■ビューティフル・モーニング / イースト (Captol / 東芝)
度々書いてきたように、殊更昭和40年代中頃からの論争のひとつが「日本語のロック」云々という問題でした。
それは当時の我が国において、発端はロックであったGSが売れるために選択した日本語の歌が所謂歌謡曲に接近し、加えて歌謡フォークのブームもありましたから、いくらロック最先端のサウンドを出していようとも、日本語で歌っているかぎり、それは「フォーク」という扱いでしたからねぇ~。
例えば今や「日本語のロック」の神様的存在として崇拝される「はっぴいえんど」にしても、リアルタイムでは堂々の「フォーク」でありました。
そして本物(?)のロックを志向する日本のバンドは、英語の歌詞じゃ~なけりゃ、ダメッ!
つまり海外で成功して、初めて「ロック」と認められるという真実を求めていたのですから、例えば内田裕也がフラワーズを発展させたフラワー・トラヴェリン・バンドがカナダやアメリカで活動し、それなりの成果を披露してくれた事は、ひとつの大きな証明作業となりました。
さて、そんな最中、突如として現れたのが、本日掲載のシングル盤を昭和47(1972)年夏に発売したイーストと名乗るグループでした。
なにしろ本場アメリカでキャピトルレコードと正式契約し、デビューレコードの制作録音もLAだったという快挙は業界だけでなく、一般マスコミでも大きく話題にされていた記憶は今も鮮明です。
メンバーは瀬戸龍介(vo,g)、吉川忠英(g,hac,per,hmc,etc.)、森田玄(vo,g,per)、朝日昇(b)、足立文男(ds,per,key,etc.) という5人組で、どうやら各々がマルチプレイヤーとして、その演奏能力も相当に高かったと言われています。
しかも演じている楽曲の歌詞は当然ながら英語であり、サウンドも流行最先端の西海岸系カントリーロックやハリウッドポップスの保守本流でありながら、その彩には和楽器、例えば琴や大正琴、琵琶やひしりき等々を使っていたのですから、それをニッポン本土で聴く我々は面映いというか……。
結局、バンド名やそうした意図的な和物趣味が、母国のリスナーには「あざとさ」と受け取られた事は否定出来ないでしょう。
実際、サイケおやじもそのひとりとして、リアルタイムでは矢鱈に???の気分が先行していたんですが、しかし瀬戸龍介が書いたデビュー曲「ビューティフル・モーニング」を虚心坦懐に聴いてみれば、所謂アシッド調のサイケデリックなフォークロックとして、これはなかなかの名曲名演なんですねぇ~♪
もしも、特にイントロに顕著な雅楽趣味が抑えられていたら、ストレートに我が国のリスナーの心を掴んだんじゃ~ないかなぁ~?
と、そんな不遜な事を思ってしまうほどです。
しかし同時にアメリカの厳しいショウビジネスの世界では、このぐらいミエミエの個性が無いと、注目されないのも確かなのでしょう。
例えば優れたジャズピアニストの秋吉敏子にしても、渡米したばかりの頃は振り袖姿での演奏を強要されていたとか、プロレスラーならば田吾作スタイルのヒールが当たり前だとか、1950年代から相当に長い間、ちょっぴり国辱感が滲んでしまうせつなさが……。
その所為でしょうか、結局イーストはアルバム1枚と少な過ぎるライブ音源を公式に残してフェードアウトし、メンバーはそれぞれの道を歩んでいくわけですが、今にして思えば、未だ日本の音楽業界ではロックは真っ当に生活していけない代名詞だった頃、あえて夢を求めて渡米し、立派にメジャーな会社でレコードを残せた偉業は素直に讃えなければなりません。
ということで、告白すればサイケおやじは彼等のレコードはシングル盤を2枚しか持っていないんですが、幸いなことに近年、栄光のデビューアルバムがCD復刻されたので、速攻でゲットしてしまったです。
もちろん、随所に露骨な雅楽趣味(?)や東洋思想の歪曲的表現が滲むのは、しょ~がない好き嫌いの問題でしょう。
それでもサイケおやじは、そういうところに去来する自らの心の葛藤と戦いながら、イーストを聞き返す楽しい修行をしているのでした。