昨日、成績評価の「内訳」について書いたのだが、その流れとして・・・
世の中、成績について非常にこだわる方もいるのも事実。ただ、成績は各校独自の判断だし、それを比べるすべもない。理由は簡単、「S」~「E」の学生比率を厳格にやっている大学は少ないからである。加えて、そもそも「S」「A」「B」「C」「D」「E」といった評価さえ、各校共通ではないことも上げられる。
産業能率大学は比較的厳しい大学院であった。そもそも、先生が外部の実務家であることが多い上、「学校サイドからSからDまで割合を指示されている」と明言し、その割合に忠実に評価するためである。
無論、すべての先生が情け容赦のない先生ではないし、特に産能総研等本学関連の先生方は、「社会人の学び」ということで「不可」の学生がいないケースもよくあることである。しかし、「授業にすべて出席したのに不可だった」という厳しい先生の噂も耳にしたことがある。もちろん、私はその先生の授業も出席しているのだが、成績は「B」だった(笑)。
それ以前に、不可になりそうな学生は、自発的に出席しなくなるので、そういう意味で、「S(秀)」~「D(不可)」のバランスは取れていたのだと思う。
逆に、明星大学大学院は、特にアカデミックな要素が高かった。なんせ「可」がない。すべて「優」か「良」。その一方で「S(秀)」は存在しない。「可」がつかないかわり、出来が悪いと、自動的に「不可」になるのだと思っている。そう、「優」「良」「不可」という3つの選択肢が主なのだろう。当然のことながら、先生によっては「可」を付けるのかもしれないが、そもそも、教育素人の銀行員がこのような良好な成績なのだから、本職の教育に従事する「学生先生」なら、オール「優」に違いなかろう。
武蔵野大学大学院も、提出した個々のレポートの平均が評価になるとされている。しかし、とある評価「B」のレポート。総合72点ということで「B」なのだが、5提出したレポートのうち、1回~4回は65点、65点、60点、60点という評価・・・しかし、最終レポートを提出し、評価が確定したものが72点となっていた。きっと、悪すぎた場合は「不可」にし、ギリギリでも合格すればアカデミックの慣例に従って「可」は付けないのだろうと思っている。
放送大学大学院は、大学院の単位認定試験であったとしても「マークシート試験」が存在する。いや、それはそれ、ある意味、無慈悲であり、先生の憐憫の情が加味される余地がないのだが、本当に、それで良いのか・・・とさえ、思えてしまう。
面白いことに、修得した単位について、教育関連はすべて「A」以上なのだが、社会経営関連はすべて「B」であった(笑)。教育学修士であるから教育関連「A」以上は当然と言われれば当然なのだが、経営情報学修士にもかかわらず社会経営関連が「B」というのは、己の不徳を反省せねばなるまい。
さて、評価に戻ると、そもそも、最初の大学は50点~60点が「可」とされていた。つまり、一般の大学の評価に適合させると、26科目あった「可」がすべて「不可」に読み替えられる。つまり、「留年」あるいは「退学」ということとなる。あるいは、明星のように「S」がない大学院もあるし、放送大学では存在する「E」(「不可」が「D」なのでそれ以下)がない大学も多数ある。
いい成績なら「首席」になれる!という大きな夢もあろうが、そもそも、産能、明星、武蔵野、放送と4つの大学院を修了してきたが、「首席」という制度は聞いたことがない。唯一、放送大学では学位授与式の際「大学院修了生代表」が謝辞を読み上げるが、この方が「首席」とは限らない。
そもそも、社会人大学院において、「首席」というものが存在したとしても、学位授与式に出席できるかどうか不確実である。「首席」=「謝辞読み上げ」というのなら、仕事の都合で「謝辞不可」ということにもなりかねない。次の成績の方も、その次の成績の方も不可・・・となると、成績なんて無関係となる。
それ以前に、大学院の成績は何で判断するのか?各科目の成績なのか、修士論文の出来栄えなのか?そもそも、多数の研究科がある場合、どの研究科から「首席」を出すのか?やはり、社会人大学院には「首席」はそぐわない気がしてならないし、そのため、「首席」という制度が形骸化しているのではないだろうか?
でも、私の知らないところで、「今年の首席はXX君だったな~」と周知の事実になっているかもしれない。なんせ、私、情報に疎いから。