もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

141202 自民党の義家弘介バカが、天(池澤夏樹氏)に唾して恥をかく。芥川竜之介の「桃太郎」で勉強しろ!

2014年12月03日 01時21分03秒 | 考える資料
12月2日(火):

前衆議院議員の義家弘介のバカは、天に唾して大恥をかいている。自民党の国会議員ってこの程度だ。こんな連中が、文教族として教育の専門家を自負しているのだ。洒落にもならない残念な現実だ。

(終わりと始まり)桃太郎と教科書 知的な反抗精神養って 池澤夏樹
             朝日デジタル 2014年12月2日16時30分

 前衆議院議員の義家弘介さんが産経新聞でぼくの文章を論じてくださった。
 ぼくが書いたのは「狩猟民の心」というエッセーで、平成10年度から14年度まで高校の教科書「国語I」(筑摩書房)の教科書で使われた。義家さんは、これは子供たちに供するにふさわしくない内容だと言われる。
 以下、最初はぼくの文の引用――
 《日本人の(略)心性を最もよく表現している物語は何か。ぼくはそれは「桃太郎」だと思う。あれは一方的な征伐の話だ。鬼は最初から鬼と規定されているのであって、桃太郎一族に害をなしたわけではない。しかも桃太郎と一緒に行くのは友人でも同志でもなくて、黍(きび)団子というあやしげな給料で雇われた傭兵(ようへい)なのだ。更(さら)に言えば、彼らはすべて士官である桃太郎よりも劣る人間以下の兵卒として(略)、動物という限定的な身分を与えられている。彼らは鬼ケ島を攻撃し、征服し、略奪して戻る。この話には侵略戦争の思想以外のものは何もない》
 (ここからが義家さんの意見)〈わが国では思想及び良心の自由、表現の自由が保障されている。作者が作家としてどのような表現で思想を開陳しようとも、法に触れない限り自由である。しかし、おそらく伝統的な日本人なら誰もが唖然(あぜん)とするであろう一方的な思想と見解が、公教育で用いる教科書の検定を堂々と通過して、子供たちの元に届けられた、という事実に私は驚きを隠せない。
 例えばこの単元を用いて、偏向した考えを持つ教師が「日本人の心性とは、どのようなものであると筆者は指摘しているか。漢字4字で書きなさい」などという問題を作成したら一体どうなるか。生徒たちは「侵略思想」と答えるしかないだろう。〉
    *
 ううん、困ったな。
 あのエッセーでは「伝統的な日本人なら誰もが唖然とする」という、そこのところが言いたかったのだが、理解していただけなかったらしい。ぼくは子供たちに唖然としてほしいのだ。
 ぼくにも反省はある。
 「日本人の(略)心性」というのは間違いだった。悲しいことながら、本当は「人間の心性は」と書くべきであった。
 二十年以上前に「狩猟民の心」を書いた時は、これは自分のオリジナルな発見だと得意になった。世間の桃太郎イメージを逆転できる!
 しかしずっと前に同じことを明治期の偉人が言っていたのだ――
 「もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。けしからぬことならずや。たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものにて、たからのぬしはおになり。ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、もゝたろふは、ぬすびとゝもいふべき、わるものなり。もしまたそのおにが、いつたいわろきものにて、よのなかのさまたげをなせしことあらば、もゝたろふのゆうきにて、これをこらしむるは、はなはだよきことなれども、たからをとりてうちにかへり、おぢいさんとおばゝさんにあげたとは、たゞよくのためのしごとにて、ひれつせんばんなり。」
 福沢諭吉が自分の子供のために書いた『ひゞのおしへ』である。
現代語訳が慶應義塾大学出版会から出ている。
 桃太郎のふるまいは「ただただ欲のための仕事にて、卑劣千万」なのだと諭吉さんは言う。ぼくが書いたことはぜんぜんオリジナルではなかった。
 侵略と言って悪ければ進撃と言えばいいか。
    *
 日本で最初に作られた長篇(ちょうへん)アニメに「桃太郎の海鷲」という作品がある。モノクロで三十七分(ネットで探せば見られる)。海軍省の指揮のもと、芸術映画社が作った。テーマは真珠湾攻撃で、実際、アニメとしてずいぶんよくできている。飛行シーンや細部のくすぐりなど宮崎駿を先取りしていると言ってもいい。
 桃太郎が空母に残って激励するばかりで部下を戦闘地域に送るあたりは史実の反映かもしれない……というのは深読みが過ぎるか。
 もう一つ例を挙げようか。
 日本新聞協会広告委員会が開催した「2013年度新聞広告クリエーティブコンテスト」で最優秀賞に選ばれ、東京コピーライターズクラブの2014年度TCC最高新人賞を受賞した作品。鬼の子が泣いている絵の上に「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」というつたない子供の字のコピーがある。
 教育というのは生徒の頭に官製の思想を注入することではない。そんなことは教師出身の義家さんは先刻ご承知のはず。一つのテーマに対していかに異論を立てるか、知的な反抗精神を養うのが教育の本義だ。ぼくの桃太郎論を読んだ生徒が反発してくれればくれるだけ、ぼくは嬉(うれ)しい。


※前衆議院議員の義家弘介のバカは、芥川竜之介の「桃太郎」(1924(大正13)年)も知らないだろうから、載せておく。ルビが本文に混じっていて多少読みづらいが原作の風味を損ねないためにそのままにした。読みづらい人は、「芥川竜之介の「桃太郎」」で検索してもらえれば簡単に読めます。ヤンキー先生だか何だか知らないが、結局「教師であることをケツ割った<半端者>」だろう!馬鹿な奴ほど教育に口を出したがる。安倍晋三も同じだ。教育に口を出して介入することを自己主張だと勘違いしているのだ。政治家のレベルが低すぎる。いやな時代になったものだ。

「桃太郎」(芥川龍之介)


 むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃ももの木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地だいちの底の黄泉よみの国にさえ及んでいた。何でも天地開闢かいびゃくの頃ころおい、伊弉諾いざなぎの尊みことは黄最津平阪よもつひらさかに八やっつの雷いかずちを却しりぞけるため、桃の実みを礫つぶてに打ったという、――その神代かみよの桃の実はこの木の枝になっていたのである。
 この木は世界の夜明以来、一万年に一度花を開き、一万年に一度実をつけていた。花は真紅しんくの衣蓋きぬがさに黄金おうごんの流蘇ふさを垂らしたようである。実は――実もまた大きいのはいうを待たない。が、それよりも不思議なのはその実は核さねのあるところに美しい赤児あかごを一人ずつ、おのずから孕はらんでいたことである。
 むかし、むかし、大むかし、この木は山谷やまたにを掩おおった枝に、累々るいるいと実を綴つづったまま、静かに日の光りに浴していた。一万年に一度結んだ実は一千年の間は地へ落ちない。しかしある寂しい朝、運命は一羽の八咫鴉やたがらすになり、さっとその枝へおろして来た。と思うともう赤みのさした、小さい実を一つ啄ついばみ落した。実は雲霧くもきりの立ち昇のぼる中に遥はるか下の谷川へ落ちた。谷川は勿論もちろん峯々の間に白い水煙みずけぶりをなびかせながら、人間のいる国へ流れていたのである。
 この赤児あかごを孕はらんだ実は深い山の奥を離れた後のち、どういう人の手に拾われたか?――それはいまさら話すまでもあるまい。谷川の末にはお婆ばあさんが一人、日本中にほんじゅうの子供の知っている通り、柴刈しばかりに行ったお爺じいさんの着物か何かを洗っていたのである。……


 桃から生れた桃太郎ももたろうは鬼おにが島しまの征伐せいばつを思い立った。思い立った訣わけはなぜかというと、彼はお爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいである。その話を聞いた老人夫婦は内心この腕白わんぱくものに愛想あいそをつかしていた時だったから、一刻も早く追い出したさに旗はたとか太刀たちとか陣羽織じんばおりとか、出陣の支度したくに入用にゅうようのものは云うなり次第に持たせることにした。のみならず途中の兵糧ひょうろうには、これも桃太郎の註文ちゅうもん通り、黍団子きびだんごさえこしらえてやったのである。
 桃太郎は意気揚々ようようと鬼が島征伐の途とに上のぼった。すると大きい野良犬のらいぬが一匹、饑うえた眼を光らせながら、こう桃太郎へ声をかけた。
「桃太郎さん。桃太郎さん。お腰に下げたのは何でございます?」
「これは日本一にっぽんいちの黍団子だ。」
 桃太郎は得意そうに返事をした。勿論実際は日本一かどうか、そんなことは彼にも怪あやしかったのである。けれども犬は黍団子と聞くと、たちまち彼の側へ歩み寄った。
「一つ下さい。お伴ともしましょう。」
 桃太郎は咄嗟とっさに算盤そろばんを取った。
「一つはやられぬ。半分やろう。」
 犬はしばらく強情ごうじょうに、「一つ下さい」を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても「半分やろう」を撤回てっかいしない。こうなればあらゆる商売のように、所詮しょせん持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである。犬もとうとう嘆息たんそくしながら、黍団子を半分貰う代りに、桃太郎の伴ともをすることになった。
 桃太郎はその後のち犬のほかにも、やはり黍団子の半分を餌食えじきに、猿さるや雉きじを家来けらいにした。しかし彼等は残念ながら、あまり仲なかの好いい間がらではない。丈夫な牙きばを持った犬は意気地いくじのない猿を莫迦ばかにする。黍団子の勘定かんじょうに素早すばやい猿はもっともらしい雉を莫迦にする。地震学などにも通じた雉は頭の鈍にぶい犬を莫迦にする。――こういういがみ合いを続けていたから、桃太郎は彼等を家来にした後も、一通り骨の折れることではなかった。
 その上猿は腹が張ると、たちまち不服を唱となえ出した。どうも黍団子の半分くらいでは、鬼が島征伐の伴をするのも考え物だといい出したのである。すると犬は吠ほえたけりながら、いきなり猿を噛かみ殺そうとした。もし雉がとめなかったとすれば、猿は蟹かにの仇打あだうちを待たず、この時もう死んでいたかも知れない。しかし雉は犬をなだめながら猿に主従の道徳を教え、桃太郎の命に従えと云った。それでも猿は路ばたの木の上に犬の襲撃を避けた後だったから、容易に雉の言葉を聞き入れなかった。その猿をとうとう得心とくしんさせたのは確かに桃太郎の手腕である。桃太郎は猿を見上げたまま、日の丸の扇おうぎを使い使いわざと冷かにいい放した。
「よしよし、では伴をするな。その代り鬼が島を征伐しても宝物たからものは一つも分けてやらないぞ。」
 欲の深い猿は円まるい眼めをした。
「宝物? へええ、鬼が島には宝物があるのですか?」
「あるどころではない。何でも好きなものの振り出せる打出うちでの小槌こづちという宝物さえある。」
「ではその打出の小槌から、幾つもまた打出の小槌を振り出せば、一度に何でも手にはいる訣わけですね。それは耳よりな話です。どうかわたしもつれて行って下さい。」
 桃太郎はもう一度彼等を伴に、鬼が島征伐の途みちを急いだ。


 鬼が島は絶海の孤島だった。が、世間の思っているように岩山ばかりだった訣わけではない。実は椰子やしの聳そびえたり、極楽鳥ごくらくちょうの囀さえずったりする、美しい天然てんねんの楽土らくどだった。こういう楽土に生せいを享うけた鬼は勿論平和を愛していた。いや、鬼というものは元来我々人間よりも享楽きょうらく的に出来上った種族らしい。瘤こぶ取りの話に出て来る鬼は一晩中踊りを踊っている。一寸法師いっすんぼうし[#ルビの「いっすんぼうし」は底本では「いっすんぽうし」]の話に出てくる鬼も一身の危険を顧みず、物詣ものもうでの姫君に見とれていたらしい。なるほど大江山おおえやまの酒顛童子しゅてんどうじや羅生門らしょうもんの茨木童子いばらぎどうじは稀代きだいの悪人のように思われている。しかし茨木童子などは我々の銀座を愛するように朱雀大路すざくおおじを愛する余り、時々そっと羅生門へ姿を露あらわしたのではないであろうか? 酒顛童子も大江山の岩屋いわやに酒ばかり飲んでいたのは確かである。その女人にょにんを奪って行ったというのは――真偽しんぎはしばらく問わないにもしろ、女人自身のいう所に過ぎない。女人自身のいう所をことごとく真実と認めるのは、――わたしはこの二十年来、こういう疑問を抱いている。あの頼光らいこうや四天王してんのうはいずれも多少気違いじみた女性崇拝家すうはいかではなかったであろうか?
 鬼は熱帯的風景の中うちに琴ことを弾ひいたり踊りを踊ったり、古代の詩人の詩を歌ったり、頗すこぶる安穏あんのんに暮らしていた。そのまた鬼の妻や娘も機はたを織ったり、酒を醸かもしたり、蘭らんの花束を拵こしらえたり、我々人間の妻や娘と少しも変らずに暮らしていた。殊にもう髪の白い、牙きばの脱ぬけた鬼の母はいつも孫の守もりをしながら、我々人間の恐ろしさを話して聞かせなどしていたものである。――
「お前たちも悪戯いたずらをすると、人間の島へやってしまうよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顛童子のように、きっと殺されてしまうのだからね。え、人間というものかい? 人間というものは角つのの生はえない、生白なまじろい顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛なまりの粉こをなすっているのだよ。それだけならばまだ好いいのだがね。男でも女でも同じように、うそはいうし、欲は深いし、焼餅やきもちは焼くし、己惚うぬぼれは強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒どろぼうはするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」


 桃太郎はこういう罪のない鬼に建国以来の恐ろしさを与えた。鬼は金棒かなぼうを忘れたなり、「人間が来たぞ」と叫びながら、亭々ていていと聳そびえた椰子やしの間を右往左往うおうざおうに逃げ惑まどった。
「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
 桃太郎は桃の旗はたを片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、犬猿雉いぬさるきじの三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好いい家来けらいではなかったかも知れない。が、饑うえた動物ほど、忠勇無双むそうの兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛ひとかみに鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴くちばしに鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺しめころす前に、必ず凌辱りょうじょくを恣ほしいままにした。……
 あらゆる罪悪の行われた後のち、とうとう鬼の酋長しゅうちょうは、命をとりとめた数人の鬼と、桃太郎の前に降参こうさんした。桃太郎の得意は思うべしである。鬼が島はもう昨日きのうのように、極楽鳥ごくらくちょうの囀さえずる楽土ではない。椰子やしの林は至るところに鬼の死骸しがいを撒まき散らしている。桃太郎はやはり旗を片手に、三匹の家来けらいを従えたまま、平蜘蛛ひらぐものようになった鬼の酋長へ厳おごそかにこういい渡した。
「では格別の憐愍れんびんにより、貴様きさまたちの命は赦ゆるしてやる。その代りに鬼が島の宝物たからものは一つも残らず献上けんじょうするのだぞ。」
「はい、献上致します。」
「なおそのほかに貴様の子供を人質ひとじちのためにさし出すのだぞ。」
「それも承知致しました。」
 鬼の酋長はもう一度額ひたいを土へすりつけた後、恐る恐る桃太郎へ質問した。
「わたくしどもはあなた様に何か無礼ぶれいでも致したため、御征伐ごせいばつを受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点がてんが参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明あかし下さる訣わけには参りますまいか?」
 桃太郎は悠然ゆうぜんと頷うなずいた。
「日本一にっぽんいち[#ルビの「にっぽんいち」は底本では「にっぼんいち」]の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱かかえた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
「ではそのお三さんかたをお召し抱えなすったのはどういう訣わけでございますか?」
「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子きびだんごをやっても召し抱えたのだ。――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」
 鬼の酋長は驚いたように、三尺ほど後うしろへ飛び下さがると、いよいよまた丁寧ていねいにお時儀じぎをした。


 日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取った鬼の子供に宝物の車を引かせながら、得々とくとくと故郷へ凱旋がいせんした。――これだけはもう日本中にほんじゅうの子供のとうに知っている話である。しかし桃太郎は必ずしも幸福に一生を送った訣わけではない。鬼の子供は一人前いちにんまえになると番人の雉を噛かみ殺した上、たちまち鬼が島へ逐電ちくでんした。のみならず鬼が島に生き残った鬼は時々海を渡って来ては、桃太郎の屋形やかたへ火をつけたり、桃太郎の寝首ねくびをかこうとした。何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂うわさである。桃太郎はこういう重かさね重がさねの不幸に嘆息たんそくを洩もらさずにはいられなかった。
「どうも鬼というものの執念しゅうねんの深いのには困ったものだ。」
「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩だいおんさえ忘れるとは怪けしからぬ奴等でございます。」
 犬も桃太郎の渋面じゅうめんを見ると、口惜くやしそうにいつも唸うなったものである。
 その間も寂しい鬼が島の磯いそには、美しい熱帯の月明つきあかりを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子やしの実に爆弾を仕こんでいた。優やさしい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ちゃわんほどの目の玉を赫かがやかせながら。……


 人間の知らない山の奥に雲霧くもきりを破った桃の木は今日こんにちもなお昔のように、累々るいるいと無数の実みをつけている。勿論桃太郎を孕はらんでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉やたがらすは今度はいつこの木の梢こずえへもう一度姿を露あらわすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。……
(大正十三年六月)

以上、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)より。

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)