89年作品。舞台は1950年代のジョージア州アトランタ。元教師で未亡人のミス・デイジー(ジェシカ・タンディ)は、ある日自動車事故をおこしかけ、息子のブーリー(ダン・エイクロイド)によって、黒人運転手ホーク(モーガン・フリーマン)を雇うハメになる。最初はホークに反感を抱くデイジーも、次第にうちとけていき、やがて二人は奇妙な友情で結ばれるようになる。
ご存じアカデミー賞の作品賞と主演女優賞を獲得した映画だが、正直言ってそれほどのシャシンとは思わなかった。
ソフト・フォーカスをかけた画面がまず気に入らない。こういう映像は、中身もぼやけた甘ちゃん映画と相場が決まっているのだが、やはり今回もそのとおりだった。このミス・デイジーが嫌いなキャラクターである。要するに気むずかしい年寄りであり、私だったら一日たりとも一緒にいたくない人物だ。運転手のホークは彼女となんと25年もつき合うことになるのだが、とうとう対等の関係を結ばないまま、彼女は老人ホームでボケてしまう。納得できない。
二人の関係は最初は「女主人と召使い」であり、それが「やんちゃ娘とその保護者」になり、最後は「ボケ老人とその話相手」になっていく。どうしてもこれが「友情」とは思えない。イコールの関係ではない。
キング牧師の話に感動するミス・デイジーであるが、そのくせ、二人で旅したとき、ホークが途中で用足しのため車を停めることを許そうとしない。「年よりの私がこんなに頼んでいるのに、あなたはわからないのか!」と激怒するホーク。それでも結局、彼女は根本的に変わらないままだ。
凝った衣装や舞台装置など、観ていて感心もするし、巧妙なメーキャップもなかなかの見物だ。ただ、ノスタルジーのぬるま湯につかったようなこのストーリーは、どうしても受け入れ難い。
「ドゥ・ザ・ライト・シング」のテーマ曲を歌っていたパブリック・エネミーのナンバーの歌詞に“「ドライビング・MISS・デイジー」みたいな、黒人を人間扱いしないふざけた映画がアカデミー賞とっちまうハリウッドのいやらしさにはヘドが出るぜ”とあるけど(正確な訳ではないが、だいたいこういう意味だろう)、私もそう思う。アカデミー賞すなわちリッパな映画、という考えは持っていないが、この映画が当時「フィールド・オブ・ドリームス」や「マイ・レフトフット」をおさえて受賞した、というのは、やっぱり釈然としない気分である。
ご存じアカデミー賞の作品賞と主演女優賞を獲得した映画だが、正直言ってそれほどのシャシンとは思わなかった。
ソフト・フォーカスをかけた画面がまず気に入らない。こういう映像は、中身もぼやけた甘ちゃん映画と相場が決まっているのだが、やはり今回もそのとおりだった。このミス・デイジーが嫌いなキャラクターである。要するに気むずかしい年寄りであり、私だったら一日たりとも一緒にいたくない人物だ。運転手のホークは彼女となんと25年もつき合うことになるのだが、とうとう対等の関係を結ばないまま、彼女は老人ホームでボケてしまう。納得できない。
二人の関係は最初は「女主人と召使い」であり、それが「やんちゃ娘とその保護者」になり、最後は「ボケ老人とその話相手」になっていく。どうしてもこれが「友情」とは思えない。イコールの関係ではない。
キング牧師の話に感動するミス・デイジーであるが、そのくせ、二人で旅したとき、ホークが途中で用足しのため車を停めることを許そうとしない。「年よりの私がこんなに頼んでいるのに、あなたはわからないのか!」と激怒するホーク。それでも結局、彼女は根本的に変わらないままだ。
凝った衣装や舞台装置など、観ていて感心もするし、巧妙なメーキャップもなかなかの見物だ。ただ、ノスタルジーのぬるま湯につかったようなこのストーリーは、どうしても受け入れ難い。
「ドゥ・ザ・ライト・シング」のテーマ曲を歌っていたパブリック・エネミーのナンバーの歌詞に“「ドライビング・MISS・デイジー」みたいな、黒人を人間扱いしないふざけた映画がアカデミー賞とっちまうハリウッドのいやらしさにはヘドが出るぜ”とあるけど(正確な訳ではないが、だいたいこういう意味だろう)、私もそう思う。アカデミー賞すなわちリッパな映画、という考えは持っていないが、この映画が当時「フィールド・オブ・ドリームス」や「マイ・レフトフット」をおさえて受賞した、というのは、やっぱり釈然としない気分である。