goo

■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。

新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。

----------------------------------------
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2から。
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5


〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。


■ 第23番 日金山 東光寺(とうこうじ)
公式Web
伊豆88遍路の紹介ページ
熱海市観光ガイド
熱海市伊豆山968
真言宗
御本尊:地蔵菩薩
札所本尊:地蔵菩薩
他札所:駿河一国観音霊場(駿河三十三観音)番外、駿豆両国横道三十三観音霊場番外
授与所:第24番般若院にて授与



第23番の日金山 東光寺からは東伊豆に入ります。

伊豆山は古来からの神仏混淆の霊地で、こちらにあるふたつの札所(第23番日金山 東光寺、第24番走湯山 般若院)は、いずれもただならぬ縁起由緒をもたれます。

膨大な情報がありしかも錯綜気味なので、主に山内掲示、『豆州志稿』『走湯山縁起』にもとづきまとめてみます。
なお、この両札所は令和3年7月伊豆山土砂災害の被災地に近く、以前と状況が変わっているかもしれません。

応神天皇二年(271年)、伊豆山の浜辺(大磯町唐ヶ浜とも)に、光りを放つ不思議な円鏡が現れて波間を飛び交い、やがて西の峰に飛んでいきました。それはさながら日輪のようで、西の峰は火を吹き上たように見えたので「日が峰」と呼ばれ、いつしか「日金山」と呼ぶようになりました。

応神天皇四年(273年)、松葉仙人(勧請仙人)がこの不思議な鏡を崇め奉り、社殿を造立して祀ったのが開山と伝わります。

現地掲示『伊豆開山の三仙人』によると、仁徳天皇七十一年(383年)巨樹の空洞から蘭脱仙人(木生仙人)が出現され災害や疫病を鎮めて霊験をあらわし伊豆辺路(伊豆半島一周の修行路)を開かれました。
敏達天皇四年(575年)、大地震とともに金地仙人が出現され、高麗伝来の国書を読み解かれたといいます。

三仙人の廟所とされる石塔は、文化十年(1813年)頃、般若院別当・周道によって造成されたと伝わり、東光寺の奥に祀られています。
同掲示には「仙人開山の伝承は、仏教公伝(538年説が有力とされる)以前から伊豆山が神仙の鎮まる霊場であったことを主張しているのであろう。」と記されています。

同掲示によると、平安時代、初めて富士登山に成功(富士禅定)し富士修験の開祖とされる末代上人(1103年-)は走湯山の出身で、伊豆・箱根二所権現をも草創され、焔熱で地獄の様相を示していた熱海の衆生を救うため、日金山に地蔵菩薩を安置したとあります。
末代上人が開いた富士登山道は村山口と呼ばれ、末代上人は没後村山浅間社の境内に大棟梁権現として祀られるとともに、村山の地は代々走湯山領として存続したとされ、走湯山と富士山のつながりがうかがわれます。
『走湯権現当峰辺路本縁起集』でも、伊豆山と富士山を両界曼荼羅の入口と出口に位置づけており、往古より両山一体の修験道場と考えられていたという説があります。

また、推古天皇の世(594年)、「走湯権現」の神号を賜り、承和三年(836年)には甲斐國の僧、賢安が日金山本宮から神霊を現在の伊豆山神社のある地に遷したといわれています。(走湯山縁起云云)
源頼朝公の尊崇篤く、御本尊の延命地蔵菩薩像は頼朝公の建立によるとされます。
(頼朝公は、走湯権現、箱根権現を篤く尊崇し、鎌倉将軍家としても奉幣しました(二所奉幣)。)

さて、『豆州志稿』です。
「伊豆山村日金山 今称日金地蔵堂 往昔延喜式内火牟須比命神社(今伊豆山神社)鎮座ノ地也 伝云松葉仙人ナル者始テ此ニ奉祠スト寺後ニ其墳墓アリ 地蔵ヲ祀ル」(地蔵ノ銅像ヲ安ス 貞享(1684-1688)中般若院ノ僧聖算造ル所也(略)粟田口東光寺ノ善祐僧此辺ニサマヨヒ歩キテ住ナレシ 舊院ノユカシサニ 假初ノ庵ヲ繕ヒ現在ノ迷妄ヲ果シ将来ノ快楽ヲ願ヒテ此佛像ヲ据置侍リシニヤト 東光ノ寺名同ク寺ヲ建シ事至テ古シト云伝フレハ 此説是トスベシ 其後源頼朝堂宇ホ再建シ寺領ヲ附セリト云 七坊アリ今四坊存ス皆妻帯僧也 新編鎌倉志曰松源寺ハ日金山ト号ス 本尊ハ地蔵也 頼朝卿伊豆ニ配流ノ時伊豆ノ日金ニ祈テ 我世ニ出デナバ必地蔵ヲ勧請セント約セシ故玆ニ移スト 北條盛衰記ニ日金山ノ麓ニテ朝比奈弥太郎鬼ニ遇フ事ヲ記ス 世俗死者ノ霊魂日金地蔵ノ許ニ至ルト云(略)寺前ニ閻王及生死河婆ノ石像アリ古色●スベシ」とあります。

『豆州志稿』には「往昔延喜式内火牟須比命神社(今伊豆山神社)鎮座ノ地也」とあり、東光寺の山内が当初の伊豆山神社御鎮座の地であったことを示しています。
草創については、松葉仙人によるもの、粟田口東光寺ノ善祐僧によるものの二説を伝えています。

また、『豆州志稿』の「伊豆権現」(伊豆山神社)の項には「往古日金峰ニ鎮座スト云 日金は火ガ峰ノ義ニシテ此神鎮座ヨリ起レル称呼ナル可シ 其後山上ヨリ牟須夫(ムスブノ)峰ニ遷ス 牟須夫ノ称ハ神名ノ遺レルナラム 今之ヲ本宮ト云 次ニ現地ニ移シテ新宮ト称ス 然ルニ山上舊址ニ小祠在リシヲ又遷シテ新宮ノ摂社ト為シ雷電権現或ハ若宮ト称ス(略)現今日金峰ノ舊址ニ日金地蔵堂アリ 伊豆山ノ地名モ日金峰移ヨリセルニテ 日金峰ヲ往古伊豆ノ多可禰ト称ス」とあります。

「日金山」を十国峠とみる説もあります。
十国峠と東光寺はアプローチが異なるのでずいぶんと離れているイメージがありますが、じっさいは東光寺から十国峠まではひと登りで、この一帯が「日金山」とされていたものと思われます。

『豆州志稿』の内容を整理すると、「伊豆権現」(伊豆山神社)は往古は日金山に御鎮座で、のちに牟須夫峰(現在の伊豆山神社本宮社)に御遷座され、ここから現・伊豆山神社の社地に「新宮」として遷られたということになります。

源頼朝公との所縁は、公が御本尊の延命地蔵菩薩像を建立されたこと、日金山に出世を祈願され、成就のあかつきには地蔵尊建立の願をかけ、鎌倉松源寺に地蔵尊を勧請されたことなどが伝わります。

松源寺については、『新編鎌倉志』に記載があります。
「松源寺は日金山と号す。銕観音の西、巌窟堂の山の中壇にあり、本尊は地蔵、運慶が作。相伝ふ、頼朝卿、伊豆に配流の時、伊豆日金に祈て、我世に出ば必ず地蔵を勧請せんと約せし故に、こゝに移すと云ふ。」

現在の巌窟不動尊(不動茶屋・鎌倉市雪ノ下/横大路)の東側にあった松源寺は明治初期に廃寺となり、現在松源寺の御本尊であった日金地蔵尊は、横須賀市武の松得山 東漸寺に遷られて、鎌倉二十四地蔵霊場唯一の鎌倉市外の札所となっています。

『こころの旅』には、「鎌倉時代から室町時代にかけて、この寺には七つの子坊があったが、江戸時代には道正坊、源秀坊、箱根坊、相模坊、土沢坊の五坊になり、現在は道正坊だけが残っている。」とあります。
また、『霊場めぐり』によると、昔日、箱根伊豆両権現の参詣が盛んな頃は経由地に当たっていたため殷賑を極めたそうで、箱根伊豆両権現詣と連動した修験系の一大聖地であった可能性があります。

古来、駿豆地方の死者は日金山に登るため、彼岸に日金山に行くと会いたい人の姿を目にすることができるとされ、お彼岸に先祖供養のため登拝するならわしがあります。
また、朝比奈弥太郎が鬼と出会った地という伝説も残り、伊豆屈指のパワスポとして知られています。

-------------------


日金山の成り立ちから考えると、東光寺の表参道は伊豆山や湯河原などからの登山ルートと思われます。
じっさい、日金山中には多くの石仏が遺され、湯河原から登る「石仏ハイキングコース」が設定されています。
また、伊豆山神社から本宮、岩戸山を経て東光寺に至る「岩戸山ハイキングコース」もあります。

車でのアプローチは熱海峠からになりますが、距離は短いもののかなりの悪路で神経を使います。

暗い山道をトラバース気味に抜けて山上の広場に出ると、ここはもう東光寺の山内です。
箱根から伊豆にかけての尾根筋は明るい草原が多いですが、このあたりは木々がうっそうと茂っています。
伊豆有数のパワスポということもあってか、霊気あふれる山内です。

こちらはどうも山内の様子をあれこれレポするようなお寺さまではないような気がします。
公式Webをご参照願います。

なお、御本尊の地蔵菩薩は「銅造延命地蔵菩薩像及脇童子造」として、熱海市の指定文化財となっています。
像高324センチの半跏造で、錫杖、宝珠を持たれ反花蓮華座、輪光輪のおすがたとのこと。

御朱印は通常は無住のようで、第24番般若院で拝受できますが、非巡拝者が御朱印帳に授与いただけるかは不明です。


〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 日金地蔵尊 /主印はいずれも地蔵菩薩の種子「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第24番 走湯山 般若院(はんにゃいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
熱海市伊豆山371-1
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:熱海三弘法大師霊場第3番、熱海六観音霊場第6番
授与所:庫裡



伊豆山にある真言宗の名刹。
伊豆山権現(伊豆山神社)の別当坊であった走湯山 東明寺が前身で、徳川家の厚い崇敬を受け、院号の「般若院」は徳川家康公による命名とされています。

弘法大師との所縁がふかく、大師堂には弘法大師自ら刻まれたとされる等身大の大師像が安置されているそうです。

「明治の神仏分離によって伊豆山神社内から現在地に移った」とされています。
神仏習合の権現社では世俗にかかる対応は別当が担っていた例があり、伊豆山権現にかかわる頼朝公や北条政子の逸話の舞台は、あるいは東明寺(般若院)であったのかもしれません。
「鎌倉殿の13人」で北条政子らが伊豆山(権現)で掃除する場面が出てきましたが、その舞台は東明寺(般若院)あるいはその支坊であった可能性があります。

長瀞の寶登山神社と別当・玉泉寺は神仏習合がよく遺っている例(→ 寶登山神社公式Web)とされ、じっさい参拝してみると、素人目にはどこが神社とお寺の境界か、皆目わからない感じがあります。
往年の伊豆山権現もこのようなかたちであったと思われます。

「権現」とは”仮に示現すること”をあらわし、仏や菩薩が衆生利益のために仮に(権現として)あらわれることをいいます。
『神仏習合の歴史探訪』(川口謙二氏・東京美術刊)によると「神号に権現と付すのは『最勝王経』に『世尊金剛体、権現現於化身』とあることから出たとされている。」とのことで、いわゆる「本地垂迹(ほんちすいじゃく)論」にもとづくものです。
別当は一山(山内の諸寺諸社)の寺務を意味し、のちに神社(権現社)の事(寺)務を職掌する寺院ないしその長官の意になりました。
また、別当(寺)や神宮寺で仏事を行う僧を、社僧、供僧などと呼びました。
よく、神社とお寺の区別で鳥居、狛犬、墓地の有無などがいわれますが、例外はたくさんあります。
もともと江戸時代までは神仏習合があたりまえの考えだったので、その名残りはいくらも遺っているということかと。

〔 関連記事 〕
■ 御朱印帳の使い分け

伊豆山権現の別当実務は東明寺の支院である密厳院が担っていたという説があり、じっさい伊豆山権現関連の文書には「密厳院」の名がよく出てきます。

般若院(東明寺)の草創は定かではありませんが、平安時代に伊豆山権現法学のために建てられた観音堂が草創という説があります。
『吾妻鏡』によると、治承四年(1180年)、頼朝公は挙兵を前に伊豆山権現の覚淵を北条邸に呼び、法華経千回誦ができなくなったことにつき相談しています。
覚淵が創建したのが東明寺の支院、密厳院ともいわれます。
 
密厳院は天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで北条方についたため攻められて全山焼亡しましたが、その後東明寺には家康公は高野山の僧快運を招聘して中興開山とし、「般若院」の院号を与え、戦火で荒廃した伊豆山権現の復興にあたったとされます。(『こころの旅』)

『こころの旅』には、「伊豆山権現の御法楽のため、承和三年(836年)僧賢安が千手観音をまつる堂宇を創建したのが始まりと伝えられる。」とあります。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「伊豆山村 紀州高野山金剛峯寺末 本尊不動 古ハ密厳院東明寺ト云(略)創立年代不詳弘仁(810年-824年)中僧空海此地ニ留錫シ 承和(834-848年)中甲州僧賢安亦来住スト云 今僧桓舜(天喜五年(1057年)寂)ヲ中興開山ト称ス(略)古来伊豆権現(今県社伊豆山神社)ノ別当也 往昔ハ頗大刹ニシテ巨多ノ支坊ヲ有シ(略)三千八百ノ支坊ヲ領シタリト云 僧徒常ニ群衆シタリキ 明治維新ノ初 別当職ヲ解キ同村成就坊ヲ併セテ境内ニ移転ス 従来古義真言宗関東五刹ノ一ト称ス 院内ニ護摩堂清瀧権現祠(主ハ即唐土清瀧寺ノ伽藍神ニシテ空海ノ持来ル所也 祈雨則應アリト云)アリ 又古佛数十躯ヲ蔵ム 供僧十二坊 眞乗。福壽。本地。善満。寶蔵。泉蔵。定蔵。圓蔵。行學。日下。常心。岸坊。ト云 山伏七坊 圓光。西蔵。寶珠。歓喜。常福。定光。圓秀。ト云 承仕四戸倶ニ伊豆権現ニ奉仕ス 明治ノ初皆廃ス 甞テ(かつて)源頼朝及夫人平政子当山二寄寓ス(略)足利尊氏ノ子竹若当院ニ居住ス」 

これによると、密厳院は東明寺の支院ではなく、東明寺の院号であった可能性があります。
支坊3,800というものすごい規模感で、徳川家の尊崇を受け「古義真言宗関東五刹ノ一」とされていたことからも、伊豆有数の名刹であったことがうかがわれます。

-------------------


伊豆山の南側の高台にあります。
山門は谷側でここから参道階段を登りますが、駐車場は高台の庫裡横にあります。
ここからは相模湾を間近に見下ろせます。
海とのかかわりふかい伊豆八十八ヶ所霊場ですが、ここまでは中伊豆だったので、ここ第24番ではじめて海を間近に見ることになります。

駐車場のそばに眺めのよい足湯があります。
すぐお隣りにあった、温泉マニアのあいだで「伝説の名湯」として知られる共同浴場「般若院浴場」は2005年4月に閉鎖されてしまいましたが、これと同じ源泉を使っているとみられます。


【写真 上(左)】 足湯
【写真 下(右)】 ありし日の「般若院浴場」

■ 伊豆山温泉 「般若院浴場」の入湯レポ

ちなみに伊豆山温泉は、すばらしい泉質が味わえる伊豆屈指の名湯です。
詳細については、こちら→〔 温泉地巡り 〕 伊豆山温泉をご覧くださいませ。

駐車場から庫裡経由でいくと、堂宇裏をまわりこむかたちで全容がわかりにくいので、一旦道路沿いに山門までくだってここからのお参りをおすすめします。

山門は両側に石標で、右が山号院号標、左が「弘法大師霊場」の石標。
さすがに温泉のメッカ伊豆山。さりげに参道脇に温泉櫓があります。

階段をのぼりきると正面に重厚感あふれる本堂。
入母屋造で大がかりな唐破風向拝、水引虹梁両端に獅子・貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻。
正面桟唐戸の上に「走湯山」の山号扁額。さすがに名刹らしいたたずまいを見せています。
本堂に安置の「木造伊豆山権現立像」は鎌倉時代の作で伊豆山権現にあったものとされ、国の重要文化財に指定されています。

本堂に相対す鐘楼よこには修行大師像。

本堂向かって左手の高みに大師堂。お大師さま自らが厄除けのため刻まれたとされる等身大のお像が安置されているそうです。
入母屋造流れ向拝で、水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻。
正面桟唐戸の上には「弘法大師」の扁額が掲げられています。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来 /主印はいずれも阿弥陀如来の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

■ 伊豆山温泉 「伊豆山浜浴場」の入湯レポ
■ 伊豆山温泉(走り湯) 「偕楽園」の入湯レポ


■ 第25番 護国山 興禅寺(こうぜんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
熱海市桜木町5-8
臨済宗妙心寺派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
他札所:熱海三弘法大師霊場第2番、熱海六観音霊場第2番
授与所:庫裡



熱海市街には御朱印をいただける寺院がけっこうありますが、伊豆八十八ヶ所の札所はこちらだけです。
■ 熱海温泉&湯河原温泉周辺の御朱印

境内説明板には「開山は微妙大師藤原藤房卿で暦應四年(1341年)の創建」とあります。
巡拝ガイド類によると、暦應四年(1341年)、藤原藤房卿が祝髪して授翁を名乗られこの地で創建。
御本尊の十一面観世音菩薩は、授翁禅師の護身仏と伝わります。

藤原藤房卿は万里小路藤房ともいい、後醍醐天皇に近侍して討幕計画に参画した公卿です。
江戸時代の儒学者安東省菴が、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣の1人に数えたほど帝に貢献したと伝わります。官位は正二位中納言。

元弘の変で天皇を奉じ笠置山に逃れるも北条方に捕らえられ、元弘二年(1332年)下総国(常陸国藤沢城とも)に流されたといいます。

元弘三年(1333年)、後醍醐帝の建武の新政により京に戻られ、新政権の要職に就いたものの、突如、世を儚んで京の岩倉に隠れたのち出家され、行方知れずとなりました。
天皇の忠臣で、高貴の身でありながら突如出家・行方知れずとなったことから、各地に藤房卿所縁の伝承が残ります。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「海岸山 興禅寺 熱海村 西京妙心寺末 本尊十一面観世音 推妙心寺二世敕謚神光寂照禅師為初祖 禅師即藤原藤房卿也 明治十二年更ニ圓鑑國師ノ号ヲ敕賜ス 妙心寺伝誦ス 従二位藤原藤房卿遁世薙染シ開山國師ノ衣鉢ヲ伝フ 無幾シテ又寺ヲ棄テヽ漫遊シ不知所終ト 興禅寺ニテ相伝フ 授翁ト云僧熱海ニ至リ温泉ニ浴ス 村人其徳ニ懐キ為ニ温泉寺ヲ構造シテ之ニ居ラシム 又興禅寺ヲ創メコレカ祖ト為ル ソレヨリ東ニ赴クト(略)天授授翁宗弼禅師嗣開山 姓藤氏勧修寺大臣家花族也(略)授翁ハ即藤房卿出世ノ号ナル事ヲ 増鑑ニ天皇隠岐ノ島ニ流サレ玉フ時 萬里小路中納言藤房ハ常陸國ヘ遣ハサル 季房宰相モカシラオロシタリシカドナホ 下野國ヘ流サルト按スルニ 季房ハ失ハレ藤房ハ帰リ上ル事ヲ記セリ 弟季房薦福ノ為ナトニ下野ニ下リシニヤ 只憾ラクハ興禅寺今都テ舊記ノ依據スベキナシ 寛永(1624-1645年)中雲居禅師来住ス 之ヲ中興トス 本尊長三寸八分開祖ノ護念佛ナリト云 又雲居ノ自賛ノ画像ヲ蔵ス 梵鐘ハ寛永十年(1633年)藤堂和泉守高次ノ寄附也」 

『豆州志稿』は、授翁禅師(藤原藤房卿)が熱海の地で当寺と温泉寺を開創と伝えていますが、「只憾ラクハ興禅寺今都テ舊記ノ依據スベキナシ」と旧記なきことを惜しんでいます。
また、当初の山号は海岸山であったようです。

中世の一時期荒廃しましたが、寛永年間(1624-1645年)雲居禅師が来住されて中興を果たしました。

-------------------


熱海市街南側の高台にあります。
歓楽色のつよい熱海の街並みも、このあたりまでくるとさすがに落ち着きをみせています。

参道階段の上に切妻屋根瓦葺の豪壮な薬医門。門柱右に寺号、左に伊豆八十八ヶ所の札所板、見上げに山号扁額を掲げています。
門扉には下り藤紋が掲げられていますが、こちらは藤房卿ゆかりのものでしょうか。

山門をくぐるとすぐに本堂。
銅板葺。露盤に相輪を立ち上げる宝形造にも思えますが、それにしては桁行きがあり、寄棟造かもしれません。
向拝柱はなく正面鉄扉のうえに扁額を掲げていますが、筆者は不勉強につき解読できません ^^;)

御本尊の十一面観世音菩薩は授翁禅師の護身仏と伝わり、境内掲示には「当寺は創建の因縁により十一面観世音菩薩をおまつりしてあります。」との説明。



本堂向かって右手に諸仏が御座し、「興禅寺南無金剛當り不動尊」は高く迦楼羅炎を背負われ、右手には龍王が巻き付いた倶利伽羅剣を掲げ、盤石に趺坐して御座す迫力のお不動さまです。
諸仏のおくには半僧坊大権現のお堂。堂前の縁起書によると「創立時に遠州奥山方廣寺派大本山の方廣寺の守護神半僧坊大権現の分霊が奉祀されて興禅寺の守護神となり給う鎮座す」とのことです。

枝垂桜で知られる寺院で、以前は天然記念物の金木犀(キンモクセイ)がありましたが枯死してしまい、現在は二代目とのこと。
かつての金木犀の巨木は、花時には花の香りが熱海の沖合を通る船まで届いて灯台の役目を果たしていたという風流な逸話が伝わります。

御朱印は境内左手の庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩 /主印は「興禅寺南無金剛當り不動」の印で、いささか変わった様式です。御朱印朱印帳Vers.には半僧坊大権現の羽団扇紋の印も捺されています。
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


熱海温泉の温泉レポはけっこうあります。
こちらをご覧くださいませ。


伊豆東海岸に入ると札所間の距離が急に長くなります。
熱海市街を過ぎて稲取までは、伊豆多賀、網代、宇佐美、伊東、川奈・富戸、城ヶ島・対馬、赤沢、大川、北川、熱川、片瀬、白田と名だたる温泉地がつづきますが、この間、伊豆八十八ヶ所の札所はわずか6を数えるのみです。

巡拝途中にはこれらの温泉に泊まることになりますが、札所が少ないので泊数も少なくなり、その少ない宿泊をどの温泉宿にとるかというのも、この霊場の楽しみのひとつです。
(ただし温泉好きがトライした場合、名湯群を横目に先を急ぐので心理的にはかなりきびしいものあり。東伊豆で不用意に立ち寄り湯トラップにはまったりすると、その先の南伊豆で時間切れ必至となるので要注意です(笑))


■ 第26番 根越山 長谷寺(ちょうこくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
熱海市網代542
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
鎮守:秋葉山三天坊
他札所:-
授与所:庫裡ないし善修院(熱海市網代490-1)



ひもので有名な網代にある、伊豆の海と所縁のふかい寺院です。

行基上人(668-749年)が網代の浜、屏風ヶ岩で修行されていたとき、浜に漂着した霊木をみつけました。
上人はこの霊木が、大和の長谷観音像を彫した木の末木であることを知り、観音像を彫り、洞窟の中に安置して立ち去られたといいます。

里人たちはこの観音像を年久しく信奉し、この洞窟を”観音窟”と称し、海に働く人々は”観音山”と呼んで崇めていたところ、大永元年(1521年)、善修院開山の大祝和尚がいまの地に移し、地名(根越)を山号とし、長谷寺と号したと伝わります。
この観音像は、奈良・鎌倉の長谷観音とともに「一本三体観音」とされる由緒あるお像です。

古くは真言宗の寺で、堂内には弘法大師のお像が安置され、庭には高さ五尺幅六尺程の石面に、弘法大師の爪彫りという阿弥陀如来の線画があるそうです。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「網代村 網代村善修院末 本尊聖観世音 大永(1521-1528年)中、善修院開山大祝創立ス 本寺(善修院)ノ奥ノ院也 本尊観世音ハ元本(網代)村屏風ノ南岩窟ニ在リキ 大祝茲(ここ)ニ移ス 世俗穴観音ト云」

いまは木々がうっそうと茂っていますが、『霊場めぐり』には「根越山の中腹にある南東に開けた谷あいで伊豆の海に面し、目前には初島を始めとし、伊豆大島、伊東の岬、また遠くに房総半島の山を一望する静かな景勝の地である。」と記されています。

その昔、境内に燈明松、立燈松という二本の古松があり、風雨暗夜で陸地がわからないとき、船人たちが御本尊の名号を唱えるとたちまち二本の松に火が上り、船は無事港に入ることができたといいます。

-------------------
山内には石造の観音像群や、熱海俳壇の祖・東海呑吐(無壁庵)の句碑があります。

~ 散る時ははてしれなくて秋の月 ~ 東海吞吐

〔 観世音菩薩像三十三体 修復記念碑 〕
「往時網代の郷は 伊豆の一寒村にて小漁港にすぎず 住民は平和な明け暮れを過ごしていた 江戸は徳川氏の開府により人口が密集し 物資の消費は膨大となり 全国からの舟航により集荷され 網代の港はその寄港地として また避難港としてにぎわい 一時は『京 大阪 江戸 網代』とまで呼称されるに至った 当時 網代に寄港した船舶の船主 船頭等相寄って 本観世音菩薩像三十三体を建立し 海上安全と豊漁とを祈願した しかるに明治以降 文明開化によって帆船は蒸気船に替わり 網代の港もその使命を終え」 いつしか本菩薩像の存在も 時代の推移とともに忘却され 荒廃するに任された ここにおいて 網代漁業株式会社これを惜しみ 往時を懐古するとともに 海上の安全と大漁とを祈念して 本仏像を修復し 記念碑をこの地に建つ」

〔 熱海市指定文化財 彫刻 石像三十三所供養観音像 / 熱海市教育委員会 〕
「この石仏群は、三尊仏・三十三所供養観音(聖・千手・十一面・如意輪・馬頭・准胝観音等)仏像、供養塔等、一揃いの珍しい野仏である。江戸時代に網代が津(港)として栄えた頃 観音信仰をする地元民により建立されたものである。供養塔に「寛政」・「嘉永」の刻銘がある。」

また、山内の少し北側には、江戸城増修築のための石丁場跡があります。

〔 江戸城増修築のための石丁場跡 〕
徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる慶長十一年(1606年)より寛永十三年(1636年)にかけて江戸城の大規模な増修築をはかった際、諸国の大名に命じて城郭の分担箇所の工事を督励するとともに、伊豆の国より石材の運搬に当たらせた。石材の採掘は相模の国の真鶴から伊豆の稲取にかけて行われたが、当時大名が義務として提供する石の割当ては、十万石につき100人持ちの石1020玉ずつであったことから九端帆石船3000艘も伊豆と江戸の間を月2回ずつ往復したといわれている。(以下略)


-------------------
東京方面からだと、国道135号、立岩(網代)トンネルを抜けた少し先を鋭角に右折して山内に入ります。寺号標は建っていますが、角度的にブラインドで気づきにくいです。
また、ナビによってはとんでもないルートを案内されるので要注意です。

 

急坂を登り、さらに急な石段参道を登ると正面に寺号扁額を掲げた山門。複雑な意匠でつくりは不明です。
山門をくぐると視界が広がり、正面に山を背負った本堂、右手には太子堂などの堂宇がならびます。
山内掲示によると、この太子堂は工芸技芸の祖として尊崇される聖徳太子の遺徳を偲び、網代職工組合にて大正12年建立されたものとのこと。


【写真 上(左)】 太子堂
【写真 下(右)】 本堂

曹洞宗寺院ですが、山内は木々が生い茂り、多くの石仏がならんで修験的な雰囲気も感じられます。伊豆にはこの長谷寺のように、もと密寺でのちに禅寺となった寺院が少なくないですが、いずれも独特な雰囲気をまとっています。

本堂はおそらく宝形造とみられ、棟の頂部に露盤、伏鉢、宝珠を置いています。
本瓦葺の重厚な構えで、朱塗りの向拝柱や欄干が意匠的によく効いています。
建物は比較的新しいものと思われますが、木端や中備えの彫刻は古色を帯び、これは旧堂宇からの移設かもしれません。



向拝見上げに寺号扁額。
向拝扉は1度目の参拝では閉扉、2度目は開いていました。開扉時でも御内陣は暗く、詳細をうかがうことはできません。

御朱印は、庫裡にどなたかおられる場合にはこちらで拝受、ご不在の場合はすこし離れた善修院(熱海市網代490-1)での拝受となります。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳(長谷寺庫裡にて拝受)
【写真 下(右)】 御朱印帳(善修院にて拝受)

■ 南熱海網代温泉 「竹林庵みずの」の入湯レポ
■ あじろ温泉「平鶴」の入湯レポ


■ 第27番 稲荷山 東林寺(とうりんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆・伊東観光ガイド
伊東市馬場町2-2-19
曹洞宗
御本尊:地蔵菩薩(阿弥陀三尊とも)
札所本尊:地蔵菩薩
司元別当:葛見神社(伊東市馬場町)
他札所:伊豆二十一ヶ所霊場第17番、伊豆伊東六阿弥陀霊場第2番、伊東温泉七福神(布袋尊)
授与所:庫裡

ここから伊東市内に入ります。
伊東は寺院メインの伊東温泉七福神が設定されているほど寺院の多いところですが、伊東市内の伊豆八十八ヶ所の札所はわずかに2つしかありません。

こちらは伊東の名族、伊東氏所縁の名刹です。
久安年間(1145-1150年)、真言宗寺院として開かれ久遠寺と号しました。

藤原南家の流れとされる工藤氏は、平安時代から鎌倉時代にかけて東伊豆で勢力を張り、
当初は久須見氏(大見・宇佐見・伊東などからなる久須見荘の領主)を称したともいいますが、のちに伊東氏、河津氏、狩野氏など地名を苗字とするようになりました。

東伊豆における工藤(久須見)氏の流れは諸説あるようですが、これがはっきりしないと東林寺の縁起や『曽我物語』の経緯がわかりません。
いささか長くなりますが整理してみます。

工藤(久須見)祐隆は、嫡子の祐家が早世したため、実子(義理の外孫とも)の祐継を後継とし伊東氏を名乗らせました。(伊東祐継)
他方、摘孫の祐親も養子とし、河津氏を名乗らせました。(河津祐親)

伊東祐継は、嫡男・金石(のちの工藤祐経)の後見を河津祐親に託し、祐親は河津荘から伊東荘に移って伊東祐親と改め、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせました。
(河津祐親→伊東祐親)

一方、工藤祐経は伊東祐親の娘・万劫御前を妻とした後に上洛し、平重盛に仕えました。

工藤(久須見)氏は東国の親平家方として平清盛からの信頼厚く、伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝公の監視役を任されました。

娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸をもうけたことを知った祐親は激怒し千鶴丸を殺害、さらに頼朝公の殺害をも図ったとされます。
このとき、頼朝公の乳母・比企尼と、その三女を妻としていた次男の祐清が危機を頼朝公に知らせ、頼朝公は伊豆山神社に逃げ込んで事なきを得たといいます。

なお、北条時政の正室は伊東祐親の娘で、鎌倉幕府第二代執権・北条義時は祐親の孫にあたるので、鎌倉幕府における伊東祐親の存在はすこぶる大きなものがあったとみられます。

工藤祐経の上洛後、伊東祐親は伊東荘の所領を独占し、伊東荘を奪われた工藤祐経は都で訴訟を繰り返すものの効せず、さらに伊東祐親は娘の万劫を壻・工藤祐経から取り戻して土肥遠平へ嫁がせたため、所領も妻も奪われた祐経はこれをふかく恨みました。

安元二年(1176年)、奥野の狩りが催された折、河津祐泰(祐親の嫡子)と俣野五郎の相撲で祐泰が勝ちましたが、その帰途、赤沢山の椎の木三本というところで工藤祐経の郎党、大見小藤太、八幡三郎の遠矢にかかり河津祐泰は落馬して息絶えました。
祐親もこのとき襲われたものの離脱して難をのがれました。

伊東祐親は、嫡子河津祐泰の菩提を弔うため当寺に入って出家、自らの法名(東林院殿寂心入道)から東林寺に寺号を改めたといいます。

治承四年(1180年)頼朝公が挙兵すると、伊東祐親は大庭景親らと協力して石橋山の戦いでこれを撃破しました。
しかし頼朝公が坂東を制圧したのちは追われる身となり、富士川の戦いの後に捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられ、義澄の助命嘆願により命を赦されたものの、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」といい、養和二年(1182年)2月、自害して果てたとされます。
以後、東林寺は伊東家累代の菩提寺となりました。
また、伊東氏の尊崇篤い葛見神社の別当もつとめられていました。

河津祐泰の妻は、5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)を連れて曾我祐信と再婚。
建久四年(1193年)5月、祐成・時致の曾我兄弟は、富士の巻狩りで父(河津祐泰)の仇である工藤祐経を討った後に討死し、この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られることとなりました。

祐泰の末子は祐泰の弟祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られ、妻が再婚した平賀義信の養子となり、出家して律師と号していましたが曾我兄弟の仇討ちの後、これに連座して鎌倉・甘縄で自害しています。
(なお、平賀氏は清和(河内)源氏義光流の信濃源氏の名族で、源氏御門葉、御家人筆頭として鎌倉幕府草創期に隆盛を誇りました。
この時期の当主は平賀義信とその子惟義で、惟義は一時期近畿6ヶ国の守護を任されましたが、以降は執権北条氏に圧され、惟義の後を継いだ惟信は、承久三年(1221年)の承久の乱で京方に付き平賀氏は没落しました。)

工藤祐経の子・祐時は伊東氏を称し、日向国の伊東氏はその子孫とされています。

天文七年(1538年)に長源寺三世圓芝春徳大和尚が曹洞宗に改宗しています。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「岡村 田方郡中長源寺末 本尊地蔵 大永(1521-1528年)中、善修院開山大祝創立ス 本寺(善修院)ノ奥ノ院也 初久遠寺ト称スト云 相伝フ伊東祐親建ツト 祐親東林院寂心ト称ス法謚ス 祐親寿永二年(1182年)2月15日鎌倉ニ於テ死ヲ賜ル 当村其居住ノ地也(略)圓芝和尚永禄九年(1566年)帰寂今開祖トス コレ必改宗ノ祖也 元真言宗也 曾我勲功記曰 伊東家継ノ後 妻玉江終ニ空クナリニケリ 即菩提寺久遠院ニ送リテ葬禮ノ儀ヲ営ミケル云々ト 当寺ニ日向國伊東家ノ文書数十通 三島旅館ヨリ贈リシ文書ニテ皆同文ナリ 伊東家ハ工藤祐経ノ裔ナリ 祐経ノ子祐時日向地頭職ニ補セラレ 爾後子孫日向ニ住酢ス」。 

河津三郎祐泰は当代きっての相撲の名手として知られ、相撲の中興の祖ともされます。
相撲の大ワザ「河津掛け」は祐泰が編み出したものと伝えられ、昭和34年、東林寺にて横綱栃錦の奉納土俵入りがおこなわれています。同年、時津風理事長(元双葉山)の手により除幕された日本相撲協会建立の相撲塚も境内にあります。

-------------------

【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山内

伊東市街の山寄りに鎮まる旧郷社・葛見神社のさらに奥側にあります。
伊豆半島の温泉地の寺院は路地奥にあるものが多いですが、こちらは比較的開けたところにあり、車でのアクセスも楽です。
伊東氏の菩提寺で、伊東温泉七福神の札所でもあるので観光スポットにもなっている模様。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 布袋尊

山門は切妻屋根桟瓦葺、三間一戸の八脚門で、「東林寺」の寺号板と「稲荷山」の扁額。
山内向かって左手に鐘楼、正面に入母屋造桟瓦葺唐破風向拝付きの本堂。
大がかりな唐破風で、鬼板に経の巻獅子口。刻まれた紋は伊東氏の紋としてしられる「庵に木瓜」紋です。
兎の毛通しの拝み懸魚には立体感あふれる天女の彫刻。

水引向拝両端には正面獅子の木鼻、側面に貘ないし像の木鼻。
中備には迫力ある龍の彫刻を置き、向拝上部に「東林禅寺」の寺号扁額が掛かります。
本堂には御本尊のほか、伊東祐親・河津祐泰・曽我兄弟の位牌や伊東祐親の木像、頼朝公と祐親の三女八重姫との間に生まれた千鶴丸の木像を安置しているそうです。

本堂向かって右の一間社流造の祠は伊東七福神の「布袋尊」です。
堂前に樹木は少なく、すっきり開けたイメージのある山内です。

河津三郎の墓、曽我兄弟の供養塔は鐘楼左の参道上にあり、東林寺の向かいの丘の上には伊東祐親の墓所と伝わる五輪塔(伊東市指定文化財)があるそうです。

御朱印は右手の庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 延命地蔵尊

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊東七福神(布袋尊)の御朱印 〕




■ 伊東温泉 「いな葉」の入湯レポ
■ 伊東温泉 「湯川第一浴場・子持湯」の入湯レポ


■ 第28番 伊雄山 大江院(だいこういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊東市八幡野6-1
曹洞宗
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
他札所:-
授与所:庫裡

伊東市南部の八幡野にある曹洞宗寺院です。
草創は真言宗で圓光庵 蓮台寺、俗称を大江庵と号しましたが、天文九年(1540年)、宮上の最勝院十二世台翁宗銀和尚により曹洞宗に改宗し、伊雄山 大江院と号を改めました。

情報の少ない寺院ですが、明治45年の日付が記された「伊豆八十八ヶ所納経帳」が当寺で発見され、「伊豆八十八ヶ所霊場」復興の契機となりました。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「八幡野村 宮上最勝院末 本尊観世音 元真言ナリ 圓光庵蓮臺寺ト称ス 又大江庵トモ云 天文九年(1540年)臺翁和尚ノ時 宗ト号トヲ易フ 元和(1615-1624年)中僧秀天中興ス 寺域ニ清泉有リ 頼朝鬢水ト称ス」

-------------------
伊東の南、大室山の東麓に広がる台地は東伊豆ではめずらしい広がりをもち、「伊豆高原」と呼ばれて別荘地や小規模な宿泊施設、ギャラリーなどが点在しています。
老舗の温泉地でもないのに、なぜか高級宿のメッカという、不思議なエリアでもあります。
 
八幡野は「伊豆高原」の南端に位置し、北に大室山、南に城ヶ崎海岸をのぞむ立地です。
大室山はふるくから山そのものが御神体と崇められ、城ヶ崎海岸はおよそ4000年前、大室山の噴火で海へ流れ込んだ溶岩が冷え固まって形成されたという断崖絶壁です。

このような壮大な歴史を反映してか、あたりにはどこかスピリチュアルな雰囲気がただよっています。

大江院はパワスポとして知られる旧郷社、八幡宮来宮神社のすぐそばに位置します。
八幡宮来宮神社は延暦年中(782-806年)に八幡宮と来宮神社が合祀されて創建と伝わり、式内社「伊波久良和気命神社」の有力論社に比定されています。


【写真 上(左)】 八幡宮来宮神社の社頭
【写真 下(右)】 八幡宮来宮神社の参道

位置関係からみて大江院は八幡宮来宮神社の別当ではないかと思いましたが、それを示す史料はみつかりませんでした。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 参道

入口左手に伊豆八十八ヶ所の札所を示す寺号標。
参道両側に六地蔵や石仏群が並び、その先に門柱。さらに進むと左手に山林を背負って本堂。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂はおそらく寄棟造銅板葺。向拝柱はなく禅刹らしい簡素なたたずまい。
屋根端部の照りが効いて、端正な印象の建物です。
向拝正面格子扉のうえに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

御本尊・札所本尊ともに十一面観世音菩薩。
曹洞宗で御本尊が十一面観世音菩薩の寺院は、もと真言宗の例がみられますが、こちらもその一例です。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

■ 宇佐美温泉 「宇佐美ヘルスセンター」の入湯レポ
※ 名湯でしたが、残念ながら閉館の情報があります。


伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4へ。


【 BGM 】
■ おもかげ (produced by Vaundy) / THE FIRST TAKE - milet×Aimer×幾田りら


■ The Days I Spent with You - 今井美樹


■ Memorial Story~夏に背を向けて~Heaven Beach - 杏里
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ■ 1980年... ■ 1982年... »