気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

九年坂 田上起一郎 

2016-07-10 11:07:18 | つれづれ
ふくふくと交差点わたる老女なり空の縫ひ目のほどけつつ春

のつそりと厨にきたり餅をやくもちはさみしき食ひものなるよ

真夜中の卓上にある桃ひとつ われは悩みぬ食つてもよいか

踏切を渡れば左右わかれ道夕日みちびく右にはゆかず

娘(こ)と孫娘(まご)の引越ししたるアパートの戸口に立ちぬ居らぬを知れど

みなれたる三十五年のかへりみち路傍の牛が暗闇にゐる

公園の木にもたれたる自転車のきらきらとせり 今宵飛ぶべし

ふたつめの明治キャラメルなめをれば夜の多摩川はや越えにけり

できたできた湯船のなかでほつこりと卵のやうな良き歌できた

この世への戻り道などありませぬ 黙黙とゆく蟻の十ばかり

(田上起一郎 九年坂 六花書林)

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短歌人同人の田上起一郎の第一歌集『九年坂』を読む。
田上さんは神奈川県の方で、全国集会で数回お会いした。また、6年前、当時の横浜歌会に出かけたときにお世話になった記憶がある。あとがきに「若い頃から何をやっても自分の性格と折り合いをつけることができず、うつうつと過ごしてきた。これではならぬ、このままでは死ねぬと、六十代半ばとはいえ短歌を始めた。心がすこしずつ解放され・・・。歌に出会えて良かったと思う。」という一文が印象に残った。田上さんの歌は、特に感情を言わず、素っ気なく、小池光的とも茂吉的とも読める。跋文で小池さんは、岡部桂一郎の影響を言及している。
わたしは、五首目の歌に強く惹かれた。もう居ない娘と孫娘を忘れられない。引っ越してしまったアパートに、過去のまぼろしのようにしばらく前の家族がいる感覚がよくわかる。
以前の短歌人誌で、娘さんの家の近くまで行って、訪ねないままに帰る歌があった。この歌だったのだろうか。それとも別の歌か。この歌のことも忘れられない。