goo

■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-10

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉殿の13人」と御朱印「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。

新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。
また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。


----------------------------------------
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
第1番 観富山 嶺松院(伊豆市田沢)
第2番 天城山 弘道寺(伊豆市湯ケ島)
第3番 妙高山 最勝院(伊豆市宮上)
第4番 泉首山 城富院(伊豆市城)
第5番 吉原山 玉洞院(伊豆市牧之郷)
第6番 大澤山 金剛寺(伊豆市大沢)
第7番 東嶽山 泉龍寺(伊豆市堀切)
第8番 養加山 益山寺(伊豆市堀切)
第9番 引摂山 澄楽寺(伊豆の国市三福)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
第10番 長谷山 蔵春院(伊豆の国市田京)
第11番 天與山 長源寺(伊豆の国市中)
第12番 湯谷山 薬王林 長温寺(伊豆の国市古奈)
第13番 巨徳山 北條寺(伊豆の国市南江間)
第14番 龍泉山 慈光院(伊豆の国市韮山多田)
第15番 華頂峰 高岩院(伊豆の国市奈古谷)
第16番 金寶山 興聖寺(函南町塚本)
第17番 明王山 泉福寺(三島市長伏)
第18番 龍泰山 宗徳院(三島市松本)
第19番 君澤山 連馨寺(三島市広小路町)
第20番 福翁山 養徳寺(函南町平井)
第21番 圓通山 龍澤寺(三島市沢地)
第22番 龍泉山 宗福寺(三島市塚原新田)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
第23番 日金山 東光寺(熱海市伊豆山)
第24番 走湯山 般若院(熱海市伊豆山)
第25番 護国山 興禅寺(熱海市桜木町)
第26番 根越山 長谷寺(熱海市網代)
第27番 稲荷山 東林寺(伊東市馬場町)
第28番 伊雄山 大江院(伊東市八幡野)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
第29番 大川山 龍豊院(東伊豆町大川)
第30番 金澤山 自性院(東伊豆町奈良本)
第31番 来宮山 東泉院(東伊豆町白田)
第32番 稲取山 善應院(東伊豆町稲取)
第33番 見海山 来迎院 正定寺(東伊豆町稲取)
別格旧第31番 宝林山 称念寺(河津町浜)
第34番 千手山 三養院(河津町川津筏場)
(旧?)第35番 鳳儀山 栖足寺(河津町谷津)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
(新?)第35番 天城山 慈眼院(河津町梨本)
第36番 長運山 乗安寺(河津町谷津)
第37番 玉田山 地福院(河津町縄地)
第38番 興國山 禅福寺(下田市白浜)
第39番 西向山 観音寺(下田市須崎)
第40番 瑞龍山 玉泉寺(下田市柿崎)
第41番 富巖山 天気院 海善寺(下田市一丁目)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6
第42番 大浦山 長楽寺(下田市三丁目)
第43番 乳峰山 大安寺(下田市四丁目)
第44番 湯谷山 廣台寺(下田市蓮台寺)
第45番 三壺山 向陽院(下田市河内)
第46番 砥石山 米山寺(下田市箕作)
第47番 保月山 龍門院(下田市相玉)
第48番 婆娑羅山 報本寺(下田市加増野)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
第49番 神護山 太梅寺(下田市横川)
第50番 古松山 玄通寺(南伊豆町一條)
第51番 青谷山 龍雲寺(南伊豆町青市)
第52番 少林山 曹洞院(下田市大賀茂)
第53番 佛谷山 寶徳院(下田市吉佐美)
第54番 浦岳山 長谷寺(下田市田牛)
第55番 飯盛山 修福寺(南伊豆町湊)
第56番 養珠山 正善寺(南伊豆町手石)
第57番 東海山 青龍寺(南伊豆町手石)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8
第58番 稲荷山 正眼寺(南伊豆町石廊崎)
(石室神社)(南伊豆町石廊崎)
第59番 瑞雲山 海蔵寺(南伊豆町入間)
第60番 龍燈山 善福寺(南伊豆町妻良)
第61番 臥龍山 法泉寺(南伊豆町妻良)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-9
第62番 石屏山 法伝寺(南伊豆町二條)
第63番 五峰山 保春寺(南伊豆町加納)
第64番 金嶽山 慈雲寺(南伊豆町下賀茂)
第65番 田村山 最福寺(南伊豆町上賀茂)
第66番 波次磯山 岩殿寺(南伊豆町岩殿)
第67番 太梅山 安楽寺(南伊豆町上小野)
第68番 廬岳山 東林寺(南伊豆町下小野)
第69番 塔峰山 常石寺(南伊豆町蛇石)
第70番 医王山 金泉寺(南伊豆町子浦)
第71番 翁生山 普照寺(南伊豆町伊浜)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-10
第72番 黒崎山 禅宗院(松崎町石部)
第73番 霊鷲山 常在寺(松崎町岩科南側)
第74番 嵯峨山 永禅寺(松崎町岩科北側)
第75番 岩科山 天然寺(松崎町岩科北側)
第76番 清水山 浄泉寺(松崎町松崎)
第77番 文覚山 圓通寺(松崎町宮内)
第78番 祥雲山 禅海寺(松崎町江奈)
第79番 曹源山 建久寺(松崎町建久寺)

伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11 ← 最新記事へつづく。
第80番 萬法山 帰一寺(松崎町船田)
第81番 富貴野山 宝蔵院(松崎町門野)
第82番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)


〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。



■ 第72番 黒崎山 禅宗院(ぜんしゅういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町石部74
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:-
授与所:庫裡

温泉好きのあいだでは「平六地蔵露天風呂」で知られる石部の集落にあります。
西伊豆南部では石部の南のグルメ民宿で知られる雲見温泉が有名ですが、伊豆八十八ヶ所の札所は雲見にはなく、石部の当山から北上していくかたちとなります。

ただし札番からすると、第71番普照寺は南伊豆町伊浜なので、旧来は海沿いの現・国道136号を辿る巡路だったとみられます。

『こころの旅』『豆州志稿』によると当初は真言宗。
善瀲院という名で海浜にありましたが、寛文八年(1668年)以前に香雲寺十一世天國恩龍和尚が曹洞宗に改め、現地に遷ったとされています。

『豆州志稿』には「石部村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊観世音 本海濱ニ在リテ 善瀲院ト称セリ 初真言宗ナリ 蓋天國和尚(寛文八年(1668年)寂)ノ時寺ヲ移シ改宗シテ香雲寺ニ隷ス」
とあります。

-------------------
松崎の南には、三浦(さんぽ)地区と総称される岩地、石部、雲見の集落が点在し、魚料理のおいしい民宿エリアとして知られています。

また、霊場とは直接関係ないですが、松崎から石部にかけては風呂石として有名な「伊豆石」の産地で、道部の「室岩洞」は採掘遺跡として公開されています。
(これまた関係ないことですが(笑)、筆者は伊豆石の浴槽がいちばん好きです。)


【写真 上(左)】 平六地蔵露天風呂-1
【写真 下(右)】 平六地蔵露天風呂-2

さらに関係ないことですが、石部のとなりの岩地海岸には期間限定ですが、温泉船「ダジュール岩地」が開設されて、岩地温泉を楽しむことができます。

岩地温泉 「(温泉船)ダジュール岩地」の入湯レポ

石部に来たのは2008年秋、「平六地蔵露天風呂」入湯以来です。
そのときは伊豆八十八ヶ所の存在じたい知らなかったので、当然禅宗院はスルーしています。

石部は泉質のよい温泉地で、温泉旅館&民宿が点在しています。
海水浴場がすぐなので、夏場はかなり賑わうようです。
すぐそばには石部漁港もあり、温泉、海鮮グルメ、マリンスポーツの三拍子揃った観光地です。


【写真 上(左)】 石部あたりの海岸
【写真 下(右)】 アプローチ道(参道)

禅宗院は石部集落の南東の山ぎわにあります。
集落からのアプローチ道を登っていくと、右手に「不許葷酒入山門」の戒壇石が出てきます。


【写真 上(左)】 六地蔵と本堂
【写真 下(右)】 地蔵尊群

さらに進むと六地蔵とそのおくに本堂。
地蔵信仰の篤い地域らしく、山内には赤い帽子と前掛けを着けられたたくさんの地蔵尊が御座します。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 庫裡サイドからの本堂

背後に小山を背負う寺院らしい立地で、西伊豆らしい明るい山内。
入母屋造銅板葺で向拝柱のないシンプルなつくり。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

屋根は照りを帯びしっかりとした降り棟も備えますが、平入りの身舎は桁行き方向にスクエアなサッシュ窓を連ねて、いささか風変わりな意匠です。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第73番 霊鷲山 常在寺(じょうざいじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町岩科南側321
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:本堂内に印判あり

風光明媚な松崎町は市街エリアでも温泉が楽しめ、西伊豆屈指の観光地となっています。
良港をもち、ふるくから物産の集積地として発展、明治初期には絹の輸出ブームに乗って養蚕が盛んになり、いまも残る豪商の蔵や邸宅の壁は”なまこ壁”(平瓦を壁に貼り付け、目地を漆喰で盛り上げる手法)で仕上げられ、「松崎のなまこ壁」として有名です。

教育も盛んな地で、「岩科学校」は甲府の旧陸沢学校、松本の旧開智学校などに次ぐ古い学校旧跡として国指定の重要文化財に指定されています。

江戸時代に左官の名工として名をあげた入江長八(伊豆の長八)は松崎出身で、町の中心部には「伊豆の長八美術館」があります。

このように文化の香り高い西伊豆の要地だけあって寺院も多く、この地も札所が集中しています。

常在寺は県道121号線南伊豆松崎線、蛇石峠から県道に沿って流れる岩科川沿いにあります。
札番からすると、第71番普照寺は南伊豆町伊浜、第72番禅宗院は海沿いの石部なので、海沿いの現・国道136号を辿ったのちに一旦蛇石峠側に岩科川を遡り、第73.74.75番と巡って松崎の街なか(第76番)に入る巡路となっています。

現在では第69番常石寺から県道121号蛇石峠を越えて松崎に入るルートも考えられますが、当時は蛇石峠は越えず、第69番常石寺から南方に山越えをして子浦の第70番金泉寺に入ったものとみられます。

このあたりのルート取りは悩むところですが、やはり一度は蛇石峠を越えることになるかと思います。
道幅は特段狭くはなく、全線舗装道ですがかなり小刻みなブラインドカーブがつづくので運転は要注意です。

【蛇石峠(県道121号)】静岡県賀茂郡松崎町~南伊豆町(2014.04.27)
※ 3.7倍速の動画です。


『こころの旅』『豆州志稿』によると、古くから小さな釈迦堂があったところに、永享元年(1429年)無範という禅僧が留まり、近在信徒の喜捨によって堂宇を建立し、常在寺と号して臨済宗寺院を開いたとされます。

『豆州志稿』には「平田山常在寺 岩科村 臨済宗建長寺派 那賀郡舟田帰一寺末 本尊釋迦 無範禅師(永享十二年(1440年)寂)ヲ初祖ニ為ス」とあります。

-------------------

【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号板


【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 本堂

県道から一本入った路地に、かなり急な参道階段を構えています。
階段右手に寺号板と札所板。
登り切るとすぐに本堂。竹林を背負う安定感あるロケーション。
本堂手前の2メートルほどもある法華千部供養塔が存在感を放っています。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、大棟を高く持ち上げた特徴のある意匠。
身舎はブラック系の桟格子サッシュできりりと引き締まったイメージ。
向拝見上げに扁額を掲げていますが、御詠歌かもしれません。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 巡拝案内

向拝に「納経所本堂内」の掲示があったので、扉を開けてみるとなかに巡拝案内が貼り出され、御朱印台に印判類がセットされていました。

本堂内に駕籠が吊されていたので、相応の格式をもった寺院なのかもしれません。

巡拝案内通りに御朱印をいただき、本堂をあとにしました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳-1(揮毫)


御朱印帳-2(印判)


■ 第74番 嵯峨山 永禅寺(えいぜんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町岩科北側1312
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:庫裡玄関脇に印判あり

永禅寺も県道121号線南伊豆松崎線、蛇石峠から県道に沿って流れる岩科川沿いにあります。

『こころの旅』『豆州志稿』によると、仁安二年(1167年)に文覚上人がこの地を訪れた際、護持の釈迦如来像を安置して庵を建てたのが草創といいます。
建久中(1190-1199年)に永善寺(後永禅寺と改める)と号し、貞治中(1362-1368年)に僧寂室(近江永源寺の開山とも)が再興して臨済宗に改めたとされます。

『豆州志稿』には「岩科村 臨済宗建長寺派 那賀郡舟田帰一寺末 本尊釋迦 昔ハ真言宗ナリ 初庵ナリ 建久(1190-1199年)ヨリ永善寺(後永禅寺ト改ム)ト称ス 貞治中(1362-1368年)僧寂室再興シテ改宗ス 寂室禅師ヲ推テ開山トシ帰一寺ニ隷ス 寂室ハ江州永源寺ノ住僧ナリ(中略)本尊ハ亀玆國(筆者註:現.中国新疆ウイグル自治区/シルクロード上の古代アオシス都市)ノ佛工天竺國如来ノ像ヲ模刻シテ宗ノ聖禅院ノ本尊トス 釋●然宗佛工張滎ヲシテ又之ヲ模刻セシメ 帰國シテ洛西清冷寺ニ安置ス 運慶又清冷寺ノ像ヲ模刻シテ此寺ニ安ス」とあります。

『真言密教の本』(学研刊)などによると、文覚上人は鎌倉時代初期に活躍した真言宗の僧で俗名は遠藤盛遠。

出自は渡辺党・遠藤氏で摂津源氏の傘下にあり、北面の武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王に出仕していましたが、19歳で出家したとされます。

『源平盛衰記』は、出家の原因として盛遠(文覚上人)が従兄弟で同僚の渡辺渡の妻で絶世の美女といわれた袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことをあげています。

袈裟御前への恋に盲目となった盛遠は、袈裟御前に婚姻を迫りました。
このままでは夫を殺されると危惧した袈裟御前は、盛遠に「夫の渡辺渡を殺してから一緒になってほしい」旨もちかけ、夫の襲撃の手はずを整えました。

そして袈裟御前は自ら渡辺渡の寝床に入り、そうとは知らずに手はずどおりに襲撃した盛遠は、誤って袈裟御前を斬り殺してしまいました。
袈裟御前は夫の身を守るため、自ら犠牲になったともいわれます。

これを激しく悔いた盛遠はすべてを渡辺渡に告げ、「自分を手打ちにしてくれ」と懇願しました。
しかし、最愛の妻を失った渡辺渡は世の無常を感じ、盛遠を討つことなくその場で出家し仏門に入りました。
それを見た盛遠も追うように出家したということです。

自らの行為を贖罪するように、那智をはじめとする各地の霊地ですさまじい荒行を積み、呪術に通じた荒法師として知られるようになりました。

高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴した咎で、伊豆国に配流されました。
承安三年(1173年)春、近藤四郎国高に預けられ、韮山の毘沙門堂を結んだとされます。

折しも源家の御曹司、頼朝公が近隣に流されていたため、頼朝公と知遇を得て源氏再興を熱烈に説いたとされます。
この際、頼朝公の父・義朝公の髑髏を取り出し蹶起を促したというのは有名な逸話です。

頼朝公が源氏再興を果たしたのちに、頼朝公は文覚上人に命じて毘沙門堂を建立させたという説もあります。(当初の号は安養浄土院、奈古屋寺から瑞龍山授福寺に改号、毘沙門堂は授福寺の堂宇)
伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴き、後白河法皇からの平氏追討の院宣をわずか8日で頼朝公にもたらしたという伝説的逸話も伝わります。

生来活動的な性格だったらしく、神護寺、東寺、高野山、東大寺、江の島弁財天などの大寺と深くかかわりをもったとされ、とくに神護寺は中興を果たしたとされます。
数々の修法を験じ「天狗を祀る」といわれたこと、また神出鬼没の移動の速さから、真言密教だけでなく、修験の道にも通じていたとみられています。

頼朝公存命中は大きな影響力をもったとされますが、頼朝公が逝去するや三左衛門事件(正治元年(1199年)2月、一条能保・高能父子の遺臣が権大納言源(土御門)通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件)に巻き込まれ佐渡へ配流。
建仁二年(1202年)許されて京に戻るも、翌三年(1203年)後鳥羽上皇より守貞親王擁立の謀反の疑いをかけられ、対馬へ流罪となる途中、鎮西(九州)で客死と伝わります。

様々な験をあらわし、歯に衣を着せぬ物言いから「一代の怪僧」ともいわれ、歴史に名を残した文覚上人の遺跡は配流先の伊豆に多くあり、当山もそのひとつに数えられます。

御本尊の釈迦如来像は京都嵯峨の清涼寺の御本尊と同木同作(あるいは模刻とも)とされます。
なお、清涼寺の御本尊は天竺(インド)渡来の栴檀づくりの釈迦如来像と伝わります。(清涼寺寺伝)

-------------------

【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号板

第73番常在寺から蛇石峠に向かって県道をさらに遡ります。
県道に面して参道入口。
すぐそばには東海バスの「永禅寺前」バス停があります。

がっしりとした石垣を構え、右手に五輪塔、正面に山門、門柱には寺号板が掲げられていてこのあたりでは大がかりな寺院です。

山門手前に鉄柵が閉められているので、まさか参拝禁止? とおののきましたが、これはイノシシの侵入除けの鉄柵なのでした。

掲げられていた案内どおりに鉄柵を開け山内に入ります。
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門。
左手背後に小山を背負った落ち着きのある山内で、清掃が行き届いて気持ちがいいです。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 斜めからの本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、こちらも大棟を高く持ち上げています。
身舎は木製の桟格子が連なり端正な印象。
向拝見上げに山号扁額を掲げています。

御朱印は霊場公式Webに「無住ですが御朱印所は庫裡側の玄関脇にございます。」とあるとおり、庫裡玄関脇でセルフで印判をいただきました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第75番 岩科山 天然寺(てんねんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町岩科北側507
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:庫裡

天然寺も県道121号線南伊豆松崎線、蛇石峠から県道に沿って流れる岩科川沿いにあります。

山内掲示および『こころの旅』『豆州志稿』によると、応仁二年(1468年)(文明九年(1477年)とも)雲譽文公上人により開創。
宝永二年(1705年)8月の大洪水により流失し、4年後の1709年に再建といいます。

『豆州志稿』には「岩科村 浄土宗 東京増上寺末 本尊阿彌陀 文明九年(1477年)雲譽上人創ム 子院二定光院 天養院(明治七年廃ス)」とあります。

-------------------

【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山門

岩科川から山裾に向かう傾斜地にあり参道も登りスロープです。
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、たしか山号扁額を掲げていました。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 六地蔵


【写真 上(左)】 鐘楼と収蔵庫?
【写真 下(右)】 本堂

その先正面に形のよい小山を背負って本堂。
手前に鐘楼と見事ななまこ壁の収蔵庫?を構えています。
さすがになまこ壁の街、松崎の寺院です。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝軒唐破風。
水引虹梁両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に直線の繋ぎ虹梁、中備には白色の彫刻入り板蟇股で見応えがあります。


【写真 上(左)】 木鼻
【写真 下(右)】 堂内の扁額

向拝身舎に扁額はありませんが、扉を開いた堂内見上げに寺号扁額が掲げられていました。

本堂内には、院派の仏師の作とみられる地蔵尊像、室町期作といわれる不動明王像のほか、釈迦如来、観世音菩薩、閻魔大王、青面金剛、弁財天、大黒天、毘沙門天、烏枢沙摩明王、徳川家康公像、歴代将軍の御位牌など多彩な尊格が御座すそうです。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第76番 清水山 浄泉寺(じょうせんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町松崎43
浄土宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:-
授与所:庫裡

この霊場ではめずらしく浄土宗寺院がつづきます。
松崎市街、延喜式内社の伊那下神社のそばにある浄土宗寺院です。
伊那下神社は、西伊豆では稀少な御朱印をいただける神社です。

 
【写真 上(左)】 伊那下神社
【写真 下(右)】 伊那下神社の御朱印

『こころの旅』によると、應永十一年(1404年)に及歎によって開創。
慶安元年(1648年)には徳川家光公による御朱印状を受けましたが、寛文十一年(1671年)八月洪水ニテ流出。
八世傳的が再興し、宝暦八年(1758年)には芝・増上寺の交代寺となりました。

『豆州志稿』には「松崎村 浄土宗 東京増上寺末 本尊阿彌陀観世音勢至 寺邊ニ清泉アリ取テ寺名トス 開祖及歎年代下知(或ハ云應永十一年(1404年)創立ナリト) 但曰当住迄十七世ナリト 寛文十一年(1671年)八月洪水ニテ流出 八世傳的再興ス 北条氏康寺領ヲ寄スト傳フレ共不詳 子院 寶壽院 随運院 西透院等(明治七年廃ス)」とあります。

-------------------

【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門

松崎の街なかにありますが、松崎は山が迫っているので、この寺院も背後に小山を背負う落ち着いたロケーションです。

参道入口に構える、入母屋屋根桟葺の朱塗りの四脚の楼門がひときわ目立ちます。
上層中央に山号扁額。
参道左手にたしか堂宇(経堂?)があったかと思いますが、なぜか写真がなく詳細不明。

参道正面の本堂は、入母屋造本瓦葺流れ向拝で整った軒唐破風を起こし、大棟には寺号が掲げられています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 本堂扁額

水引虹梁両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に直線の繋ぎ虹梁、中備上下に大がかりな板蟇股と彫刻。
さらにその上に兎毛通に経の巻獅子口を置いて見どころ豊富です。

向拝見上げには「法王殿?」の扁額、向拝柱には札所板が掲げられていました。

御本尊・阿弥陀三尊像は行基の作と伝わります。
御本尊の上の仏天蓋には、伊豆の長八作とされる飛天、左右の欄間には石田半兵衛の作と伝わる十六羅漢の透かし彫りが刻まれています。

また、裏庭は江戸時代に伊豆三名園のひとつと賞されたそうです。

山内掲示には下記のとおりありました。
・回る経堂、透かし彫り十六羅漢像、仏天蓋の長八天女、自然庭園、三十三観音、弘法大師作(伝)不動尊、水子・子育地蔵、もの思う石仏群

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第77番 文覚山 圓通寺(えんつうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町宮内130
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第4番
授与所:第78番禅海寺

山内由緒書、『こころの旅』によると、治承三年(1179年)の創始といわれ、僧文覚が伊豆韮山に流罪の際、ここに寄寓したことから文覚を開祖とし、のちに文覚山と号しました。
文覚はのちに当寺の奥の院となった観音堂で源頼朝公と会見し、源家再興を促したと伝わります。
(『豆州志稿』には、この説は「附会」とあります。)

『霊場めぐり』によると、この観音堂は相生堂と呼ばれましたが、いまは廃堂となって頼朝公、文覚の木像は圓通寺本堂に安置されているとの由。
相生堂には頼朝公お手植えの相生松がありましたが、枯れてしまったとのこと。

また、古くは妙智山円通寺という真言宗の小庵で、弘法大師の御作といわれる観音像を安置したともいいます。

のちに東林友丘和尚(應安二年(1369年)寂)により臨済宗に宗を改めました。
以前は那賀川の岸辺に沿って堂宇が建てられていましたが、200年ほど前に現地に遷って山号を改めています。

『豆州志稿』には「宮内村 臨済宗建長寺派 那賀郡舟田帰一寺末 本尊正観世音 文覚流人タル時 暫ク此ニ住ス 以テ開祖トス 俗ニ傳フ頼朝卿ニ父ノ髑髏ヲ視セシハ此ナリト 此傳附会ナリトス 文覚源義朝ノ髑髏ヲ頼朝ニ視セシハ田方郡奈印古谷ナリ(平家物語源平盛衰記等参観) 東林和尚ノ時ヨリ建長寺派下ト為ル 東林ハ應安二年(1369年)滅ス」とあります。

-------------------

【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門

松崎の街はずれ、伊那上神社の南側の路地おくにあります。
参道まわりは広く、かなりの格式の寺院であったことがうかがわれます。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂

山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門ないし薬医門で、門柱に寺号板が掲げられています。
くぐるとすぐに階段。正面が庫裡で、いまは塾になっているようです。
左に棟つづきで本堂。その右手前に鐘楼。
この位置に鐘楼は、めずらしい伽藍配置かと思います。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、向拝上部に寺号扁額を掲げています。
向拝硝子戸下欄には伊豆八十八ヶ所と伊豆横道観音霊場の札所板が打ち付けられ、「御朱印は禅海寺まで」と読めます。

御本尊は弘法大師の御作とも伝わる聖観世音菩薩像です。
伊豆横道三十三観音霊場は頼朝公と所縁のふかい霊場で、頼朝公ゆかりの伝承が伝わるこの寺は札所にふさわしいかもしれません。


【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 堂宇

本堂左手にある寄棟造桟瓦葺流れ向拝の堂宇の堂宇本尊は、扁額がないのでよくわかりません。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、中備に波様の彫刻はいずれも精緻な彫りです。

原則無住で、御朱印は第78番禅海寺にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕




■ 第78番 祥雲山 禅海寺(ぜんかいじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町江奈44
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:庫裡

『こころの旅』によると、当山の由緒書には、建久三年(1192年)に栄西禅師がこの地を訪れ一宇を造り、祥雲山禅海寺と名づけたとありますが、住職によると栄西禅師は勧請されて始祖になったもので、実際は弟子の建立とのことです。
建長四年(1252年)に当山の御本尊、釈迦如来を夢にみた鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王と執権・北条時頼が堂宇を再建、寄進をしたために宗尊親王の開基とされています。

『豆州志稿』には「江奈村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊釋迦 建久中(1190-1199年)創立 僧滎西ヲ請シテ開山トス 往昔鎌倉幕府ヨリ寺領ヲ附セリト傳フレトモ詳ナラス 永享五年(1433年)住山和尚建ツ 再興ナリ」とあります。

-------------------
 
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門

こちらは松崎港の東側の山手、江奈地区にあります。
ロケ的には松崎の街の北のはずれでしょうか。

山門は切妻屋根桟瓦葺で大棟に寺号を掲げ、がっしりとした降棟を降ろす四脚門で、名刹の風格があります。


【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2


【写真 上(左)】 六地蔵塔
【写真 下(右)】 本堂

本堂は背後に山を背負って寄棟造桟瓦葺。向かって左に寄せて唐破風の向拝を附設しています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備上に笈形付大瓶束。
左右の繋ぎ虹梁の上にも板蟇股をおき、上部は格天井と手が込んでいますが扁額はありません。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

向拝扉を開くと堂内見上げに寺号扁額が掲げられていました。
堂内は禅刹らしく、すっきりと整えられています。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦如来 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第79番 曹源山 建久寺(けんきゅうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町建久寺68
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:-
授与所:建久寺酒店(松崎町那賀5-5)

建久年間(1190-1198年)に創立と伝わる古刹です。
後に安山という僧が再興、那賀村にあった当山を現在地に遷し、同時に檀徒も移住したといいます。
永正4年(1507年)に焼失し、これ以外の詳細は伝わっていません。

『豆州志稿』には「建久寺村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊観世音 建久中(1190-1199年)立ツ 今安山和尚ヲ祖トス 蓋中興ナリ 初那賀村ニ在リ 後現地ニ転ス 担徒随テ移住シ遂ニ一村ヲ為シ建久寺村ト称スト云 往昔巨刹ニシテ寺領ヲ有シタリト傳フレ共 永正四年(1507年)焼亡舊記ノ証スヘキ無シ」とあります。

-------------------

【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門と本堂

こちらは松崎港に注ぐ那賀川沿い、建久寺地区にあります。
『豆州志稿』によると「建久寺」の地名は、当初那賀村にあった当寺が檀家とともにこの地に移ったためつけられたとのこと。

人気宿として知られる桜田温泉「山芳園」の東側で、ここからさらに那賀川を遡ると”化粧の湯”と呼ばれ名宿として知られた大沢温泉「大沢温泉ホテル」がありましたが、令和2年12月末、日帰り温泉施設「大沢温泉 依田之庄」として装いを新たにした模様です。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山門扁額

参道左手前に真新しい札所標。
その先に寺号扁額を掲げた桟瓦葺の高麗門。
くぐった正面が本堂で、向かって右手前に白い聖観世音菩薩像が御座します。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 聖観世音菩薩像


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂は寄棟造銅板葺で向拝柱はなく、左に寄せた向拝の見上げに山号扁額を掲げています。
向拝はサッシュ扉で、比較的新しい建物とみられます。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 建久寺酒店

こちらは無住で、御朱印は那賀地区の街なかにある建久寺酒店で拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11 ← 最新記事へつづく。


【 BGM 】
■ クリスマス イブ - 山下達郞 MV - JR東海 CM


■ 遠い街から - 今井美樹 MIKI IMAI LIVE AT ORCHARD HALL 2003


■ Celtic Prayer - Méav
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ■ コラボの聴... ■ 歌唱王 & ... »