元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「スタンドアップ」

2006-03-22 06:59:06 | 映画の感想(さ行)
 (原題:North Country)70年代終わりのアメリカ。ミネソタの鉱山で炭鉱夫として就職したシングルマザーのヒロインがセクハラをはじめとする劣悪な労働環境に抗議し、勝利をつかむまでを描く。実際にあった出来事を元にしているという。

 ハッキリ言ってこの作品、実話を元にしている割には筋書きが随分と甘い。

 偏狭な堅物だった主人公の父親が、終盤突然に“リベラルなオヤジ”になってしまうのをはじめ、いつの間にやら賛同者が増えるあたりや、クライマックスのはずの裁判のシーンも御都合主義的展開で脱力する。

 そして何より作者は主題の本質に気付いていない。確かにヒロインたちが置かれた状況は非道だが、そのシチュエーションの中で“女性労働者の権利”だけを勝ち取っても無駄だ。極論すれば、彼女たちに辛く当たる男性労働者の“ここにはオンナは要らない!”とのセリフの方がよっぽど真理を突いている。

 過酷な肉体労働と粉塵などの健康被害が懸念される鉱山という職場に、どうして女がいなければならないのか。そんな3K職種に女が就かなければならない社会的状況って一体何なんだ。ヒロインのようなシングルマザーでも、安全な仕事で生計を立てられるような雇用環境の確立こそが緊急課題なのではないか? そこを捨象して“女性の権利拡大!”とのシュプレヒコールをあげてみても、作者と主人公のフェミニズム的欲求を満足させるだけで、何の解決にもなっていない。

 主演のシャーリーズ・セロンは頑張っているが、このようなネタに合っているとは思えない。いくら以前に(まぐれで? ^^;)オスカーを取ったとはいえ、共演のフランシス・マクドーマンドと比べれば格が違いすぎる。もっと身の程をわきまえてお手軽な役柄だけに徹するべきだと思う。
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「シムソンズ」

2006-03-21 08:02:08 | 映画の感想(さ行)

 北海道常呂町で結成され、オリンピックにも出場したカーリング・チームの実録映画。

 これがデビューとなる佐藤祐市監督の腕は二流で、シークエンスの繋ぎがぎこちなく、登場人物の動かし方もサマにならない。早い話、質的にはお手軽テレビドラマとそう変わらない。だいたい、主人公が町の名物で学校の体育の授業にも取り入れられているというカーリングのルールさえ知らなかったなんて噴飯ものではないか(爆)。

 しかし“スポ根もの”という娯楽映画の王道路線はそんな不手際を吹き飛ばしてしまうのだから有り難い。筋書きも“落ちこぼれ達が集まって精進を重ね、大きな大会で活躍する”という観る者を安心させる(笑)定石に則っているし、肝心の競技のシーンも申し分ない。特にメジャーとは言えないカーリングについてのルール解説を簡潔にこなし、あとはヒロインたちの奮闘のみにカメラを向けるという割り切り方は賢明。クライマックスは結構盛り上がる。

 映画の出来としては「シコふんじゃった。」や「がんばっていきまっしょい」には負けるけど、これはこれで十分楽しめる。

 それにしても、主演の加藤ローサ(←元気でよろしい ^^;)は“いかにもハーフ”という顔立ちなのに、家庭環境が全然それっぽくないのには苦笑した。今は亡き父親の遺影にイケメンの白人男性なんかが写っていたなら、少しは納得できたかもしれないが(爆)。
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「プライド 運命の瞬間」

2006-03-20 06:51:28 | 映画の感想(は行)
 98年作品。東京裁判での東條英機(津川雅彦)の行動に焦点を当てた2時間40分の大作だが、ひとことで言って“いい部分とつまらん部分が同居している映画”といったところか。

 “いい部分”というのは、ストーリーのメインたる裁判のシーンである。最初、カメラワークが落ち着かず、少し画面に違和感を持ったものの、中盤近くになるとかなりの盛り上がりを見せる(法廷ものにあまり馴染みがない日本映画では珍しいとも言える)。クライマックスのキーナン検事と東條との「対決」は特に見もの。本物の裁判記録と一字一句違わないセリフまわしであれだけ迫力を出せるってことは、やはり監督(伊藤俊也)の力量だろうか。たぶん実際の裁判もこうであったろうと思わせる画面展開である(「能」のシーンは蛇足でしかなかったが ^^;)。

 さて、“つまらん部分”というのは、上記の法廷場面を除いた部分のほとんどがそうである。副主人公であるパール判事のエピソードは、史実では重要だが、映画ではまったくの余計だ(当初は彼を主人公にする予定だったらしいが)。大鶴義丹と戸田菜穂にいたっては、何しに出てきたのかもわからない。つまり、法廷の外のシーンでは、とたんに演出が弛緩してしまうのだ。東條一人にストーリーを絞り、ギリギリまで主人公の内面に迫ってほしかった。

 このネタでは上映時間は長いと思った。ラストも裁判終了で映画も完結し、後日談は字幕で触れるだけにしておけば、もっとピシッとした内容になったろう。大島ミチルの音楽は良いけどね。

 それと、何でモノクロで撮らなかったかなあと思った。ドキュメンタリー・タッチを強調するとともに、ヘタな合成シーンをカバーする上で有効なはずだが・・・・。

 要するに、出来としては万全ではない。でも、この題材も含めて、まあ観る価値はあるとは思う。
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「800 TWO LAP RUNNER」

2006-03-19 08:44:04 | 映画の感想(英数)
 94年作品。「TWO LAP」とは1周400メートルのトラックを2周すること。つまり800メートル競争のことだ。下町のヤクザの息子で不純異性交遊を見逃してもらうかわりに無理矢理陸上部に入らされた中沢(野村祐人)と、大金持ちのボンボンで陸上競技一筋の広瀬(松岡俊介)の2人の高校生ランナーを中心に映画は進む。彼らにからむのが陸上界のマドンナである翔子(有村つぐみ)、足の悪いナゾの女・杏子(河合みわこ)、広瀬の妹・奈央(白石玲子)らの女性陣。川崎を舞台に、それぞれの青春ドラマが展開する。

 ところがこの映画、この題材から当然予想される“スポーツ根性ドラマ”とはほど遠い位置にあるのだ。汗くささ、涙、努力、忍耐etc.そんなものは皆無。かわりにあるのは、非行、セックス、同性愛、近親相姦etc.でもムサ苦しい“不良少年映画”とも全然違う。夏のまぶしい日差しの下、スカーと抜けたような映像にうつし出されるのはカラリとした今様の青春群像。この意図はかなりいいと思う。でも・・・・。

 監督は廣木隆一。キャストもすべて当時の新人。こういう作品は映像のリズムにノレるかノレないかで評価が決まってしまう。残念ながら私はノレなかった。理由は簡単。余計なシーンが多すぎるからだ。

 中沢が延々と海岸を走る場面、中沢と奈央がカラオケをやるシーン、広瀬と杏子のやたら念の入った前戯etc.もうめちゃくちゃ長ったらしい。映画の主旨からして、これらのシーンに特別な意味などあるわけがない。映画のノリでしかない。これにノレないと映画自体も無意味だ。単なる環境映像ソフトとしての価値しかない。

 意味がないからダメだということはない。もともと若者には理性よりも生理が勝っているところがあるから、理屈よりも生理をギリギリまで描き出せば、それ相応の見ごたえある映像に仕上がる(相米慎二の「ションベン・ライダー」なんか好例)。でも、それに徹するには設定もストーリーも無視して全編これ映像のコラージュにしなければならない。しかし、映画は最後まで800メートル走の勝負にこだわってしまう。しかもスポーツ映画にとって致命的な迫力のなさ。これでそれまでの映像のコラージュらしきものは、慢然とカメラを回しただけのフィルムの浪費でしかなくなってしまった。

 まあ、好きな人にはたまらない映画だろうが、私としては薦めたくない。
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「博士の愛した数式」

2006-03-18 07:42:52 | 映画の感想(は行)

 これは脚色の勝利と言って良い。何より見どころ(そして泣かせどころ)が小川洋子のベストセラーである原作とは別の、映画独自の演出により形成されているところが素晴らしい。

 小説版ではラストにチラッと出てくるだけの“成長して数学教師になったヒロインの息子(吉岡秀隆)”が、映画では冒頭から登場して回想形式で映画が進むことにより、ストーリーの過去完結性と物語性が高まったことに加え、“博士”の人柄およびヒロインとの関わりがそのまま現代に向けてのメッセージとして純化されていることにも感服する。また、それによってラストの処理も実に効果的に仕上がった。

 正直言って原作では文系の読者には辛かった数学理論の披露も必要最小限に抑えられ、同時に原作で“数学ネタ”を巧みに中和していた“阪神タイガース云々のネタ”も控えめにしている。その代わりに寺尾聰の役者としての存在感を前面に出し、“博士”の高潔な人格と前向健忘症患者としての苦悩を印象づけている。

 さらに舞台を長野県に置いての美しい映像と加古隆による絶妙なスコアをも繰り出す。このへん、さすがは「阿弥陀堂だより」「雨あがる」の小泉堯史である。ヒロイン役の深津絵里も実に魅力的だ。

 ただし難点もあり、子役のヘタさ加減には閉口するし、何より浅丘ルリ子扮する“博士”の義姉が出てくるパートが異質に過ぎる。ここだけ演出リズムが停滞したような印象を受けるのは、大女優からの“じっくりと撮りなさい”との指示があったせいだろうか(笑)。なかなか難しいものである。
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オーディオむかし話/消えたブランド

2006-03-17 07:00:05 | プア・オーディオへの招待
 夏に買い換える予定のアンプ(あくまで「予定」ね ^^;)を物色していたら、もはや安価な単体ステレオアンプを作っている国内メーカーがマランツとデノンとCECの3つしかないことに愕然としてしまった。高級機種に目をやってみても、アキュフェーズとラックス、それとエソテリック(ティアック)以外には最近ボチボチと単体部門に復帰してきたオンキヨーぐらいしかない(ガレージメーカーを除く)。

 昔はこうじゃなかった。アンプに限らず、選択に困るほどに沢山の国産機種が揃っていたものだ。

 ブラックパネルが売り物の、今は無きアンプメーカーの大手サンスイは、毎年モデルチェンジをして大量のラインナップを市場に送り出していた。私はサンスイの音は好きではなかったが、あの大艦巨砲主義みたいな重厚長大な物量投入は、マニアには堪えられないものがあっただろう。

 今やミニコンとカーステレオのメーカーとして知られるケンウッドは、昔はトリオ(TRIO)という社名だった。トリオは最もアンプを売ったメーカーではないだろうか。あのパワフルかつスカッと抜けた音は若者に大受けで、私が最初に手に入れたアンプがトリオだったし、周りにも所有している連中が多かった。ケンウッドという名前は元々トリオの海外向けブランドだったが、市場調査の結果トリオという名前のイメージがイマイチだったため、社名まで変更してしまった。ちなみに、ケンウッドが大衆路線を取る前に退社・独立した技術者達が作った会社がアキュフェーズである。

 トリオのアンプとよく組み合わされていたのがダイヤトーンのスピーカーである。ダイヤトーンは三菱電機のオーディオ・ブランドで、前にも書いたけど絶大な人気を誇っていた。三菱電機に限らず、80年代までは家電メーカーが積極的にオーディオ部門に進出していたものだ。

 松下電器のオーディオ・ブランドはテクニクス(Technics)である(今ではDJ機器にその名を残すのみ)。技術的には世界トップクラスだった。中でも世界で初めてダイレクト・ドライブ方式のターンテーブルを開発した時は驚いた。テクニクスがなかったら、ヒップホップで使うスクラッチも生まれなかったかもしれない(笑)。スピーカー部門も巨大なリニアフェイズ型や平面振動板、後年には漆を使ったユニットなど、まさにやりたい放題だった。正直私はテクニクスの音は物理特性はスゴいけど無味乾燥という印象を持っていたが、90年代に入るとそれが良い具合に昇華されて清涼きわまりない独自のサウンド世界に到達。だが、その後撤退してしまった。残念なことである。

 今では考えられないかもしれないが、東芝もオーディオに乗り出していた。東芝のブランド名はオーレックス(Aurex)という。テクニクスほどではないけど、プレーヤーからスピーカーまでフルラインナップをそろえていた。特に得意のプラズマ技術を活かしてカセットデッキのVUメーターにプラズマ・ディスプレイを搭載したのには驚いた。他にもセパレート・アンプはマニアに大評判。スピーカーもユニークだった。でも撤退するのも早かった(笑)。

 日立のオーディオ・ブランドはLo-D(ローディ)と呼ばれた。確かメタルコーンを商品化したのはLo-Dが最初ではなかったか。カセットデッキでも2モーター・3モーター方式を積極的に採用し、ラジカセの延長線扱いされていたカセットデッキの市場価値を押し上げた。三洋電機のオーディオ・ブランド名はオットー(OTTO)。会社自体が地味なのでこっちもイマイチ目立てなかったが(笑)、発泡メタルを振動板に採用するなど思い切ったことをやった。そしてリニアモータードライブ方式のターンテーブルはマニアや評論家の絶好の改造の素材となった。シャープも負けじとオプトニカというブランドを立ち上げたが、こっちは実績を上げていない。ただしシャープはデジタルアンプの部門で今でも独自の地位を確保している。

 NECもアンプを作っていた。A-10と呼ばれたその機種は、国産離れしたデザインと採算度外視の物量投入でファンを驚かせたが、やっぱりペイできずに生産終了となった。あの時私も買っていればよかったとマジで後悔したものだ。

 あと、コーラルやクライスラーといったスピーカーメーカー、カートリッジ専門のサテン、プレーヤーのマイクロ、テープデッキのアカイ(およびA&D)など、今では消えてしまったメーカーやブランドは数知れず。これらが今でも生き残っていればと思う。だが、オーディオ自体の市場が縮小した現在、資本提携等で不況を乗り越えたデノン(昔のデンオン)や、スピーカー生産に特化して何とか業界に地位を築いているビクターなど、現役メーカーの頑張りの方を認めるべきだろう。

 ・・・・しかしそれでも、次々と新規ブランドが生まれている欧米の状況と比べると、やっぱり寂しい。どこか大手IT企業や投資ファンドあたりが、これらのブランドを復活させてくれないかな・・・・などと夢のようなことを思ってしまう。
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「そして、ひと粒のひかり」

2006-03-16 21:21:39 | 映画の感想(さ行)
 (原題:MARIA FULL OF GRACE)こういう映画を観ていると、日本人に生まれてきたことが“幸福”であると思い知らされる。

 コロンビアの田舎町で生花工場に勤めるヒロイン。横暴な上司と単調極まる仕事。彼女は耐えられず辞めてしまうが、家に帰れば彼女の収入をアテにしていたロクでもない母親と身持ちの悪い姉がいるだけだ。さらに、いい加減なボーイフレンドの子を身籠もってしまった彼女に出来るのは、麻薬の運び屋しかない。

 コカインの固まりを胃の中に収め、持ち出し先で無理矢理身体の外に出すというシビアな手口もさることながら、主人公のような一般人が簡単に悪事の片棒を担いでしまう社会状況に慄然としてしまう。コロンビアはこの世の地獄である・・・・と何かのコラムに書いてあったが、それも頷けよう。

 だが、こういう理不尽なストーリーでありながら映画自体が暗くならず、また観客を最後までスクリーンから目を離させないように出来たのは、主演のカタリーナ・サンディーノ・モレノに尽きる。逆境をものともしない鋭い眼差しや、病院でお腹の子の心音を聞くシーンの優しい笑顔が実に印象的で、さすが本作でオスカー主演女優賞候補になっただけのことはある。

 これがデビュー作となる監督のジョシュア・マーストンは地元の者ではない(アメリカ人である)ためか、コロンビアの現状をクールに捉えており、対象に接近しすぎてタッチが重苦しくなるのを回避している。次回演出作の「The Iraqi Convoy Project」も楽しみだ。
 
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「39/刑法第三十九条」

2006-03-15 06:52:44 | 映画の感想(英数)
 猟奇的な夫婦殺害事件の容疑者として逮捕されたのは若い舞台俳優(堤真一)であった。多重人格と見られる精神障害の発作を見せる彼は刑法39条により“心神喪失者”として無罪になる公算が強くなるが、その症状に疑問を持った精神カウンセラー(鈴木京香)は再鑑定を提案する。98年の森田芳光監督作。

 まず、「銀残し」と呼ばれるモノクロに近い色調とか極端に不安定な画面の構図などの映像ギミックに目を奪われる。そしてキャスト陣の過剰な頑張り。根暗を絵に描いたような鈴木の役作りや、鑑定官に扮する杉浦直樹の神経症的な演技、岸部一徳の変質的な刑事、樹木希林の食えない弁護人や過食症のヒロインの母を演じる吉田日出子など、まさに笑いさえ起こりそうな演技バトルロワイアルだ。そして何よりこのシビアな題材。その意味では観る価値はあろう。

 しかし、それだけ観客の側に真に迫ってくるかというと、必ずしもそうじゃないのだから映画作りは難しい。一番感心しないのが、これが“法廷ミステリー”でも“サイコ・サスペンス”でもなく、“プロパガンダ映画”だってことだ。作者は「刑法第39条なんて道理に合わない。いくらキ○ガイだろうと、重大な犯罪を犯した者は極刑に決まっている」と思っているらしい。実は私もそう思う。しかし、今回ひとつの法解釈に過ぎないこの主張だけをメインにして映画の娯楽性と両立し得たのか。残念ながら無理だったようだ。

 事件の真相は映画の中盤にして岸部刑事によって早々に明かされてしまうが、それはやっぱりヤバイ。ここは伏線を巧妙に張りまくって“実はこうなんだ!”とラストにぶちあげる方がインパクトが強いし、娯楽映画としての図式にのっとっていると思う。

 作者の見解ばかりが前面に出る終盤を見ると、ひょっとして一時よく作られた松本清張原作の社会派ミステリの復活を狙ったのかとも思われる。当然、あのスタンスが現在でそのまま通用するはずもなく、もっと練りに練った作劇が必要なのは言うまでもないが。ここは刑法よりも少年法をメインにした方がアピール度は高かったかもしれない。
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財政再建至上主義には愉快になれない

2006-03-15 06:46:43 | 時事ネタ
 “もういいよ!”と言われるかもしれないが(爆)、再び財政赤字について述べてみたい。去年の選挙の前にテレビのニュース番組でキャスターの古館某が“あふれる財政赤字! まさにニッポン崖っぷち!”と煽っていたが、そう言ってる本人はたぶん財政赤字と財政危機と財政破綻との違いも分かっていなかったんだろう。

 国家財政が赤字・・・・確かに褒められたことではない・・・・ように思える。だが“赤字が膨大だ。このままでは破綻だ。ああ大変だ大変だ”と嘆いている奴に対し、こう言ってみればどうだろう。

 “財政赤字が700兆だか800兆だか、財政赤字額の対GDP比はかなりのもので、この数字だけ見たら確かに大変だね。でも、今のところ国債のデフォルトも大恐慌も起こる気配はないんだよね。そもそもアナタは「このままじゃ破綻だ」と言うけど、いったい財政赤字がどのぐらいになれば、国家財政は「破綻」するのかな?”

 かなりの確率で、相手は黙ってしまうはずだ。ほとんどの一般ピープル及びマスコミの認識も、たぶん「その程度」である。つまりは莫大な財政赤字の額だけを提示されて、単純にビビって浮き足立ち右往左往してしまうのだ。少しでも冷静に“そんなに財政赤字額が大きいのに、現時点でどうして国家財政は破綻しないんだろうか・・・・”と考えればいいのだが、一般ピープルにとって、この“冷静な考察”ってやつが最も苦手らしい。

 財政赤字額に驚く前に、これだけの赤字がありながら今でも国債を出し続けていられる日本の“国力”ってものに少しは想いを馳せたらどうなのか。ハッキリ言って、財政赤字ばかり気にするのは“自国を貶めている”という意味で、所謂“自虐史観”と根が一緒である。山のような対外債権と政府所有資産があり、財政破綻とは縁のないはずの我が国の状況には目もくれず、ひたすら“赤字を出す日本の財政構造は問題だァ!”と勝手に自虐している連中が何と多いことか。そういう本人達に限ってロクな額の税金を払っていなかったりするのだから、お笑いぐさだ。

 どこぞの学者が“自虐史観というのは、正確には「自虐したふり史観」だ”と喝破したように、自虐史観論者は“日本はヒドい国でした”と嘆く一方で“日本の過去を断罪しているオレってエラい!”ってな感じで自己満足に浸るという歪な精神構造を持っている。それと同様、財政赤字を憂えている連中は“国家のことを考えている我々は素晴らしい!”とでも言いたいのだろう。だが“自虐したふり”だろうが“憂国したふり”だろうが、テメエらの精神世界で自己完結している点は同じだ。私はこの“実社会を無視した精神論”ってやつが大嫌いである。

 時事ネタに言及する上で“精神論”なんて百害あって一利無しだ。そんなことより大事なのは冷徹な“損得勘定”であり“現実論”である。財政赤字に関して国民サイドからの“損得勘定”で言わせてもらうと、我が国の財政が簡単に財政破綻するほどヤワな構造でない以上、一般ピープルが“国家の借金が増えているのは大変だ!”と狼狽えるのは禁物である。そういう“実社会を無視した精神論”に囚われると、小狡い官僚や政治家やマスコミにつけ込まれ、あとは増税か緊縮財政かの“憂鬱な二者択一”を押しつけられるだけ。国民にとっては“損”である。

 もっと国民は“損得勘定”について執心すべきではないのか。もっと我が侭になったっていいのではないか。単純に“給料上げろー、職よこせー、税金安くしろー、犯罪を減らせー、福祉も充実させろー”と、自分達にとって“得”になることばかり言っていればオッケーなのであり、また我が国にはそれを実現させる元手もスキルも存在するのである。我慢なんかする必要はない。そもそも国民が“現実無視の精神論”に囚われてピント外れの我慢をするとロクなことはない。先の戦争の「前夜」がそうだったじゃないか。

 今のところ、真に“損得勘定”に長けているのは一部の(輸出関連)大企業の幹部であり、官僚であり、政治家だ。もちろん、自分達の“得”のためには、一般ピープルにくだらない“精神論”を吹き込んでババを掴むように仕向けるなんてのは日常茶飯事。もちろん、そんな構図は以前からあったのだが、小泉政権時代になってから露骨になってきたように感じる今日この頃である(^^;)。
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「歓びを歌にのせて」

2006-03-14 06:48:46 | 映画の感想(や行)
 (原題:As it is in Heaven)心臓疾患によりキャリアを中断せざるを得なかった名指揮者(ミカエル・ニュクビスト)が、故郷でコーラス隊の指導をするうちに生きる力を取り戻す姿を描くスウェーデン映画で、2005年アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされている。

 何よりこの元指揮者、薄着&裸足で厳寒の中を出歩いたり、激しく身体を動かしたり、巨乳のねーちゃん(フリーダ・ハルグレン)とよろしくやったりと、心臓に悪いようなことを平気で実行しているのには失笑してしまうが、物語は彼だけを中心に進むのではなく、群像劇のスタイルを取っているのでそのへんはあまり気にならないかもしれない。

 素人ばかりの合唱隊をかつてのマエストロが鍛え上げて国際大会参加・・・・という単純な一種の“スポ根もの”になりそうでならないところがミソである。それまで同好会気分でチンタラやっていた村人たちが、本格的に訓練に励むうち、それぞれの屈託がヘヴィな形で現出するという構図は面白い。

 権威だけを振り回していた司祭がその化けの皮を剥がされるくだりや、暴力亭主から逃げ出すカミさんの話も興味深いが、一番印象的だったのが村を仕切っているつもりの万屋のオヤジに小さい頃イジメられたことをいまだに根に持っている太った男のエピソードだ。改めてイジメという行為の理不尽さを痛感せずにはいられなかった。

 もちろん、ボイストレーニングの場面や初めて公式な席で訓練の成果を披露するシークエンスなど、音楽が持つ高揚感を示すシーンは事欠かない。60代のベテラン、ケイ・ポラック監督の素材への精通度はなかなかのものだと思う。特にDVに悩んでいるカミさん(演じるヘレン・ヒョホルムはプロのシンガーでもあるそうだ)が、ソロで歌う場面は素晴らしい。ラストの処理もハリウッド映画では思いもつかないだろう。観る価値有り。
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