生涯学習の部屋

資格取得数238。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

「産能」と私・・・産能と私の今

2004年12月04日 08時02分14秒 | 産業能率大学
産能生になってよかったです。思えば、産能を知って17年余り。産能18年生ってところでしょうか。思いがけない産能とのつながりや、経営本部の通信教育を通じて、人生の約半分、産能とのお付き合いです。払った金額的にも、最初の大学(4年間)を超えてしまい、我が家の「かかりつけの学校」となっています。「かかりつけの学校」があること自体幸せなのですが、この生涯学習の実践は上野陽一先生のご薫陶が無ければ、実現しなかったことだけは確かです。私だけでなく、私の父も上野陽一先生の実践を理解していたからこそ、産業能率短期大学に科目履修生として、入学できたのですから。
父に教えてもらった先生の精神が、私から家内に伝播し、それを知った子供が、将来「産能で実学を勉強したい」といってくれれば、後世に伝わっていくことになります。また、親子で同時に同じキャンパスで学べたら、天上の先生もにっこり笑ってくれるのではないでしょうか。
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「産能」と私・・・産能の入学を決意

2004年12月04日 07時42分32秒 | 産業能率大学
異動で長期プロジェクトに携わることとなったので、思いきって産能に入ることにしました。しかしここで、ちょっとした問題が発生しました。家内も産能に行こうかな~といいだしたことです。私としては願ったりかなったりなのですが、どうすればよいものやら。2人とも短大、私だけ短大、家内だけ短大と3つの選択があります。気持ちとしては2人とも短大が正解なのですが、不安なので入学説明会に行くこととしました。思えば、これがはじめて本学を訪れることになりました。対応した人は「奥さんの短大を優先しなさい。あなたが、産能に入る理由は無いです。好きな科目を科目履修すればいいじゃないの」とのこと。その際「短大の科目は教養的なものなので、大学がいい」ような発言があったので、そのとき大学を強く意識しました。説明会で学生会のYさんや、たまたま来ておられたKさんの話を聞くにつれ、大学に行こうと思い始めました。説明会を出たときは「私大学編入、家内短大」の選択がほぼ固まっていました。問題は学費。2人も学生になって生活が破綻しないか?と思いましたが、産能に行く分私の資格試験受験回数が減少するという「甘い見込み」の下、夫婦で産能生が実現したのです。
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「産能」と私・・・産能本学に近づく

2004年12月04日 06時25分06秒 | 産業能率大学
不遇の時代、コツコツ自己啓発に励んできた結果、東京に呼び戻されることとなりました。社宅を聞いてびっくり。なんと本学までバスでたった10分のところではないですか!ただ、仕事の内容がプロジェクト絡みのものだったので、入学即転勤ということも考えられたので、募集要項は都度請求したのですが、入学にはいたりませんでした。しかし、バスで本学の前を通るたび、「ここが産能!」と意識をするようにはなっていました。関西にいたときは地理的に不遇でしたが、まさに、上野陽一先生に導かれるように産能へと近づいていったのでした。
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「産能」と私・・・産能の方と説明会を!

2004年12月04日 06時17分15秒 | 産業能率大学
奈良県でのビジネスキャリア制度のユニット保有数1位になったころ、県の職業能力開発協会から「制度説明会のパネリストになってください」との、公文書による招聘がありました。私としては制度の普及は大賛成なので、会社とも交渉してしかるべき手順を経て、説明会にでることとなりました。このときに、「ビジネス・キャリア制度の企業における活用実態について」という講演をされたのが産能大学経営本部の関西事業部方でした。名刺交換もして、初めて産能大学の方の名刺をゲットすることができました。
私と産能大学は見えない糸でつながっているんだな~。と思った瞬間でした。
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「産能」と私・・・再度、学習を開始。

2004年12月04日 06時09分57秒 | 産業能率大学
産能のことは気にはなっていたのですが、なかなか社会人になってからはかかわることができませんでした。仕事、仕事で人間性まで変わってしまったのかもしれません。バブルの影響もあり、父の思惑通り金融機関に勤めることはできたのですが、我流で上司の言うことも聞かなかったので、左遷に次ぐ左遷で、センター勤務となってしまいました。金融の内情を暴露した「横田濱夫」さんも最後は確かセンター勤務じゃなかったかな・・・。金融組織の役割期待を充足できない人間は、センターに行ってしまうのでしょうか??⇒ただし、私は彼のやり方は認められません。たとえ冷遇されても一宿一飯のご恩があるわけですから、恩をあだでかえすようなやり方は嫌いです。
センターに行くと、時間がたくさんできます。よっぽどのことが無ければ定時退行ですから。でも、この生ぬるい生活を続けていくと人間的にもまずいと思ったので、初心に戻り、①余った時間で資格試験にチャレンジすること②通信教育で学習すること、以上①②を実践することにしました。当然産能大学も検討したのですが、関西という地方ではSCがクリアできない恐れがあったので、断念。ビジネスキャリア制度に関するPHPの通信教育を学習することとしました。PHPの通信教育を5つこなした後、産業能率大学でも、ビジネスキャリア制度の通信教育を実施していることを知りました。当然、やるなら「産能」!まずは「試験株式業務・社内規程管理基礎」の通信教育を履修しました。98年1月にスタート。第一期産能時代=産業能率短期大科目履修生時代から第二期産能時代=経営本部時代に突入するのです。第二期産能時代は今も続いており、履修した通信教育は40講座以上使った金額は50万円以上となっています。
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「産能」と私・・・初めてのお付き合い

2004年12月04日 05時50分18秒 | 資格
産業能率短期大学・・・なんだこれ?いかがわしい大学かなと思い父に聞くと、「上野陽一先生の経営の思想を実践する実学を教える短大」という認識があったので、話は簡単。「TACに行かせてもらうお金で産業能率短期大学に入学し、税理士の資格を目指すとともに短大も卒業したい」という夢が、そのとき構築されました。父も就職に有利と見たのか、この構想には賛成意見でした。産業能率短期大学に確認したところ、「たとえ通信制の短期大学といえども文部省(当時)に認可された学校なので、通学制の大学に行っている人は入学できません。しかし、科目履修生なら入学できますよ」と、ご丁寧に直筆で返信がきました(この当時から、学務掛の対応はよかったのですね)。この手紙だけでも、上野陽一先生のお人柄が表れているような気がして、すぐに科目履修生となりました。履修科目は「国税徴収法」と「固定資産税」。数学が出来ないので法律系の科目をとりあえず申し込みました。残念ながら、この2科目の単位を取ることはできませんでした。ちょうど、大学の専門課程に入り、留年すれすれの状況だったので、ちょっと余裕がなかったのです。外書購読という科目が合って、数百ページの英語の「経済学」の原書を読まなければいけない、必須の「経済原論」を落としてしまった、他大学との経済論討論会、学園祭準備等々・・・。こうして、最初の科目履修は、やり残した気持ちが一杯となる、不満の残るものでした。
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「産能」と私・・・産能と出会うまで

2004年12月04日 05時29分32秒 | 産業能率大学
突然ですが、「産能」とは私にとってなんだろうと振り返ってみることにしました。私が始めて「産能」を知ったのは、15年以上も前になります。その時、私は大学生(通学)で、「大学は勉強するところ」という理解のある両親のおかげで、アルバイトもせず、学習にかかるお金だけは無制限にだしてもらえるという恵まれた環境にありました。しかし、私は代償として、行きたかった文学部を断念することが義務付けられました・・・。大学では経済学が大嫌いで、暇さえあれば文学部や教育学部に行っては好きな講義を聴いていました。おかげで、成績は最悪。留年の一歩手前まで落ちこぼれてしまいました。学費全額を両親に出してもらっている手前、学習している証拠を示さなければいけない。しかし、文学部や教育学部の「優」では、インパクトがなかったのです。
父が「文学部」を毛嫌いした理由は、就職するとき、不利だからというものでした。法系・経済系・経営系の学部なら就職の時、困らないというものでした(その父の考え方は就職のとき正しかったと実感しました)。嫌いな科目で「優」を取るのは精神的にも苦しいし、私の行っていた大学は、学者レベルでないと「優」が取れない、非常にシビアな大学だったので(妥協を許さず、留年する学生も多数。挙句中退する人も結構いました・・・)、数学の出来ない私が、経済学で「優」をそろえるのは不可能だったのです。
父の要望は「就職に不利にならないこと」だったので、嫌いな経済学以外のメジャーな資格を取れば「勉強している証明」になると思いました。結果が求められていたので、大型資格をとるより、小型の就職に有利な資格を積み上げていくことが優先されました。危険物取扱者(父の勤務先が化学系なので)・宅建・行政書士・販売士と資格を積み上げていきました。友人に公認会計士や税理士志望の人が多かったので、次に目指すのは「税理士かな~」と漠然と思っていました。数学が苦手なので、酒税、国税徴収法、固定資産税などが、手っ取り早いかなと思っていて、TACや大原簿記の案内で検討を開始。でも、学費が非常に高い。いくら、無制限に出してもらえるといっても、何十万もお願いするのは心苦しい・・・。そんな悶々とした中で、「国家試験資格試験全書」の最終ページに「産業能率短期大学」「税理士コース」というキーワードを見つけたのです。これが、「産能」との初めての出会いでした。
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