「女性たちの大学院」という本を読んだ。
出だしが難解だったので、読みづらい本かと思ったが、読み進むにつれ、良書であることがわかった。編者の2名を含め、著者が6名の共著である。それぞれが、大学院の修士課程・博士課程を修了(あるいは在籍中)されており、同じ、社会人大学院生の私には、よくわかる話である。
リンクさせていただいている、ままちさんも執筆されている「夢はいつか実現できる」も、社会人大学院生の大変な学習が書かれており、読んだあとには胸がいっぱいになる。
社会人大学院生関連の書籍も20冊ぐらいはあるかしら?私の1つの研究テーマとなっている。「女性たちの大学院」「夢はいつか実現できる」ともに、資金繰りの苦しい学生さんの話がでてくるのであるが、お金はなんとかなるものらしい。
私も、資金繰りに苦しみ、次のボーナスがでないと、日本福祉大学の科目等履修生の学費の引き落としができない状況である。しかし、その時々に、子どもの学資保険が満期になったり、奨学金の申請が通ったり、年末調整の還付金があったりと、なんとか学習を継続できている。
著者たちも、危ういタイミングで奨学金がOKになったり、学費が免除になったりして、最後は中退せずに学位を授与されている。
お金以外にも学習の上でのご苦労も、最後にはなんとかなっている。修士論文で納得のいくものが書けたという著者はいない。だからこそ、博士課程に進学するといったパターンが多い。そう、わずか2年間で書ける分量はしれている。しかも、パートタイムで学生をやっている立場からすれば、完璧なものができるわけがない。それでも、修了させてくださるのだ。
そんなのでいいの?という考え方もあるが、やはり別の書籍では、博士課程において、外国人留学生への学位授与は、日本人より甘くなると審査されるかたが言っている。それと同じで、修士レベルなら、社会人の書く論文はそんなにたいしたものではない。逆に、昔の卒業論文の方がすばらしいと言う人もいるくらいだ。
私もそうだったが、社会人大学院生の別の本では、著者が修士論文の出来具合に納得できず、諦めて、教授に「もう1年やらせてください!」と申し立てる場面が書かれている。しかし、教授は「もう1年やったからと言って、納得できる成果物が完成するのですか?」と諭して、2年で修了させる。
そして・・・ほとんどすべての「修士課程体験記」では「修士論文は褒められたものではないが・・・」とか、「納得いく修士論文ではないが・・・」と言ったお決まりのフレーズが書かれてしまうのだ。
誰が考えても当然であろう。「仕事ができる社会人」なら忙しくて満足できる論文が書けないし、「仕事ができない社会人」ならその能力の低さから満足できる論文が書けない。
無論、修了生の品質を勘案し、安易に修了させない大学院もあろう。一方で「とはいえ、博士じゃなく修士だからね・・・」と考える先生もいる。
以前読んだ本に、T大が低レベルな人に博士号を出して、その後、別の大学の教授から「何故こんなやつに博士号を出したのか」と質問状を突きつけられた話がかかれていた。
記憶に新しいものでは、T大が外国人に博士号を出したが、インチキ研究だったので博士を取り消すといった内容の新聞記事が書かれていたことだろう。
以上のように、大学にとって博士を出すのもかなりリスクの高いものとなっている。
例のごとく、脱線この上なし・・・この支離滅裂な文章から、何か感じ取っていただけるものがあればありがたいです。
出だしが難解だったので、読みづらい本かと思ったが、読み進むにつれ、良書であることがわかった。編者の2名を含め、著者が6名の共著である。それぞれが、大学院の修士課程・博士課程を修了(あるいは在籍中)されており、同じ、社会人大学院生の私には、よくわかる話である。
リンクさせていただいている、ままちさんも執筆されている「夢はいつか実現できる」も、社会人大学院生の大変な学習が書かれており、読んだあとには胸がいっぱいになる。
社会人大学院生関連の書籍も20冊ぐらいはあるかしら?私の1つの研究テーマとなっている。「女性たちの大学院」「夢はいつか実現できる」ともに、資金繰りの苦しい学生さんの話がでてくるのであるが、お金はなんとかなるものらしい。
私も、資金繰りに苦しみ、次のボーナスがでないと、日本福祉大学の科目等履修生の学費の引き落としができない状況である。しかし、その時々に、子どもの学資保険が満期になったり、奨学金の申請が通ったり、年末調整の還付金があったりと、なんとか学習を継続できている。
著者たちも、危ういタイミングで奨学金がOKになったり、学費が免除になったりして、最後は中退せずに学位を授与されている。
お金以外にも学習の上でのご苦労も、最後にはなんとかなっている。修士論文で納得のいくものが書けたという著者はいない。だからこそ、博士課程に進学するといったパターンが多い。そう、わずか2年間で書ける分量はしれている。しかも、パートタイムで学生をやっている立場からすれば、完璧なものができるわけがない。それでも、修了させてくださるのだ。
そんなのでいいの?という考え方もあるが、やはり別の書籍では、博士課程において、外国人留学生への学位授与は、日本人より甘くなると審査されるかたが言っている。それと同じで、修士レベルなら、社会人の書く論文はそんなにたいしたものではない。逆に、昔の卒業論文の方がすばらしいと言う人もいるくらいだ。
私もそうだったが、社会人大学院生の別の本では、著者が修士論文の出来具合に納得できず、諦めて、教授に「もう1年やらせてください!」と申し立てる場面が書かれている。しかし、教授は「もう1年やったからと言って、納得できる成果物が完成するのですか?」と諭して、2年で修了させる。
そして・・・ほとんどすべての「修士課程体験記」では「修士論文は褒められたものではないが・・・」とか、「納得いく修士論文ではないが・・・」と言ったお決まりのフレーズが書かれてしまうのだ。
誰が考えても当然であろう。「仕事ができる社会人」なら忙しくて満足できる論文が書けないし、「仕事ができない社会人」ならその能力の低さから満足できる論文が書けない。
無論、修了生の品質を勘案し、安易に修了させない大学院もあろう。一方で「とはいえ、博士じゃなく修士だからね・・・」と考える先生もいる。
以前読んだ本に、T大が低レベルな人に博士号を出して、その後、別の大学の教授から「何故こんなやつに博士号を出したのか」と質問状を突きつけられた話がかかれていた。
記憶に新しいものでは、T大が外国人に博士号を出したが、インチキ研究だったので博士を取り消すといった内容の新聞記事が書かれていたことだろう。
以上のように、大学にとって博士を出すのもかなりリスクの高いものとなっている。
例のごとく、脱線この上なし・・・この支離滅裂な文章から、何か感じ取っていただけるものがあればありがたいです。