11月18日(日) 天気:晴れ 室温:18.8℃
きょうは 日曜日で 特に予定もないので ゆっくり起きて ”蒜山” のページをアップし
お茶を飲みながら 新聞を広げ テレビ番組をみると BS3プレミアムで 「新日本風土
記選」 ”城 全国名城の魅力 大発見” を 放映しています。 ”選” とあるので 再放送でしょうか?
見ると ちょうど 「宇和島城」 をやっていました。
宇和島城は 現存する12天守の城の一つで 国宝ではありませんが 国の史跡。
私は お城ドットコムでも お城マニアでも ありませんが
お城にも興味はあり 特に お城の縄張りが 五角形で 陰陽道の五芒星と 関係があり
宇和島城は 以前から 気になっていたのです。
宇和島城は 築城の名手・藤堂高虎の設計で 慶長六年(1601) 完成した。
高虎は 関ヶ原の戦いの功により 国府に移封と なったが 城の完成を見てから 移った。
伊達政宗の長男・秀宗が 10万石で入封し 2代目藩主・宗利が 城を改修し
寛文11年(1671) 改修竣工。
一見 四角形に見える形は 実は 五角形で
攻められたとき 四方を囲まれても 一辺から逃げることも 攻めることもできる。
昔は 堀に囲まれていたが
いまは 宅地開発され 住宅が建っているので 五角形を確認することは 難しい・・。
海に面した水城で 船の出入りもできる。
深い森に囲まれ チャセンシダが 石垣を固定。
平和な時代に建てられたお城で 戦いのためのお城では ないようで
白亜の望楼型天守は 三層三階の連立式天守で 小天守、北隅、南隅櫓がありましたしたが
伊達家により 修築されます。
天守は 落雷に遭い 江戸時代の末期 1854年に 再建。
お城の外形は 五角形ですが 外形の延長線上に 神社があり それぞれを結ぶと
五芒星になるのです。
お城の鬼門に当たる北東方向に 鬼門封じの寺社を置くことは よく知られ
また 四神相応の思想から 北に 玄武(丘陵)、東に 青龍(大河)、南に 朱雀
(平地)、西に 白虎(大道)となる場所を 選ぶことも 知られています。
しかし 五角形の辺の延長線上に 寺、神社があるとは 知りませんでした。
宇和島城とは 何の関係もなく 「日本百名城」 でも ありませんが 紅葉の時期に
相生の感状山城跡へ行ってみたいと思います。 赤松則祐が 新田義貞に攻められたとき
50日持ち堪え 足利尊氏から 感状をもらったので 感状山と呼ばれるようになった・・。
。。。。。。 。。。。。。 。。。。。。 。。。。。。 。。。。。。 。。。。。。 。。。。。。
きょうは 日曜日で 特に予定もないので ゆっくり起きて ”蒜山” のページをアップし
お茶を飲みながら 新聞を広げ テレビ番組をみると BS3プレミアムで 「新日本風土
記選」 ”城 全国名城の魅力 大発見” を 放映しています。 ”選” とあるので 再放送でしょうか?
見ると ちょうど 「宇和島城」 をやっていました。
宇和島城は 現存する12天守の城の一つで 国宝ではありませんが 国の史跡。
私は お城ドットコムでも お城マニアでも ありませんが
お城にも興味はあり 特に お城の縄張りが 五角形で 陰陽道の五芒星と 関係があり
宇和島城は 以前から 気になっていたのです。
宇和島城は 築城の名手・藤堂高虎の設計で 慶長六年(1601) 完成した。
高虎は 関ヶ原の戦いの功により 国府に移封と なったが 城の完成を見てから 移った。
伊達政宗の長男・秀宗が 10万石で入封し 2代目藩主・宗利が 城を改修し
寛文11年(1671) 改修竣工。
一見 四角形に見える形は 実は 五角形で
攻められたとき 四方を囲まれても 一辺から逃げることも 攻めることもできる。
昔は 堀に囲まれていたが
いまは 宅地開発され 住宅が建っているので 五角形を確認することは 難しい・・。
海に面した水城で 船の出入りもできる。
深い森に囲まれ チャセンシダが 石垣を固定。
平和な時代に建てられたお城で 戦いのためのお城では ないようで
白亜の望楼型天守は 三層三階の連立式天守で 小天守、北隅、南隅櫓がありましたしたが
伊達家により 修築されます。
天守は 落雷に遭い 江戸時代の末期 1854年に 再建。
お城の外形は 五角形ですが 外形の延長線上に 神社があり それぞれを結ぶと
五芒星になるのです。
お城の鬼門に当たる北東方向に 鬼門封じの寺社を置くことは よく知られ
また 四神相応の思想から 北に 玄武(丘陵)、東に 青龍(大河)、南に 朱雀
(平地)、西に 白虎(大道)となる場所を 選ぶことも 知られています。
しかし 五角形の辺の延長線上に 寺、神社があるとは 知りませんでした。
宇和島城とは 何の関係もなく 「日本百名城」 でも ありませんが 紅葉の時期に
相生の感状山城跡へ行ってみたいと思います。 赤松則祐が 新田義貞に攻められたとき
50日持ち堪え 足利尊氏から 感状をもらったので 感状山と呼ばれるようになった・・。
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