックグラウンドとなる。ハッキリ言って、この“フィッシュストーリー”なる楽曲が時空を超えて幾多の人々と関連し合い、最終的には世界を破滅から救うという筋書き自体こそが“フィッシュストーリー”(与太話)そのものだ。しかし、映画の核心は楽曲が地球壊滅を阻止するという展開そのものではない。それは音楽の持つ力は世界を救うほど大きいものである・・・・と信じている作者の真摯な思い入れなのだ。

 事実、パンクバンド“逆鱗”のパフォーマンスは目覚ましいものがある。そして斉藤和義の手による“フィッシュストーリー”というナンバーも最高だ。「少年メリケンサック」だの「デトロイト・メタル・シティ」だのといった、ロックミュージックを扱っていながら実はロックに対して何のリスペクトも抱いていない駄作群とは完全に一線を画する、真にロックらしい、優れた音楽ならではの高揚を味あわせてくれる。こんな曲が世界を救えないなんて、そっちの方が間違っているのではないか・・・・といった乱暴な結論にまで容易に行き着いてしまうような、そういう大らかさが実に楽しい一編だ。

 中村義洋の演出は同じく伊坂作品の映画化である「アヒルと鴨のコインロッカー」の頃よりもスムーズな語り口を見せる。時制をバラバラにすることによる違和感はほとんどなく、しかもラストにはノーマルな時系列に添った各エピソードのハイライトが流される。これは観ようによっては説明過多だと思われるだろうが、出し方がさり気ないので決してマイナスにはなっていない。

 キャスト面ではバンドメンバーの伊藤敦史と高良健吾が実に良かった。目つきや仕草がロックの“空気”を上手く醸し出していたと思う。それにしても“逆鱗”がセックス・ピストルズが世に出る前にデビューしていたという設定は感慨深い。もしもこういうバンドが実在していたら、日本のロック・シーンは一味違ったものになっただろう。
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「アラビアン・ナイト」

2009-04-07 06:38:24 | 映画の感想(あ行)
 (原題:The Princess and the Cobbler)93年作品。「ピンク・パンサー」などで知られ、「ロジャー・ラビット」の作画監督もつとめたリチャード・ウィリアムスによる冒険アニメーション。おそらくは日本ではロードショー公開はされていない。私は第8回の東京国際映画祭にて鑑賞している。題材はアラビアン・ナイトからとっているが、ストーリーはまったくのオリジナルだ。

 CGをいっさい使わず25年の歳月をかけたという映像は、鮮やかな色と幾何学模様をメインにし、遠近感のまったくない独特のもので、かなり見事。キャラクターデザインもイラスト風の(アヴァンギャルドな匂いまでする)、要するにディズニーのそれと対極にある絵作りなのだ。

 しかし何を勘違いしたのか、ストーリー展開は最近のディズニーとまったく同じなのである。しかも音楽までそっくりだ。貧しいが純情な若者とプリンセスが王国を脅かす魔王に立ち向かう・・・・という筋書きは「アラジン」の亜流ではないか。それがまた限りなく非ディズニー的な画面と悲しいほど合っていない。登場人物たちが歌って踊るところも全くの場違いだ。

 この個性的な絵柄ならそれに合ったエキセントリックな話の方がよかった。子供が観たら引きつけを起こすようなアナーキーで高踏的な作品にしてほしかったのだが・・・残念だ。なお、主人公二人の声は、マシュー・ブロデリックとジェニファー・ビールスが担当している。
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「ベッドタイム・ストーリー」

2009-04-06 06:33:06 | 映画の感想(は行)

 (原題:BEDTIME STORIES )アダム・サンドラーの一人舞台みたいな映画である。大手ホテルに勤める主人公は、今は亡き彼の父親がこのホテルの創始者であるにもかかわらず、当人は下っ端の設備メンテナンス係。女にも無縁な冴えない独身男だ。そんな彼が姉の子供たちの面倒を見ることになる。

 もとより子守りなんかしたことのない彼は、寝る前の甥と姪に“お話”を語って聞かせる際に、自分の面白くもない境遇と身も蓋もない願望を勝手に“お話”に仕立て上げて喋りまくる。ところが、何とそれらが次々と実現化することに驚くのであった・・・・という、ディズニー製作のお手軽ファンタジーである。

 本作の敗因は、どうしてこの“お話”が現実のものになるのか、キチンと説明されていない点だ。別に“そうなることを科学的に証明せよ”などと野暮なことは言うつもりはない(爆)。だが、単なるベッドタイム・ストーリー(正確には子供たちが口に出して言うこと)が現実化するという荒唐無稽な設定を持ってくるためには、理にかなった“前振り”が必要なのではないか。具体的に言えば、かねてより寝る前の“お話”が現実と近くなっていたというモチーフを小出しにするべきだった。子供たちの母親がベッドタイム・ストーリーを全然していなかったということはないので、それは可能なはずだ。

 そして、どうして主人公が“お話”に加わることがその“現実化現象”に拍車を掛けることになったのか、その背景に少しでも言及することが不可欠ではなかったか。いくらファンタジーといえども、こうした最低限度のプロットの合理性は絶対必要である。それをすっ飛ばしているから、宙に浮いたようなホラ話にしかならないのだ。しかも、SFX満載で楽しませてくれるはずの“お話”の中身は、どこかで観たような画面をさしたる工夫もなく並べているばかり。監督アダム・シャンクマンの腕前は大したことがないと言わざるを得ない。

 では本作の売り物は何かというと、冒頭に書いたように主演アダム・サンドラーのワンマンショーである。口八丁手八丁の胡散臭いキャラクターを力演しているが、そもそも本国では絶大な人気を誇るというサンドラーのパフォーマンスも、日本の観客にはお馴染みではない。頑張るほどに空回りしている印象しか受けず、中盤までくると観ていて面倒臭くなってしまう。ケリー・ラッセルやガイ・ピアースといった脇の面子も悪くはないが、彼らの持ち味を活かす演出が見当たらない。

 凡作として片付けたいシャシンだが、唯一気になったのは全編に流れる80年代ヒット曲の数々。別にこれらのナンバーが個人的に好きなわけでは全然無いが、少なくとも画面には合っていたと思う。これもサンドラーの趣味なのだろうか(^^;)。
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