いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

農耕馬が徴用された時代

2010-04-27 09:20:29 | Weblog
            鹿島公民館敷地内にある従軍馬慰霊塔》        分類・歴
                             

                 鹿島公民館  いわき市鹿島町走熊字鬼越
                         0246-29-2250

 鹿島村(現・鹿島町及び常磐三沢町、上矢田町、松久須根町)の、明治42年に於ける鹿島村内の馬匹数調査では全部で139頭で、その内訳は牝(めす)124頭、牡(おす)15頭の記録が残っています。

 この時代の馬の価値は大変なもので、馬は財産の半分に相当するとの考えがあったので、どこの農家でも大切に飼育されていました。
 馬の賄(まかない)をするのは大概は嫁か長男で、人間よりも早く餌を与えていました。
 馬小屋は大方2間四方(約4m四方)で2,3本のマーセンボー(止め棒)で入口をふさいでいました。

 馬は農業にとって重要な労働力を発揮し、力の必要な仕事の大半をこなし、主に、堆肥用にする夏草刈り・しろかき馬耕・薪、炭などの販売時の運搬、米の供出などに活躍しました。

 ところが支那事変が始まるなり、農家の馬も軍馬として徴用され、あるいは買い上げられていくようになりました。 鹿島から一体、何頭の馬が従軍したかについては判然としませんが、村の扶助受給者一同と国防援護会が、昭和14年3月10日、丸山公園登り口に「従軍馬慰霊塔」(=写真)を造立しています。
 碑には従軍馬を送り出した飼主名、総勢31名の名前が刻まれています。

 当時の丸山公園は現在、削り取られて整地された場所に鹿島公民館ができた訳ですが、この「従軍馬慰霊塔」は、かつての丸山公園登り口にほぼ同じ位置に置かれています。
 

 《註釈》支那事変  昭和12年(1937)から始まった「大日本帝国」と「中華民国」の                           
間で行われた長期間かつ大規模な戦闘。
            ※両国ともに宣戦布告を行わなかったために事変と呼ばれている。


   本日の催し  4月27日(火)    五黄 仏滅   旧暦3/14

 ◆「増子武代絵画展」  10:30~18:30  於・ギャラリー創芸工房(鹿島町走熊)  
                                            0246-29-3826

 ◆「鹿島ピラティス」  10:00~   於・鹿島公民館   0246-29-2250

 ◆「鹿島美藤会」  13:00~   於・鹿島公民館  0246-29-2250
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