生涯学習の部屋

資格取得数238。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

在学証明書

2011年01月25日 23時50分37秒 | 武蔵野大学大学院
在学証明書を取得しました。

1通300円。郵便為替での代金支払いとなります。
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ディプロマ・ミル

2011年01月25日 14時39分27秒 | ちょっと立ち止まって・・・
休み中、日頃できないことを色々とやっている。

本などを読んでいると、たくさんの「博士」や「MBA」を書いている作家がいるのだが、どう考えても取得できないはずなのに・・・と思って調べてみると、ディプロマ・ミルに名前が挙がっている。

ディプロマ・ミルとは、直訳すると学位製造工場という意味だが、内容は「学位商法」である。アメリカや東南アジアの大学で、お金を出して博士や修士、名誉博士やMBAといった学位を買うのだ。

申し訳ない程度に、審査用の論文や経歴書を提出させるが、実態は、お金で学位を販売している。無論、正式な博士の方もおられるが、経歴にアメリカ留学がないのに学位を取得しているのも不自然だし、聞いたこともない分野での学位も怪しい。あるいは、××博士で学校名がないものは疑惑の目で見てしまう。

学位は単体では存在しない。学校名とセット売りなのである。××大学より●●大学の方が優れているから学校名が必要と言うわけではない。ただ、博士のような学位を授与した以上、授与した学校がその責任を持つためである。にもかかわらず、学校名を入れないのは、プロフィール欄の文字数の制限なのか、あるいは、調べたら、すぐに学位商法の常連校というのがばれてしまうからか・・・

実際、博士を2つ東大で取得された方を知っている。複数の分野で博士や修士を取得するのも不可能ではない。にもかかわらず、自分の権威づけや著書のPRのため、金で学位を取得するアンフェアーな行為が気に入らないだけである。

私は、そういう人の書いた本は、1冊たりとも買わないし、買いたくもない。
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富士山と月

2011年01月25日 12時51分20秒 | 富士の高嶺
富士山の写真ばかり撮っていると、富士山麓に住んでいるようにみえますが・・・

現実の富士山はこんな感じです。月と富士山・・・微妙な位置付けですね。
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今日の富士山!

2011年01月25日 12時33分35秒 | 富士の高嶺
昨日は見えなかった富士山が、今日は見えていました!
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何にもない・・・

2011年01月25日 08時38分16秒 | ちょっと立ち止まって・・・
先般、友人が講師を勤める勉強会に出たわけだが・・・

その友人と話をしている中で、自分自身の致命的な欠点を悟った。それは、すべて「辛抱が足らない」という点に起因する。私の「根性がない」というか「辛抱が足りない」性格については、ブログを見ている人なら、うすうす気がついているはずである。

そう、最後の「詰めが甘い」ことであり、実は、「完璧」を望まない性格なのである。この致命的な性格は、人生のあらゆる場で「不幸」を招いてきた。大学入試も失敗し、志望校を2ランク落とした上で補欠合格である。当時は志望校の合格可能性もまずまずであり、少なくとも、その1つ下の大学なら十分合格可能だったはずなのに・・・試験の年に、阪神が優勝してしまいましたから。。。

学問もそう。経営学だったり、教育学だったり・・・ある意味、「器用貧乏」。辛抱が足りないから「移り気」なのである。中途半端な専門性が構築されつつあるが、特別な「オンリーワン」的な専門分野がない。

守備範囲は広いが、すべて「セミプロ」あるいは、「ちょっとうわてのアマチュア」レベルなのである。これじゃーなー・・・

一つのことに打ち込めない性格。打ち込もうとすると、途中で「限界」を感じ、投げ出してしまうのだ。

語学もそう。英語だけに専念すればいいのに、中国語、韓国語と手を広げ・・・すべて中途半端。


ただ、この性格のおかげで、色々と学習できたのも事実。資格試験などは、完璧を求めるより、合格ギリギリでもいいという「中途半端さ」のおかげで、多種多様の資格が取得できたのであろう(でも、司法試験や公認会計士試験一本に絞った方がよかったかも)。また、中途半端なりにも、色々な言葉が話せたことで、コミュニケーションにおける信頼関係を築けたこともある。

学問も、色々な分野の、様々な先生に教えをいただけたことは幸運なのであろう。この思いはマルチで学んでいないとなかなか体験できない貴重なものである。先生だけでなく、同期や仲間、その他のつながりも、参加するコミュニティが増えれば増えるだけ、自分の知らない世界で生きてきた方々と知り合うことができた。

普通のサラリーマン生活よりエキサイティングな人生を送っているのだけは確かだろう。
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「脳死は本当に人の死か」

2011年01月25日 08時24分15秒 | 読書
死生学を学ぶ上で、脳死の問題は避けて通ることができない。

脳死の家族を抱える人もいれば、臓器を待っている人もおり、取り上げるテーマとしては、重たすぎるといってもいいテーマである。私も、思うところはあるものの、ブログの中では書かないつもりである。

ただ、このような本をたくさん読んで、無論、偏った見方にならないように、両方の主張に耳を傾けて、自分の考えを構築することが大切だと思っている。
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「甦れニュータウン」

2011年01月25日 07時29分29秒 | 読書
休みなので、読書三昧である。

連休初日は一歩も外出せず。武蔵野大学大学院のレポートを作成した際に、参考文献にした書籍を読んでいた。で、この本の著者は、なんと、元銀行員!1967年に東大を卒業し、当時の財閥系都市銀行に入行。私の生まれた年に、銀行員になったのだ。

1971年「経済成長下の東京と近郊の変貌」で東大より修士、1974年「大都市構造の研究」で東大から博士の学位を授与されている。銀行にいながらにして、博士になられたこととなる。しかもこのテーマで「理学(=人文地理学)」の博士である。

仕事でも本部の副部長まで出世され、また、同都市銀行の研究所の顧問まで勤められたようだ。そういえば、産能大学にも某都市銀行で次長を勤めたトリプル修士の方が教授でいたような・・・仕事もできて、研究もできる人は私の憧れであり、尊敬の対象である。

ただ、残念なのが、この本を書かれて3年後、肺炎のため逝去されている。享年62歳。早すぎる死といえよう。しかし、不謹慎かもしれないが、私には、著者の生き方は非常に見事であり、尊敬に値すると思っている。死して16年経った今、私がこのように著者の作品に触れることができる。著者の肉体は死んでしまったのかもしれないが、研究や思いというものは生き続けている証拠なのである。

内容もそうだが、著者の生き様に非常に感銘を受けた1冊である。

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