1単位45時間という文面を振り返って、どうしても思わざるを得ないことがある。
それは「時間」というものを尺度として使うことが正しいかということである。既に9,000件近い記事を書いてきたので、同様の主張をしているかもしれないが、一定の時間をクリアすることで受験資格を与えるのは、果たして間違っていないだろうか?
教室にいさえすれば、授業を理解したと解釈することが正解なのか?あるいは、ほとんど客人がこなかったとしても、そこで一定期間勤務すれば受験資格を与えることが正義なのか?
「その判断するために試験があるんだよ」というのであれば、「時間」という制約を設けずに、試験に合格した人を合格させればよいのではないだろうか?
このことは、授業というものを否定する考えにもつながりかねないが、むしろ、授業に出なくても合格してしまう試験問題を出すこと自体が間違ってはいないのだろうか?
そもそも、社会人にとって大学のカリキュラムは残酷である。なんせ、自分が十分理解したことまで一から学ばなければならない可能性が高いからである。だから、科目履修生という制度は、自分が必要とする学習のみを履修できるものであり、非常に有難いものである。
だが、科目履修生をいくらやったとしても、学位という正式な、社会に通用する証明は発行されない。ただ、自分の好きな分野の能力をレベルアップしたに過ぎないのだ。
そのジレンマを解消するひとつの手段が大学評価・学位授与機構の学位ともいえる。好きな分野の単位を一定数集めれば、学士を取得するチャンスを提供するものなのだから。
・・・ちょっと、話がそれてしまった。とはいえ、英語がペラペラの帰国子女が、「実践英語」という科目が大学のカリキュラムに入っていた場合、本当に履修する必要があるのだろうか?たかだか、45時間分の授業に相当するくらいの学習は、完了しているのだから、それを強制する必要性はないだろう。
だからこそ、45時間という「ものさし」は、既にスキルや能力を取得済の学生には、強引に当てはめる必要はないはずで、ゆえに、「大学設置基準」の「優れた成績をもって修得した学生」という特例につながるのであろう。
しかし、ここで考えなければならないのは、その「優れた成績を持って修得した学生」を識別する手段である。とりあえず、1年目の学生の履修状況を判断して・・・と悠長に構えていると、わずか、4年の大学生活の1/4が終わってしまう。あるいは、私のように短大2年次編入を考えているものにとっては、大学生活が終了した後の話になりかねない。
なら、まずもって、試験をもっと厳しくして、「学習した人は合格」「学習していない人は不合格」という基準を設置し、あとは、自己責任に任せることのほうが理にかなっているのではないだろうか?
そう、実務経験1年とか、2年とか必要な資格についても、実務経験という「時間」の制約を撤廃し、それに見合った「実技試験」を導入すればいいだけである。「実技試験」の労力を惜しむ結果、実務経験というグレーな線引きを求めることとなる。そもそも、有資格者がほしい企業サイドが証明する実務経験。そこに不正が生まれないと信じることこそが、試験実施機関の怠慢であり、おごりであるといえる。
まあ、そんなことを考えるのは、私のような人間だけかもしれないのだが。
それは「時間」というものを尺度として使うことが正しいかということである。既に9,000件近い記事を書いてきたので、同様の主張をしているかもしれないが、一定の時間をクリアすることで受験資格を与えるのは、果たして間違っていないだろうか?
教室にいさえすれば、授業を理解したと解釈することが正解なのか?あるいは、ほとんど客人がこなかったとしても、そこで一定期間勤務すれば受験資格を与えることが正義なのか?
「その判断するために試験があるんだよ」というのであれば、「時間」という制約を設けずに、試験に合格した人を合格させればよいのではないだろうか?
このことは、授業というものを否定する考えにもつながりかねないが、むしろ、授業に出なくても合格してしまう試験問題を出すこと自体が間違ってはいないのだろうか?
そもそも、社会人にとって大学のカリキュラムは残酷である。なんせ、自分が十分理解したことまで一から学ばなければならない可能性が高いからである。だから、科目履修生という制度は、自分が必要とする学習のみを履修できるものであり、非常に有難いものである。
だが、科目履修生をいくらやったとしても、学位という正式な、社会に通用する証明は発行されない。ただ、自分の好きな分野の能力をレベルアップしたに過ぎないのだ。
そのジレンマを解消するひとつの手段が大学評価・学位授与機構の学位ともいえる。好きな分野の単位を一定数集めれば、学士を取得するチャンスを提供するものなのだから。
・・・ちょっと、話がそれてしまった。とはいえ、英語がペラペラの帰国子女が、「実践英語」という科目が大学のカリキュラムに入っていた場合、本当に履修する必要があるのだろうか?たかだか、45時間分の授業に相当するくらいの学習は、完了しているのだから、それを強制する必要性はないだろう。
だからこそ、45時間という「ものさし」は、既にスキルや能力を取得済の学生には、強引に当てはめる必要はないはずで、ゆえに、「大学設置基準」の「優れた成績をもって修得した学生」という特例につながるのであろう。
しかし、ここで考えなければならないのは、その「優れた成績を持って修得した学生」を識別する手段である。とりあえず、1年目の学生の履修状況を判断して・・・と悠長に構えていると、わずか、4年の大学生活の1/4が終わってしまう。あるいは、私のように短大2年次編入を考えているものにとっては、大学生活が終了した後の話になりかねない。
なら、まずもって、試験をもっと厳しくして、「学習した人は合格」「学習していない人は不合格」という基準を設置し、あとは、自己責任に任せることのほうが理にかなっているのではないだろうか?
そう、実務経験1年とか、2年とか必要な資格についても、実務経験という「時間」の制約を撤廃し、それに見合った「実技試験」を導入すればいいだけである。「実技試験」の労力を惜しむ結果、実務経験というグレーな線引きを求めることとなる。そもそも、有資格者がほしい企業サイドが証明する実務経験。そこに不正が生まれないと信じることこそが、試験実施機関の怠慢であり、おごりであるといえる。
まあ、そんなことを考えるのは、私のような人間だけかもしれないのだが。