元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「デス・プルーフ in グラインドハウス」

2007-09-13 06:40:55 | 映画の感想(た行)

 (原題:Death Proof )とても面白かった。満足した。しかし、クエンティン・タランティーノ監督の語り口に慣れていない者、“グラインドハウス”の意味とその雰囲気を知らない者、そして娯楽映画のルーティンから外れた作品を受け付けない者(要するに、多くの観客)には、まるでお呼びでないシャシンであろう。事実、上映中の途中退場者がこれだけ目立った作品は最近そうはなかった(^^;)。

 テキサス州オースティンを舞台にしての、ローカル曲の女性ラジオDJとその仲間の延々と続く他愛が無さ過ぎる会話、そしてバーでの大騒ぎのこれまた延々と続く平坦な描写だけで、一般ピープルは“引いて”しまうはず。そこに現れたスタントマンと名乗る怪しげな男が、やがて突発的に惨劇を引き起こして映画の緊張感がイッキに上がる。ここまでが前半部分で、後半はテネシー州レバノンが舞台となるが、なんと設定と展開が前半とほとんど一緒である。

 しかし、同じことをやっているだけなのに画面の切迫感が段違いだ。前半はドラマがどう決着するのかという、居心地の悪い弛緩した(?)サスペンスが覆うだけなのに、それをまるごと後半の伏線にしてしまう大胆さ。そして当然“後半は前半と終盤の展開が違うだろう”と思っていたこちらの予想を上回る滅茶苦茶ぶりを披露してくれるあたりは、さすがタラン氏である。

 グラインドハウスとは、独立系の弱小映画会社が作ったB級作品を2本立て3本立てで上映する場末の映画館のことで、60~70年代には至る所にあり、若い頃のタラン氏も相当お世話になったはずだ。本作もそれらの雰囲気を継承すべく、フィルムに傷の入ったような画面処理や褪せた色調、そして故意による乱暴なカッティングなど、やりたい放題に遊んでいる。そして往年のアクション映画の秀作「バニシング・ポイント」に大いにオマージュを捧げているあたりも、見ていてニヤリだ。

 クライマックスのカーチェイスはここ数年の活劇映画の中でもダントツに凄い。しかも著名なスタントウーマンであるゾーイ・ベルが本人役で出演し、手に汗握る見せ場を作っているのだから言うことナシだ。敵役のカート・ラッセルもノリノリの大怪演。ラスト近くは爆笑に次ぐ爆笑。“THE END”のタイトルが出るあたりは会場から拍手が起きた。確実に“観客を選ぶ”映画だが、ハマればこれほど楽しいシャシンはないと言える。
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「ハイルミュタンテ! 電撃XX作戦」

2007-09-12 06:41:42 | 映画の感想(は行)
 (原題:Accion Mutante)93年スペイン作品。あまりの過激さに本国では上映禁止とか、各国の映画祭でも上映を断られたとか、威勢のいい(?)評判を聞いていたので、観る前はワクワクだったのだが・・・・。

 舞台は25世紀。美しいものだけが権威を誇る絶対主義の時代。美を嫌悪するテロリスト集団“ミュタンテ”の暗躍が世間を騒がせていた。彼らはフリークスで、ボディビル協会の会長とかフィットネスクラブの支配人などの健康美を自慢する連中をかたっぱしから殺し、金品を奪っていた。今回の“ミュタンテ”のターゲットは、金持ちのきれいな娘を誘拐して莫大な身代金をせしめること。しかし、意外な裏切り者の登場で映画はワケのわからない方向に動き出す。監督はスペインの新鋭アレック・デ・ラ・イグレシア。これがデビュー作である。

 冒頭、一味が富豪の家に押し入って住人を殺し、それがワイド画面のテレビに演出過剰なニュースとなって流れ、ファンキーなロックをバックにしたタイトルになだれ込んでいくまでは凄く面白そうだった。その後の展開に期待が高まったが、なぜかパワーが尻すぼみになってしまう。

 理由は明らかで、このテの映画に不可欠な“哲学”が抜けているからだ。それは“キ○ガイの論理”あるいは“確信犯的強迫観念”と言い直してもいい。美を崇拝する連中の欺瞞をフリークスとしてのアナキズムで木っ端みじんにし、返す刀で観る側の偽善をもうち砕く(書いている方もイマイチよくわからない ^^;)、そんな本質的なアブナさが見当たらない。結局、この一味は金銭欲だけのボスにノセられて何となく集まってきたに過ぎない烏合の衆であり、外見的な面白さとは裏腹に、キャラクターとしての存在感が極めて薄いのはそのためである。

 もっとも、この若い監督はそんな小難しい映画理論(?)はハナから頭にないことは確か。見た目が派手であればそれでよし。製作者ペドロ・アルモドヴァル直伝のキッチュな衣装や舞台装置、「デリカテッセン」のスタッフが担当する、スペイン映画にしては珍しい垢抜けたSFX処理など、表面的にはけっこうにぎやかである。演出テンポも悪くない。でもやっぱり過激さが絶対的に不足なのだ。相手の傷口に塩をすりこむシーンや、女の子の口を釘で密閉する場面など、描きようによってはもっと楽しく(?)できたのに。思想は抜きにして単なるおちゃらけに徹するにしても、アメリカのファレリー兄弟の諸作ぐらいのレベルには達してほしいと思った。
  
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「シッコ」

2007-09-11 06:42:02 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Sicko )間違いなくマイケル・ムーア監督の最良作だ。アメリカの健康保険制度という、身近でかつシビアな題材を選んだことで、8割方は成功したようなものである。米国の医療保険システムの酷さはデンゼル・ワシントン主演の「ジョンQ 最後の決断」でも赤裸々に糾弾されていたが、本作はドキュメンタリー映画としての特質を活かし、どこがどう無茶苦茶なのか、実録的な理詰めのレクチャーを展開している分、主題を活かす意味でインパクトが大きい。

 まず、低所得層に多い“無保険者”の信じがたい辛酸を紹介して観客の興味を掴んだあと、実は本当の悲劇は、ちゃんと民間保険に入っている多くの米国民に起こっていることを暴露してゆくという筋書きはなかなかスマートだ。高額な掛け金を払っていたはずなのに、肝心なときにロクな保障を受けられない。“救急車を呼ぶ前に保険会社の許可が必要”などというフザケた項目が契約条文に載っていることをはじめ、理不尽な事例のオンパレードは枚挙に暇がなく、これでは“医療業界は本気で患者を治す気があるのか”と思っていたら、事実アメリカの医療関係者は患者を見捨てれば見捨てるほど儲かるということが明らかになり、目の前が真っ暗になってくる。

 対してイギリスやフランスでは医療費はタダ同然。隣のカナダも米国の低劣ぶりとは雲泥の差だ。このあたりを決してシリアス一辺倒で見せず、ムーア監督得意の怪しげな映像コラージュでブラック・ユーモアを交えつつリズミカルに畳み込んでいくあたりもポイントが高い。「華氏911」では完全に空回りしていたこの手法も、今回のネタには見事なほどのマッチングだ。

 後半は9.11テロの救出活動に当たり、それが原因で塵肺などの後遺症に苦しめられている人々が描かれる。あれだけの立派な仕事をしてきたのに、彼らはポンコツな医療保険制度のため高額の治療費が払えず、困窮の極みに面している。ムーアは船をチャーターしてキューバのグァンタナモ米軍基地に彼らと共に出向いてゆき、そこでは手厚い看護を受けている容疑者のテロリストと同じレベルの治療を彼らにも受けさせてくれとシュプレヒコールをあげるのだ。

 ここは目頭が熱くなるようなシチュエーションだが、本当のクライマックスはその後にやってくる。当然のごとく米軍基地からは門前払いされた一行は、キューバの総合病院に転がり込む。そこで体験することはアメリカ人からすれば驚天動地のことに違いない。でも、本当に“驚天動地なこと”は当のアメリカの劣悪な医療・保険業界の方なのだ。

 反骨精神に溢れたドキュメンタリー映画の秀作だが、ひとつ注文を付けるとすると、他の国々はまともなのにどうしてアメリカだけがデタラメな医療保険制度が罷り通っているのか、その深い考察が成されていないことである。それを描くにはアメリカと他国の歴史を紐解く必要がある。しかし、歴史認識というやつはアメリカ人が最も苦手とする事柄だ。そもそもアメリカには“歴史”がない。イデオロギーだけで成立している人工国家だ。さすがのムーアも“歴史に疎い米国人”の限界は超えられなかったと見える。

 さて、日本はこの映画の取材対象と成りうるか・・・・もちろん、ならない。確かに国民皆保険ではあるが、国民の負担率は年々上昇し、大病を患おうものならば破産の危機に直面する。それもこれも“自己責任で痛みに耐えて何とやら”と意味不明のスローガンをブチあげた前首相のおかげである。それ以前にアメリカ流のグローバリズムの押し付けを受容した日本人の“公共の福祉よりも個人的な鬱憤晴らし”という下世話な心理もあるだろう。このあたりを鋭く突いた映画を作り上げる度量は、残念ながら邦画界には存在しないようだ。
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高瀬進「映画館1」

2007-09-10 06:52:46 | 読書感想文

 出版社・銀幕舎の主宰者である高瀬進による、古い映画館をモノクロで捉えた写真集シリーズの第一弾。本作は文芸坐、地球座、全線座、佳作座、パール座、牛込文化、赤城日活そして並木座など、歴史の古い劇場が中心。もちろん、現存していないものも多く含む。

 本を開いてまず感じるのは、懐かしさだ。それも、強烈な懐かしさ。盛り場の中にあって、そこだけポッと別の空間への入り口が開いているみたいに、わくわくするような、いかがわしいような、映画館の持つそんな独特の雰囲気を味わった、ある世代以上の層(私も含む)にとっては堪らない写真集だ。シャープな白黒の映像も素晴らしい。

 しかし、時は過ぎ、ここに描かれた映画館およびその空気感は永遠に過去のものになってしまった。これは別に“できれば今これらがよみがえって欲しい”と思うようなものでは断じてない。手練れの映画ファンの胸中に封じ込めるしかないノスタルジアだけの感慨なのだ。

 映画興行というジャンルは長らく前近代的なものであった。昔ながらの映画館しかなかった時代、われわれ映画ファンは劇場側の勝手な都合とやらにより、どれだけ不愉快な目にあったことか。安普請の椅子にお尻が痛くなり、ベタベタした床に閉口したり、上映時刻を事前周知なしに変更したり、外の騒音や待合室の照明が遠慮会釈なく客席内に入ってきて、劇場主に文句を言ってもどこ吹く風だ。特に、空いている席が無いのにどんどん客を入れて立ち見を強要する姿勢には我慢ならなかった。

 老舗の某映画館で、客席のドアが締まらないほど立ち見の観客で溢れた、往年の“映画全盛期”の写真を得々として館内に飾ってある劇場があるみたいだが、そんなのは自らのマーケティングの失敗ぶりを披露しているようなもので、はっきり言って“恥”でしかない。今のシネコン全盛は、そんな昔ながらの映画興行のスタイルが終わりを告げて“正常な姿”に移行したものである(もちろん、まだ十分ではないが)。

 今は地域社会が疲弊し、古くからある商店街もシャッター街と化しつつある。それは大きな問題なのだが、かつてその一角を占めていた古風な映画館まで復活して欲しいとは、断じて思わない。あれは過去の遺物なのだ。

 実は、高瀬氏とは面識があった。本書も、彼が送ってくれたものだ。他にも雑誌「銀幕」など、いろいろと貴重なものを進呈してもらったが、ここ数年は音信不通。ホークスのファンでもあった彼だが、相変わらず仕事面では活躍しているのだろうか。
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「インランド・エンパイア」

2007-09-09 07:45:02 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Inland Empire)デタラメ三昧・支離滅裂な映像が延々と3時間も続くデイヴィッド・リンチ監督の新作。不安定な画像が神経を逆撫でするような音楽に乗って文字通り悪夢的な映画世界を形成し、しかもそれが独特のリズムで展開していくため、不思議と倦怠感は覚えず、長い上映時間も苦にならない。

 しかし、本作は「ロスト・ハイウェイ」や「マルホランド・ドライブ」といったリンチの過去の“わけの分からない映画”と比べれば明らかに落ちる。なぜなら「ロスト~」などは映画の序盤で一応サスペンス・ミステリーというドラマの枠組みが作られ、やがて狂気的なイマジネーションがその枠をぶち破っていくという過程に堪えられないスリルと興奮が醸成されたのに対し、この映画はジャンル的な枠組みも何もなく、最初から“イッちゃっている”からだ。

 超現実的映像の喚起力は、それが現実側との乖離度が大きければ大きいほど効果的になるものだが、この映画のようにハナっから現実を否定してしまうと、あとに残るのは酩酊した映像のコラージュでしかない。せいぜいがその画面のテクニカルな見せ方に対して感心してみせる程度だ。つまりは、どういう部分が“わけの分からない”のか、それを明示しないと観客は戸惑うだけだということ。

 さらに面白くないのは、前二作には満載だったエロいシーンが少ないこと(激爆)。大胆演技を披露したパトリシア・アークエットやナオミ・ワッツに対し、主人公の“女優”に扮するローラ・ダーンは性的な匂いが希薄で、第一トウが立ちすぎている。途中、セクシーなコギャル軍団が意味もなく登場はするのだが、出演時間も露出度も話にならない。下世話な話をするなと言われそうだが、いくら内省的実験映画とはいえ劇場公開されるのだから、こういうエンタテインメント(?)に振ったモチーフの挿入は必須かと・・・・。カネをかけられないのか、フィルム撮りではなく全編デジカム画像でお世辞にもキレイとは言えないのも辛いところだ。

 終盤、裕木奈江が女ホームレスの役で出演し、拙い英語のセリフを披露しているが、あまり演技面で彼女のキャリアにはならない仕事だと思った。チョイ役での“ハリウッド進出”よりも、邦画界で研鑽を積んだ方がベターではないだろうか。
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個性派アンプ『SOULNOTE』使用開始!(その2)

2007-09-08 07:22:32 | プア・オーディオへの招待
 新しいアンプ、SOULNOTEのsa1.0は福岡市のディーラー「吉田苑」から購入したが、早めに予約していたおかげでショップ特製の“sa1.0専用RCAケーブル(写真参照)”が付いてきた。ついでなので、これを含めた手持ちのRCAケーブルのアンプとの相性を設置する前にチェックしてみた。なお、スピーカーケーブルはディーラーでの試聴時にも持参して結果が良好だったBeldenの8460をバイワイヤリングでスピーカー(KEFのiQ3)に繋げてある。



 まずは昨年shima2372から調達したBeldenの89463という線材を使った青色のケーブル。BeldenのRCAケーブルは中低域に筋肉が付く傾向があるが、それはこの新しいアンプでも同様だ。しかし、低音の広がりは出てきたものの、全般的に音が重くなってしまい、軽やかさが後退する。残念ながらこれはアンマッチである。この線材に限らずBeldenのRCAケーブルは“希薄な中低音を張り出させたい”という特殊用途にしか向かないのではないかと思ったりした。

 次はリファレンスで使っている「吉田苑」のLSSCだ。さすがにここでもバランスが良く、情報量ではBeldenの方に少し分があるとは思うが、上手い具合に“聴かせどころ”をまとめてくる。アンプに合っている・・・・というより、KEFのスピーカーと相性が良いのであろう。MOGAMIのNEGLEX2534を使用したRCAケーブル(Rec-Produce謹製)も試してみた。相変わらず、大きな情報量とフラットな特性で破綻のない展開だ。どんなシステムにも合う汎用性はケーブル界(?)随一。ただし、あまりにも音が“スッピン”過ぎて曲によっては物足りない場合もあり。スピーカーケーブルにBeldenのような業務系を持ってきているせいもあるだろうが。

 さて、いよいよ「吉田苑」オリジナルの“sa1.0専用RCAケーブル”を繋げてみる。中域がパァッと明るくなり聴き手に正面から迫ってくるような感じの独特の音。なかなか闊達なサウンドだが、残念ながら私のシステムに合っているとは言い難い。もともとKEFのスピーカーが中域を膨らませてマッタリと聴かせるタイプなので、その相乗効果で必要以上の中域の押し出しが目立つようになったと思われる(ハイスピードでアキュレートな傾向のスピーカーには合いそうである)。

 結果、今まで通りLSSCがメインでMOGAMIがサブということになったが、本当にこれらが一番適しているとは誰も断言出来ないわけで、折を見てまたケーブル類を別途購入し(注:あくまでもリーズナブルなプライスのもの。常識外れの高価な物は買う予定はない ^^;)音の違いを楽しむのも悪くないと思う。



 sa1.0で感心したのは、RCAケーブルの入力端子の“口径”が適正であること。前のPM8001はその点ヒドかった。装着後のホールド性を高めるためかどうか知らないが、ヘンに“口径”が大きいのだ。おかげで差し込む際には力一杯押し込まねばならなかったが、参ったのは外す時だ。プラグが端子に噛み付いた状態になり、アンプの背面を引っ剥がすほどの力任せの難行苦行が必要になる。これはある意味“不良品”ではなかったろうか。また、電源ケーブルについてはディーラーから“SOULNOTEのアンプは付属の電源ケーブルを使うことを前提にして音をチューニングしている”という話を聞いたので、とりあえずエージングが終わるまで付属品を繋げることにした(いずれ手持ちのBeldenの電源ケーブルと交換してみたい)。

 最後になるが、sa1.0は低能率・低インピーダンスのスピーカーはうまく駆動できないし、大音量派のリスナーにも全く合わないという欠点はあるにせよ、一般家庭で常識的な音量で楽しむ限り、この価格帯ではこれ以上のクォリティは不要と思われるほどの品質だと思う。実は購入する際に某大手ブランドの製品のいくつかと聴き比べたが、ほどほどの音量での再生に関してはsa1.0の圧勝。他のハイパワーを売り物にした製品って、いったい何なのかと思ってしまう。また本製品には三点支持でセッティングするためのスパイクが付属品として同梱してある。今のところ設置箇所を微調整しなければならないため、通常のゴム足で運用しているが、いずれスパイクを履かせたスクエアなセッティングを試みるつもりだ。その時にはまたリポートする予定である。
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個性派アンプ『SOULNOTE』使用開始!(その1)

2007-09-07 06:49:44 | プア・オーディオへの招待
 ステレオのアンプを買い替えてしまった。前に使っていたアンプであるMARANTZのPM8001を購入してから1年3か月ほどしか経っておらず、異例の早期更改だが、どうしてもPM8001に馴染めないのだから仕方がなかったと言える。

 PM8001は店頭試聴の結果は良好だったが、いざ買ってみると中高音ばかりが出しゃばって全体的に薄口の、要するに“スカキン”の音であることが判明した。それでもCDプレーヤーの更改をはじめ電源ケーブル、RCAケーブル、スピーカーケーブルなどの交換、そしてもちろんセッティングなどを煮詰めることによって何とか我慢できるレベルまで持っていったのだが、もともと高域に艶をのせて店頭効果だけを高くするという音造りだったので、1年以上付き合ってくると完全に飽きてしまったというのが本音。



 今回新たに調達したアンプは、SOULNOTEsa1.0という機種である。馴染みのないブランドだが、それもそのはずで昨年(06年)に発足したばかりの国産ニューカマーである。新しいメーカーとはいっても、主宰者はオーディオ業界某大手のエンジニアだった人物。先行して発売された20万円台のアンプやDACの出来は上々で、初めて普及価格帯(とはいっても¥105,000だが ^^;)に打って出たこのsa1.0も屹立した個性と品質を誇っている。

 本製品の一番の特徴は出力が10W×2(8Ω)しかないということ。最近は数万円のミニコンポでも30Wや40Wのパワー表示があるのに、単品アンプでこの低出力は何かの冗談かと皆思ってしまうだろう。しかし、生産側に言わせるとパワーを犠牲にする代わりに部品や回路をブラッシュアップして実用音量での高品質を追求したのだという。なるほど、いくら数百ワットのハイパワーのアンプを使っていようと、一般家庭で聴いている音量はせいぜい数ワットでしかない。ならばその実際的シチュエーションでのクォリティを徹底して上げるというのも、ひとつのやり方である。

 実際に音を出してみる。最初は急激に上下左右の音場が狭くなったようで面食らったが、しばらくすると、それは音像の不必要な肥大が完全に抑え込まれ、適正なサイズになったためそう聴こえただけであることが分かった。反面、奥行き方向の音場はグンと伸びている。ヴォーカルは口が大きく成らずにナチュラルで生々しくなり、低域の分解能と力感が大幅上昇。高域は非常にクリアだが少しもキツいところはない。音の立ち上がりと立ち下がりの速度は特筆もので、聴いていて実に気持ちが良い。少なくとも以前のPM8001とは次元の違うサウンドだ・・・・というより、他の大手メーカーとは全くアプローチの異なる清新なサウンドと言って良いだろう。ウチの嫁御など“最初からこれ買っときゃ良かったじゃないの!”と洩らしていたが、あいにくPM8001を購入した時にはSOULNOTEという銘柄そのものが存在しなかったわけで・・・・(笑)。

 低出力で懸念された音量の方も、普通に使う限りまったく問題がない。ロックを鳴らしてもパワフルに決まる。ただし、これは私の使っているスピーカーの能率(アンプの出力に対して得られるスピーカーの音圧の割合)が89dBと決して低くはないことにも起因している。試聴した際にいろいろなスピーカーと接続したが、能率が85dBを切る製品はまったく鳴らないと言って良い。たとえばB&WのCM1とかONKYOのスピーカーなどの低能率のものには不向きである。そして説明書には“スピーカーのインピーダンス(交流電気抵抗)は8Ω以上限定”とある。低インピーダンスのスピーカーを高音量で駆動することによるアンプの負担を回避するための但し書きだろう。ショップでは6Ωや4Ωのスピーカーも繋げていたが、ここは説明書通りにしておく方が無難かもしれない(私が使っているスピーカーは8Ωなので大丈夫だったけどね ^^;)。



 背面の写真を見ても分かるように、本製品には舶来製の高級スピーカー端子とか金メッキを施した入力端子みたいな豪華な外見とは縁がない。実用一点張りである。しかし、そこが功を奏しているのだと思う。ヘタに見栄えの良いメッキ仕上げを起用するとサウンドが“メッキの音”になる場合もあろう。そしてこのアンプにはリモコンがない。トーンコントロールやバランス調整ツマミもない。前面パネルにあるのは電源スイッチと、ボリュームと入力切り替えだけだ。しかし質感は高く、堅牢なキャビネットが特徴のメイド・イン・ジャパンである。

 さらに見逃せないのが、本製品は奥行き寸法が約24cmと、かなりの“薄型”である点だ。私はかねてより、単品オーディオ製品(ローエンド機を除く)の極端な奥行きのデカさに閉口していた。10畳を超えるリスニングルームを確保でき、しかも機器を壁から1メートル以上離した場所に設置が可能な一部のマニアを除いて、ほとんどの一般ピープルは音響機器を家具と同じく壁際に置いている。当然ながら機器の奥行きが小さい方が生活空間をより多く確保できる。4畳半や6畳間の部屋に奥行きが40cmも50cmもあるアンプやプレーヤーを入れると、狭い部屋がますます狭くなるではないか(爆)。

 たとえばテレビはブラウン管の時代から庶民の住宅事情に合わせて薄型仕様へとシフトしてきた。他の家電品も同様に省スペース指向である。なのに(少なくとも日本では)オーディオ製品だけが完全に蚊帳の外で、今でも平気で重厚長大で恰幅の良い製品ばかりを投入している。今後も“アンプ類はデカくて貫禄たっぷりのルックスが不可欠”と思い込んでいるマニアだけを相手にするのならそれでもいいが、少しでも市場の拡大を望むならば、すぐにでもメーカーは(ハイエンド機は別にしても)省スペース路線に転換すべきではないか。

 さて、アンプを設置するにあたり当然ケーブルも吟味している。それについては「その2」で述べます。
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「恋するマドリ」

2007-09-06 06:49:07 | 映画の感想(か行)

 アパートの上階に住んでいる若い男の元・彼女は、ヒロイン新たに入居した部屋にかつて住んでいて、その元・彼女はヒロインが前に住んでいた家に引っ越している・・・・という、呆れるような御都合主義が発端になって展開するラブコメディだが、観た印象は決して悪くない。それどころか全編にわたって心地良い雰囲気を味わえてしまう。

 これが監督デビューで脚本もこなしている大九明子は、クサさ満点の設定を力ずくで観客に納得させるべく大仰な仕掛けに走って・・・・は決していない(笑)。その代わり、日常よりホンの少しズレたモチーフを周囲から徐々にちりばめ、ドラマを“完全な絵空事”にしないように、いわば搦め手から攻めてくる。

 主人公が美大生であることからファンシーな小物やインテリアで作品のカラーの“ツカミ”を披露したあと、彼氏は近畿の山師の息子で農水省の客員研究スタッフという、これまた浮世離れした設定。彼氏の元・彼女はインドに傾倒している建築士。隣の部屋は小唄の師匠で、極めつけはコメディ・リリーフとして登場するプロレスラー兼業の運送屋連中だ。それらをあからさまな強調感で画面に横溢させるのではなく、腹八分目に抑制されたユーモアで小出しにしてくるあたりは上手いと思う。

 ヒロインたちがよく口にする“椅子もニッコリ、夕陽もニッコリ、私もニッコリ・・・・”といった決め台詞は単に語感の可愛らしさを狙っただけではなく、確実にドラマ運びにリズムを持たせて盛り上げる機能がある。そして岡部淳也によるタイトルバックとエンディングのアニメーションが抜群の効果だ。

 これが映画初出演となる主演の新垣結衣は素直な個性で好感触。本当に最近の若手女優陣(22歳以下)の充実ぶりには嬉しくなる。彼氏役の松田龍平は今回は気の良い青年役に徹して悪くないし、元・彼女に扮する菊地凛子は今までの出演作の中で一番納得できるパフォーマンス。案外こういう肩に力の入っていない自然体の役柄の方が彼女の資質に合っているのではないかと思った。

 見ようによってはサラサラと流れる環境ビデオみたいな作品なのであるが、この手触りの良さと温かさは捨てがたい。観る価値はあると思う。
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「羊たちの沈黙」

2007-09-05 06:46:16 | 映画の感想(は行)
 (原題:The Silence of the Lambs)91年作品。御存知“ハンニバル・レクター”を一躍有名にしたジョナサン・デミ監督作品でオスカー作品賞などかなりの評判を取った映画だ。若い女性を誘拐して殺害、その皮膚を剥ぐ、という凶悪な連続殺人事件を追うFBIは拘留中の天才的精神科医にして変質的殺人鬼レクター博士から心理面での手がかりを得ようと、誰の審問にも応じない彼の担当として実習生のクラリスを抜てきする・・・・という話の概要は有名作なので詳しく説明するまでもないだろう。

 で、私としては期待したほどではなかった、というのが正直な感想である。第一にプロットが弱い。ポイントになるはずの犯人の動機が前半部分でわかってしまうし、犯人そのものも描写不足。死体のノドに押し込められた蛾のサナギの意味がイマイチ納得できない。犯人の人となり(たとえばその異常性と普段の生活での人畜無害さの落差など)をもっと出してほしかった。

 映画のタイトルの意味はクラリスの少女時代における精神的外傷からきているが、これも十分活かされているとは言い難い。また、映画中盤のクライマックスともいえるレクターの脱走シーンだが、その方法はショッキングではあるが、途中でネタが割れてしまう。さらに、重要なキャラクターであるはずのFBIの上司もこれといった見せ場がない。

 ということで、あまり成功しているとは言えない映画だが、観る価値はある。それはクラリスを演じるジョディ・フォスターの熱演だ。地方出身で、生い立ちも幸福ではない、それでいて嘘のつけない誠実な性格のヒロインをうまく演じている。彼女が最初にレクター博士とガラスごしに“対決”する場面はこの映画の一番の見もので、お互い戦略を練りホンネを引き出そうとする丁々発止のやりとりは見事としか言いようがない。しかし、レクターに扮するアンソニー・ホプキンスはいただけない。狂気がなんとなく表面的で、真におそろしいものを見つけることができなかった。外見の変態ぶりよりも、性格をさらに突っ込んで描いてほしかった。
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「ベクシル -2077 日本鎖国-」

2007-09-04 06:46:11 | 映画の感想(は行)

 「ピンポン」の曽利文彦監督によるCGアニメーション。はっきり言ってつまらない。2077年、ハイテク鎖国で世界から孤立した日本に米国特殊部隊の女性兵士が潜入し、思わぬ真実に遭遇するという話だが、物語の成立する条件を完全に無視したような設定には呆れる。

 だいたい、たったひとつの企業(ロボット製作会社)が日本を完全支配しているという状況って何なんだ? しかも、その企業の実体は“個人経営”に近い。こういう“零細企業”がどうしてスーパーパワーを身につけたのか、いくら“先端技術を持っていた”としても、国家の中枢に食い込むには相当のノウハウが必要になる。少なくとも“個人”では無理だ。

 官僚をどうして丸め込んだのか。政治家をどうやって籠絡したのか。国民を黙らせた方法は何だ(これについては一応の説明はあるが、その前段の過程がないと説得力ゼロである)。そうそう、皇室に対してどう対処したのか。そのへんをまったく無視して“未来の日本は巨大コングロマリットに牛耳られていました”とセリフのひとつで片付けられては困るのだ。

 しかも鎖国であるはずなのに、ロボットはアメリカをはじめ世界各国に輸出されているという。他国との交流を拒絶した怪しげな国の製品を、どうして平気で使っているのか。米国もバカではないから、その製品を徹底研究して競争力のあるロボットを考案すればいいものを、どうして唯々諾々と日本の巨大企業の軍門に下っているのか(スパイやロビイストの存在も暗示させるが、その程度では屁の突っ張りにもならんだろう)。そもそも、貿易時の決済方法は何だ? 為替レートの状況ぐらい説明してほしい(爆)。

 で、生き残った“日本人”たちは戦後すぐのような焼跡闇市状態の生活をしていて、その様子をヒロインが“活き活きしている”と形容して感心するくだりがあるが、おそらくはシビアな状況に追い込まれてイヤでも“活き活きと”せざるを得ない彼らに対し、他国のねーちゃんが勝手に感想を述べるのは愉快になれない。そもそも何で焼跡闇市なのか。ひょっとして邦画のトレンドである“昭和ノスタルジア”に乗っかったのか?(笑)

 それでも映像や活劇場面が素晴らしければ評価はできるのだが、中途半端に劇画調で血の通っていないキャラクターデザインと、過去に目にしたことのあるような没個性のアクションシーンには大いに萎えた。特に、荒野を動き回る巨大な鉄屑の化け物など「砂の惑星」の“ワーム”とコンセプトがえらく似ていて脱力する。黒木メイサをはじめとする主要登場人物の声の出演も壊滅的にヒドい。本職の声優を起用すべきではなかったか。

 それにしても、日本を平気で滅亡状態にするシチュエーションを考え出した作者の“自虐的スタンス”は大いに気になる。中国や北朝鮮を対象にした方がはるかに説得力があると思うのだが、ひょっとして作者は“あっち(左)方面”の人なのだろうか(苦笑)。
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