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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。

新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。

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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3から。
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5


〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。


■ 第29番 大川山 龍豊院(りゅうほういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
東伊豆町大川278
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所本尊:釈迦牟尼佛
他札所:-
授与所:庫裡

ここから東伊豆町に入ります。
東伊豆町は温泉のメッカで大川、北川、熱川、片瀬、白田、稲取と名だたる温泉地がつづきます。
温泉好きにとっては、つぎつぎと出てくる日帰り温泉を横目にみながらのきびしい(笑)順路となります。


【写真 上(左)】 大川温泉のサイン
【写真 下(右)】 大川温泉の案内図

大川にある龍豊院は、弘治元年(1555年)、真言宗寺院として建立。慶長年間(1596~1615年)(永禄(1558-1570年のはじめ頃とも)に、最勝院七世の笑山精眞大和尚が止錫され開山として曹洞宗に改宗、天明元年(1781年)、僧隆峯のときに法地(曹洞宗の寺格)となりました。

明治12年の火災により寺伝等を焼失し、詳細については記録が残っていないようです。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「大川村 宮上最勝院末 本尊観世音 弘治元年(1555年)建立 真言ナリ 慶長ノ頃(1596~1615年)改宗ス 最勝院七世笑山ヲ開山トス 天明元年(1781年)僧隆峯法地トス」

山内に樹齢400年と推定される東伊豆町指定天然記念物の 枝垂れ桜があります。
単花弁の純粋種という珍しい品種とのことで、見頃は3月下旬です。

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伊豆大川温泉は山里に湯宿が点在しているイメージで、龍豊院はそのなかにあります。


【写真 上(左)】 参道から本堂
【写真 下(右)】 本堂

参道階段右手に枝垂れ桜、その奥右に重石塔、左に六地蔵を配して正面本堂は入母屋造桟瓦葺。
向拝に大がかりな唐破風を起こしています。
伊豆の寺院らしく身舎腰壁はなまこ壁、白壁を張り出した花頭窓も意匠的な面白さがあります。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 見事な彫刻-1

水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に見事な龍の彫刻をおき、その上には大瓶束の笈形、さらに上の兎の毛通しには五三の桐、鬼板は経の巻獅子口で五七の桐紋をおいています。
破風両端に立体感ある飾り懸魚をおき、躍動感のある向拝まわりです。


【写真 上(左)】 見事な彫刻-2
【写真 下(右)】 本堂扁額

正面は下部格狭間、上部硝子格子の開き戸で、見上げには龍に縁取られた豪壮な院号扁額が掲げられています。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦牟尼佛

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

■ 大川温泉 「磯の湯」の入湯レポ


■ 第30番 金澤山 自性院(じしょういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
東伊豆町奈良本98
曹洞宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:-
授与所:庫裡

東伊豆有数の温泉地、熱川にある札所です。
熱川は海側に大規模な温泉街を形成し、高温泉の櫓が湯けむりをあげていますが、山側の奈良本エリアにも多くの泉源があり、自家源泉の湯宿が点在します。
自性院はこの奈良本エリアにあります。

永正元年(1504年)に祖元によって開創、天正七年(1579年)に太田道灌の末孫太田持広が、最勝院十一世佛山長寿を招じて曹洞宗の法治になったと伝わります。
明治初頭の1870年に堂宇が全焼したため、詳細な寺伝は残っていないようです。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「奈良本村 宮上最勝院末 本尊薬師 永正中僧祖元創立ス 天正七年(1579年)最勝院十一世佛山法地トス 同村廃瑞雲院ノ本尊薬師当寺ニ安ス」

なお、『豆州志稿』の廃瑞雲院の項には以下のとおりあります。
「野崎牛助家次ト大坂城ヨリノ落人ナリ子孫存ス 明治六年廃寺」
こちらのWeb記事(大坂の陣絵巻)には「(野崎家次)藤堂高虎に仕え500石を与えられる。大坂冬の陣では黒母衣衆として、夏の陣では鉄砲足軽の大将として従軍した。1635年に藤堂家を去り、1638年に死亡。」(同記事より引用)とありますが、大坂の陣(1615年)から20年も藤堂家に仕えたとすると「大坂城ヨリノ落人」とはいえず、別人かもしれません。

なお、自性院の本尊・薬師如来が瑞雲院から遷られた薬師如来であるかは不明です。

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石柱と階段を構える立派な参道。その先には切妻屋根桟瓦葺の四脚門で大棟に山号をおいています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山内

前庭芝生の開けた境内。
本堂は入母屋造銅板葺で唐破風の向拝を起こしています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

水引虹梁両端に獅子と貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に見事な龍の彫刻をおき、その上には大瓶束の笈形、さらに上の兎の毛通しには五七の桐と、龍豊院の構成に近いですが鬼板は経の巻獅子口ではありません。


【写真 上(左)】 中備の彫刻
【写真 下(右)】 本堂扁額

正面は下部格狭間、上部硝子格子の開き戸で両側には花頭窓。見上げには院号扁額が掲げられています。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 薬師如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

■ 熱川温泉「高磯の湯」の入湯レポ(温泉みしゅらん/東伊豆の湯巡り)


■ 第31番 来宮山 東泉院(とうせんいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
東伊豆町白田76
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:-
授与所:庫裡

渋い名湯を揃え、温泉マニアから一目おかれている白田温泉にある札所です。

北条氏直の外臣であった金指筑後守による開山で元は真言宗の寺院でした。
この金指筑後守が伊勢から来住して明応三年(1494年)に建立、本尊の聖観世音菩薩像は役小角の作と伝わります。
最勝院七世の笑山精眞大和尚が止錫され開山として曹洞宗に改宗しました。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「白田村 宮上最勝院末 本尊聖観音 開基乃金指筑後守ナリ 後裔尚アリ 最勝院七世の笑山ヲ開山トス」

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海岸にもほど近い民家の奥に一段高く山内を構えています。
海側からみると、山門と本堂がいいバランスを保っています。


【写真 上(左)】 サイン
【写真 下(右)】 参道

山門はがっしりとした銅板葺の四脚門で、山号扁額を掲げています。
本堂はおそらく寄棟造銅板葺で軒唐破風の向拝を起こしています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 露天


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

水引虹梁、繋ぎ虹梁ともに直線的で装飾はすくなく全体にスクエアな印象で、水柿色の向拝部がいいアクセントになっています。
正面には院号扁額を掲げています。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

■ 白田温泉 「白田川観光ホテル」の入湯レポ
※ 名湯でしたが、残念ながら休業中の情報があります。


■ 第32番 稲取山 善應院(ぜんのういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
東伊豆町稲取400-2
曹洞宗
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
他札所:稲取八ヶ寺めぐり第4番
授与所:庫裡

「雛のつるし飾り」で有名な稲取の町には札所がふたつあります。

現地由緒書および『こころの旅』『霊場めぐり』記載の寺伝によると、草創は嘉吉元年(1441年)で開基は真覚律師、鈴木三位大臣二十五代の子孫、熊野党水軍の鈴木孫七郎繁時の創立で当初は稲昌寺と号する真言宗高野山の末派でした。
元和二年(1616年)に駿州原田(現・富士市原田)永明寺六世(七世とも)大室存道和尚により曹洞宗に改宗して中興、善應院と号を改めました。
中興の大室存道和尚は、宗祖承陽大師十六世の法孫と伝わります。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「稲取村 曹洞宗 駿州原田永明寺末 本尊観世音 本庵ニシテ真言ナリ 駿州原田永明寺六世大室和尚寺主タル時 宗ヲ曹洞ニ改メ中興祖トナル 庵ヲ寺ニ取立ルハ鈴木氏ナル(中略)稲昌寺ト称ス 元和中僧大室曹洞宗トナシ善應院ト号スト」

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稲取の街中のこみ入ったところにあります。
道沿いが参道入口で、寺号標と豆国霊場八十八ヶ所の札所標。
広くはないですが、すっきりと手入れのいきとどいた山内です。


【写真 上(左)】 寺号標&札所標
【写真 下(右)】 参道


【写真 上(左)】 本堂-1
【写真 下(右)】 本堂-2

参道階段をのぼった正面の本堂は、寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、正面見上げに院号の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 堂内の山号扁額

参拝後、御朱印を乞うと本堂を開けていただけました。
堂内見上げには山号の扁額が掲げられ、向拝上の院号扁額と二重扁額を構成しています。
そのおくには五色の向拝幕が掲げられて、質素な堂前とは対照的な華やぎのある堂内でした。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

稲取は寺社が多く御朱印を介した観光振興に熱心なところで、しばしば御朱印イベントが催されているようです。
また、域内に「稲取八ヶ寺めぐり」というミニ霊場が設定されています。


■ 第33番 見海山 来迎院 正定寺(しょうじょうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
東伊豆町稲取833-1-1
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:稲取八ヶ寺めぐり第6番
授与所:庫裡

現地由緒書および『こころの旅』『霊場めぐり』記載の寺伝によると、創立は養和元年(1181年)で当初は合歓木というところにあり真言宗で来迎庵と号しました。
開山は源誉存応観智國師、開基は村木善左衛門とされています。

慶長三年(1598年)、華山和尚が正定寺と号を改め浄土宗に改宗しました。
海辺の寺院で、寛文十年(1670年)、台風の波浪(大津波とも)で堂宇などが流出という記録が残ります。
文化十二年(1815年)、徳本上人が伊豆相模を摂化の途次、当寺に留錫布教と伝わり、御名号一幅を残すといいます。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「稲取村 浄土宗 東京増上寺末 本尊阿彌陀 養和中ヨリ至德迄ハ合歓木ト云処ニ在テ来迎庵ト云 真言宗ナリ 正長ヨリ文明中迄ハ臨済宗ト為リ 明應二年ニ至リ始テ建長寺ニ隷シ寺号トス 天文ノ末ヨリ永禄迄復真言ニ復リソレヨリ浄土ト為リ 天正ノ頃寺号ヲ正定ト改メ増上寺存應和尚ヲ祖トス 地蔵堂在境内」

伊豆は改宗の寺歴をもつ寺院が多いですが、こちらもめまぐるしい改宗の歴史が伝わります。

・養和年間(1181-1182年)~至德年間(1384-1387年) 真言宗
・正長年間(1428-1429年)~文明年間(1469-1487年) 臨済宗
・明應二年(1493年) 臨済宗建長寺派?
・天文年間(1532-1555年)~永禄年間(1558-1570年) 真言宗
・慶長三年(1598年)~現在 浄土宗

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稲取港の堤外そばの海べりにあり、「見海山」という山号がぴったりの立地です。
参拝時は北よりの海風が吹きつけていました。


【写真 上(左)】 稲取港
【写真 下(右)】 漁港お約束のぬこ(正定寺境内)


【写真 上(左)】 道祖神-1
【写真 下(右)】 道祖神-2

海側の駐車場から山内までの途中に道祖神のお社があります。
民族学者で歌人でもある折口信夫博士が椿を手草として持つこの道祖神をみて、椿を手にして各地を廻られた八百比丘尼の石像と見立てられたものです。

社前の説明書には「稲取東区の道祖神(伝 八百比丘尼)石像」と記され、背後の公園は「稲取漁港 八百比丘尼公園」です。
社内のいくつかの石像のうち、中央の像が八百比丘尼像とされ、東伊豆町の指定文化財に指定されています。

人魚の肉を食べたことで八百歳の歳月を生きたという八百比丘尼は、各地を巡廻され多くの逸話が残りますが、伊豆ではめずらしいようです。
なお、つつじで有名な青梅市の名刹、大悲山 塩船観音寺は、八百比丘尼の開山と伝わります。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 鐘楼

山門は南側にあり、柱二本の変わった形状です。その横に立派な鐘楼。


【写真 上(左)】 札所標-1
【写真 下(右)】 札所標-2


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂は寄棟ないし宝形造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁両端に獅子・貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を構えています。
堂内に仁王像、御内陣の御本尊・阿弥陀如来も向拝から拝めます。


【写真 上(左)】 堂内
【写真 下(右)】 正定寺大佛

道祖神側には、かなりの大きさの正定寺大仏が御座します。

御朱印は本堂内にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

数百メートル南の高台には(稲取御鎮座)八幡神社がありますが、当寺との関係(別当)は確認できませんでした。
こちらの八幡神社は頼朝公とのゆかりが深く、頼朝公の守本尊が寄進されたとされ、頼朝公の水垢離の井戸も残ります。
常時かどうかは不明ですが、御朱印も授与されています。


■ 別格旧第31番 宝林山 称念寺(しょうねんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
河津町浜334-1
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:庫裡

伊豆八十八ヶ所霊場には2つの別格札所が設定されています。
旧8番の満行山 航浦院と旧31番の宝林山 称念寺です。

霊場札所の入替えがあった場合、旧札所は御朱印授与を止めてしまうケースが多いですが、こちらは2つの札所とも「別格札所」扱いになり御朱印も授与されています。

どうしてこういう状況になっているかはわかりませんが、ほとんどの伊豆八十八ヶ所関連ガイドでこの2つの別格札所は紹介されています。
結願の修禅寺奥の院の御朱印も拝受できるので、この霊場のコンプリート御朱印数は88(通常札所)+2(別格札所)+1(奥の院)で計91となります。

伊豆八十八ヶ所の東伊豆エリアの巡路は、北から海岸沿いを南下するとそのまま札番どおりの順打ちになります。
ところが稲取・河津に至ってこの法則が崩れます。

第32番善應院は第33番正定寺よりも南にあるので、順打ちすると北に戻ることになります。
第34番三養院も第33番稲取からいきなり天城方面(山寄り)に飛び、そこから第35番栖足寺、第36番乗安寺と山側から河津浜に下っていく道程となります。

このような札番構成は、かつて第2番弘道寺から天城越えして河津に入っていた名残かもしれず、旧31番の称念寺も白田の第31番東泉院から距離を置いた河津浜にあります。

称念寺は、安元元年(1175年)、河津三郎祐泰が居館・谷津館のなかに阿弥陀如来を奉安した庵(称念庵)を開創したのが始まりと伝わる古刹です。

現地由緒書および『こころの旅』『霊場めぐり』記載の寺伝によると、聖武天皇の御代(724-749年)、春日の里に稽文会という当代随一の名工がおり、稽文会は唐に渡ってさらにその技を磨きました。
その技倆は唐でも響きわたり、唐の皇帝に重く用いられました。
文会はいつしか望郷の念にかられ帰国を願い出ましたが、皇帝は文会の才を惜しんでこれを許しませんでした。

しかし文会の望郷の念はやみがたく、春日明神に祈り鶴を彫ってこれに乗ると、鶴は文会を乗せ空に舞い上がりました。
帝はおどろきおそれてこの鶴を射させ、矢は鶴の右翼に刺さりましたがそのまま飛びつづけ、ついに博多の地に舞い降りたといいます。

帰国がなった稽文会は諸国を巡り、伊豆のこの地に至って一刀三礼して阿弥陀如来像を彫り上げました。
このお像はくだんの鶴の矢を像内に蔵していたそうです。

河津祐泰は縁あってこの阿弥陀如来像を得てたいへん喜び、自邸内に称念庵を開いてこのお像を御本尊として大切に奉安したそうです。
現在もこの阿弥陀如来像は称念寺の御本尊ですが、秘仏となっています。

『豆州志稿』には「宝治中(1247-1249年)僧・澄道中興シテ寺ト為ス」とあり、この頃に中興して庵から寺になったようです。
永禄四年(1562年)、山崩れにあったため谷津から現在地に遷りました。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「濱村 浄土宗 東京増上寺末 本尊阿彌陀 伊東祐親ノ嫡子川津三郎祐泰 谷津ニ居住シ其邸側ニ一宇ヲ創立シテ稱念庵ト号シ 阿彌陀ノ像ヲ安置ス 寶治中(1247-1249年)僧澄道中興シテ寺ト為ス 今其遺跡ヲ稱念庵屋敷ト云 永禄四年(1562年)誠譽上人ノ時谷津ヨリ此ニ移ス 或云縄地ト 川津祐泰ノ神版及其尊信セシ阿彌陀アリ 寺域有庚申堂」 

河津三郎祐泰は伊豆の豪族・伊東祐親の長男で、「曾我兄弟の仇討ち」で知られる曾我祐成・時致の実父です。

祐泰をめぐる情勢については■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3の第27番 稲荷山 東林寺に書きましたので、さらっと抜粋再掲します。

藤原南家の流れとされる工藤氏は伊豆の名族で、工藤(久須見)祐隆は、嫡子の祐家が早世したため、実子(義理の外孫とも)の祐継を後継とし伊東氏を名乗らせました。(伊東祐継)
他方、摘孫の祐親も養子とし、河津氏を名乗らせました。(河津祐親)

伊東祐継は、嫡男・金石(のちの工藤祐経)の後見を河津祐親に託し、祐親は河津荘から伊東荘に移って伊東祐親と改め、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせました。
(河津祐親→伊東祐親)

一方、工藤祐経は伊東祐親の娘・万劫御前を妻とした後に上洛し、平重盛に仕えました。

工藤(久須見)氏は東国の親平家方として平清盛からの信頼厚く、伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝公の監視役を任されました。

工藤祐経の上洛後、伊東祐親は伊東荘の所領を独占し、伊東荘を奪われた工藤祐経は都で訴訟を繰り返すものの効せず、さらに伊東祐親は娘の万劫を壻・工藤祐経から取り戻して土肥遠平へ嫁がせたため、所領も妻も奪われた祐経はこれをふかく恨みました。

安元二年(1176年)、奥野の狩りが催された折、河津祐泰(祐親の嫡子)と俣野五郎の相撲で祐泰が勝ちましたが、その帰途、赤沢山の椎の木三本というところで工藤祐経の郎党、大見小藤太、八幡三郎の遠矢にかかり河津祐泰は落馬して息絶えました。
祐親もこのとき襲われたものの離脱して難をのがれました。

伊東祐親は、嫡子河津祐泰の菩提を弔うため伊東の久遠寺に入って出家、自らの法名(東林院殿寂心入道)から東林寺に寺号を改めたといいます。

河津祐泰の妻は、5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)を連れて曾我祐信と再婚。
建久四年(1193年)5月、祐成・時致の曾我兄弟は、富士の巻狩りで父(河津祐泰)の仇である工藤祐経を討った後に討死し、この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られることとなりました。
(河津祐泰の妻を満功御前とする説もありますが、『曽我物語』では伊東祐親の娘となっており錯綜しているようです。)

祐泰の末子は祐泰の弟祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られ、妻が再婚した平賀義信の養子となり、出家して律師と号していましたが曾我兄弟の仇討ちの後、これに連座して鎌倉・甘縄で自害しています。

『曽我物語』の発端ともなった奥野の狩りの相撲で、祐泰は俣野五郎に勝ちましたが、そのとき祐泰が掛けた(掛けられた)技が「河津掛け(蛙掛け)」とされ、いまでも相撲の決まり手として残っています。

「河津掛け」は、「相手が外掛けや切り返しで攻めてきたところを逆に相手の脚を内側から掛けていき、足の甲を相手の脚に引っ掛け、腕を相手の首に巻いて自分の後方に倒す。」(wikipediaより)という大技で、めったにみることができません。
非常に危険なワザとされ、アマチュア相撲では禁止されています。

「河津掛け」の由来について、wikipediaには「書籍『大相撲大事典』によると名称は脚の形状からカエル(かわず)に由来し、かつては「蛙掛け」(かわずがけ)と呼ばれていた。「河津」の表記にかわったのは、『曽我物語』にある河津祐泰と俣野景久が相撲を取った話で、俣野が河津祐泰に今でいう河津掛けを繰り出したが、江戸時代の草子において「かわずがけ」という名称に掛けた洒落によって、逆に河津祐泰が俣野に掛けている絵が流行り、それが由来ではないかと推測できるが、よくわからないとしている。」とあります。

■ 平成8年初場所 貴乃花貴ノ浪 河津掛け(貴ノ浪、河津掛けで初優勝)


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河津浜からすぐそばですが、本堂背後に小高い山を背負っているので海沿いのお寺のイメージはありません。
国道向けに「伊豆八十八ヶ所霊場 旧三十一番札所」の大きな看板を出しており、旧番ながら現役の霊場札所としての立ち位置をお持ちのようです。


【写真 上(左)】 道沿いの札所案内
【写真 下(右)】 六地蔵

アスファルトのうえにぽつねんとある山門は切妻桟瓦葺の四脚門。
その先正面に入母屋造桟瓦葺流れ向拝の、どっしりとした本堂。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山内

水引虹梁両端に獅子と貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に鶴松とみられる彫刻を置き、正面硝子戸の上に山号扁額を掲げています。
彫刻類は子ぶりですが精緻な仕上がりで見応えがあります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝


【写真 上(左)】 木鼻の獅子
【写真 下(右)】 向拝扁額

御朱印は庫裡にて拝受しました。
御朱印には「旧 伊豆國三十一番」の札所印と相撲の軍配の印が捺されていました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

■ 片瀬温泉 「味湯海亭 福松荘」の入湯レポ


■ 第34番 千手山 三養院(さんよういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
河津町川津筏場807-1
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:庫裡

第34番は河津桜や七滝で有名な河津町に位置します。
伊豆有数の観光地で、今井浜、河津、谷津、峰、湯ヶ野、小鍋、七滝、大滝などの名だたる温泉地が点在します。

河津町は伊豆横道三十三観音霊場のメインエリアで、御朱印授与寺院がかなりあります。
伊豆八十八ヶ所霊場の札所も5(うちひとつは別格)を数えます。

現地由緒書および『こころの旅』『霊場めぐり』記載の寺伝によると、三養院は韮山昌渓院を開山した竺仙宗僊による開山で、竺仙宗僊は永正八年(1511年)寂なのでそれ以前の創立と推測されています。

開山当初は千手院(庵)と号しました。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻めの際、下田の鵜島城(現・下田公園)も攻撃され、城主・清水上野介康英は降伏して妻と息子の能登寺正令とともに千手院に身を隠しました。

この3人を養いおいたことから、三養院に号を改めたと伝わります。
なお、このとき鵜島城には、羽柴秀長、毛利輝元、宇喜多秀家、長宗我部元親、九鬼嘉隆など、じつに1万4千もの大軍が攻め寄せたとのことです。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「川津筏場村元矢野 曹洞宗 田方郡南條昌渓院末 本尊釋迦 竺庵和尚(昌渓院開山) 千手庵ヲ創ム 天正十八年(1590年)清水上野守夫妻其子能登守三人 下田城ヨリ逃レ来リ此ニ匿ル 能登守増廣シテ寺ト為ス 三人ヲ養シ故寺号ニ用ウトコレ俗間所傳ノ説ナリ 上野守ハ鵜島城主ナリ 豊臣氏ノ水軍之ヲ攻ム 上野守父子城ヲ棄テヽ遁レ 当所ニテ剃髪スト云 初字杉久保ノ地ニ在リ 寺跡今寺屋敷ト云フ 後現地ニ移ス 清水氏数世ノ神版アリ 清水家ノ墓アリ」  

水戸黄門の師である東杲心越禅師(中国関羽将軍の末裔とされる)の筆になる扁額や、塗駕籠などが保存されています。

当山のそばにある「三養院の滝」(Takigirl様)は、かつては「河津七滝」のひとつに数えられていたそうです。

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峰温泉と湯ヶ野温泉のあいだ、河津川と佐野川の合流点近くで河津浜から天城越えに進んだ一番奥の札所。
第2番弘道寺から天城越えしてくると、最初に廻る南伊豆の札所ということになります。
(第35番の変更(栖足寺→慈眼院)により、最初に出てくる札所は慈眼院となっています。)


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 寺号標

【写真 上(左)】 門柱と本堂
【写真 下(右)】 山内

風通しのよいあかるい高台。
門柱のさきに寄棟造桟葺の均整のとれた本堂。
大棟の意匠が精緻で、妻側には経の巻獅子口も備えています。



【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 本堂

向拝柱はないですが、身舎腰壁と窓の造作が意匠的に呼応して引き締まった印象を与えます。
向拝見上げの扁額は読解できませんでした。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 本堂内

参拝後、庫裡で御朱印を乞うと本堂扉を開けていただけました。
本堂内向拝見上げには「選佛場」(僧の坐禅道場)の扁額が掲げられていました。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釋迦如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

■ 湯ヶ野温泉 「福田家」の入湯レポ


■ (旧?)第35番 鳳儀山 栖足寺(せいそくじ)
公式Web
伊豆88遍路の紹介ページ
河津町谷津256
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所本尊:釈迦牟尼佛
他札所:-
授与所:授与所 or 本堂内

河津川の河童を和尚さんが救い、お礼に不思議な瓶を得たという伝説が伝わる河童ゆかりのお寺で「河童の寺」とも呼ばれます。

公式Webの寺伝によると、元応元年(1319年)、下総総倉の城主千葉勝正の第三子で、大覚禅師(蘭渓道隆)の直系弟子と伝わる徳瓊覚照禅師により開山という古刹です。

徳瓊禅師は文永六年(1269年)支那に渡り、文永十年(1273年)帰朝。
応長元年(1311年)に北条時宗の旗士、北条政儀が河津に建立した真言宗の政則寺に、元應元年(1319年)迎えられ禅寺に宗を改め栖足寺とされたと伝わります。

『豆州志稿』は、第4代鎌倉公方足利持氏(1409-1439年)建立の鐘銘ありと伝えるので、相応の寺格を有していたのかもしれません。
寺号の「栖足」は、百丈禅師の「幽栖常ニ足ルコトヲ知ル」の句よりとったものとされています。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「谷津村 臨済宗建長寺派 相州鎌倉建長寺末 本尊釋迦 源持氏建ツト鐘銘ニ見ユ 鎌倉壽福寺開山覺昭禅師ヲ初祖トス 今建長寺ニ隷ス 小田原ノ属國タル時 毎歳六月朔日此寺ヨリ新米ヲ上ケキ」

河童の伝説については、公式Webをご覧ください。

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行基菩薩開湯の名湯として知られる谷津温泉は、以前から割烹旅館が点在するイメージで温泉街は形成されていません。
その谷津地区の河津川の河畔、「河津桜」の名所にもほど近い場所にあります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 河童ののぼり

参道入口に和シックな寺号標。河童の絵入りののぼりが立ち、「河童の寺」をアピールしています。


【写真 上(左)】 河童の銅像
【写真 下(右)】 参道&寺号標

本堂背後に山を背負っていますが、山内は広々としています。
参道左手に河童の銅像。少し先の寺号標には「河童の寺」と刻まれています。
その先右手の小屋は、御朱印授与所のようですが御朱印は本堂内でも授与されているかも。


【写真 上(左)】 授与所
【写真 下(右)】 河童が逃げ込んだ井戸を再現

その先右手には、再現された「河童が逃げ込んだ井戸」。


【写真 上(左)】 河童くん
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂内

正面の本堂は、寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、向拝上に五三の桐の向拝幕をおろしています。
本堂扉は開け放たれ、中で参拝できます。


【写真 上(左)】 河童の掛軸
【写真 下(右)】 キュウリのお供え

こちらは個性ある絵御朱印でつとに有名です。
本堂内には絵御朱印の見本がならび、とくに「48種の花札柄御朱印」(書置)は、構図・色合いともにとても綺麗です。
オリジナル御朱印帳も頒布されています。

本堂内の天井絵も美しく彩色されているので、華やかな印象の本堂です。
片隅には河童好物のキュウリもお供えされていました。

 
【写真 上(左)】 超カラフルな花札柄御朱印
【写真 下(右)】 天井絵も華やか

こちらは観光地にあり、絵御朱印でも有名なので参拝者が多いと思います。
御朱印授与はたしか本堂内で、ご親切な対応でした。

なお、公式Webによると、「毎週木曜日は住職が研修に参加の為、拝観、御朱印の受付は出来ませんのでご了承下さい。」とのことです。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 活潑潑地

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
※こちらは現在、胡瓜封じ河童の絵入りの両面御朱印が通常御朱印となっています。
公式Webによると、「活潑潑地」は禅語で「活発」の語源。元気はつらつの願いを込めて授与とのことです。


■ 御本尊・無釋迦牟尼佛の御朱印

※ 今回、この記事を書くために調べたところ、どうやら第35番は栖足寺から梨本の慈眼院に変更されたようです。
慈眼院は参拝し御朱印を拝受していますので、つぎ(Vol.5)にUPします。


伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5へ。

■ 谷津温泉 「薬師の湯」の入湯レポ


【 BGM 】
■ 夏をかさねて - 今井美樹


■ Fantasy - Meiko Nakahara(中原めいこ)

いわゆるひとつのシティ・ポップですね。それにしてもこの再生数って・・・。

■ I CAN'T EVER CHANGE YOUR LOVE FOR ME - 角松敏生・杏里
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