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作り方を間違えている映画である。序盤、妊娠9ヶ月のヒロイン・光子が新たに越してきた隣人に対して傍若無人に振る舞って絶句させたり、尋ねてきた運送屋に過度に馴れ馴れしい態度で接してドン引きされる場面まではいい。世間の常識からズレている主人公と周囲とのギャップにより笑いを取ろうという戦法は、おなじみ「男はつらいよ」シリーズをはじめとして、昔からコメディの定番とされている。その意味でこの導入部は正解だ。
しかし、光子が住処を追われて自分が育ったオンボロ長屋に流れ着いてくるあたりから映画は早々に失速する。この長屋およびその近所に住んでいるのは、光子と同じように浮世離れした連中ばかり。ヒロインとの“差別化”がまったく図られていない。
要するに“ヘンな奴と周りのヘンな奴らが、内輪だけで勝手にヘンなことをする話”であり、ボケばっかりでツッコミのない漫才を見せられるがごとく、冷え冷えとした空気が流れるばかりだ。こんな与太話のどこで笑えというのか。さらには後半、シュールな展開を狙ったような“あり得ないパターン”が続発し、どんどん場はシラけていく。
オンボロ長屋でのエピソードは主人公の回想場面などでサッと流し、ドラマの中心をオフビートな光子の振る舞いに翻弄される“カタギの皆さん”に据えた方が、よっぽど盛り上がったと思う。
ヒロインはアメリカ人のダンナからは捨てられ、仕事もなければ金もないシビアな状況に置かれているのだが、とにかく“粋であること”をモットーに楽天的なスタンスを崩さない。それはそれでいいのだが、作者が考える“粋”という概念が、どうも一般的な認識から乖離しているようなのだ。少なくとも、産気付いたにもかかわらず長距離のドライヴを敢行したり、地下に不発弾が埋まっているような長屋に住み続ける事が“粋”であるとは、断じて認めない。それはただの自暴自棄だ。
石井裕也監督は前作「あぜ道のダンディ」でもそうだが、こういった“ダンディズム”とか“粋”とかいう言葉自体の表面的な印象に拘泥してしまい、肝心の中身についてはほとんど精査していないように見受けられる。まだ若くて人生経験が浅いからなのかもしれないが、生半可な認識力で物語の焦点になるようなモチーフを振り回さないでもらいたい。
主演の仲里依紗は力演で、全編腹ボテ姿で押し通すなど役者根性には見上げたものがあるが、映画自体の出来がこの程度では頑張っているのに報われないイメージがある。中村蒼や石橋凌、稲川実代子、斉藤慶子といった脇役も狂騒的に立ち回っているわりには印象に残らない。石井監督にはもうちょっと題材を練り上げる手堅さが欲しいが、次回は他人の脚本で撮ってみるのもいいかもしれない。