元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

“自分探し”なんてマヤカシだ。

2010-12-23 07:24:35 | 映画周辺のネタ
 2002年に「Laundry[ランドリー]」という映画を観て、大いに気分を害したことがある。技巧的に稚拙なのはもちろんだが、窪塚洋介扮する知恵遅れの青年と仲良くなる若い女(小雪)の扱い方に、この新人監督(名前は失念)の人間観察の浅はかさが如実に現れており、そのへんに愉快ならざる感想を持ったのである。

 彼女は不遇な日常から外れ、遠い街で変わった人々と付き合うことにより、(警察の御厄介になることがあったものの)結果として自分を取り戻して人生に前向きに取り組むようになる。映画はこれを共感を込めて描こうとしており、いわば“自分探し”の旅をしてみたら得をしたという設定である。

 しかし、私に言わせればこんなのはウソっぱちだ。映画としてはそのウソ臭さを確信犯的に全面展開するかあるいは徹底的に突き放すという方法もあったのだが、この監督はそこまで素材に対しての批判精神を持ち合わせてはおらず、ただ微温的で退屈な映像が流れるだけであった。



 巷で言われる“自分探し”とは、ここにいる自分は本当の自分ではなく、日常を変えればそれを見つけられるという方法論のことらしいが、それ自体が紛い物であることは論を待たない。そもそも人間は自分一人では“人間”になれない。他者あるいは共同体とかかわり合うことによって初めて“人間”になるのである。だから他者との関わりにおける自分以外に“何か別の自分”はない。他者との関係性そのものが“自分”なのである。

 今ここに日常を生きている“自分”が“本当の自分”であり、非日常に逃避することで“何か別の自分”が現れてくるはずもないのである。日常が不遇なのは自分に他者との関係性を構築する力がないためだ。

 “自分探しの旅”とは単に関係する他者を意識的に少なくする、あるいは他者から逃避することに過ぎない。それで“何か別の自分を見つけられた”と思ったとしても、それは関係すべき他者からエスケープしたことによる“気苦労の軽減”でしかないのだ。

 “自分探しの旅”の終着点で“新たな自分”が別の日常を形成しようとしたら、またしても関係する他者の数が増えることにより“不遇な日常”が再発するだけである。今ここにいる自分がこの場所で他者との関係を改善しない限り、別の場所で“本当の自分”を見つけようとしても無駄なのだ。

 根岸吉太郎監督の「遠雷」で、退屈な農村の暮らしに嫌気がさして蓮っ葉な女と逃げ出した男(ジョニー大倉)が、結局は故郷に舞い戻ってきて主人公(永島敏行)にこう洩らす。「しょせん男と女、どこへ行ってもやることは一緒だよ」。しがない男が漫然と日常を変えたいと思い、漫然と外へ出たものの、漫然としたまんまで何も変わらなかったというやるせなさを描いて出色であった。「Laundry(ランドリー)」の監督には絶対撮れないシークエンスである。

 日常を外れるのは単なる“気分転換”であって“別の自分”なんてどこにも見つかるはずもない。“自分探し”が市民権を持ってしまう風潮は若者のフリーター・ニート増加と微妙にシンクロしているようで、“日常”と戦えない社会構成員全体の虚弱化を現しているとも思われる。そうなったのは、何も不況のせいばかりではないだろう。
コメント
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