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■ 埼玉県熊谷市の御朱印-3

2021年大河ドラマ「青天を衝け」関連で「熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)」の標題でUPしていましたが、熊谷市・深谷市を分離し、御朱印を追加してリニューアルUPします。

深谷市・熊谷市は、東京からだと徳川氏発祥の地とされる上州・世良田郷(太田市世良田町・徳川町)へのアプローチルートにあたります。
併せてまわってみてはいかがでしょうか。


■ 埼玉県熊谷市の御朱印-1(旧 大里町エリア/旧 江南町エリア/旧 熊谷市エリア-1)
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-2(旧 熊谷市エリア-2)から。
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-3(旧 妻沼町エリア)

■ 埼玉県深谷市の御朱印-1(旧 川本町エリア/旧 花園町エリア/旧 深谷市エリア-1)
■ 埼玉県深谷市の御朱印-2(旧 深谷市エリア-2)


■ 関連記事
「血洗島 諏訪神社の御朱印」

↓ の記事は当面残しますが、後日、本記事と統合します。
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-1
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-2
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-3
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-4



【エリア概要】(熊谷市・深谷市を併せてまとめています。)
東京方面から血洗島へのアプローチは通常、関越道「花園」IC(深谷市)経由となります。
ここから北上して利根川に沿って熊谷市に入り、熊谷から関越道「東松山」IC、ないしは国道17号(中山道)経由の帰路になると思われますので、このエリア(熊谷市・深谷市の一部)の御朱印をご紹介します。

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深谷・熊谷周辺は、かつて幡羅郡(はら/はたら)、および榛沢郡と呼ばれ、古墳群も多くみられて早くから開けた土地とされています。

武蔵七党をはじめとする多くの武士団が興った地で、わけても源平合戦で平敦盛との一騎討ちで名を馳せた熊谷直実の本拠地として知られています。

平家方として源氏との富士川の戦いや木曽義仲と戦いで活躍した斎藤別当実盛も当地を拠点とし、妻沼聖天山を開いたとされています。
また、室町期には山内上杉家系の深谷上杉家が深谷城に拠りました。

江戸時代には、熊谷・深谷ともに中山道の宿場町として栄えます。
宿場だけでなく、木綿織物や多くの農産物の集散地・取引の場としても隆盛しました。
また、秩父から甲州へ抜ける秩父往還の起点で、荒川・利根川の渡船場や江戸方面への物流の要衝・河岸も擁していたため、秩父絹の集散地としても栄えたようです。

江戸初期には深谷藩が立藩、岡部には岡部藩、近隣の行田には忍藩があり、寺社の成立・変遷にはこれらの藩の支配の影響も考えられます。

熊谷市の資料には、「秩父街道は、秩父34番札所めぐりや三社(秩父神社、三峰神社、宝登山神社)めぐり、また秩父絹の商人の往復でにぎわいました。」とあり、妻沼聖天山歓喜院は、日本三大聖天の一つとされ、古くから人々の信仰を集めていたといいます。

また、熊谷寺の門前町としても発展し、「関東一の祇園」と称される愛宕八坂神社の例大祭「うちわ祭り」が広く知られるなど、宗教都市としての一面ももっていたのではないでしょうか。

このように古くから栄えて城下町の色彩ももち、宿場町や商都としての役割も大きかったため、寺社もおのずから多くなりました。

【深谷・熊谷と札所】
寺院が多く人流が活発だったので、北関東でも有数の霊場エリアとなっています。

観音霊場としては、熊谷を中心に忍秩父三十四観音霊場の札所が複数あり、「忍秩父三十四観音霊場」+「忍領西国三十三観音霊場」+「足立坂東三十三観音霊場」で百観音霊場を構成しているとされます。

日本百観音とは、西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所を合わせた百箇所の観音霊場をいい、日本各地で写しの霊場が開創されました。
「忍秩父三十四観音霊場」は三十四所あるので「秩父」の位置づけですが、これまで拝受した御朱印で「忍秩父」の札所印が入ったものはたしかありません。多いのは「忍観音」「忍三十四所(霊場)」「忍坂東」などで、御朱印拝受のときも「忍秩父観音霊場」と申告して首を捻られ、「忍三十四霊場」と言い直すとすぐに納得いただいたことが何度もありました。

三十四所ですが「忍坂東」と呼ばれていた可能性があり、もともとは三十三の札所で構成され、他の三十四所霊場を「秩父」として百観音を構成していた可能性もあるのかもしれません。
(ただし、この記事では「忍秩父三十四観音霊場」で統一します。)

「忍秩父三十四観音霊場」は”忍”とありますが、34の札所のうち熊谷30、深谷2、行田2で、実質的には熊谷の観音霊場といえます。

また、ナゾが多いのですが、熊谷を中心に幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場が開創されています。

深谷には深谷七福神、熊谷には熊谷七福神が開創されています。
深谷七福神の寺院にはそれぞれ”秋の七草”が植えられ、秋には”花の寺巡り”も楽しめます。

その他、関東八十八箇所、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)、武州路十二支霊場、武蔵国十三佛霊場、関東九十一薬師霊場、関東百八地蔵尊霊場、東国花の寺百ヶ寺霊場など広域霊場の札所が複数立地し、さながら御朱印王国の様相を呈しています。

御朱印授与率が高いのは↑の広域霊場と深谷七福神で、忍秩父三十四観音霊場もかなりの札所で授与いただけます。
幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場はこのところ復興の気運も感じられ、札所印をご用意されている札所もありますが、廃寺・無住寺院も多く、巡拝難易度はかなり高くなっています。
なお、忍秩父三十四観音霊場のいくつかの札所は、最近巡拝者以外は不授与となっているので要注意です。

熊谷七福神は正月限定のスタンプ方式とみられ、御朱印授与についてはまちまちのようです。

有名なのは埼玉厄除開運大師(龍泉寺)で、絵御朱印や限定御朱印マニアでいつも賑わいをみせています。
妻沼聖天 歓喜院や常光院(熊谷厄除け大師)も複数の御朱印を授与されており、御朱印スポットとして知られています。

神社めぐりについては、熊谷の長井神社の宮司様が「村の鎮守十社めぐり」を主催され、条件つきながら御朱印を授与されているので、御朱印拝受できる神社が増えています。

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それでは、南から北に上がるかたちで、旧市町村エリア別にご紹介していまきす。
なお、熊谷は日本有数の酷暑の地です。
夏場の巡拝は、どうぞ充分にお気をつけくださいませ。


4.旧 妻沼町エリア

■ 瑠璃光山 浄光院 福生寺
熊谷市日向1154(旧・大里郡妻沼町)
高野山真言宗
御本尊:大日如来
札所:忍秩父三十四観音霊場第34番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第4番
・こちらも御由緒詳細がとれませんが、山内石碑には「四九四年前に開創せられし名刹」とあり、『新編武蔵風土記稿』の日向村の項には「邑楽郡赤岩村光恩寺末 開山専祐寛永十八年(1641年)寂 本尊大日ヲ安セリ 薬師堂」とあります。

・重厚な山門、本堂、観音堂を擁して山内はよく整っています。
・こちらは忍秩父三十四観音霊場第34番の結願所で、札所本尊は馬頭観世音菩薩。御本尊の大日如来は幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場の札所本尊でもあり、こちらの御朱印も授与いただけました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第34番 馬頭観世音菩薩


2.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第4番 大日如来



■ 寶積山 白道院 大龍寺
公式Web
熊谷市葛和田898(旧・大里郡妻沼町)
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:忍秩父三十四観音霊場第15番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第21番
・名刹のようですが、現地、Webともに詳しい情報がとれませんでした。
『新編武蔵風土記稿』の葛和田村の項に記載がありますので抜粋引用します。「館林町善導寺末 開山ハ幡随意上人元和元年正月示寂 開基ハ成田氏ノ臣嶋田采女正ナリ コノ子孫今村民六兵衛ナリト云 本尊阿弥陀ヲ安セリ 荒神社 愛宕社 不動堂 観音堂」。
・幡随意(ばんずいい)上人は、 慶長二十年(1615年)寂と伝わる浄土宗の名僧で、鎌倉光明寺で教学を修められ、後に京都百万遍知恩寺の三十三世住持。徳川家康公の信任厚く、駿河台に新知恩寺(のちの幡随院)を開創、熊谷の名刹、熊谷寺(ゆうこくじ)の中興など全国で寺院を創立・再興されました。
・当寺所蔵の「幡随意上人の書」、本堂に御座す「三十三体観音像」(元禄期、寄木造金泥)は市の文化財に指定されています。

・名刹らしい風趣のある山内。御朱印は庫裡にて書置のものを拝受しました。御本尊および幡羅郡新四国霊場の御朱印は授与されていないとのことです。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第15番 三十三体観世音菩薩



■ 浄瑠璃山 薬樹院 長慶寺
公式Web
熊谷市西城93-1(旧・大里郡妻沼町)
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀如来・薬師如来?
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第46番
司元別当:西城神社(西城村、旧西城村(本郷)鎮守) 
・こちらは詳細な公式Webをお持ちなので、そちらから引用させていただきます。
・南北朝の永和二年(1376年)、慶弘という僧が伝・行基作の薬師如来像を祀り開創。赤岩光恩寺の末寺で、歴代の住職が隠居されていました。
・薬師如来像は12年に一度、寅年の御開帳で信仰を集めているようです。

・本堂と薬師堂、薬師堂厨子は、2020年9月に市の有形文化財に指定されています。
・ともに、上州花輪村の名工・石原吟八郎のグループと、「歓喜天聖天堂」の棟梁の林兵庫正清を中心に建立。江戸期のこの地の彫物師集団の技巧を示す作品として評価されています。

・本堂には阿弥陀如来、薬師堂には薬師如来が御座します。
公式Webに「本堂の阿弥陀如像は、宝永年間(1704-1711年)に祀られた。平成26年遷座300年目に修復。本尊とご縁を結び、人生を輝いて全うできるように御手綱を握ってお参りができる」とあるので、当寺のいまの御本尊は阿弥陀如来とみられますが、宝永年間までの御本尊は薬師如来とみられ、現在でも御本尊のポジションなのかもしれません。

・仏教寺院、とくに密寺の御本尊のポジションは複雑で、観音堂、薬師堂、不動堂などで草創し、のちに本堂が建てられた場合などは、複数の御本尊がおられる場合もあるようです。(例えば、本堂御本尊は大日如来、薬師堂御本尊は薬師如来で、寺院としての御本尊は両尊併記となる。)
・弘法大師霊場の札所本尊は草創時の御本尊が札所本尊になられる場合も多く、こちらもその例ではないでしょうか。

・御朱印はご住職がご不在で書置もなかったので、ご親切な寺庭様にお願いして郵送をいただきました。なお、こちらは忍秩父三十四観音霊場第10番光明山 観音寺(上中条)の御朱印も授与されています。 

〔拝受御朱印〕
1.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第46番 薬師如来




■ 福聚山 慈眼寺
熊谷市田島238(旧・大里郡妻沼町)
曹洞宗
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第14番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第27番
司元別当:(田島村)稲荷社(旧田島村鎮守)
・こちらも無住の寺院で情報が少ないです。
司別当:奈良神社(熊野社)(中奈良村、奈良四村の総鎮守)
『新編武蔵風土記稿』の田島村の項に「弥藤五村観清寺末(略)古ハ観音ノ堂ナリシガ寛永年中(1624--1645年)●月堂開山シテ一寺トナセリ コノ人ハ慶安四年(1651年)寂セリト云 本尊十一面観音ヲ安ス」とあり、もとは観音堂として草創、寛永年中(1624--1645年)に寺院になったようです。

・入り組んだ路地のなか、集落に囲まれるようにあります。寄棟造桟瓦葺で右手に庫裡らしき建物を連接しています。
・向拝柱はなく中央サッシュ扉、上部に「慈眼寺」の寺号扁額を掲げています。

・参拝時ご不在でしたので郵送をお願いしお送りいただきました。郵送なので欲張らず忍観音霊場の御朱印のみお願いしましたが、御朱印には幡羅郡新四国霊場の札番揮毫もいただいておりました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第14番 十一面観世音菩薩
幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第27番 十一面観世音菩薩
※1通に2札所併記。



■ 福源山 長昌寺
熊谷市八ツ口869(旧・大里郡妻沼町)
臨済宗円覚寺派
御本尊:
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第88番

・山内由来書によると、長井庄司斎藤別当実盛公が堀之内に館を構えたとき、この地にあった薬師堂を鬼門除けの祈願所に定めたといいます。
・山内の椎の巨木は、鬼門除けの祈願所に選んだ証に植えた3本のうち、唯一残った1本と言われているそうです。(熊谷市Web

・同由来書によると、慶安年中に寺領二十石余の朱印を賜る名刹とのこと。
・忍城主成田氏の臣、山田伊半が武川の合戦で討死し、息子の弥治郎が追福のため開基となり建立。その折には成田氏より寄進等があったといいます。
・幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場の第88番(結願所)の重要なポジションは、斎藤別当実盛公や忍城主成田氏とのゆかりに由来するものかもしれません。

・御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第17番 釈迦如来




〔村の鎮守十社めぐり〕
当初は「以下10社について御朱印を拝受していますが、長井神社と大杉神社以外は常時授与かどうか不明なのでとりあえずリストのみです。」としましたが、令和2年秋に案内パンフが作成され、実際に御朱印も拝受していますので、ご参考までにUPします。
なお、現時点では御朱印は原則不授与かもしれません。詳細は長井神社宮司様にご確認ください。



情報が少ないですが、現地掲示のほか、案内パンフ、『埼玉の神社』(埼玉県神社庁)、『新編武蔵風土記稿』などを参考にまとめてみます。

1.(日向)長井神社 熊谷市日向
2.(俵瀬)伊奈利神社 熊谷市俵瀬
3.神明社・大杉神社 熊谷市葛和田
4.(大野)伊奈利神社 熊谷市大野
5.(弁財)嚴島神社 熊谷市弁財
6.善ヶ島神社 熊谷市善ヶ島
7.(八ツ口)日枝神社 熊谷市八ツ口
8.江波神社 熊谷市江波
9.西城神社 熊谷市西城
10.八幡大神社 熊谷市上須戸

■ (日向)長井神社 
熊谷市日向1090(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:品陀別命、息長帯姫命
旧社格:村社、旧日向村鎮守
元別当:三学院(日向村、当山修験)
授与所:境内脇社務所
・江戸時代には八幡社と称された旧日向村の鎮守社。(明治9年現社号に改号)
・天喜五年(1057年)、源頼義公が安陪貞任討伐の折にこの地に滞留されたとき、竜海という池に棲み村人を悩ましていた大蛇の退治を島田大五郎道竿に命じた。頼義公より弓矢と太刀を下賜された道竿は、竜海から利根川まで堀(道竿堀/どうかんぼり)を掘り、池の水を利根川に落としてこの四丈もの大蛇を退治した。頼義公は東北地方平定の吉事として、大蛇を倒したところに当社を、大蛇の出現したところに弁財天を祀ったといいます。
・暦応元年(1338年)、足利尊氏が再興、戦国時代には忍城主成田長泰が信仰した記録が残ります。

『新編武蔵風土記稿』の日向村の項に八幡社があり、上記の「竜海伝説」が詳細に記載されています。
・本地堂の御本尊は阿弥陀如来で、これは八幡神の本地が阿弥陀如来とされたことと符合します。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:長井神社 筆書



■ (俵瀬)伊奈利神社 
熊谷市俵瀬489(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:
旧社格:旧俵瀬村鎮守
元別当:寶林山 妙音寺 成就院(俵瀬村/新義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・俵瀬は利根川と福川に挟まれた島状のエリアで、『新編武蔵風土記稿』には俵瀬村の項に稲荷社が記載されているものの「成就院持」としかありません。
・これにはさすがの『埼玉の神社』も困り果てたらしく、成就院の記載を引き「成就院は慶安四年(1651年)の草創と伝えている。当地が一村としての体裁を整え始めるのが寛永(1624-1645年)の末ごろと思われ、当社の創建も、別当成就院と前後して行われたものであろう。」と記されています。
・江戸時代には「稲荷社」と称し、明治初期に「伊奈利社」と改め、明治41年合祀政策により同大字の神明社、厳島神社を合祀し、大正2年には堤防工事に伴い利根川縁にあった当社を厳島神社の旧社地に御遷座と伝わります。

・厳つい石垣の上に入母屋造桟瓦葺でどっしりと鎮座するお社は、ながらく水害と闘ってきた俵瀬の地の鎮守社ならではのお姿に思えます。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊谷市俵瀬 伊奈利神社 筆書



■ (葛和田)神明社・大杉神社 
熊谷市葛和田591(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:天照皇大神、大杉大神
※大杉神社は(葛和田)神明社の境内社
旧社格:旧葛和田村鎮守
元別当:瑠璃光山 東光院 醫王寺(葛和田村/古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・伊勢の御師が当地に逗留した折に奉齋した社であると伝わります。
・旧社地は現在利根川の川中にあり、数回の移転を経て高台の現社地(氷川神社の社地)に御遷座とのこと。
『新編武蔵風土記稿』の葛和田村の項に神明社があり「氷川ヲ合殿トス 村ノ鎮守ナリ 別当醫王寺」とあります。

・境内社の大杉神社(あんば様)の祭礼は利根川の流れに大御輿・大杉御輿を乗り入れるもので、「葛和田の勇み御輿」「関東一のあばれ御輿」として広く知られています。
・江戸時代の葛和田の地は利根川の河岸場として賑わいました。あるとき、与助という腕のいい船頭が霞ヶ浦の西浦で暴風雨に襲われ窮まったとき、日頃から信仰している大杉明神に祈りをささげると神佑を得て難を逃れました。このご神徳への御礼と今後の船路安全祈念のため、茨城県稲敷の大杉神社から勧請し、御輿を造営したと伝わります。
・当初は利根川に注ぐ道竿堀の南に御鎮座でしたが、大正3年堤防工事に伴い現社地に御遷座・合祀されました。

・御朱印は(日向)長井神社社務所にて拝受しました。
・Web上では神明社の御朱印がみつかりますが、現在は大杉神社の御朱印のみ授与とのことです。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:大杉大神 筆書



■ (大野)伊奈利神社 
熊谷市大野751(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:豊宇気比咩命
旧社格:旧村社、旧大野村鎮守
元別当:大野山 利劔寺 文殊院(葛和田(大野)村/古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・〔村の鎮守十社めぐり〕のなかではもっとも利根川に近く、利根川の堤防下に鎮座します。
・江戸期には大野村は葛和田村の一部とされ、『新編武蔵風土記稿』には葛和田村の項に「稲荷社二宇 一ハ文殊院 一ハ正泉寺持」とあり、『埼玉の神社』には文殊院が別当とあるので、こちらが該当とみられます。
・ただし、『埼玉の神社』には「宝暦六年(1756年)の伏見稲荷からの分霊証書に『武州 大野村鎮守』とあることから、当時既に『大野村』という名称が使われており、葛和田村から実質は独立していたことがわかる」とあります。
・上記のとおり、宝暦六年(1756年)には伏見稲荷からの分霊証書を受けて創祀しています。
・地形からしても、なにより水害防除が求められる地とみられ、『埼玉の神社』には「伊奈利社を(利根)川の側に勧請することによって水害から村を守ろうとした開発者の心情が推察される。」とあります。
・小山状の高台に鎮座し、参道右手が旧文殊院跡。その手前に大国主尊、参道階段右手に三峰社、拝殿左手には馬頭観世音菩薩、庚申様、青面金剛が祀られています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊谷市大野 伊奈利神社 筆書



■ (弁財)嚴島神社 
熊谷市弁財174(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:
旧社格:弁財地区鎮守
元別当:辨財山 醫王院 薬王寺(辨財村/古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「当地(弁財)は大昔利根川の流れの中にあったが、やがて流路が変わり、自然堤防を形作った所である。」とあり、河川とのかかわりから弁財天が祀られたとする一方、口碑に「当地の草分けであり、屋号を庄屋と呼ぶ大島清和家の先祖が祀った。」とあり、「同家は平家の落人であり、そのゆかりから嚴島神社を祀った。」という説にも触れています。
『新編武蔵風土記稿』の辨財村の項に辨財天社があり「村名ナリシテ見レハ古社ナルヘケレト傳ヘテ失フ」とあります。

・(日向)長井神社縁起の竜海伝説では、大蛇の出現したところに弁財天を祀ったとされ、この弁財天を当社とする説と(日向)長井神社境内の宇賀神(弁天様)とする説があるようです。
・『埼玉の神社』では、享保十六年(1731年)の利根川大洪水の折、当地に沼ができて、その後沼の主と呼ばれる大蛇が棲み、それが竜海伝説に重なったと指摘しています。

・こちらも社叢のなかに御鎮座。拝殿は石垣のうえに入母屋造桟瓦葺で、主屋根の軒に瓦屋根の向拝を重ねるようにせり出し変化のある意匠。
・弁財天や厳島社はもともと蛇とのゆかりがありますが、向拝の屋根飾りにも蛇の姿がみられます。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:嚴島比賣 筆書



■ 善ヶ島神社 
熊谷市善ヶ島197(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:
旧社格:旧善ヶ島村鎮守
元別当:光明山 福壽院 龍泉寺(善ヶ島村/古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』『パンフ』には、当地は当初葦が生えた島で葦ヶ島と呼ばれたが、後に利根川の流れが変わり、近村と地続きになり善ヶ島と改めた。また、1500年頃の蔵王権現社の勧請が当社の起源とされ、当初は蔵王権現社、明治初期に御嶽神社と称し、明治42年に善ヶ島神社に改称といいます。
・明治41年には大字裏久保の愛宕神社と、上元割の阿夫利神社を合祀。地元では合祀社の阿夫利神社に因み「阿夫利様」と呼ばれることが多いそうです。

『新編武蔵風土記稿』の善ヶ島村の項に蔵王権現社があり「永正(1504-1521年)年中の勧請ト云 龍泉寺持 末社 天神 疱瘡神 摩陀羅神」とあります。
・金剛蔵王権現は修験系の尊格で、ことにの吉野の金峯山寺本堂(蔵王堂)の御本尊として知られています。
・当社の現在の主祭神は不明ですが、金剛蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊、金山毘古命との習合例が多く、明治の神仏分離時、金剛蔵王権現を祀る堂祠は上記の神々を祭神とする神社となった例がみられます。
・末社に摩陀羅神の名がみられます。すこぶる複雑な性格をもたれる尊格として知られ、東日本で祀られる例は多くありません。
・別当龍泉寺は古義真言宗で赤岩光恩寺の末。赤岩光恩寺の寺伝には「推古天皇11年(603年)には秦河勝を勅使として仏舎利三粒が納められた」とあります。(秦河勝と摩陀羅神は強い関係があるとされる。)
・当社に摩陀羅神が祀られていた背景には、このような所縁が関連しているのかもしれません。
・現在も、複雑な由緒を想起させる境内社が複数ご鎮座されます。

・社叢のなか、入母屋造桟瓦葺向拝付設の社殿と境内社が御鎮座。
・鳥居、灯籠ともに大きく嵩が上げられ、拝殿も数段高く、水害防除が大切な地であることを物語っています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:善島神社 筆書


■ (八ツ口)日枝神社 
熊谷市八ツ口922(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:
旧社格:旧村社、旧八ツ口村鎮守
元別当:●源山 長昌寺(八ツ口村/禅宗臨済派)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「(別当の)長昌寺は、天文元年(1532年)に成田氏に従い武川の合戦で討死した山田弥次郎の菩提追福のために、その父山田伊平が、弥次郎の領地であったこの地に草創した寺院である。当社の成立背景には、長昌寺の僧とのかかわりが考えられるが、明らかにできない。」とあります。
・同書によると、お産を軽くしてくれる有り難い御利益がある」として信仰を集めたようです。
『新編武蔵風土記稿』の八ツ口村の項に山王社があり「村ノ鎮守ニテ稲荷ヲ合殿トス 長昌寺持」とあります。
・元別当の長昌寺は幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第88番の結願寺で、相応の寺格をお持ちかと思いますが、現在のところ御朱印は拝受しておりません。

・社頭に朱塗りの2つの鳥居。向かって左手が日枝神社、右手が八坂神社と伊奈利社です。
八坂神社の夏祭りの御輿渡御は、以前は「暴れ御輿」として広く知られていたようです。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊谷市八ツ口 日枝神社 筆書



■ 江波神社 
熊谷市江波315(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:菅原道真公
旧社格:旧村社、旧江波村鎮守
元別当:福原山 寶蔵院(江波村/古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「明治四十一年の改正まで天神社であったことから、氏子にはいまだに天神様と呼ばれている。(中略)明治四十一年、字西嬉愛の宇知多神社(妙見社)と字道上の稲荷神社の無格社二社を合祀した。」とあります。
・同書によると、お産を軽くしてくれる有り難い御利益がある」として信仰を集めたようです。
『新編武蔵風土記稿』の江波村の項に天神社があり「村ノ鎮守トス 寶蔵院持」とあります。

・一面の麦畑のなかに浮かぶように、切妻造瓦葺妻入りの社殿が御鎮座。向拝も切妻の屋根がかかり、めずらしい様式の社殿です。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:江波神社 筆書


■ 西城神社 
熊谷市西城2(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:
旧社格:旧村社、旧西城村(本郷)鎮守
元別当:浄瑠璃山 薬樹院 長慶寺(西城村/古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「西城の地名は、かつてこの地に左近衛少将藤原義孝の居舘があったことにちなむものといわれ、古来、西城の村は郭(くるわ)と呼ばれる幾つかの小さい集落に分かれ、神社の祭祀もまた郭ごとに鎮守として各々神社を祀っていた。明治維新の際、社格を定めるに当たり、(大天貘社は)村内の諸社の中で最も規模が大きく、村の中で最も早く開かれた本郷の鎮守であったことから、当社が西城村の村社になった。恐らく、明治9年に村社となった時に村名を採って西城神社と社名を改めたものであろう。明治42年には、字東田鎮座の稲荷神社と字鴉森鎮座の厳島神社を合祀し現在に至っている。」とあります。
・また同書には「境内にある勝根神社は、古くから当社の末社として祀られており、その祭神は大物主命である。当社(大天貘社)が元は本郷だけで祀る神社であったのに対し、勝根神社は初めから(西城)村全体で祀る神社」とあります。
『新編武蔵風土記稿』の西城村の項に大天貘社があり「村ノ鎮守トス 長慶寺持」とあります。

・西城神社は入母屋造桟瓦葺、「西城神社」と彫り込まれた棟飾りは精緻で一見の価値があります。
・向かって左手に御鎮座の勝根神社は、切妻造桟瓦葺の整った社殿で「村全体で祀ってきた神社」としての重みを放たれています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:西城神社 筆書



■ 八幡大神社 
熊谷市上須戸838(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:
旧社格:大字上須戸鎮守、(旧長井村総鎮守)
元別当:福原山 開城院 正法寺(上須戸村/天台宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「伝説によると、天喜五年(1057年)、源頼義が安倍貞任を討つために奥州へ下る途中、当地に逗留した。この折竜海という沼に棲む大蛇が村人を悩ますことを聞いたため、土地の島田大五郎道竿に命じて退治させた。頼義はこの大蛇退治を安倍氏征討の門出に吉事であると喜び、大蛇の棲んでいたところから、東・西・北に三本の矢を放ち、その落ちた所にそれぞれ八幡社を、沼の中央に大蛇慰霊のための弁天社を祀った。当社は、西に放たれた矢が落ちた所に祀られたという。」とあります。
『新編武蔵風土記稿』の上須戸村の項に八幡社があり「八幡社 辨天社 何レモ社領ヲ附ラル年代下●出セリ 別当正法寺」とあります。
・『埼玉の神社』の内容は、(日向)長井神社の「竜海伝説」とほぼ同様で、このエリアに広く伝わっていたことが伺われます。

・うっそうと茂る社叢。木造朱塗りの両部鳥居、石造の明神鳥居の正面おくに入母屋造桟瓦葺平入り流れ向拝の八幡神社、向かって右手には切妻造桟瓦葺妻入りの八坂大神が御鎮座されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊谷市上須戸 八幡大神社 筆書



■ 王子山 観清寺
熊谷市弥藤吾574-1(旧・大里郡妻沼町)
曹洞宗
御本尊:釈迦三尊
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第3番
・こちらは幡羅郡新四国霊場のみの札所なので、とくに情報が少ないです。
『新編武蔵風土記稿』には「禅宗曹洞派 下奈良村集福寺末王子山ト號ス(中略)開山ハ本寺(集福寺)二世要岩春津弘治三年(1557年)示寂 本尊ハ釋迦文殊普賢ヲ安ス」とあります。

・予想以上の大寺で境内もよく整っています。御朱印は庫裡にて授与いただけました。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼佛



■ 禅源山 長井寺
熊谷市弥藤吾1979(旧・大里郡妻沼町)
臨済宗円覚寺派
御本尊:
札所:忍秩父三十四観音霊場第17番
『新編武蔵風土記稿』には「禅宗曹洞派 上野國那波郡矢場村泉福寺末 禅源山ト號ス 本尊釋迦ヲ安セリ」とあります。
・その他の由来などは不明です。
・現況は無住と思われ、御朱印は別途お願いし郵送いただきましたが、これはイレギュラー対応で原則不授与かもしれません。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第17番 釈迦如来



■ 大悲山 薬師院 観音寺
公式Web
熊谷市八木田198(旧・大里郡妻沼町)
高野山真言宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第18番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第44番、第67番(薬師堂)
・公式Webに、慶長年間(1596-1615年)のはじめ、澄海上人による開基とされ、徳川幕府よりご朱印を賜り、とあります。
『新編武蔵風土記稿』には「大田村能護寺末大悲山薬師院ト号ス 慶安(1648-1652年)中寺領六石五斗ノ御朱印ヲ賜フ 開山澄海寂年知レス 本尊千手観音ヲ安ス」とあります。
村内の薬師堂と阿弥陀堂一宇も護持していたようです。

・忍秩父三十四観音霊場の観音堂は本堂とは別で、札所本尊は十一面観世音菩薩です。
・御朱印は庫裡にて拝受しました。幡羅郡新四国霊場の御朱印は授与されていない模様です。
 
〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第18番 十一面観世音菩薩



■ 聖天山 長楽寺 歓喜院(妻沼聖天山)
公式Web
熊谷市妻沼1627(旧・大里郡妻沼町)
高野山真言宗
御本尊:大聖歓喜天
札所:関東八十八箇所第88番、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第16番、武州路十二支霊場 午(勢至菩薩)、東国花の寺百ヶ寺霊場第26番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第13番、第76番(旧宝蔵院)
・「日本三大聖天」のひとつ、「妻沼の聖天様」と呼ばれる関東を代表する名刹で、複数の霊場札所を務められます。
・名刹だけに記事ネタが多いですが、こちらでは簡単なご縁起と御朱印関連に絞ってご案内します。
・平安時代末期の武将斎藤別当実盛公(長井別当)が治承三年(1179年)、守り本尊の大聖歓喜天を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされます。
・実盛公は、源平争乱期に源義朝公、木曾義仲公、平維盛公と複雑な関係をもち、寿永二年(1183年)、平維盛公らと木曾義仲公追討のため出陣した加賀国篠原の戦いで奮戦し、ついに討ち取られました。この篠原の戦いの顛末は『平家物語』巻第七「実盛最期」として一章を成し、東国武士の機微を語るものとして広く知られています。
・建久八年(1197年)、良応僧都(実盛公の次男である実長(宗光))が聖天宮の別当(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観世音菩薩を本尊としたといいます。
・国宝の本殿は絢爛たる廟型式権現造で、「埼玉日光」ともいわれます。

・御朱印は境内授与所にていただけます。5つの札所を確認しており、うち4つを拝受しています。残りの幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第13番については不明です。
なお、札所御朱印ではない御本尊・大聖歓喜天の御朱印も授与されている模様です。

〔拝受御朱印〕
1.東国花の寺百ヶ寺霊場第26番 大聖歓喜天
札所本尊は御本尊。本殿が札所とみられます。


2.関東八十八箇所第88番 大聖歓喜天
本殿向かって左の大師堂が札所(第88番結願所)となっています。
幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場の札所もこちらになります。


3.武州路十二支霊場 午 勢至菩薩
本殿向かって左の大師堂のお大師さまの右手(礼拝者からは左手)に御座す立像の勢至菩薩が札所本尊と思われます。大師堂内に単尊で勢至菩薩が安置される例は少ないと思われます。
当地は二十三夜月待講がさかんで、当山山内にも二十三夜塔が建立されています。そちらとの関連もあるのかもしれません。


4.関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第16番 聖観世音菩薩
中門そばの護摩堂の手前に御座す露仏の観音様が札所本尊です。



■ 寶珠山 光明禅寺 玉洞院
熊谷市妻沼2404(旧・大里郡妻沼町)
臨済宗円覚寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第16番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第86番
・開基は月峯常圓居士、開山を養嚴宗胡(文明九年(1477年)寂)とする曹洞宗寺院。
・『新編武蔵風土記稿』には鐘樓の銘文に「淀城主石川主殿頭憲之妻女、及び次男義孝、武運長久の誓の為に元禄三年(1690年)寄附する由を鐫す」とあります。
・石川憲之(1634-1707年)は、石川数正の叔父、石川家成の家を継いだ大久保忠隣の次男、石川忠総の孫にあたり、近江膳所藩第二代藩主、伊勢亀山藩石川家四代、山城淀藩初代藩主を務めました。憲之の妻女(正室)は羽林家の公家、梅園実清(1609-1662年)の息女で、その子石川義孝は山城淀藩第二代藩主、伊勢亀山藩石川家五代。
・妻女梅園氏、石川義孝ともに妻沼とのゆかりは確認できず、どうして当寺にこのような鐘銘が残っているのかも不明です。

御朱印は庫裡にて忍秩父観音霊場のものを拝受しました。幡羅郡新四国霊場については不明です。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第16番 聖観世音菩薩



■ 祥興山 真徳院 瑞林寺
熊谷市妻沼2485(旧・大里郡妻沼町)
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第73番
・『新編武蔵風土記稿』および境内記念碑によると、建久年間(1190-1199年)に天台宗寺院として創建。慶長六年(1598年)矢場村惠林寺第五世大庵文恕により曹洞宗に改められて開山、開基は大河内孫十郎政信と伝わります。
・大河内氏は摂津源氏源頼政流とされ、三河の吉良氏の家老の家柄でしたが、天正十五年(1587年)大河内秀綱の二男正綱が家康の命で長沢松平家庶流の松平正次の養子となり、子孫は大河内松平家と称します。武蔵野の名刹、平林寺は大河内大名家の墓所として知られています。
こちらのWeb(大河内松平氏の研究)に「吉良家を去った大河内秀綱後は伊奈氏の配下で代官として活動している。『伊奈忠次文書集成』の中に、大河内秀綱に宛てた慶長年間の文書がある。文禄三年(1594年)、徳川家康が江戸から上州新田に向かうため、通り道にあたる妻沼の名主に人馬継立を命じる文書が大河内孫十郎(久綱)の名で発給されている。このころ既に久綱が代官だったことが知られる。」とあり、孫十郎(久綱)と孫十郎政信が同一人物であるかはわかりませんが、江戸時代初期に大河内氏が妻沼の地を代官差配していたことがうかがわれます。
・本堂向かって右手前の日限地蔵堂には赤い幟がならび、信仰を集めている感じがします。
・墓所には江戸時代の俳匠・有磯庵五渡(ありそあんごと)三代の墓があります。江戸時代の妻沼は芭蕉ゆかりの俳句のメッカで、各地の俳人たちは妻沼聖天の参詣と併せて妻沼の俳人と交流し、これを「妻沼詣」と称したと伝わります。

・幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第73番の札所で、門前に御朱印のサンプルが掲示されています。庫裡にて「新四国第七十三番」の札所印入りの御朱印を拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第73番 釈迦牟尼佛



■ 能満山 定禅院 能護寺(あじさい寺)
熊谷市Web
熊谷市永井太田1141(旧・大里郡妻沼町)
高野山真言宗
御本尊:大日如来・虚空蔵菩薩
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第75番、東国花の寺百ヶ寺霊場第25番
・天平十五年(743年)に国家安穏・万民豊楽と五穀豊穣祈願のため行基上人が開山し、後に弘法大師空海が再建され真言密教の道場として整えられたと伝わります。
・「妻沼のあじさい寺」として知られ、毎年6月には多くの参詣者を迎えます。
・現本堂は文化十一年(1814年)の再建で、内陣に大日如来、外陣に阿弥陀如来を安置した堂内の格天井(十六羅漢図)には、金井烏洲・岩崎榮益・樋口春翠などの彩色の花鳥獣が描かれています。
・虚空蔵堂には虚空蔵菩薩が祀られ、男女13歳厄除け祈願(十三参り)の寺として信仰を集めています。
・鐘楼の鐘は、元禄十四年(1701年)、諸八郎兵衛藤原正綱による鋳造で、乳の間に百字真言の梵字が鋳込まれているもの。市の文化財に指定されています。

・メジャー霊場「東国花の寺百ヶ寺霊場」の札所で、御朱印は庫裡にて拝受。御朱印尊格は「十三参り」の虚空蔵尊となっています。

〔拝受御朱印〕
1.虚空蔵堂御本尊 虚空蔵菩薩


2.東国花の寺百ヶ寺霊場第25番 虚空蔵菩薩




【 BGM 】
■ glow Piano&Strings Acoustic .Ver うたってみた 鹿子


■ 夢の途中 - KOKIA


■ far on the water - Kalafina
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