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吉見の岩窟ホテル跡・岩室観音堂・百穴 その1

2017-04-02 21:48:55 | まち歩き・埼玉
3月29日水曜日
30年以上会社員をやってれば、行きたくなくてサボる日もあるさ。20代、30代なら海にいくんだろうなあ。

池袋から約1時間東武東上線の東松山駅下車。立派な駅舎だ。

バスもあるのだが、地図を見ると2kmなので歩いて行く。
 

30分近く歩いて市野川まで来ると、左から吉見の百穴・岩室観音堂・岩窟ホテル跡が一望できるんだが、なんだ?赤字の「穴」は?

あっ、もっと左に「百」があった。けど、いらないよなあ、この赤字。川沿いは桜の名所らしい。


①岩窟ホテル跡

吉見町役場のホームページより
「巌岩 《 がんくつ 》 ホテル
 松山城跡西側の斜面に「巌窟ホテル・高荘館」という人工名所があります(現在は立ち入りできません)。この付近一帯は凝灰岩ぎょうかいがんという性質の岩盤から構成されており、建築資材にも利用される加工しやすい石材でできています。この凝灰岩の岩山へ眼をつけたのがその土地の所有者で、近所に住む高橋峰吉という人でありました。当地の名主三吉の次男として安政五年生まれの峰吉は、創意工夫の心の持主でした。ちょうど明治三十七年六月、峰吉が46歳の時に目の前の岩の崖をノミ1本で掘り始めました。そして21年間一人で岩盤を掘り抜いて建物「巌窟ホテル」を造りました。館内の花瓶・棚等すべて掘り残して出来ていて、後で付け加えたものでないところに苦心のあとがうかがえます。室内の温度は四季を通じて一八度から一九度と一定しているので、夏は涼しく冬は暖かいのが建物の特長です。  大正の初めのころは、見物人も多く室内が狭かったので、見学に際しては整理券を発行したほどで、その様子はロンドンタイムスにも報じられたといいます。  「巌窟ホテル」の名前の由来は、岩の崖を掘る峰吉の姿を見た多く人たちが「巌窟掘ってる」・「巌窟掘ってる」というのがナマって、いつしか「巌窟ホテル」となってしまってしまったのではといいます。英語の「ホテル」の意味ではなかったのです。」

当時の姿は、岩窟ホテルの画像で検索すると出てくるが、なかなか立派じゃん。20年位前では、中に忍び込めたらしい。
町役場のホームページ作成者といい、吉見町の人は結構楽しそうだなあ。

②岩室観音堂
岩窟ホテルの隣。

岩室観音堂は、300年位建っている建物。建物の両側には、岩を掘った穴があって、そこに四国八十八箇所の本尊に似せた石仏がいっぱい!

↓クリックすると大きくなるよん。
 


入って左手の穴。




右手の穴。こちらは岩の崩落防止のため鉄骨が・・・。




石仏に貼ってある札は、誰がどのタイミングで貼るんだろう。

急な階段を上がって2階へ。

欄干が低くて、端に行くのが恐いよん。この鍵のかかった扉の向こうに、ご本尊の観音様がいるらしい。見えないけど。


天井の梁が、めったやたらだ。

お堂の後ろ側。

左側が、胎内くぐり の穴に行く坂で、右が松山城跡に登る道。


胎内くぐりをしてみる。穴はハート型に見えると書いてあったが・・・。
 

ここから見ると、本当に岩室だなあ。




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