元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

“機会の均等”なんて幻想だ。

2006-03-28 06:52:23 | 時事ネタ
 小泉首相は2月1日の参院予算委員会で、小泉改革に伴う社会格差拡大などの「光と影」論議について「格差が出るのは悪いことではない。能力を生かせる機会が提供されることが大事」と述べた。また、今をときめくUSENの宇野社長の持論は「努力した人間が成果(金銭、地位他)を得るのが公平な社会である」というものらしい。

 なるほど「努力した者が報われる社会こそが望ましい」というフレーズそのものに異議を唱える者はいないだろう。だが、その「努力」の具体的中身は一体何だと問われれば、誰しも言葉に詰まってしまうのではないだろうか。

 たとえば、小さな町工場を切り盛りし、寝る間も惜しんで働く中小企業のオヤジがいたとしよう。たぶん彼の「努力」は相当なものだ。しかし、そんな「努力」も取引先の勝手な都合によりアッという間に水泡に帰してしまうという例は数知れない。あるいは駅前商店街の各商店主は地元の顧客を繋ぎ止めるためにかなりの「努力」をしているだろう。だが、近くに大型ショッピングセンターでも出来ようものなら、そんな「努力」など消し飛んでしまう。

 反対に、ネット取引により一日で巨額の株売買益を得た若者は、いったいどれだけの「努力」をしたのだろう。株分割で利益を大きく見せかけてM&Aの足がかりにした新興ファンドは、その件に関してどの程度の「努力」を払ったのか。さらにUSENの宇野社長は二代目である。彼が今の地位を手に入れるための「努力」と、裸一貫から企業を立ち上げた経営者の「努力」とは、いったいどちらが大きいのか。小泉首相だって親が政治家であり、地盤と看板とカバンは生まれながらにして約束されている。彼が政治家になるために払った「努力」と、元手がなく地方議員の秘書から成り上がった叩き上げの政治家の「努力」とは、どっちが上か。

 卑近な例を出すと、膨大な量の書類の整理に追われて日々残業ばかりのサラリーマンと、ハッタリと舌先三寸で雑事を他人に押しつけて、オイシイ仕事だけしかやらないサラリーマンとは、どっちが「努力」の量が多いのか。

 こう考えると、しょせん「努力」なんてのは抽象的な言葉に過ぎず、その「努力」の中身と方向性は、各個人が置かれたケースによってまったく異なることが分かる。場合によっては、無駄な努力をしない方が上手くゆくこともあろう。要するに「成果(金銭、地位他)を得た人間」すなわち「勝ち組」と「負け組」との「格差」は、「努力の量の多寡」だけで片づけられるものではないのだ。そこには「努力」以外に「才覚」や「運」というものが大きくモノを言う。「努力」をするだけで許されたのは、せいぜい学生時代までだ。

 小泉の言う「誰にでも能力を生かせる機会が提供されること」つまりは「機会の平等」というのもスローガンに過ぎない。どこの世界に「誰しも機会を均等に与える」みたいなスキームを達成した国があるのか。人間ひとりひとりは持って生まれた能力も違えば、環境も違う。もちろん個々のケースにおける「運不運」も厳然と存在する。それでも「機会を誰にでも均等に与えるのがベストな方法だ」というのなら、共産主義みたいなのに移行するしかない。

 あえて言ってしまおう。社会をマクロで見た場合、大事なのは「機会の均等」ではなく「結果の均等」である。

 もちろん、社会主義国家みたいに「すべての結果を均等にする」というテーゼはナンセンスだし、いくら「努力」の中身が千差万別だと言っても、あまり「努力」をしない人間にある程度の「結果」をタダで進呈してやる筋合いはない。私が言いたいのは、まっとうな社会人としてまっとうに生き、それなりの「努力」を怠らない人間に対して、最低限の「結果」は保証するような社会が望ましいってことだ。

 そこそこの学歴でそこそこの実力を持っていれば、誰しもそこそこの人生が送れる・・・・それが王道だ。この「そこそこの人生」ってやつこそ有り難いものはない。何しろ世の中のほとんどの人間は「そこそこ」のクラスなのだから(爆)。いくら頑張っても「成果主義」の名のもとに各人の経済状況を勘案せずにリストラされ、あるいはまっとうな大学を出ても就職もできず、「そこそこの人生」でさえ送れないような社会・・・・そういうのはダメだ。

 最近はフリーターやニートの連中に向かって「しっかりしろ!」と叱咤激励するような風潮があるようだが、まっとうな社会人が「そこそこの人生」からも見放される例が後を絶たない今、どこにフリーターやニートや「負け組」が「努力目標」を見出す余地があるのか。まずは「努力すれば手に入れられるカタギの働き口」のパイを大きくすることから始めるべきではないのか。

 小泉および宇野をはじめとする一部の「勝ち組」が唱える「機会の平等」「努力した者が報われる社会」というのは、現在の「勝ち組」の「特権」を限りなく認め、その他の連中に「努力不足」のレッテルを貼って永遠に「下流」のレベルに押し込めようという、極めてエゴイスティックなものでしかないと思う。
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